背信の誓約
少々時間が飛んだり
「エリシェ・コス」
「はい」
クローディアに名を呼ばれ、エリシェ――アニスはハミルトン・ウィンドグレイスの前に一歩進み出る。
足元の長い毛で複雑な模様が描かれた絨毯は、皮靴を飲み込むように柔らかい。左右を囲む木製の調度品は、手入れが行き届いているのだろう、室内を隅々まで照らす豪奢な彫刻のされた照明を浴びて鈍く光っている。
アニスが『エリシェ』となってから、五日が過ぎていた。
独房で過ごした夜をのぞくと、彼はずっとクローディアの室内に軟禁されていたようなものだ。部屋を出たのは、毎日夕方頃に連れて行かれる入浴の機会くらいだ。
当然、脱走はおろか外の状況を把握することも難しく、アニスはとにかくクローディアに疑われないための少女の演技を続けることに腐心した。それはつまり起きている間ずっと演技を続けているのと同意義で、おかげで、と言うべきか、すでにまるで今の姿が本来の自分であると錯覚しかねないほどに、アニスは『エリシェ』になりきることが出来ていた。
そして今日。アニスはクローディアに連れられ、初めて司令部に、そしてハミルトンの執務室に足を踏み入れることを許されたのだった。
ハミルトンの脇で姿勢を伸ばすクローディアが、再び言葉を発した。
「汝、ハミルトン・ウィンドグレイスの騎士となることを誓う者か」
「はい」
作法はクローディアに習っている。その通りに、アニスは肩膝をつき、ハミルトンを見つめて両手を組み、掲げる。
一拍を置き、ハミルトンが進み出てアニスの小さな手を両手で包み込む。
挺身儀礼――自らを主君に捧げることを乞い、それを許すことを行為で示すもの、らしい。
「よろしい。クローディア・コープランドが見届け人となり、エリシェ・コスとハミルトン。ウィンドグレイスの契約をここに認める。……誓いの言葉を」
クローディアが口を閉じると、一瞬、室内に静謐が満ちた。
ハミルトンが、ゆっくりと言辞を紡いでいく。
「偉大なるファイレクシア皇帝陛下の名の元に、我、ハミルトン・ウィンドグレイスはエリシェ・コスを我が元へ参ずることを認める」
アニスは、言葉の余韻が宙に消えるのを待ち、応える。
「臣、エリシェ・コス。何時如何なる時もあなたの元に仕え、剣として盾としてこの身を捧ぐことを誓います。――ご下命を、マイロード」
「勇ましく、礼儀正しく、忠誠であれ」
「イエス・マイロード」
その宣誓は、アニスにとって、軍人にとっての敗北宣言でもあった。仇敵に屈することを自ら認めることを意味しているのだ。
だが、と顔を伏せたアニスは誰にでもなく心で言う。
服従したのは『エリシェ』であって、アニスではない。面従腹背を卑怯と罵られようと、恥知らずに身をやつそうと、アニスの内心は祖国にある。今はただ、耐える時だ。
表情を消し、アニスは立ち上がった。
ハミルトンが儀礼用の表情を崩し、柔和な笑みを浮かべる。
「よろしい。これで、君が騎士見習いとして私のもとで働くことが出来るようになった。お疲れ様」
「ありがとうございます、ウィンドグレイス卿」
アニスは未だに緊張感に包まれている。そうやって自分を、軍人としての矜持を縛らなければ、立って居られなくなりそうだった。
ハミルトンは机の引き出しから、紙に印刷された書類と小さな箱を取り出す。箱の中身が見えるように開き、アニスに差し出した。
「本日付で、君はファイレクシア皇軍准尉となる。同時に西方第三機甲連隊、第四独立機甲部隊に配属命令が出ている。これが辞令と階級章だ。第四独立機甲部隊について、どこまで知っているかね?」
「卿の直属部隊とはお聞きしましたが」
「基本的には、私の命令があるまで出撃はない。命令系統としては現状は連隊直属だね。現場の指揮は私から指揮権移譲という形で大隊指揮官、独立して作戦行動にあたる場合はクローディアが取ることになるだろう。まあ、そうそう君を戦場に出すことはないだろうがね」
