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小谷捕手、嫁ぐ。  作者: ノロ・インフルエンザ・ボロノロス
第一章 小谷捕手、発見される
2/5

小谷捕手、発見される①

挿絵(By みてみん)


 体力をつける為に手っ取り早い事はとにかく食べる事である。

 食べると消化に体力を使うために、より効率よく体力を消耗する事が出来るだろう。

 さらにその上で運動をすれば持続力を兼ねそろえた理想的な筋肉を身につける事ができる。

 しかし、食べると胃に血液が巡ってしまう為にどうしても頭が働かなくなってしまう。

 文武両道。どちらも極める為には空腹の時間を勉学に、そして満腹の時間を運動に費やす事が大切なのである。

 しかしそうは言っても、極端にやり過ぎるとかえって持続しないのもまた難点であった。

 

「おーい、敦士。昼飯行こうぜー」

「よし、食堂行こうか」


 五時間目が終了した直後の事。かなりくたびれた様子を見せつつ、手提げ袋を手に取り教室を出た小谷敦士は、隣の教室から出て来た坊主頭の同級生に声を掛けられる。

 坊主頭はまるでお重のような巨大な弁当箱の包みを抱え込みながら、長い間この時を待ちわびていたかのように、小躍りしながら敦士の下へと駆け寄った。

 敦士は彼とよく食事を共にするので、その包みの中身が何かは知っている。

 デカい二つのお重に分けられており、上から一段目はご飯が丸々一合分。そして二段目の箱はおかずが中心となっており、白だしと砂糖、コーヒー用のミルクを使用した特製たまご焼きにプチトマト、冷凍食品等のおかずが盛りだくさん。

 弁当箱の中身は最初はとても一度に食べきれる量のものでは無い大きさに度肝を抜かれるものの、敦士にとってはもう何の新鮮味も感じないものになってしまっていた。

 時刻は午後一時四十分、世間一般で言う昼食の時間に比べるとやや遅い時間帯ではあるものの。これが小谷敦士が進学した溝浜爛漫高校(みぞはまらんまんこうこう)規定の昼休憩時刻である。

 中学時代よりも一時間以上、遅い昼休憩に対し、坊主頭の男は軽く愚痴をこぼす。


「しっかし、普通は四時間目が終わったら昼飯なのになんでうちの学校は五時間目なんかねぇ……」

「食後は腹に血液行くから午後の授業は集中できないんだろ? だから飯食う前に五時間やっちゃえって言ってたじゃん?」

「理屈はわかんだけどよー、腹減りすぎて今度は集中出来ねぇんだよー」


 渋そうな顔を浮かべながらそう語る坊主頭の男に対し、敦士は何故それならこの高校に進学しようと思ったのかと疑問を感じざるを得なかった。

 この坊主頭の名は中村卓也なかむらたくや。小谷敦士と同じくこの学校の野球部に所属している数少ない野球仲間だ。

 運動するにしてはやけに横幅に広い体格をしており、濁した表現をすれば巨漢。はっきりと言えばデブである。

 野球で言えば捕手向けのがっちりとした体格の持ち主だが、ポジションは投手。意外にも機敏な動きに定評のある技巧派なのであった。

 同学年には敦士と中村、そして他にも四人の一年生が在籍しており、選手だけで言えば合計で六人程、野球部の生徒が存在している。

 しかし敦士からしてみると、その中でも昼飯まで共にする程仲が良いのは中村ただ一人だけであった。

 残りの四人はそれぞれ同じクラスの仲の良い者同士で昼食を共にしているらしく、時たま食堂のどこかで仲間たちの姿を目撃している。

 敦士や中村も時たま野球部仲間では無い者たちと交えて食べる事もあるのだが、この日は敦士と中村の二人のみの昼食となったのであった。


「んじゃあ、俺今日の昼飯取って来るから席取りとジュース頼んだ」

「あいよー」


 食堂に辿り着いた二人。大きな弁当箱を持参してきた中村とは違い、学食だよりの敦士はフラフラとした足取りで学食を取りに行く。

 昼食が遅い事がどれだけ学業に影響しているのかはまだ実感できずにいた敦士であったが、少なくとも中学時代の授業よりかは、教室内の居眠りを見かける機会は少なかった。

 その代わり授業前の休み時間の間に早弁をする者が現れたりする為、その都度その食欲を掻き立てる匂いについ集中力が乱されてしまうものだ。

 券売機で事前に購入していた天ざるうどんのチケットを現物と交換してもらった敦士、つゆを零さないよう慎重に戻ると、先に席を確保してくれていた中村の弁当箱の中身を見て苦笑を浮かべた。


