翌朝、始まりの朝
シャワー回? 進路決定回?
どちらが重要なのか……
ドアが開く音で目が覚めた。
シーツが引いてあるとはいえ、堅いベッドで眠ったことで腰が痛む。それでも疲労は取れているようで、体は軽かった。
「おはよう。よく眠れたかね?」
「ハミルトン子爵……」
顔を出す優男に、アニスは眠りを吹き飛ばし、ベッドから降りる。結局、良い案は浮かばないうちに睡魔に負けてしまった。いっそのことファイレクシア内部でスパイ活動でも行おうかと考えたくらいである。
「昨日はシャワーも浴びられなかっただろう。来たまえ。着替えも用意してある」
絡まった金髪は手櫛を通すだけで素直にまっすぐになる。やってから、自分がまるで本物の少女になってしまったような気がして、アニスは自分自身の無意識の行動に驚いた。
「どうした?」
「いえ、今行きます」
ドアの外には、鉄の扉が並んだコンクリートの廊下が横たわっている。扉の脇に立っていた、アニスと同じ軍服を着た女性将校が、背を伸ばしてハミルトンに敬礼を送る。肩口で切りそろえた黒髪が印象的な、堅物そうな若い女性だ。おそらく、今のアニスの外見年齢とそう違いはないだろう。
「私の部下の、クローディア・コープランド中尉だ」
「エリシェさん、でしたか。クローディアです。よろしく」
「エリシェ・コスです。こちらこそよろしく」
手袋越しに握る手は軽い。クローディアの黒壇のような瞳に、アニスのサファイア色の瞳が映る。
「では、いこうか。一応捕虜用のものだから、それほど大層なものではないがね」
連れてこられたのは、一人用の浴室だった。打ちっぱなしのコンクリートがむき出しだった独房とは違い、一応タイルが敷き詰められている。一般の捕虜ではなく、将校のための浴室なのだろう。
「流石に私が待っているわけにもいかないから、クローディアを置いていく。何か不都合があれば声をかけてくれ」
「お気づかい、感謝します」
「着替えは中に用意してある。ここは前線だから服のレパートリーが少なくてね。サイズが分かりやすい、君の軍服と同じものを用意したが――それでよいかね」
「ありがとうございます」
アニスは頭を下げる。敵ながら、ここまで親身に気を使ってくれるハミルトンに、アニスは心を許し始めていた。待たせても悪いと、そそくさと脱衣所にカーテンを引いて姿を消す。
一晩経ち、それなりに汗などもかいたはずだが、肌色のパイロットスーツは皺ひとつ付いていない。意識しなければ、それが本当の肌ではないことを忘れそうだった。
空の籠に軍服を畳み、その上から下着を入れる。きちんと整備されたシャワーからはすぐに湯が出たことに、アニスは驚く。司令部ですら、三分は冷水を出しっぱなしにしなければいけなかったのだ。
そんな小さなことにすら、ファイレクシアという大国の技術を感じながら、肌で水をはじく。色々と種類のあるボディソープから適当なものを選び、体を洗っていく。張りのある、つんと上を向いた乳房がスポンジの泡にまぎれていくのは、自分の体ながら出来る限り見ないようにした。汗の溜まりやすい股の間も、洗わなければならないが、おそるおそるという風になってしまう。
体は二回りほど縮んだものの、長い髪の毛を洗うのは結構な労力で、普段以上に長い風呂になってしまった。
体をタオルで包み、濡れた髪にドライヤーをかけながら、着替えを捜す。きれいに畳まれた軍服が、椅子の上に置いてあった。ブラジャーまできちんと用意されており、怪しまれないために、今度は付けないわけにはいかない。
とりあえず、という風に色々と試してみるが――慣れないせいか、どうもうまくいかなかった。いっそのこと付けられなかったといって付けない、というのもいいかもしれない。もしくは適当な理由をつけて付けないことにしている、と言うか。
