輿石マネ、スぺる
放課後、いつも通り部活動を行うべく、急いでソックスを取り換えながら校庭へと駆け込む敦士。
廿楽すずめに過去の事をグチグチと言われたり、宮田にはその事でちょっかいを出されたりと散々な一日だったものの、こうして今日も部活動は始まってしまうのだ。
そして相変わらずまだ誰一人とも姿を現さない静かな校庭を通り抜け、やはり誰も居ない部室に入るとすぐさまユニフォームへと着替え始めて行く。
(相変わらず、部室に一番乗りで来るのはいつも俺だよな……)
来たる大会に向け、真っ先に練習をしたい敦士であるが、ふと思う事があった。
部室に堂々と貼られている神奈川県予選大会のトーナメント表を見つめると、敦士はボソリと呟く様に言う。
「来月開かれる夏の大会終わったら、暫く試合は出来なくなるんだよな……」
季節は現在、六月の中旬を回っていた。
神奈川県夏の選手権大会が七月の上旬に開催される事を考えると、もう一か月もしないうちに今いる三年生メンバーはこの部から抜けてしまっているかもしれない。
それなのに、それなのにも関わらずだ。何故三年生が張り切らずに一年生である自分がこうして、いの一番に部室に来て練習に勤しんでいるのだろうか。
敦士は少しユニフォームに袖を通す手を止め、その場で考え込む。
(俺の人生にはこれまで常に野球が傍にあった。だから今も野球中心の生活をしている。……けれど、時々先輩たちを見ていると思う事がある)
他は他、内は内なのかもしれない。
しかし春休みの最中から野球部へと入部し、それ以来一度も自分より先に活動を行う仲間を見ていない事は、次第に敦士の心に不安を植え付けていく。
それだけ敦士が部室に来るのが早いという事ではあるが、自分と同じ志を持つ者が居ないというのは寂しいものであった。
特に三年生にとってはこれが最後の夏の筈だ、それなのに誰一人とも一年生より先に練習をしようとは思っていないのだ。
そんな現状に少しだけ戸惑いを感じながら、敦士はこんな事を考える。
(ここに居る人たちは少なからず、野球の才能では一線級を張れないと思ってこの学校に来ている。自分もそうだ、けれど最後の大会にすら本気になって取り組めない部活動に、一体何の意味があるのだろうか)
溝浜爛漫高校野球部は現在、責任教師一人、マネージャー一人、そして部員十一人の計十三人で構成されており、世間一般からの評判では弱小校として見られている野球部である。
過去に行われた夏の公式戦での大会記録は最高ベスト三十二の三回戦止まり。
しかもそれもずっと昔の事であり、昨年は夏に二回戦負けで敗退してから部員数が足りず、新人戦以降の大会には参加すら出来ていないという有様である。
夏の大会にしか出場できていないという歴史は、ここ数年ずっと繰り返されており。毎年三年生が野球部を引退すると、新入生が入るまで公式戦はおろか対外試合すら組む事が出来なくなってしまう。
新入部員が入ってから、これまで敦士は二週間に一度は対外試合を行ってきた。
しかし、現在一年生が六人、二年生が二人、そして三年生が三人と。三年生が抜けると試合に必要な人数が揃わず、夏以後は対外試合もろくに組む事が出来なくなってしまうだろう。
野球というのは、ただ鍛錬をする為だけに行うものでは無い。
積んできた練習や経験を糧に、試合で思い切り相手に修練をぶつけ合う闘争だ。
投手ならば野手を打ち取りチームを守る、打者なら打撃や足で相手を崩し、投手と共に守備でチームを守りきり、勝利を目指すスポーツである。