「うっわー……、お前休み時間に半分以上喰ったのかよ」

「満腹にさえならなきゃ眠くはならないしな、だから半分までなら大丈夫なんだって最近気づいたんだよ」


 そう持論を語る中村。敦士が戻って来た事をきっかけに勢いよく箸を進め、弁当箱の中身をがっつき始める。

 普段はお重の一段目一杯に米が広がっているはずのご飯は既に底が露わになっており、パッと見ただけでも半分以上の米が無くなっていた。

 二段目のお重に入っている筈だったおかずも、ほぼ均一に半数近くまで削られている。

 寧ろ大きすぎる弁当箱の中身が、これでようやく通常サイズになったと思えばその通りなのだが。そんな量を食べて胃に血液が集中しないというのもおかしな話だろう。

 それだけ中村の体質が特殊なのだろうか、それとも口から出任せにそれっぽい理屈を並べ早弁を肯定したいだけなのだろうか。

 少なくとも敦士にとっては早弁による弊害を受けている為か、全く持って関心出来る話ではない。

 敦士は呆れながらも中村に買ってもらったジュースを飲みながら、ふとポケットの中に入れていたスマートフォンを取り出し画面をチェックし始める。

 画面を覗くと、敦士がスマートフォンで使用しているSNSからの通知が来ていた。送り主は敦士にとって、一番の友人からのものであった。

 すると、一心不乱に残っていた弁当を喰らっていた中村がスマートフォンを弄っている敦士に興味を持ったのか。ふと箸を止め、ニヤニヤと笑みを浮かべながら敦士に対し問う。


「まーたお前の元カレかー? あっちは野球漬けの生活してるからお前の事が恋しいんじゃねぇのー?」

「バーカ、気持ち悪い顔で気持ち悪い事言うんじゃねぇよ卓也。ソラちゃん馬鹿にしてっけどお前じゃ逆立ちしても敵わない天才なんだからな?」

「ははは、分かってる分かってる。春の大会でも大活躍、プロ入り確実の船坂空だろ? 俺なんかこんなやっと試合出れる人数の学校でベンチメンバーなんだからそりゃ勝てねぇなー」


 スマートフォンを片手に毒づく敦士に対し、今度は自虐的な笑みを浮かべる中村。

 一通り笑い終えた後、今度はさらに嬉しそうな笑みへと表情を変えた彼は集中して返信を返している敦士に対しボソりと呟くように言った。


「すげぇよな……、まあそんな怪物と十年間組んでた捕手に球を受けてもらえてるっていう事実もスゲェとは思うけど」


 中村からしてみれば、小谷敦士という人物は幼少の頃から天才投手の球を受け続けた、謂わば天才お墨付きの捕手だという事だ。

 空と敦士のエピソードは割と有名だった。雑誌でのインタビューやネットニュースでも紹介されていた為か、同世代球児の耳には、小谷敦士という名は轟き渡っていた。

 とは言え空とのバッテリーを組まなくなってからは、あまり話題には挙がっていない。

 下手すればその知名度から一般人でも、船坂空という人物を知っている事はあれど、その相方の小谷敦士が知り渡っているかと言われれば、そんな事は断じてないだろう。

 それでも球児たちにとってすれば、小谷敦士という人物に対しそれなりに尊敬の念を持っているのも事実である。

 しかし、敦士はそれをあまり気分よく思ってはいなかった。


(ソラちゃんと組んでたからって、全国優勝チームの捕手だからって、そんなえらいものではないとは思うけどな……)


 実力が伴っても居ないのに、名前だけが先行して有名になる。

 努力に努力を重ね、やっとの想いで掴み取った栄光に対し、その努力が評価されずに、運や共に戦った仲間だけが評価された人生。

 別に幼馴染であり憧れであった空に対し妬いているわけではなかったものの、彼が高いレベルで野球をやりたくなくなった理由は正しく、中村の反応に現れているのかもしれない。

 こんな時、心の底から褒められた事を喜べる精神を持っていたら、どんなに良かったことだろうか。

 時折、敦士はそんな事を思ってしまう時があった。

 

(分かっては居たけどつくづく小物だよな、俺……。ソラちゃん、あんたはもっとビックになってくれよ……)


 そんな事を思いながら、空から送られてきたメッセージを返信し終えた敦士。急いで購入したうどんに手を伸ばし勢いよく麺を啜る。

 一方、敦士が返信に集中していた間に、半分残っていた弁当をいともたやすく完食し終えてしまった中村は一杯になったお腹を抱えながら眠たそうな口調で訊く。


「んで、なんだってー? その元相棒の投手からは」

「プライベートに口挟むなって……。ま、今夏の大会でエースナンバーもらえそうって話が来たから、応援しただけだ」


 空から来たメッセージには、彼自身が今年の夏大会で背番号一番をもらう事が確定したという件が書かれていた。

 軽々しく言うが、神奈川の名門校のエースナンバーを取るのはそう安易な事ではない。様々な地方から野球をするためだけに集められた選手達が集う高校で、実績のある上級生をも払いのけた上で監督から認められるのはとても難しい。

 しかし空はいともたやすくそれをやってのけてしまった。

 報告をしに来てくれたのは敦士と交わした約束へと一歩前進したことへの喜びだろうか。

 一方の敦士も口では応援しただけと言ったものの、応援の言葉以外にも励ましの言葉や歓喜の言葉を最大限に出し尽くし、長い時間を空に対する返信に費やしていた。

 こうしたやり取りを見ていると、中村が言っていた互いの事が恋しいという気持ちも、当たりではないにせよ見当違いという訳でもなかった。

 

