3 漆黒の生物
小鳥のさえずりと川のせせらぎに耳をうたれて、俺は意識を覚醒させた。
ゆっくりとまぶたを持ち上げる。まぶたの隙間から差し込んでくる光がまぶしい。
ようやく目が光に慣れる。まず目に飛び込んできたのは、生い茂った木々の緑と、葉の隙間から漏れてくる幻想的な光。
首を捻って横を見ると、1メートルくらいありそうな大きな赤いキノコが木の根元から顔を出していた。
少し体を動かしてみる。特に異常はない。
長い間、夢を見ていたような感覚。
頭がふわふわしていて、現実じゃないみたいだ。
さっきまで変な夢を見ていた気がする。頭のおかしな神様と名乗る男に拉致される。そんなくだらない夢だ。
思い出しながら頭を抱えていると、右腕に強烈な異物感が。
視線を下ろした俺は腕についている腕輪を見て、さらに頭を抱えることになった。
「あー……」
無駄に重い。邪魔。かっこ悪い。三拍子揃った腕輪ががっちりと俺の腕をホールドしていた。
夢じゃなかったのか。
必死に右手から腕輪を外そうとするが、なぜか俺の手首と同じジャストサイズに調節されているらしく、上にも下にも動かない。
まあいい。邪魔だけど。かなり邪魔だけど、外れないのは仕方ない。腕輪については後で考えよう。
それよりも、今はこの場所がどこなのかをはっきりさせないと。
ぐるりと一周回ってみるが、植物ばっかりで、道らしきものは見当たらない。どうしたものかと思考を巡らせていると、微かに川の音が耳に入ってきた。
かなり小さな水のせせらぎの音だ。
とりあえず、音のほうへと足を向ける。
歩き始めてすぐ、俺はこの森の植物に違和感を覚えた。
さっき見かけた赤くて大きいキノコもそうだが、あんな植物が日本のどこに生えているのだろうか。
今まで二十年ほど生きてきた俺だが、あんなものは見たことが無い。
となると、ここはあの自称神様が言ってた通りの異世界ということか?
いや、違う。そんなはずはない。落ち着け、俺。
すぐに自分の思考結果を消し去る。
あの男の言葉に惑わされている場合じゃない。
自分の着ている服がさっきまでと変わっていない。そういえば携帯と財布がなくなっているな。
あいつが奪っていったのかもしれない。
ああ、くそっ。最悪だ。あれには見られたくないデータが入っていたのに。
心の中で自称神様と名乗る男に文句を垂れる。
川の音が大きくなり、やがて草をかき分けた先に川が見えてきた。
川幅2メートルほどの小さな水流だが、見た感じ水は綺麗そうだ。飲んでも大丈夫だろうか。そんなことを思ったがこの水が安全かどうかはわからない。とりあえず飲むのはやめておく。
一刻も早く人間に出会いたいな。川を沿って下流のほうへ行ってみるか。
足を踏み出そうとしたとき。
カサッ。背後で何かが動くような音がした。
俺は反射的に音が聞こえたほうへ視線をやる。
注意深く辺りを伺う。
ここは森の中だ。何がいるかわからない。小動物ならいいが、熊とかだと洒落にならない。
俺は息を潜める。耳に入ってくる音に集中して、耳を澄ませる。
木々のざわめき。
川の音。
鳥の鳴き声。
他には何も聞こえない。
杞憂だったか……。少し神経質になりすぎていただけかもしれない。
だが、そうなるのも当然だろう。見知らぬ場所に突然放り出されたら、誰だって怖いさ。
そう思ってため息をついたとき、俺の目があるものを捉えた。
俺のいる場所から十メートルほど先にある木々の隙間から、こちらを伺っている大きな瞳。人間の瞳ではない。眼球は銀色に鈍く光る。
〔それ〕の姿が見えた瞬間、俺の背筋にゾクリと悪寒が走った。額からどっと噴き出してきたのは、冷や汗。俺は〔それ〕の異様な容姿に目を奪われ、足が動かなくなった。
体長は1メートルくらいか。人間の子ども、もしくはチンパンジーのような背格好だが、体は墨を頭から被ったように黒く、手と足が異常なほど長い。口は人間の二倍以上もあって、鼻はえぐれていた。
――化け物。そんな表現では足りないほど、醜悪だ。
お互いに見つめ合い、五秒ほどが経過した頃だった。化け物が静かに動き出す。両足をぐっと縮ませかと思えば、バネのように地面を蹴り、弾丸のような速さでこちらに向かってきた。
「嘘だろ……」
逃げろ、俺の本能がそう告げていた。踵を返して逃げ出す。
足元が悪くて足がもつれる。転びそうになりながら、必死で走った。
走りながら肩越しに背後を振り返る。化物の姿は見えない。逃げ切ったのか。
いや、待て。安心はできない。
足を止めずに無我夢中で走った。
五分もしないうちに息が切れてくる。
大きな木の根っこの陰に、人が一人分くらい隠れられそうなスペースを発見。体を滑り込ませて息を殺し、耳で周囲の音を拾いながら辺りを確認する。
特に音は聞こえない。
どうやら巻いたようだった。
いったい、さっきの化物はなんだったんだ。
まさか、本当に異世界だとでも言うのか。
いつのまにか着ている服の袖がほつれていた。枝にでもひっかけたのだろう、肩の部分は布がめくれてしまっている。お気に入りの靴も泥まみれだ。
ああ、どうなってるんだ。
謎の生物に追いかけられて、そのうえ服をボロボロにされるなんて。
ため息を吐く。
右手の腕輪が重い。
腕輪……そうか。そういえば、これがあれば元の世界に戻れるとか言ってたよな。
なんて言えばいいんだっけ……えっと、そうだ。召喚だ。
自称神様とのやり取りを思い出しながら、俺は腕輪に向かって告げる。
「召喚!」
すると腕輪が淡い黄色の光を纏い、発光し始めた。どこか優しさすら感じる光の中から小さな石が飛び出し、ころりと地面に落ちる。
やがて光はゆっくりと消えた。
辺りが静寂に包まれる。
「……え?」
特に変化は無い。
腕輪から飛び出してきた手のひらサイズの石を手に取る。卵のような形で色は黒っぽい、表面がつるつるして触り心地はいいが、変わったところも無い。
もしや、と思い石に向かって色々な言葉を言ってみる。
召喚、帰還、送還、開門、転移、瞬間移動。考えうる限りの言葉を試したが、何も起こらなかった。
「ふざけんなよ……」
どうやら、あの男に騙されたようだ。