相手に勝つ為に鍛錬する。そんな選手達のガッツあふれるプレーを目の当たりにする事で、人々は夢と希望を得ることができるのだろう。
だからこそ高校野球は野球人気が落ちている現在でも、根強く人気が高い競技なのだ。
そんな高校野球界で第一線で戦っている球児達というのは、高校生活の殆どを野球に費やす暮らしをしている。
そして大会や練習試合で積み重ねて来たものの全てを発揮する為に、苦しい野球漬けの生活にも耐えて暮らしているのだ。
しかしこの野球部はどうだろうか。
せっかく練習場にも恵まれ、部室の確保や部の予算、設備にも恵まれているにも関わらず、それに見合うだけの野球への誠意を示せる部員は居るのだろうか。
(俺も今はこうして野球漬けの生活をしてるけれど、いつか勉学への忙しさとかで、野球への情熱を忘れてしまうのかな……)
いつも一番早く野球部に到着し、熱心に練習している敦士ですら、本当は野球漬けの生活という言葉に該当する球児ではないのかもしれない。
けれど、自分がこうして誰よりも早く野球部に行こうと思わなくなった時。自分が向上を止めてしまった時の事を考えると、少しだけ心が苦しくなってしまう。
ユニフォームの袖に通す手を止めながら敦士が考え込んでいると、急に着替え中の部室に強い光が差し込んだ。
「敦士くん。今日も一番乗りみたいだね」
「輿石マネージャー、こんにちわっす」
部室のドアが大きく音を立てて開き、外からジャージ姿の女の子が入ってくると敦士は止めていたユニフォームに袖を通し着替えを済ますと一礼する。
均整の取れた綺麗な顔立ちを持ち、均整の取れた顔立ちの少女はこの野球部唯一の紅一点。マネージャーの輿石百葉。
敦士とは同じ一年生であり同級生。この春からマネージャーとして部の活動に参加している野球部の仲間である。
本来部室は各学年用の部室に、マネージャー用の部室、会議室用の部室と分けられていて、本来はマネージャーが一年用選手の部室に入る用など無い筈だ。
恐らく、百葉は挨拶をする為だけに各部室を回ってくれているのだろう。そんな気の優しい仲間に対し深く一礼をする敦士。
その様子を見てか、百葉はクスクスと笑みを零しながら敦士に接する。
「もー、同級生なんだし同じ野球部仲間なんだからみんなを呼ぶ時みたいに下の名前で呼んでくれてもいいんだよー」
「いやいや、こうして楽しく野球部の活動が続いてるのはマネージャーが仕事してくれるお陰っすから。呼び捨てなんて出来ないっすよ」
マネージャーと言うのは野球部の雑用や選手達のケア等、実際にプレーする選手と同じぐらい、下手したらそれ以上にキツイ仕事を行っているという事は敦士も知っていた。
寧ろ選手とは違って努力が直接成果に結びつかない分、活躍の場が与えられる選手達よりも、その活動は辛いものなのかもしれない。
この野球部自体の活動がそこまで厳しくないとは言え、敦士達選手にとってマネージャーとはそんな野球部を気にかけてくれる数少ない理解者であり、その上支えてくれる大切な存在なのだ。
そんな言わば女神の様な存在を前にし、敦士はそんなマネージャーの事を呼び捨てにする事は出来ないそうだ。
「大げさだなぁ敦士くんは、じゃあ今日もみんなで練習頑張ろうね」
「期待に副えるよう頑張りますよ、輿石マネージャー」
百葉に対し大きく頷く敦士。
すると、そんなやりとりを行っている間に、次々と他の部員がぞろぞろと室内に入って来た。
「あ、輿石マネージャー」
「こんちわー」
「敦士も相変わらず早いねー」
「取りあえずさっさと着替えようぜー」