逡巡していると、カーテンの向こうから声が飛んでくる。
「急かすつもりはありませんが、なにか不都合はありませんか?」
「ブラジャーが……いえ、なんでもありません」
とっさに言ってしまった言葉を打ち消しても、もう遅い。
「お手伝いいたしましょうか?」
「いや、それには及びませんっ」
「遠慮せずに。我が主もお待ちですし」
そう言って、カーテンを開いてクローディアが現れる。仕方なく、彼女に身を任せることにするアニス。
「少し前かがみになっていただけますか? そちらの方が形が崩れにくいので」
「こ、こう……か?」
「ええ。では、失礼」
背中でホックが止められた。クローディアはアニスに直立するように言い、隙間を埋めるように形を整えていく。
「これでいいでしょう」
自分でやった時よりも、だいぶ座りがいい。蛇の道は蛇、と思いながら、アニスは礼を言った。
「どうもありがとう」
いえ、と言ったクローディアは、なぜかその場にぼう、と立ったままでいた。何か怪しまれたか、と不安になったアニスは声を上げる。
「あの、クローディア中尉?」
すると、はっと我に返ったようにクローディアは目を瞬かせ、僅かに頬を赤らめながら目をそらした。
「失礼。特に何もなければ、私はこれで」
そそくさと立ち去るクローディアに不安を感じながらも、アニスは着替えを再開した。
「お待たせしました、クローディア中尉」
「あ、あぁ。先ほどは失礼しました」
「お気になさらず」
クローディアは横目で軍服姿のアニスをちらちらと見たが、気を取り直すように咳払いした。
「では、朝食を用意してあります。こちらへ」
食堂のような、いくつもの長テーブルとイスが並んだ大きな部屋に、アニスは案内された。椅子に腰かけてカップを持ったハミルトンが片手を上げる。
「お似合いだよ、エリシェ。だが、君の辛い記憶を呼び覚まさなければよいが」
「お気遣いありがとうございます」
昨日のでっちあげ話を、ハミルトンは信じてくれたのだろうか。だますことに罪悪感を感じつつ、アニスは笑顔を作った。
「だが、似合うのは事実だ。我が軍の軍服は、金髪が映えるように作ってあるという話も聞くしね」
「ならば、ハミルトン子爵もお似合いでしょう」
柄にもなく世辞を言うのは、せめてもの償いといったところか。ハミルトンは嬉しそうな顔を作り、対面の椅子をすすめる。クローディアはハミルトンの後ろに。どこからかメイドが現れ、腰かけたアニスの前に湯気の立つカップと焼きたてと思われる香ばしいパンを置いていく。
「食べながら聞いてくれたまえ。君の処遇の話だ」
来たか、と内心アニスは身構える。とにかく、自由に動くことのできる場所へ行くのが最優先だと彼は考えていた。
「昨晩も言った通り、行く場所がないのなら、施設や私の実家を斡旋することもできる。それ以外にもう一つ、提案がある」
「それは?」
ハミルトンは、間を取るようにゆっくりと紅茶を啜る。唇を濡らし、一息ついてから、言った。
「私の部下として、軍で働かないかね?」
「――!」
文字通り、アニスは目を見開いた。同時に思考が高速回転を始める。
ファイレクシア軍に、敵の仲間になるというのか? おそらく自由い移動はできないだろうし、前線に出ることがあるとは言い切れない。だが、上手くやれば祖国のために情報を得ることは出来る。
他の選択肢を天秤に載せながら、アニスは尋ねた。
「私に何をしろと? いや、何が出来るというのでしょう」
「私のもとで、こまごまとした連絡や書類整理を行ってほしい。無論、君にその能力があるのなら、軍属としての正式な仕事を与えることもできる」
「それは……」
つまり、ハミルトンの私的な秘書のような役割だろうか。彼の眼が光っていては、味方の元へ帰ることは難しい。だが、それ以外の選択肢では得られない軍の情報を得ることが出来る。とくに、前線の状況はどんなに細かいことでも知りたかった。
