独房の中で
ようやく名前付きのわき役が出てきたり。
アニスが目を覚ました時、彼は見覚えのない部屋の中で、見覚えのないベッドに寝かされていた。揺らぎ、闇の中へ戻ろうとする意識を必死で立て直し、彼は現状を認識すべくあたりを見回した。
白いシーツの下、彼は下着姿で寝かされていた――未だにあのパイロットスーツを着用したままの、傷一つない白く輝く少女の裸体がそこにあった。慌てて見回せば、アニスの着ていた軍服は、部屋の隅のハンガーに丁寧に掛けられている。
「ここは、どこだ」
出した声は、ひどく掠れていた。疲労困憊の果てに無理やり眠った時のような脱力感と疲労が全身にのしかかっている。立ち上がろうとしたアニスはたたらを踏み、寄り掛かるようにベッドに腰掛ける。
自分がどこに居るのか、心当たりはさっぱりなかった。気を失う直前のことは覚えている。
しかし、その記憶と今現在の状況が結びつかない。装飾のない、コンクリートがむき出しの寒々しい部屋。小さな電燈だけで照らされた部屋は、それでも光が行き届いている。調度品と呼べるものは簡素なベッドと便器くらいだ。
アニスの記憶と知識の中で、こういった部屋に一番近いのは、独房だった。そしてそこから導き出される可能性に、アニスは顔を曇らせる。
自分はファイレクシア軍に捕まったのではないだろうか。彼らが今のアニスを見てなにを思ったのかは分からないが、もしもアニスの素性を知られれば、タダでは済まないだろう。
そう思うと、彼の大隊のその後も気になるところだ。どれだけの戦力を回収できたのか。副官は援軍と合流できただろうか。あの場所を抜かれれば、本隊の脇腹を突かれる形になってしまうのだ。
考えても、今はそれを知るすべがない。打ちっぱなしのコンクリートは冷たく、裸足の裏から寒気が伝わってくる。よく見るとベッドのわきに、きちんと畳まれた靴下と靴が置いてある。軍服を身にまとうと、暖はとれたが、別の心配が湧きあがってくる。
そもそも、なぜアニスは裸で寝かされていたのだろう?
慌ててベルトを緩めスカートのホックをはずすが、薄く茂った少女の割れ目は外見的に何の変化もなかった。そもそも、性行為を行う機能は付いていないとあの技術少佐は言っていたことを思い出し、アニスは安堵の息をつき――そしてまた蒼白になって臀部に手を当てた。
恐る恐る触ってみたり、腰を動かしてみるが、どうやら変化はないようだった。戦場で捕虜になった女兵士の悲惨な末路話などいくらでも聞き及んでいるが、殺されるならまだしも、自分がそうなる覚悟など流石のアニスにもなかった。
疲労もあり、力を抜いてベッドに座りこむ。無機質な鉄のドアの先は、こちらからでは窺えない。だが、その先に居るのが味方だというのは、少々楽観的な考えだろうか。
だが、気を失った彼を回収したのが友軍であっても、彼がアニス・コス中佐であるという証拠はないのだ。技術少佐が彼のことを伝えていたとしても、こんなスーツのことは信じない、信じても半信半疑だろうし、『保護しろ』という命令だけが出されている可能性もある。それならば、ファイレクシア軍の軍服を纏っていた彼が捕虜として拘束されるのも仕方がないし、その割に丁寧な扱いをされているのにも説明がつく。
もしかしたら、という希望が見えて僅かに表情を明るくしたアニスの耳に、硬質なノックの音が響く。
返答する間もなく、重そうな鉄のドアが開かれた。
「お目覚めかな。気分はいかが?」
長身の優男だった。薄明かりの下でも輝くブロンドは今のアニスと似た色だったが、その下の顔には見覚えがなかった。
だが、さらにその下、男の纏う軍服は、嫌というほど知っている――ファイレクシア軍のそれだった。
無言で睨みつけるアニスに対し、男は無害を主張するように両手を広げる。
「私はファイレクシア軍、西方第三機甲連隊所属のハミルトン・ウィンドグレイス子爵という」
かつて市民革命によって大陸のほとんどからいわゆる『王家』や『貴族』といった制度が駆逐されてからも、ファイレクシアには慣習以上の制度としてそれが残っている。厳密に、貴族と平民、そして被支配地域民の格差が存在しているのだ。
だが、爵位こそ言ったものの、ハミルトンの自己紹介からはそれを匂わせるような意図は感じられなかった。おそらく、ファイレクシアでは当然の挨拶なのだろう。