「しかし、やっぱ天才は違うねぇ~。宗界大相良で一年からエースかぁ~」

「お前も一年エースを目指せばいいだろ、球受けてやるからこれ喰い終わったら昼練な?」

「へいへい、がんばりますよっと」


 同年代での成功者を嫉むように唸っていた中村に昼練の相手を申し込む敦士。

 昼が終われば今度はまた一時間、辛い勉強の時間が待っている。

 そしてそれが終われば放課後、今度は我らが野球部の活動が本格的に始まる事だろう。人の事を気にしている暇など無い。

 敦士は勢いよくうどんを完食すると、持っていた手提げ袋からミットと白球を取り出しながら、中村と共に建物の外へと駆けていった。














 敦士が通っている高校、|神奈川県立溝浜爛漫高等学校(かながわけんりつみぞはまらんまんこうとうがっこう)は県内でも一、二を争う屈指の進学校である。

 神奈川県溝浜市みぞはましにある県立高等学校であり、男女共学。教育委員会からも学力向上進学重点校と指定されており、卒業生は有名大学へと進学したりするのは勿論の事。現在は財界や政界、作家や教授として活動している者も多い。

 歴史ある学校ではあるが、教育方針は非常に時代背景に左右されており、かつては運動部が非常に盛んだったり、体育祭とは別に他校を交えながら全校生徒が参加する陸上大会や合唱コンクールを行ったりしていたそうだ。

 今はそんな大きな行事はなく、あるのは校内での体育祭と球技大会、そして文化祭程度。

 しかし五時限目の後に行われる昼休憩も、つい三年程前に導入されたばかりであり、他にはタブレット端末を使用しての授業や、六時間目終了後に部活動の代わりに資格習得の勉強が出来る選択授業制の七時間目を取り入れたりする等。今もその方針は続いているようである。

 入学当初こそ、昼休憩の時差や難しい授業内容に戸惑ってはいた敦士ではあったが、その順応力の高さから次第に慣れて行き、入学して二か月が経過した今現在では学年一の秀才として教師からも注目される存在となった。

 昔から頭が良く、勉強に対してはとにかく要領の良かった敦士。現在は自他共に認める弱小野球部での活動をしながらも、将来に向け勉学に勤しんでいる真っ最中なのであった。

 六時間目の授業が終了し、ホームルームと下校の挨拶を終えた敦士。

 その場で運動用ソックスの着用を済ますと、意気込みながら急いで外へと繰り出していく。


「さて、今日も部活動がんばりますかぁ!」


 そう気合を入れながら野球部の部室へと向かう敦士。というのも、彼はそれなりにこの弱小野球部の環境を気に入っているのであった。

 ボーイズリーグ時代までのような、競争の世界から解放されたのもその一つであるが、この溝浜爛漫高校の野球部はいろいろと球児にとって都合のいい事づくしなのである。

 野球部の練習場所は学校の校庭。ある程度規模が大きく作られている為、長打を打ちこめる程ではないものの、外野フライの捕球練習を出来る程度には広く使えるのが特徴だ。

 そんな広い校庭を、野球部だけが独占できる日がなんと週五もある。

 さらに基本的に平日の放課後は毎日使用する事ができる上、使用許可が取れない土日には別の運動場での練習も可能。

 そのお陰で、学校が終わった後にわざわざ専用の練習場まで移動しなくて済む。敦士はその事にまず感動する。

 中学時代、ボーイズリーグでは学校が終わった後、町外の野球場にまでわざわざ出向いて野球をしていた敦士にとっては凄く嬉しい事だった。

 さらに野球部の部室は校庭のすぐ脇にあるのだが、これがまた非常に設備が良い。

 元々、野球部以外にもサッカーやテニス、ラグビー等の部活がこの学校には存在したと言われており、昔はそれらの部活で校庭の使用権を争ったと伝えられている。

 その名残か、部室として使用されるべく設置された小屋が、校庭の脇にはたくさん備わっていた。

 しかし、現状で活動している運動部は野球部を除くと陸上部、そして体育館を使用するバトミントン部のたった三つのみ。

 陸上部はほぼ毎日別の運動場で本格的な練習を行っている為、部室の必要が無く、バトミントン部も校庭を使用する事が無い為、同じく部室の必要が無い。

 その為、沢山の部活が使用する事を目的に作られた部室用の小屋は現状、野球部専用の物となっていたのである。

 一年用の部室、二年用の部室、三年用の部室。そしてマネージャー用の部室に、会議用部室……。

 部員数が少ない上に、とにかく全ての部屋が無駄に野球部の物となっている為、窮屈な思いをすることが殆どない。

 そして何故そんな状況なのかと言うと、原因はこの学校特有のものであり、放課後に行われる選択授業制度「七時間目」に人が集まりすぎた為であった。

 その為運動部はおろか、部活動に入る人口が総じて少なくなって行き。元々人気のない部活や実績のない部活から次々と休部になり活動を止めてしまったのである。

 野球部と陸上部はまだ人数が一定以上居る為活動は行われているものの、バトミントン部は今いる三年生が引退してしまえばその地点で部員数ゼロで休部が決定してしまう。

 年々減って行く部活動参加者の実態に学校側は少しだけ危惧の念を抱いているようだが、野球部活動に勤しんでいる敦士からすると、現状野球部には非常に都合の良い環境が整っている為、何の問題も感じてはいない。