すらっとした体形の四人がまず先に挨拶をする。そして遅れて高校生らしからぬ巨漢の男が部屋へと遅れてやってくる。
「うっす、敦士。今日も変化球練習手伝ってくれなー」
「卓也、お前はまず走り込んで体重落とそうぜ~」
中村に体格の事をツッコむ敦士の声を聞き、部室内からは大きな笑い声が上がる。
少し照れたように笑う中村。ムードメーカー的存在の中村は、ある意味このチームには必要不可欠な存在であった。
巨漢の中村を含め、今この部室には全一学年野球部員が揃っている事となる。
実力こそアレだが全国優勝経験を持つ捕手の敦士、巨漢の技巧派右腕投手の中村、マネージャーの百葉。そしてスラットした体形の四人。
一人目は現在、正二塁手を担っているバランスの良い桑原。二人目は当たれば飛ぶ打撃の正遊撃手飯島。三人目は正三塁手で五番打者山口。そして四人目は特に特徴のない正右翼手、青山。
全員中学軟式野球の出身であり、それなりに守備をこなせるメンバーだが打撃にムラがある。
現在、二週間に一度行われている対外試合では、四人全員打率一割代という不名誉な記録を叩きだしている真っ最中だ。
小谷敦士も中学時代は打撃が良くないと言われ続けていたものの、一応硬式の高いレベルで練習をしていた為か彼らよりかは無難に打撃をこなしている。
だが、そんな彼でも打率は二割に少し毛が生えた程度。とてもじゃないが他の部員を笑い飛ばせる程の成績ではない。
しかしこの野球部にも希望はあった。
「でも体重落としたら、卓也の豪打が見られなくなるかもよ」
「それもそうだな」
桑原達が中村の肩を持つようにそう言うと、中村は自慢げに胸を張って見せる。
「ふふふっ、何かと一年では敦士が一番まともと言われるけど。実は一番才能があるのはこの俺、中村卓也という男なのかもしれないぜ?」
自ら才能がある事を自覚した発言をする中村。しかしそのだらしない体形には、とてつもないポテンシャルが秘められていた。
中村は現在、チームの第二投手でありエースが投げない試合等で主に登板する形を取っている。
それ故、ダブルヘッダー等で先発する事があるのだが投手成績は凡の凡だ。
最高球速一一〇キロ、平均は一〇〇キロ程度の上手投げ右腕。変化球は縦に落ちるスライダーとフォーク、そしてシュートの三球種。制球こそ悪くないものの、打ち頃の球速では強打を浴びがちというのが現状である。
対外試合ではこれまで三試合に先発し、その全ての試合で四失点を取られ敗戦する等、投手としてはあまり結果を残せてはいない。
しかしその三試合で十打席。バッターとして打席に立つ中村の存在感は異常だった。
一試合目は三打数一安打一四球。その日唯一の二打点を挙げる見事なフェンス直撃のツーベースを打ち、二試合目も四打数三安打一本塁打と猛打賞に本塁打と大活躍。
三試合目も三打数一安打で先制のツーランを浴びせる等、打撃成績では現在、上級生すら突き放す程の好成績をマークしている。
十打席九打数五安打二本塁打五打点、打率は現在五割五分六厘。
敦士を除く他の四人の部員が束になってようやく互角というその打撃成績は、他の野球部員からしてみるとこの部唯一の希望と言っても過言では無かった。
投手としてはあまりパッとせず、投げれば自分の得点以上に失点をする男であるが野手としてなら四番打者になれる。
そんな抜群の打撃安定感を中村卓也という男は持っているのだ。
しかし彼を野手として起用するのには、大きな問題点があった。
「でも投手しかやった事ないんでしょ、この夏は少なくとも……」
「そうなんだよな、この打撃の才能を投手としての才能に振り分けられたらどんなに良かった事かねぇ」