「我々の名誉として断言しておくが、君の体になにかをしたという事実はない。一応、外傷がないかだけは医師が確認したがね。君は戦場で気絶しているところを我々に保護されたのだよ」
医師の診断を受けてなお、正体がばれていないとするならば、このスーツの技術は異常を通り越している――そんなことを思いながらも、相手が勝手に情報を伝えてくれるなら、わざわざ口を開くつもりはなかった。アニスが無言を通すと、ハミルトンはそれを不審によるものだと思ったようだ。さらに言葉をつづけていく。
「我々は目下、君に対して害意はない。あるのならば既に行動に移している。――この部屋は、これでも一応、捕虜となった将校用の独房なのだ。多少不便なのは勘弁していただきたい。――まだ、私のことが信じられないかね? それとも気絶した時の衝撃で声が出ないのか。ならば、医師を呼ばせるが」
「あ――いや、お心遣いだけは感謝するが、結構」
これ以上無言を通しても、相手の心証を悪くするだけだと判断し、アニスは口を開いた。やはり声はかすれている。
ハミルトンは虚空に声を放った。
「『彼女』に水を――いや、冷えるし、紅茶の方がいいな。紅茶の用意を」
ドアの外に聞かせるような声ではない。おそらく、どこかに監視カメラやマイクがあるのだろう。
「一息ついたところで、色々と聞かせてもらうつもりだが、まあ、不安に駆られる必要はない。我々の知りたいことを聞かせてもらえば十分だ」
ハルミトンは壁に背を付けて、目を閉じる。アニスは無言を返す。沈黙が舞い降りる。
アニスは思考を巡らせる。ハミルトンの言葉や態度が虚偽のモノならば、たいそうな演技力だ。彼の言動からは、少なくともアニスに対する敵意は感じられなかった。
ならば、正体はまだ露見していない。ハミルトンがアニスをどうしたいのかは見当がつかないが、一応、身の危険はないだろう。
問題は、アニスが、アニス・コス中佐としてふるまうか、それとも無関係な少女としてふるまうか――というところだった。
軍人として正体を明かせば――ロクな事にはならないだろう。信じられなければ狂言として扱われるだけだし、信じられたら捕虜としてあまり面白い扱いにはならない。
無関係な少女として、たとえば保護を求めれば――やはり、問題がある。彼がファイレクシアの軍服を着て戦場に居たことの説明がつかない。いっそのこと、捕虜になっていたが脱走したことにすれば――軍籍を照合されれば嘘だと分かってしまう。
顔を俯けて頭を回転させるアニスをの前で、ハミルトンは静かに立ったままでいた。
静寂を破ったのはドアのノックされる音。
「紅茶をお持ちいたしました」
「入りたまえ」
てっきり兵士がぞんざいにカップを置いていくものかと思ったアニスの予想に反して、白い布をかけた小さなカートの上にティーセットを並べて運んできたのは、クラシックなメイド服を纏った女性だった。高価そうな磁器のポットから、揃いのカップに湯気の立つ紅い液体が注がれる。カビと埃のにおいが浮いた独房には不似合いな紅茶の香りが漂い始める。驚くを通り越してあきれたことに、温かいスコーンまでカートには乗っていた。
無言で頭を下げ、背中を見せずに退出するメイド。アニスは一瞬、どこかのホテルの客室にでも移動したのかと勘違いした。
「飲みたまえ。毒など入っていない。茶葉は私の好みだが、癖はないので飲みやすいだろう」
論より証拠とハミルトンはカップの片方に口をつける。アニスの咥内に唾が浮き、白い指先でカップをからめ捕る。紅茶など余り飲んだことはないが、不味くはない。熱い紅茶をゆっくりと少しずつ嚥下していく。喉が鳴り、ふう、と吐息が漏れた。
「人心地ついたかね? スコーンも食べるといい。君が保護されてから、すでに八時間が経過している」
「はちじかん――」
思いのほか、時間が経っていたことにアニスは目を丸くした。戦局は、司令部はどうなっているのだろうか。しかし、無害な少女を騙るのであれば、それを素直に尋ねるわけにもいかない。
「まったく、もう夜中だ。疲れも取れていないだろうし、手短に済ませよう。君のことを聞かせてくれ。まずは――そうだな、まだ名前すら聞いていない」
「私は――」