 しいて言えばこんな状況の為か、来年以後新入部員が来てくれるのかが心配な所ではある。

 しかしそれは敦士たちがどうにかできる問題ではない為、彼自身はそのことを深く考えない事にしていた。

 誰も居ないグラウンドに一番乗りでやって来た敦士。彼はすぐさま鍵を開け、一年用の部室に入り着替えを済まし、スパイクを履くと勢いよく部室の外に飛び出す。

 しばらくすれば中村も、他の同級生も、先輩もマネージャーも来ることだろう。それまでに準備をしておかなくては。

 そう意気込んで部室のドアを開け外に飛び出した敦士。未だ校庭には誰一人おらず、他の野球部員はまだ姿を見せる素振りを見せなていない。

 敦士はランニングへと向かおうと一歩、校庭の中心へと駆けて行こうとする。その時だった。


「ねえ、この学校の野球部の部室はこちらであってるのかしら?」

「うわっと!?」


 唐突に死角から妙に迫力のある甲高い女性の声に呼び止められ、敦士は思わず変な声を上げて驚いてしまう。

 振り向くと、そこにはこの学校の体操着を着た少女が不敵な笑みを浮かべて仁王立ちしていた。

 背は一七〇前半ぐらいだろうか、女性にしては背も高く、体操着越しに見てもスタイルも良いようにも思える。

 そして非常に特徴的な髪をしており、茶髪なのか黒髪なのかよくわからないその髪の色は一度見たら忘れられないような強烈な印象を与えて来た。


(誰だろう、この人……)


 敦士は目の前にいる女性に見覚えは全く無かった。

 もしこんなインパクトある人物が同じ学校に居たとすれば、どこかですれ違った際に必ず注目してしまう筈だ。

 それとも誰かがウィッグをつけているのだろうか、あるいはこの学校のOGか、全く関係のない人か。

 そんな事を考えながら体操服の変わった髪の少女を見て戸惑う敦士。

 何も語らぬ敦士は何事も無かったかのように視線を逸らそうとすると、少女は無視されたのだと思ったのか、少しムッとした表情でもう一度訊きなおす。


「ねえ、君野球部だよね。今君が出て来たここは野球部の部室って事でいいのよね?」

「えーと、まず聞きたいのですけど……、貴女は一体何者なんでしょうか?」


 質問をする少女に対し、敦士がすぐに部室の事を答えず警戒しているのは、この目の前にいる少女の得体が掴めない事にあった。

 せっかく手に入れた野球部の日常、この少女が何者かが分からない以上。勝手な言動でトラブルに巻き込まれ、結果的に悪い方向へと進んでしまう事を恐れているのだ。

 ましてはこんな奇抜な髪型をしているのだ、もしかしたらとんでもない不良生徒なのかもしれない。

 そんな怪訝の目で少女を見つめる敦士に対し、少女は警戒されている事を察したのか。再び不敵な笑みを浮かべると、軽く自己紹介を開始する。


「失礼したわね、私は明日からこの学校に転入する事になった史上最強の天才、廿楽すずめつづらすずめ。こんな野球部に入るつもりは無いけれど、ある人が野球部にいると聞いてここにやって来たのよ!」

「はぁ……」


 どうやら、見た目がおかしければ頭も大分おかしいらしい。

 自己紹介で自分の事を史上最強の天才だの、野球部員の前でこんな野球部だのと、どう考えても頭がおかしいとしか思えない言動を繰り出す少女を前にし、敦士はただただ困惑するしかなかった。

 これがもし、可愛らしい少女の言動ではなかったら。上から目線で馬鹿にされた地点で、つい手が出ていたかも知れない。

 ただ、少なくともこのすずめという少女は野球部に用があるわけではなく、野球部にいる人物に用があるから、わざわざここまで来たという事は、今の会話で敦士も理解できた。

 しかしそうであるならば、何故このすずめという少女は用がある人物の事を真っ先に訊かずに、ここが野球部の部室なのかを訪ねてくるのだろうか。

 敦士は瞬時に考察した。きっとこのすずめという少女は部室の前で待つ事で、目当ての人物が少女自身の存在に気づき、近づいてきてくれる展開に期待しているのではないだろうか。

 この学校に昔の知り合いがいるのを知って、驚かせようとわざわざ前日にやって来たのではないだろうか。となると恐らく、待っているのは恋人か、それとも幼馴染かと言った所だろう。