百葉の指摘に頭を抱える中村。
中村はこの肥満体系で生まれてこの方投手しかやったことが無いのだと言う。
幼い頃から投手としてマウンドに立つ事に拘り続けた中村は、これまでいろんな所でコンバートを示唆されつつも、投手にしがみついてここまで来た。
そして恐らくこれからも中村は投手で居続ける事は変わらない事なのであろう。
少し勿体ないかもしれないが選手の少ない現在のチーム事情では、先発として投げ、四失点で抑えられるだけでも戦力にはなる。
それ故に、野球部のメンバーは誰も中村に別のポジションに挑戦しろとは言わなかった。
敦士も中村に対しては球種を増やす事で、投手として今以上に活躍できるよう共に練習を行っている。
今は野球部の二番手投手だが、来年には中村がエースとしてマウンドに立っているのかもしれない。
そう敦士や他の一年達に期待される程に、中村という男はこの野球部の希望なのであった。
こうして皆が中村の才能に一喜一憂している中、四人組の一人である青山が突然別の話題を切り出し始めた。
「そういえば昨日、敦士を押し倒した女の子って今日はこっちに来ないのか?」
「えっ敦士君、昨日何かあったのっ!?」
急な話題の転換で声を荒げたのはマネージャーの百葉。
彼女は昨日、部活に使う用具の補充の為に一人だけスポーツ用品店へと買い出しに出かけていた。
野球部の練習自体は校庭では無く、先輩の家族が経営しているバッティングセンターで行われていた為、買い出しから戻ってきて用具の補充のみで活動を終えた百葉には例の噂は耳に届いていなかったのだ。
他の部員も中村から話を聞いただけで実物の廿楽すずめという人物を見ていない。
ひょっとしたら活動していればその内また来るのではないか、と期待して青山は敦士に対し、その少女の事を聞き出そうとする。
(知らないよ……、知りたくもないよ、そんな事……)
それを受け敦士は面倒くさそうな表情を浮かべ、どう答えていいのか分からない問いに沈黙を続ける。
すると隣にいた百葉が立ち尽くしていた敦士のユニフォームの裾を掴み、思いっきり揺さぶりをかけて行く。
力強い揺さぶりに対し、頭の中で昨日の押し倒された時の事を思い出す敦士。
その直後、彼の事を揺さぶっていた百葉はすごい剣幕を見せながら敦士を問い詰める。
「ねえねえねえ、どういう事!? 敦士君なんで襲われたのっ!?」
「いや俺が悪いらしいんだけどさ、何も記憶に無くて……」
「何で敦士君が悪いの!? 敦士君を押し倒すなんて……!」
どこか話がかみ合っていない敦士と百葉。
しかし敦士は特に気にせず、話を続けて行く。
「子供の頃、一緒に野球をやった時に”もっと上手くなったら球捕る”とか約束をしてたらしいんだけど、全くそんな事言った記憶がないんだよなぁ……」
腕を組みながら首を傾げつつ、当時の事を思い出そうとするも、何も思い出せずにいる敦士。
事実、敦士は子供の頃、確かに廿楽すずめとは出会っているがそのような事は言っては居なかった。
元々はすずめが、敦士の言った”史上最強のバッテリーを組む男”と言うニュアンスを、全くの別方向に捉えてしまったのが今回の騒動に繋がった原因であろう。
もっとも当時の事を完全に忘れてしまった敦士からすると、何が何だかさっぱり分からない事だろう。自業自得である。
そんな状況に敦士が悩んでいると、当事者でない事を良い事に中村が能天気に提案し出す。
「て言うかさ、その女の子を野球部に誘っちゃえばいいんじゃね? 思う存分バッテリー組ませてやりゃあいいじゃんか」
