アレンの住む村
殴り合いの喧嘩をするときには、冷静じゃなくちゃいけない。
相手の重心の動きを把握しながら、次のパンチが強い一撃なのかただのフェイントなのか、ちゃんと考えられれば体は勝手についてくる。
相手の右フックをかがんで躱し、体重を乗せたボディーブローを一撃。
素人はこれに弱い。もしも相手が痛みに腹を抱えてしまうようなら、立て続けに左のボディーブロー。そして右ストレートでノーガードの顔面を貫けば、意識ごとノックダウンだ。
目の前には鼻の骨をへし折られて、止まらない鼻血で不細工な顔面を汚したまま、気絶した肉体が大の字に転がる。湿った土の上でおねんねする気分はどんなものだろうか。
そうだ、おまけに唾を一つ吐き捨てといてやろう。
この俺に喧嘩を挑んできた勇気に見合った、最高のプレゼントに違いない。
オレンジを入れたカゴを抱え上げ、納屋の裏を立ち去る。
商店街の表通り。
そこは、そう呼ばれているはずの場所だった。
しかし今では、俺が子供の頃の活気など見る陰もない。
半分以上がどこか別の土地に店を移してしまって、残った店は万年品薄の閑古鳥だ。
農道の冷たく湿った土臭い匂いが、死んだ村の空気を見事に演出してくれている。
「生き残っているのは豪農のパルウィリーと村長のレッドフォードさんだけだよ」
親父がそんなことを言っていた気がする。
なんたってこの俺をこんな時化た村なんかで育てたのか、俺は未だに納得できない。
俺が生まれた頃は、まだこの街が賑わっていたことは知っている。それでも、冒険者だった親父なら、母さんを連れてディザやルキスラにだって移住できたはずだ。
「母さんの宿を守るため…か」
商店街を抜けたところにある、一軒の宿屋。それが俺の家であり、親父が冒険者を辞めてまで、母さんと守っていくことを誓った場所だ。
冒険者の宿屋っていうなら、まだわかる。でも、これはただの宿屋だ。
農産物をルキスラに輸送する隊商やそれを警備する冒険者、衛兵たちを宿泊させることで、ずいぶん賑わっていたらしい。
すべては、ルキスラ帝国が進めている新街道の整備計画のせいだ。
たしかに、ディザから自由都市同盟まで進むのにこの村を通るのは、少しだけ道が膨らんでいるし、丘を少し登らなければならないから、隊商にとっては遠回り以上の損がある。
それでも、人口を支えるだけの農地を持ったこの村が、隊商たちにとって最適の休憩地だったはずだ。
当然、ご丁寧に石畳に馬車のレールまで掘った新街道の評判は、この村ではあまり良くない。
それはすべて負犬の遠吠えみたいで、この村の商人たちをひどく格好悪くさせていた。
「ただいま。ああ母さん。オレンジ、仕入れてきたよ」
どうせ客なんていないんだろ。
その言葉は胸にしまっておく。このオレンジだって、どうせ自分たちで食べることになる。
「おかえり。ありがとうね。また誰かと喧嘩してきたりしてないでしょうね?」
母さんがカゴを受け取りながら、鋭いことを言う。嘘を言ってもどうせ見破られるとわかっているけど、俺はやっぱり嘘をつく。
「もう俺だって成人したんだから、さすがにそんなことはしないよ」
「だったらどんなにいいことか。いま奥の方に村長さんが来てるから、ご挨拶してきなさい」
やっぱり見破られたんだろう。でも、母さんは俺の喧嘩っ早さを非難することはない。あとで問題になったときに、守ってくれることもない。すべて俺の責任。そういうことになっている。
「村長が?なんで?」
「うちに相談があるみたい。ほら、お父さん、冒険者だったでしょ?だから、何か冒険者のツテがないかってね」
母さんはどこか嬉しそうだ。母さんのために、親父は冒険者を辞めた。でも母さんは、冒険を続けてもいいと言ったらしい。帰ってきてくれるなら、それでいいと。
親父が冒険者だったことは俺も誇りに思っているし、きっと母さんもそう思っているのだろう。
「まさか村長さん、冒険者でも雇うつもりなの?こんなど田舎で?」
「こら。奥に聞こえたらどうするの!」
母さんは声を潜めて注意する。
「でも、最近パルウィリーさんとこの牛がやられたっていうじゃない。きっと、その件でしょ。一応農地も人も残ってるんだし、みんなが生きている間は、こんな田舎でも守らないと。」
いっそのこと集団移住したら、なんてことも言いたくなる。
「ほら、とにかく挨拶してきなさい。喧嘩のことで、いろいろ迷惑かけてるんだろうから」
母さんに急かされて、俺はやっと奥の部屋に向かう。薄暗い廊下を歩くと、床が軋む音がする。でも、それよりも大きな音で、閉じた扉の隙間から親父たちの会話が漏れている。
「では、うちに泊める代わりに宿泊代は取らない。うちから出せるのは、そんなものですかね」
「ご協力ありがとうございます。経費については、私から幾らかを補償しましょう。ノリスさんからも、何か冒険者たちにお願いしたいことがありますか?」
「まぁ、それについては考えておきます」
そのあたりで、扉をノックする。会話が止まって、親父がどうぞと応じた。
「話の途中、すみません。ちょっと挨拶しに、きました。いつも、どうも、村長さん。」
使い慣れない丁寧な表現を使おうとして、言葉が躓いてしまう。
それでも、村長さんは優しく応対してくれる。
「ああアレンか。そろそろ村のチンピラどもは全員殴り倒したか?」
村長もこんな調子だ。親父と長い付き合いらしく、俺のことも生まれた時から知っているとかで、変な信頼を寄せてくれている。
「アレン喜べ。村長さんが冒険者を雇うそうだ。うちに泊まるから、お前も話してみろ。」
親父は満面の笑みを浮かべている。自分の冒険者時代の思い出がよみがえっているうえ、冒険者たちの冒険譚を聞けるという期待が膨らんで、全く気持ちを抑えられていない顔だ。
「今聞こえたんだけど、タダで泊めるの?」
久しぶりの客から金を取らないで、どうやって生きていくつもりなのか。
「まぁ冒険者への報酬の一部負担ってところだな。つまり、俺も雇い主の一人というわけだ。」
親父が豪快に笑う。酒でも飲んだのかと思ってテーブルを見るが、お茶しか飲んでいないみたいだ。
「でも、何も困ってないだろ?客が来ないってくらいしか」
「それなんだよなぁ」
親父は思った以上に考えがないらしい。ひょっとしたら、ただ冒険者と話がしたいだけなのかもしれない。
「ノリスさんには、何か村おこしにつながるような依頼を考案してもらいたいんですよ。冒険者にどういうことがお願いできるのか、私たちはよく知りませんから」
村長がいいところで口を挟む。
村おこし。
道でも敷いてもらったらどうか、なんて皮肉が口を突いて出そうになる。でも、すぐに別のアイディアが浮かんだ。
「親父。昔言ってたアレって、調べてもらえないの?」