 捕手歴十年、常に相手の裏を読む事や相手の心理をつく事を心がけてきた敦士は、悪い癖だがいつもそういう物事の裏をいつも考えてしまうのであった。

 

(まあ、頭は兎も角悪い事をしようって訳でもあるまいし、ここは穏便に済ましておこう)


 兎も角、目の前にいる少女が明日からこの学校に転入してくる爛漫生なのだという事を理解した敦士は、素直にすずめに対しこの場所が野球部の部室である事を言い明かす。


「一応このあたりの小屋は全部野球部の部室って事になってます。もうそろそろ部員の皆も来るだろうと思いますんで、待ってればその人も来ると思いますよ」


 未だ部室へとやって来る人影一つ見えないものの、もう少し時間が経てば他の部員たちも集まる筈だ。

 敦士はそう思いながらすずめという少女にこの場所で待つ事を推奨しつつ、自らは当初の目的通りランニングを開始すべく練習に向かおうとする。

 しかし、すずめという少女は素直に話を聞いてくれるタイプの人間では無かった。


「やはりここが部室だったのね、ならば彼が来るまで部屋の中で待機させてもらう事にするわ」

「えっ……、それはちょっと……!」


 勝手に部室の中に入ろうとするすずめに対し、急いで部室のドアの前まで戻り、少女がドアを開けようとするのを制止する敦士。

 どうやら敦士が思い描いた展開とは、全く別の方向に進んでいるらしい。

 トラブルにはならないだろうと野球部の部室の事を教えた敦士であったが、どうやら教えた事で何かと面倒な事になってしまったようだ。

 どちらにせよ教えなければ話は進まなかっただけに、仕方ないと言えば仕方ない。しかし、最悪の自体だけは防がないといけない。

 ドアの前に立ち、すずめが部屋に入るのを阻止する敦士。

 首を横に振りながら、敦士はすずめに対し部室に立ち入らせられない理由を説明する。


「一応、部外者の君が勝手に部室に入るのは流石にまずいと思いますよ。君を疑う訳ではないけれど、できれば外で待っていてくれませんかね?」

「別に特別中に入りたいわけではないからいいのだけれど、こうして外で待ちぼうけているのは退屈なのよね……」


 敦士の説得を受け、部屋に入るのを諦めるすずめ。あと数分待てば他の部員たちも来るはずなのだが、どうもこうも退屈を我慢するつもりはないらしい。

 早く他の部員に来てほしいと切実に願う敦士であったが、そんな事を思っている間にすずめという少女は退屈を紛らわしたいのか、次の行動にへと移って行く。

 

「ねぇ、貴方も野球部員なのよね? 少しキャッチボールの相手をご一緒して貰えないかしら?」

「は、はぁ……」


 突如、少女からキャッチボールのお誘いを受け、困惑する敦士。

 よく見ると、すずめの左手には何やら使い込まれたグラブがはめられていた。

 どうやら、このすずめという少女も野球に精通しているらしい。彼女が探している人物というのも、昔、共に野球をやっていたのではないかと推測できる。

 野球部には入らないと言っていた少女であるが、使い込まれたグラブを見てから察するに、かなり野球に対しての思い入れはあるのかもしれない。


「まあ、準備運動は後でも出来ますし。その人が来るまででいいなら……」

「そうこなくっちゃ!」


 本来なら準備運動を済まさなくてはならず、すずめの要求には応じなくても良かったであろう敦士。

 しかし下手にすずめに動かれるよりかは良いだろうと思い、彼は部室の中に転がっていたグローブと白球を手に取りすぐすずめの下へと向かう。


「じゃあ、これ使ってキャッチボールしましょうか。硬式の球ですけどいいですよね」

「構わないわ、私も硬式で野球をやっておりますので」

「そうですか、それなら安心ですね」


 敦士は部室の中に転がっていた白球を手渡すと、同じく部屋に転がっていたちょっとボロボロなグラブを左手に装着し、すずめから少しずつ離れてゆく。

 すずめが野球経験者であるなら、ある程度キャッチボールのルールや常識は知っている筈だ。

 特に説明はせず、十メートル程離れた所でグラブを構えた敦士はすずめに合図を送る。


「いつでもいいですよ」

「よろしいですか、では投げますよ」


 相手の胸元に捕りやすい球を投げ思いやり、次第に慣れてきてから距離を離し、肩を慣れさせていくという過程がキャッチボールの醍醐味だろう。

 キャッチボールとは投げるフォームの調整、肩を温めるウォーミングアップ、そして投げたい距離へのボールのコントロールを培う大切な練習だ。

 狙った所に投げ相手に捕ってもらうというのは基礎中の基礎であり、野球の王道練習と言っても過言ではない。

 至極単純なメニューの様に思え、ただ投げて、捕るを繰り返し消化するだけでは全く持って練習としての意味を為さないのではないかと、軽く考えがちに思われるが実際はそうではない。