「んな突拍子もない事を……」
いきなりとんでもない事を言いだした中村に対し、呆れた口ぶりを見せる敦士。
しかし中村は本気だった。
「なんでさ、相手は本気でお前に球捕ってもらいたくてここに来たんだろ。だったら話を合わせて敦士もそれに応えてやればいいだけの事じゃないか」
中村の言う事も一理あった。
別に敦士は何から何まで廿楽すずめの要望全てを拒否するつもりはない、ただあまりにも一方的過ぎて、多少困惑しているだけである。
昨日の話を簡潔にまとめれば、要は成長したすずめとバッテリーを組み、球を捕ればいいという話なのだ。
しかし敦士はあれだけ意識の高い天才少女が、こんな上昇意識の欠片もない弱小野球部を受け入れてくれるとは、微塵も思っていなかった。
敦士はすずめ本人の口から語られた言葉を思い出しながら首を振る。
「と言うよりさ、あの子自ら”こんな野球部に入るつもりは無い”って言ってたし無理だろ……」
敦士がそう口にしたその瞬間、部室内に一陣の風が吹き込み怒号の様な声が響き渡った。
「そうよ、私はこんな弱小野球部に参加するほど、落ちぶれたつもりはないの!」
「本当に来た!?」
いきなり現れた少女に戸惑いを見せる一同。
声と共に現れたのは廿楽すずめ。今回の騒動の当事者であり、本日この学校に転入してきたばかりの噂の帰国子女である。
何故かこの学校の物では無い、どこかのクラブチームのようなユニフォームを身に纏っているすずめ。
いかにもこれから野球をすると言わんばかりの恰好で現れた少女を前にし、敦士はただただ戸惑うばかりだった。
「私が用があるのは小谷敦士という捕手だけですわ!」
一方、敦士だけを見つめつつ不敵な笑みを浮かべていたすずめ。
完全にアウェーな状況にある中、妙に落ち着いている少女を前にし、敦士は嫌な予感を感じざるをえなかった。
案の定、敦士の嫌な予感は当たっていた。
「小谷敦士様、こんな野球部の事など放っておいて、私と共に来てくださいまし」
「なっ!?」
突如両腕を伸ばしてくるすずめ。彼女の右手は敦士の左手首をがっちりと掴み、左手は敦士が所持していたミットを捉え鷲掴みにする。
そして動揺する敦士をかなり強引に敦士を連れ出そうとするすずめ、その力はとても可愛らしい見た目からは想像がつかず他の男子一同は戸惑うばかりだった。
ただ一人、この野球部唯一の女性を除いては――。
「……!」
バシッ。
敦士の左手首を掴んでいるすずめの右手に、とても鋭い手刀が繰り出された。
するとその瞬間、すずめの左手からは敦士の愛用品のミットが地面へと音を立てて落ちて行く。
それと同時に激しい口調の抗議の声が部室内に響き渡る。
「ちょっとっ、敦士君が嫌がってるじゃない!」
「輿石マネージャー……?」
手刀を放ったのは輿石百葉、部員の窮地に対し我を忘れ、敦士の腕を掴むすずめの事を睨みつける。
百葉の身長が一五〇前半に対し、すずめの身長は一七三センチ。
一回りも大きい相手にも全く物怖じせずとってかかるのは、かなり度胸が必要な事だろう。
しかしそんな彼女が繰り出す渾身の手刀も、規格外の天才を謳うすずめには通用しなかった。
「ふふっ、その程度の手刀では、この私に傷一つつける事もできませんわよ」
「なっ……!?」
手刀を繰り出した筈の右腕から痛みを感じ、思わず表情を歪めながら腕の状態を確認する百葉。
すると信じられない事に、先程手刀を繰り出したばかりの百葉の右腕は、肘の関節がものの見事に外され腕の先がぶら下がっていた。
(腕の関節が……!? この女の人、まさか片手で関節を……!?)