「軍というのが、君にとって好ましい印象があるとは思っていない。だからこれは選択肢の一つだ」
アニスに好意的なハミルトンの元で信頼を得れば、ある程度の自由は効くはずだ。上手くやれば、フレームでも奪って逃走することだってできる。とにかく、可能性の多い選択してあることは確かだ。
「突然こんなことを言われても、決められることではないのは分かる。そう長くは待てないが、時間がないわけでもない。ゆっくりと考えてほしい」
「いえ」
アニスは声を上げる。カップを起き、ハミルトンの顔を正面から見返す。
「これまでのご厚意、大変感謝しています。恩返しとなるのであれば、不肖、この私――エリシェ・コス、ハミルトン閣下の元に馳せ参じましょう」
「……いいのかね? まだ考える時間はある。君の人生を左右する決定かもしれない」
「結構です。もはや意思は固まりました。手として足として、ご自由にお使いください」
「まさか、ああも早く快諾してもらえるとは思わなかったな」
「不審です。やはりスパイである可能性は排除できません」
クローディアは、前を進むハミルトンに吐き捨てるように言った。
「どうせ手中に収めるんだ。手の届く範囲に居た方が良い。スパイだとしても、君の眼が光っている間は行動できないだろう」
「軍に入れること自体が間違いだと言っているのです。獅子身中の虫とならないわけがありません」
語気を強めるクローディア。彼女自身不思議なほどに、あのエリシェという少女に対し、強い警戒心を抱いていた。
何の理由があるというわけではないはずだ。ヒエラルキーとしては最下層の被支配地民の孤児からハルミトンに拾われて騎士となった自分に対し、本人すら知らぬまま皇女かもしれないというエリシェへの嫉妬だろうか。
否、そんなことに拘泥する自分ではない、とクローディアは心に言い聞かせる。平民と嘲笑ってきた相手を実力で見返してきた自分が、今更そのような嫉妬に駆られるはずがない。ならば、なんなのだ、この焦りは。
そしてもう一つ、あの更衣室でのこと。自分自身に自信がないわけではなかったが、あの小娘のプロポーションに、間違いなく惹かれたことを、認めたくなかった。顔もスタイルも、勝ち目がないことを認めたくなかった。軍人として必要ないことだと言い聞かせる自分すら、認めることを許さなかった。
なるほど、ファイレクシアの軍服は、まるでエリシェ専用にあつらえたように似合っていた。金髪と黒髪の違いではない。他の誰よりが、有象無象の貴族が寄り集まったところで、エリシェの隣で人目を惹くことは出来ないだろう。
「クローディア、聞いているかね」
「はっ……申し訳ありません!」
ハミルトンに肩を叩かれ、ようやくクローディアは我に返った。反射的に直立して頭を下げる。ハミルトンはおかしそうに唇を曲げた。
「君が気を散らすなど珍しい。ゆっくり眠れなかったか?」
「いえ――問題ありません。何の話題でしたか」
「ん、いや、ただの世間話だがね。彼女――エリシェの言葉を聞いていたかね」
愉快そうに、ハミルトンの笑顔が深くなる。
「なにか、気になることでも?」
「『手として足として、ご自由にお使いください』、と言った。かつて、そう言って私の元に来た娘がいたことを思い出してね」
「そ、それは」
クローディアは、恥ずかしげに顔を赤らめる。それはかつて、彼女自身が放った言葉だ。恥ずかしさより、それをハミルトンが覚えていたことが、頬を染める原因であることに、彼女自身は気付いていなかったが。
「彼女の能力は未知数だが――君と言う例もある。意外とそちらでも拾いものかもしれないな」
楽しそうに言ったハミルトンだが、その後ろのクローディアは、エリシェと並べられることに、本人でも理由のわからない憤りを感じていた。