 実際に球児の中にもそう思う者もいるかもしれないが、それはキャッチボールを行うという事の真意を、指導者が正しく伝えていないからだろう。

 より意識を高め、実戦的なキャッチボールを定期的に続けていく事こそが、試合で単純な送球ミスや捕球ミスを失くす最大のカギとなるのである。

 すずめも敦士もキャッチボールの意識は非常に高かった。

 すずめは女性とは思えないきっちりと重心を意識したステップから、肘を下げないフォームから放物線を描く送球を敦士の胸元に正確に放っている。

 そして敦士もすずめの球を捕球する直前に、前方に一歩程進みながらいい音を鳴らし捕球する。そしてそのまま移動した勢いに合わせ左足でステップを踏み、そのまますずめに投げ返した。

 投げ返す直前、想像よりも本格的なすずめを目の当たりにし少し感心する。


(動きに無駄がない……、たった一目見ただけでも、この子が相当やりこんでるってのはわかるな……)


 見た目は奇抜で、自分から史上最強の天才と謳う少女に対し。最初は面倒くさがって出来れば関わりたくないと思っていた敦士だが。次第にその毒気も抜けて来る。

 キャッチボールはこれまで、いろんな人とやって来た。

 地元少年野球チーム時代も、中学のボーイズリーグ時代も、そして今も。キャッチボールをすれば、その相手の投げる球から大体どれ位野球をやりこんでいるのかが理解できるほどに行ってきた。

 しかしこの少女とのキャッチボールはまるで異質。しっかりと捕り易い球を胸元に投げ込んできているにも関わらず、捕る瞬間ズシリと重みを感じるような、野球への想いが具現化してこの白球に込められているのかと言わんばかりの送球だ。

 キャッチボールでこんな送球を受けた事があるのは、これまでの野球人生ではただ一人しかいない。


(この人の送球、ソラちゃんに似てる……?)


 敦士が思い出したのは幼馴染であり、親友でもあり、そして十年もの間、共に野球を行ってきた最高の相方。船坂空の事であった。 

 目の前に立つ少女、廿楽すずめが持つポテンシャル。

 自分でも信じられなかったが、それは敦士が今まで見て来た最高の天才投手、船坂空を彷彿とさせる程送球が力強く、そして美しい。

 敦士にとって空こそ史上最強の天才になりうる器と思っているだけに、認めたくはない気持ちはある。

 しかしこの少女が自身の事を天才と自信満々に語る理由を、敦士は一目で理解する事が出来た。

 何球か捕球と送球を繰り返し、肩も少しずつ温まって来た所でふと間隔を開き始め、最初の位置からは倍近く距離を離し始める敦士。

 彼はキャッチボールを続けながらも、人を待っているという天才少女、すずめに初めて自分から声を掛けに行く。

 

「ねぇ、すずめさんだっけ」

「廿楽すずめよ、それにしても、本当に野球部の人達は来るのかしらー?」


 既に二十メートルも離れた距離に白球を淡々と投げ込んでいるにも関わらず、全く息を切らす素振りも見せないすずめ。

 未だ姿を見せない部員たちに疑問を持っているようで、心配そうにしているのを敦士は声を掛けて安心させようとする。


「本格的に開始するのは監督が来てからだからそれまでみんなのんびりしてるのかもね」

「ふぅん……、やっぱこんな野球部だとみんなの意識は低くなってしまうもののかしら?」


 少女の容赦のない毒舌が突き刺さり、一度は高いレベルで野球を行っていた敦士も笑うしかない。


「ははは、仕方ないさ。運動部に属しているとは言っても、どこか心の中では勉強の方が大事って思ってるんだろうからね。みんな野球で勝つ事よりも、人生の勝ち組になる事を優先してるんじゃないかな」

「……仕方ない事なのかしら」


 敦士の言葉に、少しだけしおらしい様子を見せるすずめ。

 何やら気に障る事を言ってしまったのだろうか。

 敦士は少女の表情から負の感情を読み取ると、今度は敦士の方が心配そうな表情を浮かべ始める。

 しかし早く彼女の待つ人物が来なくては展開が先に進まない。そう思った敦士は、ついに本題へと切り出す事にした。


「ねぇ、すずめさん。うちの野球部で探してる人って一体どんな人なの?」


 こういう話題を切り出す時は、探している人物の名前を訊くような直接的な答えを問うよりも、相手が話してくれやすそうに抽象的な質問を投げかける事が理想的である。

 敦士の予想でしかないが、このすずめという少女は探している知人を驚かせようと、わざわざ転入の前日にやって来るような癖のある人物だ。

 下手に名前を聞こうとしても、突っぱねてくる可能性は高い。

 それ故に、こういう風に抽象的な質問を問いかけ段階的に相手から話してもらう事で、情報を引き出そうとしているのである。

 すずめはその問いに対し、美しい投球フォームで白球を敦士の方へと返しながら、自らの素性をさらけ出し始める。


「……私、アメリカに住んでいたのよ。それで十一歳の頃に彼と出会ったの」

(あー、これ話長くなる奴だ)