一体、何をされたのだろうか。脱臼の痛みを感じながら、あまりにも一瞬の出来事に戸惑いを隠せない百葉。
そんな彼女を前にし、すずめは直前に落とした敦士のミットを悠々と拾い上げる。
どうやら直前に打たれた方とは反対側の手に持っていたミットを落としていたのは、百葉の手刀に対し何かしらを仕掛ける為だったようだ。
こうして、痛みでその場に崩れる百葉を背に、敦士を連れながら悠々と立ち去ろうとするすずめ。
しかしそんな状況でも、百葉はただ敦士が連れ去られるのを阻止しようと必死に食らいつく。
「……?」
突如、足取りが重くなったことに気づき、その場で手を引いている敦士の方を振り向くすずめ。
敦士は何もしてはいなかった。しかし、その敦士のもう片方の腕をか細い手が握っている事に気づき彼女は目を細める。
敦士の右腕を握っていたのは、脱臼した右腕を庇う様に座り込む百葉の左手だった。
仲間を連れ去られまいと必死になって抵抗する百葉は再び、すずめの事を思いっきり睨みつける。
「どこの誰かは存じませんが……、部活動の邪魔だけはしないでくださいっ……!」
マネージャーとしての意地か、それとも女性同士のプライドか。敦士の事を掴んで離さなかった百葉。
流石のすずめも、敦士と座り込む百葉両方を引きずり歩く事は出来なかったのか。執念を見せた百葉に対して降りる形で敦士を掴んでいた手を離す。
「……ふん、今回はその子の言葉に免じてここまでにしておいてあげる」
「ホッ……」
急に聞き分けが良くなったすずめ。連れ去られそうになった敦士もホッと胸を撫で下ろす。
しかし、すずめの左手にはまだ敦士のミットが掴まれたままだった。
すずめは敦士に対し、そのミットを見せつける様にその場で掲げると再び不敵な笑みを浮かべて、こう吐き捨てる。
「これは預からせてもらうわ、返して欲しければ、あなた一人で国立練習場まで来ることね!」
「あっ、ちょっと!?」
奪ったミットを抱え込みながら、早急にその場を去って行くすずめ。
敦士もすぐに追いかけたかった所だが、今はまず負傷者である百葉の手当てが最優先だった。
我に返った敦士はその場で座り込み、百葉のぶら下がった右手を優しく掴む。
どうやら、完全に肘が外された訳ではないようだ。敦士はすぐ様脱臼の手当てを施そうと百葉に声を掛けてゆく。
「とにかくまずは輿石マネージャー、服を脱いで!」
「あ、敦士君……? 脱ぐって……?」
「腕をまくるだけでもいいっすけど。……とにかく、亜脱臼ならもしかしたら治るかも知れないっす!」
「あー、そういう事ね……」
やはり何か発想のベクトルがずれている両者だが、敦士の言いたい事を理解した百葉はジャージの上を脱ぎ、中に来ていた体操服を露わにする。
敦士は百葉の右肘と腕を掴むと、それをくっつけるかのように軽く捻りながら押し込んで行く。
暫くして肘関節がしっかりとハマったのか、敦士は掴んでいた百葉の腕をゆっくりと離し、本人に確認をとる。
「どう?」
「あ……、もう大丈夫だよっ」
感じていた痛みがたちまち引いてゆくのを感じた百葉は、手当てをしてくれた敦士の方を向き大きく頷く。
どうやら治療は無事に完了したようだ。敦士は一大事にならずに済んだことに対し、再びホッと胸を撫で下ろす。
しかしまだ、問題は全て解決したわけでは無かった。
敦士は座り込んでいた百葉を優しく持ち上げ、そっと足を地につけ起き上がらせる。
これで百葉はもう大丈夫だろう。そう思い、何も言わず部室から出て行こうとする敦士に対し、救助された張本人はその行き先を訊く。
「ねぇ、まさか本気であの女の所に行くつもりなの?」
「……ミット取り返さなきゃいけないっす、それに決着もつけなきゃいけないから」
覚悟の表情を浮かべる敦士。
今回の騒動は自分の軽率な発言が招いたが故に起きてしまった事だ、責任を取れるのは自分だけである。そう考えていた。
別にミット自体にはそこまで思い入れは無く、放っておいて練習に移ってもよかったのだが、このまま放置したらまたすずめが何かしら仕掛けてくる可能性は高いだろう。
敦士は今一度、部室に居る一年全員に行き先を告げながら、その場を立ち去って行く。
「行ってくる、国立練習場って所に――」
「あっ、敦士。ちょっと待てよ!」
立ち去り際、中村が敦士の事を呼び止めようとするもその声は届かず敦士はその場から離れていく。
一体、すずめは何を考えているのだろうか。そして、自分はこれから先どうなってしまうのだろうか。
そんな事を考えながら、敦士はすずめの指定した国立練習場にへと向かっていくのであった――。