アニスは言葉を切る。ここが分水嶺だ。素直に名乗るか、偽名を使うか。
捕虜となれば、味方との合流は不可能だ。それならばいっそのこと。
「エリシェ。……エリシェ・コス」
とっさに浮かんだのは、あの機体の名前だった。アニスにとってはそれだけのことだったが、ハミルトンは動揺したように眼を見開いた。
「エリシェ、というのか、君は」
「ああ――いや、はい」
身分を偽るのであれば、話し方も是正する必要があると気付き、言いなおすアニス。ハミルトンは気を静めるようにゆっくりと紅茶を啜り、手を振った。
「別に、言葉を改める必要はない。しかし、エリシェ――そうか、エリシェか」
なんども名前を言い返すハミルトンに、アニスは興味を持った。反応されるなら、コスという名字の方だと思ったからだ。前線の一指揮官の名前が知られているとは思わないが、適当に口に出した名前よりは気を引くだろうに。
「私の名前に――なにか?」
「……いいや、こちらの話だ。では、君はなぜあんなところに居たのかね? それも、我が軍の制服を身にまとって」
首を振り、話を変えられる。アニスも、それ以上追及するつもりはなかった。それよりも、次の質問が問題だ。
背に腹は代えられない。アニスは、自分を悪者にすることに決めた。
「私は、軍の要人……たしか、司令官と呼ばれている人間に、飼われていました」
「飼われて?」
アニスが作った暗い表情に釣られ、ハミルトンも声を落とす。先ほど脳裏に浮かんだ、捕虜になった女性兵士の話を元にした創作だ。アニスは出来る限り憐れみを誘うような口調で続ける。
「あの男は、どこにでも私を連れて行って……体を触ったり、他の軍人へに、その、接待を強要されて」
「辛いなら、言わなくていい」
ハミルトンが言葉を切るが、あえてアニスは続ける。
「あの制服も、あの男に着せられたものでした。敵の捕虜のようでいい、と。でも、今日、前線の視察に私を連れて行ったあの男は、戦闘が始まるとともに奥へ逃げ込んでいって。私はその隙をついて逃げ出して、あそこまで来て、そうしたら戦闘が始まって……」
「我々に保護された、ということか」
飲み干したカップを置き、ハミルトンは息をついた。アニスは顔を伏せたままハミルトンの表情を窺ったが、こちらに向ける目に疑惑の色はないように思えた。
「話は分かった。辛い生活だっただろう。すぐにでも解放してあげたいが、色々と手続きが掛かる。今晩は、ここに泊ってくれ。寒いようならば毛布を届ける」
どうやら、この場はごまかしきれたようだ。うまく解放されたら、どうにかして前線にまぎれれば味方に合流出来る。
「エリシェ」
「あ――はい」
内心で安堵したアニスに、ハミルトンが声をかけた。一瞬困惑しつつ返事をする。偽名に慣れなければ、不審に思われかねないと心に刻みつつ、顔を上げた。
「なんでしょう」
「君はこの先、帰る場所があるのかね」
「それは――」
まさか、敵の陣地へ、と答えるわけにもいかない。だが、適当にファイレクシアの地名を出したところで襤褸が出かねない。併合された祖国の領土内ならば、とは思うが、そこに送り返されたところでどうしようもない。むしろ、なんとかしてこの前線にとどまる方法を考えるべきだろうか。
アニスの逡巡をどう受け取ったのか、ハミルトンは優しい声を出す。
「あの野蛮人の元に返すわけにもいかない。よければ、こちらで施設を紹介してもいいが」
「それは……」
「女性の年齢を測るはマナー違反だが、君はまだ二十歳を超えているようには見えない。学校で適切な教育を受けることも可能だ。もしくは、私個人で引き取ってもいい」
「引き取る?」
「別にどうしようということはない。私の実家はそれなりに大きな屋敷でね。働き手の一人や二人が増えたところでどうということもない」
それも却下だ。とにかく、前線に残る方法を見つけなければならなかった。軍の手伝いをさせてほしいとでも言うか――軍に飼われて逃げ出した人間がそれを言うのは不自然ではないか?
思考の渦に巻かれるアニスに、ハミルトンは背を向けてドアを開いた。
「ゆっくりと考えたまえ。カートは外に出してくれれば片付ける。鍵は開けておく」
そう言って、ハミルトンは扉の外へ消える。冷めた紅茶を握ったまま、アニスはベッドに腰掛けて思考していた。