 自分で聞いておきながらも、話が長くなりそうだと身構える敦士を余所に、キャッチボールを続けながらすずめはその長くなりそうな話を続ける。


「当時トラベルボールチームに所属していた私は野球で敵なしと言われる位最強だったの。それはもう、戦う相手に困っていた位に」


 トラベルボールチームと言うのは分かりやすく言うと、野球大国アメリカで行われている少年野球の最高峰の組織である。

 アメリカにも日本と同じようなリトルリーグや草野球は多く存在するのだが、トラベルボールリーグというのは非常に高いレベルの少年野球の選手が集う、少年野球版のメジャーリーグと言ったような所だ。

 そこではチーム毎にトーナメントが行われており、その勝敗記録を参考に各チームはメジャー、3A、2A、そして1Aのどれかに分類される。

 どのチームにも入団試験と言うものがあり、野球が上手い事がトラベルボールチームに入る最低条件だ。

 特にメジャーランクの名門チームは倍率が高すぎて入る事すら非常に難しく、そこで主力級の活躍を見せると企業からのスポンサーがつく可能性もあると海の向こうでは有名な話となっている。

 しかしそんな凄い世界で野球をやっており、しかもその頂点に居たと語るすずめの話を、敦士は疑問に思わず真面目に聞いていた。

 実際に今、キャッチボールをしていてすずめという少女がそれなりの実力者なのはわかっている。

 そんな少女が何故、こんな野球部の生徒に用があるのかは置いといて、その話を信用するに値する実力を、すずめという少女は持っているのだ。

 それが解っているから敦士は所々で相づちを打ちながらも、すずめに対し何も言わず黙ってその話を聞いていた。


「それでね、ある時私は"自分の周りに敵がいないなら外に出てみればいいじゃない"、って事でWBCFっていう国際野球大会っていうのに参加する事にしたのよ。それでその時初めて日本に来たの」

(ん……?)


 少女の口から出て来た聞き覚えのある大会名に、ちょっとした不安感を覚え始める敦士。

 WBCFと言うのは、ワールド・チルドレンズ・ベースボール・フェアというイベントの頭文字を取った名称である。

 日本の本塁打王と米国の本塁打王と呼ばれた名選手二人が提唱し始められ、世界各地から野球少年少女を集め野球教室や国際交流試合を行っている交流行事。

 敦士も実は、空と同時にこのWBCFというイベントに国内代表で出場したことがあった。

 もしやこの少女が探している相手とは……と、うすうす勘付き始める敦士であったが、すずめが続ける話を聞きその相手を確信する。


「その時、私は彼に出会った。すらっとした体形、一見野球をするには頼りない肉体だけれど……」


 現在一八〇センチある高身長の敦士だが、小学校時代は名前通り小柄な体格だったのを良くバカにされていた事を思いだす敦士。

 ひょっとして、彼女がその人物に気づけていないのはその幻想が頭の中によぎっているからなのではないかと敦士はその場で考察した。

 敦士がそんな無駄な考察をしている間にも、すずめは話を続けていく。


「アメリカでは専属の捕手を用意させないと捕る事すら難しいと言われた、私の魔球。それを初見で一度も零さず当たり前のように捕って、さらにはこの私に助言までしてくれようとしたあの方に。私は出会ってしまったのです」

(あっ……、これマズいんじゃないか……?)


 今この瞬間まで、この少女の事を完全に初対面だと思い込んでいた敦士はすずめの話を聞き、血の気が引いてゆくのを感じていた。

 たしかに敦士はWBCFには参加していた。しかし、その時の事を思い出そうとしてもなんのエピソードも思い浮かばない程、敦士にとっては退屈なものだったという記憶しかない。

 国際交流試合ではアメリカとは戦っていなかった。

 野球教室で組んだとしても、たまたま組んだ少女にアドバイスをした記憶もなければ、そんな話し合ったりする事は無かっただろう。

 そして何より、今の様な奇抜な髪の女性は絶対に見ていない筈だ。と敦士はそこだけは確信している。

 それでも今の話を聞くに、どうやら自分の事なのではないかと思わざるを得ない内容なのは確かだった。

 敦士はすずめからの送球を受けながら、大きく深呼吸をして心を落ち着かせようとする。


(落ち着け……、相手も俺の事を気づいていないんだったら、俺がこの少女の事を気づいて無くたって許されるよな……、ここはそれとなく自分から名乗り出て……)


 しかしそんな事を考えている間に、語り続けていたすずめは少しだけ恨みがかったようなこもった声でその人物の名を挙げてしまう。


「その人の名は小谷敦士、彼は確か史上最強の捕手だと私に言ってました。それと同時にまた球を受けて欲しければ、もっと実力を磨いてから会いに来いと――」

(待て待て、そんな事言った記憶ないぞ!?)