ハミルトンからすればただの小娘を最前線に送り込むことなどありえないのだろう。理解してはいるが、それはアニスが脱走する機会がないと言われているようなものだ。警戒されているわけではないから準備や状況次第ではどうにかならないことはない――と思いたいが。
「日々の仕事や現在の戦況など、詳しいことはクローディアに訊いてくれ。では、よろしく頼むよ、エリシェ・コス准尉」
「はい。身命を賭して任務に励む所存です」
手のひらを前に向けて行うファイレクシア式の敬礼で、アニスは応えた。
嘘の名前、嘘の姿、嘘の言動。それを行うことの罪悪感は、一体どこに向けてなのか。それを思う前に、ハミルトンは頷き、言った。
「では、クローディアに司令部を案内してもらってくれ。まずは、普段使うようなところからでいい」
「はっ」
少女二人分の声が重なった。
「だいぶ緊張していたようだが、よく頑張ったな」
「お心遣い感謝します」
いまだに緊張感を残しているのか、笑い方を忘れたような硬い表情で答える少女に、クローディアは苦笑を洩らす。
「正式に、私が上官となったわけだが、公の場でなければそこまで硬くなる必要ない。緊張感を保つのは大事だが、気を張り続けていたら疲れるだろう」
「……はい」
と小さく息を吐き、エリシェは肩の力を抜いたようだ。襟に光る階級章が揺れ、わずかに目元が緩んだ。一気に力が抜けた反動か、雪中から顔を出したつぼみのような小さな笑顔が出来る。釣られて口元がほころびかけ、クローディアはそれを見られまいと顔をそらした。
「とりあえず、部隊のメンバーを紹介しよう。ついてこい」
じつのところ、エリシェの叙任について、クローディアは最後まで反対していた。この数日間、ほとんど寝食を共にしていただけに親近感は増している。だが、それでも完全に警戒を解いてはいなかった。段階的に監視を緩め様子を見るべきだと主張したのだが、ハミルトンは受け入れなかった。
どうせクローディアの監視下にあるのは変わらないのだから、次の段階は軍属としてある程度の自由を与えるものでいいだろう、という理由だ。ある程度の程度がすぎるとクローディアは思ったが、ハミルトンに、任せたと言われてしまえば、もはや是非はなかった。
部下が一人増えた形だが、現状では、頭数と言うよりは足手まといが増えただけだ。ただ、無能ではないと、クローディアは評価している。軟禁中の手慰みにと与えた教本はそのほとんどを理解してしまったようで、クローディアが訓練学校の見よう見まねで簡単な授業を行うと、たやすくそれについてきた。
特に戦術論に関しては、非凡なものを感じさせた。簡単な机上の練習問題はほとんど間を空けずに理路整然と模範解答を返してくるのだ。いっそのこと訓練学校、もしくはさらに上の大学校で専門の教育を受けさせることもハミルトンに提案したが、それも却下された。おそらく、エリシェを手元に残したいのだろう。
それほどまでにエリシェに固執する理由が、クローディアには解らなかった。ハミルトンの口ぶりから察するに、エリシェと言う少女はあるに越したことはない程度の駒の一つに過ぎないはずだ。それは、クローディアも同じなのだが。
自分に並ぶだけの、あるいはそれ以上のものを、この少女が持っているというのだろうか。ならば、それは何だ。忠誠心、フレームの操縦技術、戦場での指揮能力。それらを発揮する機会は与えられていない。
ならば――外見か。
そもそもが、失踪した皇族に似ているという理由だったはずだ。だが、本当にそれだけなのか。
クローディアは、ハミルトンを男性として見たことはないし、女性として見られようと思ったこともない。あくまでも主従の身の関係だと自分に言い聞かせている。だから、ハミルトンの嗜好などは分からない。しかし、エリシェのような可憐な少女を、それだけで手元に置きたくなる――そういう気持ちは、分からなくもない。クローディアとて、他の出会い方をしていれば、警戒心など抱くこともなく大きく心揺り動かされただろう。
