掬った水は愛(かな)しく
ようやく野営拠点に戻ったとき、俺は目を疑った。マイがテントを引き裂いて、組み上げられた小屋の骨組みに縛り付けている。
「おい! 今日どこで寝るんだよ!」
「ここよ」
マイは小屋を指差す。今夜は隙間風が寒くなりそうだ。
俺の表情に不満を覚えたのか、マイが湿り気のある視線を向ける。
「だって寒いだろ、これ」
「テントが潰されて穴があいてしまったみたいでな」
不必要な量の薪の山の脇からレイラが言う。森ごと焼きはらおうとでもいうかのような薪の量だ。いったい何本の木をバラバラにしてしまったんだか。
「持ち帰っても新しいものを買った方が早いと思って。今晩だけなら、まあ我慢できるでしょ?」
俺とは目も合わせずに、パートと二人でロープを引っ張って小屋に固定する。ペグも釘代わりに抑えに使われてしまっている。
「そうだ、水汲んでくるから馬使うよ。補給は水袋3つくらいでいい?」
荷物はまとめて積まれていた。いつの間にかテントのグラウンドシートが切り離されてその下敷きになっている。見たところ、倒木に潰されて壊れた荷物はなさそうだ。水袋も破れずに済んでいる。これなら帰路は心配ない。
水袋を紐でくくって、馬に飛び乗る。
「うん、3つで十分だ。セシリアさんは休んでくれ。私が行く」
レイラは斧を立てかけると、息を弾ませて白馬に駆け寄る。少し考えて、その縛られた手綱を解かずに、俺の方を見上げた。
「後ろに乗せてもらえるか?」
「へ? なんで?」
「特に理由はないが…わざわざ私の馬を出すまでもないだろう?」
有無を言わさず俺の後ろに飛び乗る。金属鎧の重さで、わずかに馬がたじろいでしまう。
「ほら、行くぞ!」
俺の腰に手を回して、レイラの方で馬を蹴る。いくら俺の相棒がやんちゃでも、俺以外の命令を聞くほど勝手なわけでもない。少し首を傾けて、左目で俺を見る。行っていいのかと尋ねているみたいだ。
「まあいいか。こいつ勝手だから、ちゃんと捕まってろよ」
手綱を一振りすると、久しぶりに走れる喜びからか、馬は不必要に駆け足で走り始めた。
「アレン、道を見失わないようにね」
俺たちの背中に、セシリアさんの声がかかる。さすがに往復したんだから、俺も方角くらいは覚えたし、まず迷いはしないだろう。そういう慢心が迷子を生むのかもしれないけど。
「セシリアさんと話せたか?」
ほとんど耳元で声を出しているのに、レイラの声はいつも通り大きかった。
「うん、話せたよ。話す時間、つくれてよかった」
「そうか!」
嬉しそうな声。レイラなりに考えもあったんだろうし、心配もしてくれていたんだろう。
「だが、マイが言うには、ラミアは世界で一番惚れっぽい種族なんだそうだ」
「そうなの!?」
たしかに今日はいきなりセシリアさんの態度がおかしかった気がする。なんかいい雰囲気だったとは思うけど、どこからどこまでが昔からの気持ちだったんだろう。
「だから誘惑されたんじゃないかと心配でな」
「心配? なんで」
歩くとそれなりに遠かったけど、馬ならそう遠くはなさそうだ。相変わらず眠っている赤みががった灰色の巨体が木々の間に覗く。
「それは…ほら! 私たちより付き合いが長いじゃないか! 彼女を守るために旅に同行してしまうんじゃないかとな!」
そういう選択肢もあったのか。そんな方法があったなんて、考えもしなかった。でも、思いついていたとしても、たぶんそうはしなかっただろう。
「そんなことはしないよ。俺はレイラたちの仲間だろ?」
俺が言うと、急に腰に回した腕に力が入って、レイラが俺の背中に頬ずりした。金属鎧が腰に当たって少し痛い。
「それを聞いて安心したぞ、アレン」
珍しく抑えの利いた声と、背中に当てられた頰の感触。
「でもそんな心配されてたなんて、俺って信用ないの?…ほら、ついたぞ」
少し恥ずかしくなって、冗談を言う。森が開けて、川べりに馬が出る。ヒポポタマスからは少し離れた位置についた。これならまず気分を害する心配はないだろう。
「そういうわけではないんだ…でも、こう…心配でな!」
もう一度金属鎧が押し付けられる。肩甲骨がぐいと押されて、正直痛い。でもレイラがそうしたいんだったら、させてあげよう。俺だって嫌なわけじゃない。
「よし、水汲むぞ」
「そうだな!」
順に馬を降りて、それぞれに水袋を取る。
「レイラはあのヒポポタマスを警戒してて。たぶん大丈夫だと思うけど」
俺が指差した先を視線で追って、初めてその存在に気付いたらしい。
「なんだあれは」
「ヒポポタマス。気性は荒くないから、刺激しなければ大丈夫。しばらく眠ってるみたいだよ」
セシリアさんからの受け売りの説明をする。
「ふむ…よく知ってるな、アレン」
「だろ? モリス村の動物博士だからな」
レイラは腕組みして巨体を見据える。急に警戒心を高めたその姿は、いつもの頼れるリーダーって感じだ。ただ、これだけ殺気を放たれると、ヒポポタマスがそれを感じ取って目覚めてしまわないかが心配だけど。
靴を脱いで、足首まで裾をまくる。水袋を腰に縛って、川に足を踏み入れる。心地よい冷たさが足の指の間にまで行き渡る。
少しだけ川に踏み入ったところの水の方が、砂が少ない。飲み水にするならそっちの方がいいだろう。水が澄んでいるおかげで、水に何も潜んでいないのもわかる。野生動物だって寝るくらいなんだから、きっと平和な川なんだろう。
三つの水袋に水を入れてしまうと、その場で水を両手でひとすくいする。手綱を握っていた手に、水が少しだけしびれる。俺の手の中で、透明な水は傾いた陽の光を反射して、少しだけ輝く。
振り返ると、レイラはまだ姿勢を変えずに一方を見続けている。凛々しい横顔に見蕩れて、俺は水を掬った手を解こうとしてしまう。
ハッとして、俺はその水に口を寄せる。まだ温められていない水が、今度は喉の奥から俺の体に行き渡る。まるで身体中にマナを走らせたみたいに、俺の体に生命力が伝わっていく。
「レイラ」
河原に上がって、裾を元に戻す。靴は、帰ってからでもいいかもしれない。
「行けるか?」
「うん、行ける」
水袋を叩いてみせる。
「…どうかしたのか?」
馬にまたがった俺を見上げて、レイラが勘のいいことを言う。俺が手を差し伸べると、捕まって後ろに乗る。
「レイラは、急に冒険者になっちゃったんだろ?」
馬を走らせる前に、俺はレイラに伝えておこうと思った。
きっとレイラは両親を失って、急に国を追われて冒険者になったんだろう。だから、レイラにはできなかったことがある。失ったことがある。
それを知っているからこそ、大切にしなきゃならないことに俺は気づける。
「だけど俺は、まだあと2日だけ、この村にいられる時間があるんだ。だから、さ…」
「そうだな…」
腰に回された腕が、優しく俺を抱く。
「みんなにちゃんと、伝えなきゃいけないこと、伝えてから出て行くよ」