 自らの名前が出たのと同時に、訳も分からないような事を言いだすすずめに対し思わず声を上げてツッコミを入れそうになる敦士。

 世界一の捕手になる男だと自称した事など、これまでの野球人生で一度もない筈だった。

 もっと実力を磨いてから会えという言葉も記憶には無かった。出会う投手出会う投手にそんな事を言うそんな嫌味ったらしい捕手が居るとしたら、敦士はそいつの顔を思いっきりぶん殴りたくなる事だろう。

 もし言ったとしたら若気の至りだろうか、それとも単なるすずめという少女の勘違いか。

 いずれにせよ今この状況で自ら名乗り出るのは、そんな約束を信じこの野球部にまで姿を見せに来たすずめという少女の想いを逆撫でしかねない自殺行為だという事がよく分かった。

 焦る素振りを見せる敦士。その一方で、すずめは目の前にたつ男は敦士という男と自分にそんなエピソードがあったという事に驚いているのだと思い込みながら、そのまま話を進めて行く。


「そんな私の心を掴んでくれたすごい捕手が、こんなやる気のない野球部に所属し、下らない活動に精を出しているのだとするなら。私は許すわけにはいかない」

(ど、どうしよ……。これは本格的にやばいのでは……?)

 

 同じ野球を志す者であっても、考え方は千差万別だ。

 高いレベルで高い野球に触れていたいと思う者もいれば、敦士の様に実力に見合った場所で伸び伸びとプレイしたいという者もいる。

 この廿楽すずめという少女は間違いなく前者であり、そんな少女に喧嘩を売って来たその捕手も当然高いレベルで野球をしているのだろうと勝手に思い込んでいたのであった。

 それを目の前にいる男が完全否定し、学問を説いた事で少女は小谷敦士という男を恨んでいるのだ。

 話が完全に読めてしまった敦士は何とかして、この状況を穏便に済ます方法を考えようとする。


(落ち着け、冷静に考えろ、世界一になる捕手を自称したらしい小谷敦士よ……。こういう危機的状況を乗り越えてこその駆け引きのプロというものでは無いか……!)


 常日頃、一瞬の判断で物事を決断し、打者との駆け引きを行い配球を決める捕手という性質上、こういう状況でも冷静に対応する事が求められてきた。

 言った覚えは全く無いが、この子が世界一になる捕手を求めてここまで来ているという事であれば、それなりに世界一の捕手らしい事をしてこの場を切り抜けなくてはならないだろう。

 野球ではこれまで、船坂空と共にどんな困難も乗り越えて来た敦士であったが、ここまで絶望的な状況を肌で感じたのは生まれて初めてかもしれない。

 今はとにかく切り抜けるんだ。敦士はキャッチボールを続けながら、必死に解決策を模索しようとする。

 しかし、そこで非情にもタイムアップは来てしまうのであった。


「おーい、敦士! 今日は大田先輩のバッセンで打ち込みするから練習は止めだってさー!」

「あ、バカッ!」


 突如、体格の良い制服姿の男が敦士の名を叫びながら近づいてくると、敦士は思わず舌打ちをしながら、その男の事を睨んでしまう。

 それはこの日、共に昼食を取り休憩時間も一緒に野球の練習を行った中村卓也だった。

 中村は敦士に対し、今日は学校の校庭での練習では無く、得意先のバッティングセンターで練習する事を伝えに来たのであった。

 どうやら、早く教室を出過ぎてその伝言が来る前に敦士は部室にへとやってきてしまったらしい。他の部員がなかなか来なかったのは、今日は校庭での練習が無い事を知っていたからなのだろう。

 しかしそんな事を悠長に考えている余裕など無かった。

 少女の方を恐る恐る振り向く敦士、案の定先ほどまでのそれなりに冷静な対応を見せていた彼女の姿は消え、怒りの感情を表情に滲ませながら敦士の事を睨んでいる。

 目の前に立つ男の野球への熱意の無さに怒っているのか、それとも自分の事を全く覚えてくれなかった怒りか。

 すずめは先程までの恨みがかった声に、さらに凄みをつけたような口調で敦士を問い詰める。


「……ねぇ、あなたが、"あの"コタニアツシなの?」

「……ええっと、それは」


 問いに答えられず、目線を逸らそうとする敦士。

 その男らしくない対応に、すずめはついに怒りが爆発してしまったのか。目に涙を浮かべながらその胸倉に手を伸ばし、勢いよく敦士を押し倒す。


「ぐえっ……!」


 あまりにも唐突過ぎて、なすがままに倒れ込んでしまう敦士。

 そして仰向けに倒れ込んだ敦士の腹の上に、のしかかるように少女の腰が上から降ってくると、思わずカエルの鳴き声のような悲鳴を上げてしまう。

 そのままマウントを取られた形で対峙する敦士とすずめ。少女は敦士の胸倉を掴んでいた腕に力を込めながら。敦士の体を思いっきり揺さぶりながら恨み辛みをぶつけて行く。


「よくも、よくも、よくも! 私の純情を、純情を弄んでくれたわねっ!」

「わああ!? た、卓也。助けてくれ~っ!」


 今やって来たばかりで、目の前で起こっている事を理解できておらず。口をポカンと開けて呆けている中村に対し助けを求めて行く敦士。

 結局この状況から解放されるまで、少女の暴走は二十分以上続いたのであった――。

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