ラヴィニアの言葉を借りずとも、容姿に不足を感じたことはない。だが、エリシェのそれと比べて勝るとは思えなかった。忠義や技術といった後天的なものではなく、外見という先天的な要素に依存するもので劣ることに屈辱を感じているのか? 否、軍人として騎士として殉ずることを決めたクローディア・コープランドにそんな思考はありえない。
ならばやはり、いまだにエリシェを信用しきれないことが、この胸のつかえの原因だろう。
くだらない悩みを吹き飛ばすように、クローディアは大きく息を吐く。
一人の軍服姿の男がすれ違った。階級は大佐。相手の方が圧倒的に上位なので、二人は足を止めて頭を下げ、通り過ぎるのを待とうとするが、頭上から声が降り注いだ。
「コープランド中尉。そちらは?」
「はっ。本日付で第四独立機甲部隊所属となりました、エリシェ・コス准尉です」
「准尉、か」
男は、地位の割に若い。まだ四十の声を聞いていないだろう。リチャード・ラッセル大佐。二人いる連隊副司令の一人である。彼は無関心な口調でつぶやき、小さく鼻を鳴らした。
「ウィンドグレイス卿が新たに直属の騎士を増やすということか?」
「いずれは、そうなるでしょう」
「感心しないな。騎士というのはそれだけの功績を挙げたものに与えられる名誉のはずだ。それを卿は、まるで階級の前払いではないかね」
「要は、それだけの能力があれば良いのでしょう」
「卿の慧眼を疑うわけではない。私とて、卿が拾い上げた君の能力は評価している。だが、彼は少々遊びが過ぎるところがある。口さがない者に直属部隊が何と呼ばれているか、君も知っているだろう」
「存じております」
「軍人が政治屋の真似ごとをすべきではないと、私は考えている。卿はそうではないようだがな。君はどう考えている?」
「私は一士官にすぎません。ゆえに、卿の仰せのままに動くまでです」
「軍人として、それは正しい。上が間違いさえしなければな。……小言で時間を取らせたな、行っていい」
「はい」
ラッセルは歩き出し、二人は敬礼でそれを見送った。磨かれた廊下から足音が消えるまで直立していた後、敬礼を解いたエリシェが何かを言いたそうな目でこちらを見る。
クローディアは、自らもラッセルとは逆の方向に歩きだしながら言った。
「副指令のラッセル卿だ。メルカディア伯爵で階級は大佐。政治家的な側面の目立つ貴族の中で、実直な軍人として知られる人物だ」
「あの、ラッセル卿が仰っていた……」
エリシェが問いたいのはラッセルの素性ではないことなど、クローディアも分かっている。
「くだらない妄言だ。ラッセル卿ほどの方の耳にまで入るとは、それなりに流行りらしいがな。第四独立機甲部隊が何と呼ばれているかだろう?」
「はい。あまり愉快なものでは無いとは思いますが」
「『牝馬部隊』だ」
「それは――」
エリシェは、その意味をすぐに察したのだろう。絶句に対し、自嘲混じりに笑いながらクローディアは続ける。
「キャロルやラヴィといった名門の令嬢と、能力重視で起用した平民以下の混合部隊だからな。私も、なるほどとは思ったが。所謂サラブレッドというのはそうやって作るものかと」
「目に余る侮辱です。ウィンドグレイス卿は何も仰られないのですか?」
「面と向かって言える者がいたら、上層部に掛け合って昇進させてやると笑ってはいた。他人から、それも陰口をたたくしか能のない輩から何を言われようが、気にするなということだな」
クローディアはその程度の侮辱は受け流せるし、どこで耳ににしたのか知っていたキャロルとラヴィニアもまるで相手にする気配はなかった。
それに、ハミルトンも『そういうつもり』で集めたのではないにしろ、自らの影響力を強めるために部隊を編成したのは間違いない。ラッセルの言う政治屋の真似ごととはそれについてだろう。
「侮辱に慣れろとは言わん。だが、取り合っていても限りがない」
「それは、分かりますが」
「正面から言ってくるものがいないということは、暗に認められていると思え。大切なのは自らがどう思うかだ」
「……そうですね」
どこか感慨深そうに、エリシェが応える。




