8 今日の宿
「あ、そういえば、お茶お出ししていませんでしたね。入れてきます」
マイラが笑顔を残して、リビングから出て行く。
その後姿を見送っていると、裾が軽く引っ張られる。
下に視線を落として見れば、ユノが右手の腕輪を興味深げに見つめていた。ユノの雪のように白い小さな手が、無機質な腕輪に触れる。
「……これ、なに?」
「腕輪だよ」
「……変な腕輪」
子供にまで変だと言われるのか。
「ねぇ、ユノちゃんは精霊って知ってる?」
という俺の質問に対して、ユノはこくりと頷く。
「……知ってる。でも見たことない」
「そっか。誰か見たことある人とかいる?」
「……どうしてそんなこと聞くの?」
こちらの質問を不思議に思ったのか、ユノが目を丸くする。
俺は笑顔で答える。
「いや、なんでもないよ」
特に意味はない。腕輪に興味があるようなので、聞いてみただけだ。
「……ふーん」
ユノはとりあえず納得したようだが、視線を腕輪から離さない。何か気になるようだ。本能的に何かを感じ取っているのかもしれないな。
ユノは興味津々な視線を向けたまま、隣の椅子にちょこんと座った。
隣に座る少女を観察する。
少ない問答だったが、やけに落ち着いた大人しい性格や声。子供にしては一つ一つの行動がやけに洗礼されていて綺麗に見える。痩せ細った体で、顔立ちは大人っぽい。
着ている服は、だぼっとしたシャツと短パン。この服に使われている布は……あまり見ない生地だな。
観察を終えた後、俺は隣にいる小さな少女のことをもう少し知りたくなった。
「ユノちゃんは、何歳?」
「……八歳になった」
八歳か。それにしては小さいな。栄養不足なのか。
「この家に住んでるのは、ユノちゃんとハイラさんの二人だけ?」
「……そう。みんな死んだから」
そう言って頷くユノの表情が少し曇ったように見えた。注意深く見ていないとわからないほど小さな変化だったが、悲しんでいたと思う。
しまった。嫌なことを思い出させてしまったかな。
重苦しくなってしまった空気を変えるために話題を探して部屋の中を見回していると、壁に貼られた紙に目を奪われる。
地図だ。
席を立ち、間近で見てみると、横長の島がどんっと地図の中心に描かれている。地図に記されている言語は日本語で、上部にはバレンディ王国の文字。
これがこの国の地図だとするならば、この村がどこかにあるはずだ。かなりの数の村が点在しているが、名前がわからない。
後ろを振り返るとユノが大きな瞳で俺を凝視していた。
「あのさ、ユノちゃん。この村の名前って、わかるかな?」
「……ミエイ」
すぐに答えが返ってきた。
「ミエイ?」
俺は地図の中からミエイという文字を探す。
えーっと、ミエイは……ああ、ここか。
島の中央から少し東。『ミエイ』という文字を見つける。山に囲まれた場所なのだろう。この村から東には山が広がっていて、その山奥にも村がある。名前は『カルフェ』。地図では大きな村なのか、小さな村なのかもわからない。
島の西端に目を移すと、『王都バレンディ』という文字の下に城らしき建物が描かれている。
王都というだけあって、かなり大きな町なんだろう。日本でいう東京みたいなものかな。海に近いところも東京に似ている。
うーん。これからどこかへ行くとすれば、やっぱり王都だよな。都会にいけば色々情報が手に入りそうだし。
顎に手を当てて考え込んでいると、お茶を片手に持ったハイラが戻ってきた。
「どうぞ」
テーブルの上に置かれたコップ。
この嗅ぎ慣れた香りは……紅茶だ。
「ありがとうございます。助かります」
喉が渇いていた俺は、お礼を言ってすぐにコップに口をつけた。爽やかな香りが鼻から抜ける。
「レオさんは、今日はどうするつもりですか?」
俺の向かい側に座ったハイラが頃合いを見計らって問いかけてきた。
こちらの情報を知りたいのだろう。今の俺は旅人ということになっている。
旅人が町にたどり着いて最初に考えることは、その日の宿だ。
「この村に宿とか……ありませんよね」
一応念の為に聞いてみる。
今日の寝床が心配なのだ。どんな化物が出てくるかわからないから、野宿はしたくない。できればこの家に泊まらせてもらえるのがベストなんだが……。
「昨日まではあったのですが……」
ああ、そうだよな。ミナーヴァに壊されてるもんな。
申し訳なさそうに顔を伏せるハイラに罪悪感を覚えた俺は慌てて口を開く。
「いや、そんな顔しないで……あー、えっと……近くに泊まれそうな場所とか、ありませんか?」
「……ここからだと、東にあるカルフェが一番近いですが、歩いて行くとなると一日はかかります」
さっき地図で見たカルフェだな。地図で見ればすぐ近くなのに、一日もかかるのか。ならば夜を越さなければならない。
異世界の夜は俺にとって未知。
「じゃあ、王都へはどれくらいかかりますかね?」
「そうですね。一週間ほどです」
うむ、遠い。絶対に無理。
ここに宿がないとなると……やはり、この家に泊めてもらうのがいいんだろうけど……いやいや、それは流石に厚かましい話だ。ここには子供もいるわけだし、俺みたいな得体の知れない人間を止めるのはハイラにとっても不安なはず。長居はできない。
俺は首を振って甘い考えを払拭する。
カルフェに行くしかないか。
幸いなことに、俺にはベイルがいる。こいつの知恵を借りればなんとかなるかもしれない。
思考を巡らせながら、俺はコップの中の紅茶を飲み干した。
「わかりました。とりあえず、その東にあるオルフェに行ってみます。紅茶、ありがとうございました」
そう言って席を立つ。ハイラは終始もどかしい表情をしていた。こちらを気遣ってくれているのだろう。
こんな優しい人を困らせるわけにはいかないな、と改めて思う。
頭を下げて部屋を出ようと席を立った俺の服の裾が、何かに引っかかった。
不思議に思い、足元に視線をやると、ユノが俺の裾をつかんでいた。
「……どこかいくの?」
小さな可愛い瞳が何かを訴えている。
行ってほしくない、とでも言いたいのか。
「うん。もう行くよ。じゃあね」
ユノの頭を優しく撫でてやる。その間、ユノは表情を変えず、ずっとこちらを見上げていた。
「あの!」
突然ハイラが声を上げ、勢いよく席を立った。その声に驚く俺を尻目に、マイラは言葉を続ける。
「レオさん、今夜は、うちに泊まっていきませんか? もちろん。レオさんがよければですが……今日一日考えて、明日どうにかするというのはどうでしょう」
それは俺にとって、うますぎる提案だった。
いったい、どういう気持ちの変化なのか。
「まあ、俺は助かるけど……いいんですか?」
「ええ。大丈夫ですよ。書斎が空いてますから。それに、私たち二人だと心細いので、男の人がいてくれると助かります」
ニコリと微笑むハイラを見て、俺はほっと胸を撫で下ろす。よかった。どうやら野宿はしなくて済むようだ。
ふとユノに視線をやると、まだ俺の服の裾を掴んでいた。表情は変わらず無表情だが、不思議と俺には喜んでいるように見えた。
安堵する俺に、ハイラが恐る恐るといった感じで口を開く。
「あの、早速で申し訳ないんですが、手伝ってほしいことがあるんですけど……」
「何でも言ってください」
ここに泊まらせてもらえるのなら、どんなことだってやってみせるさ。