1 白い部屋
大学生の俺――三嶋玲央にとってのキャンパスライフは、ぬるま湯に浸かっているような空虚で無駄な毎日で、まさに退屈そのものだった。
大学に入ってすでに一年が経ったが、これといった変化もない。
毎日が淡々と過ぎていく。
つまらない授業を受け、昼になったら学食へ向かう。洋食よりも和食が好きな俺は生姜焼き定食の食券を手にカウンターへ。
昼時ということもあって食堂は騒然としている。
俺は窓際の席に着いた。
黙々と食事を食べ進める。
いつもの日常。
ふと、唐突に頭痛が襲ってきた。
頭を抱える。
影が落ちる。
視界に、脳裏に、黒い影が落ちる。
俺の意識は、だんだんとブラックアウトしていった。
☆ ☆ ☆
何度も言うように、俺の大学生活は怠惰な日々であった。
しかし、今のこの状況は、そんな退屈な日々とは打って変わって、異常に満ちている。
俺は周囲を見回す。
今現在、俺がいる場所は正四角形の箱のような部屋。白いペンキをぶっかけたような純白色の壁には装飾も無く、家具も無い。
この部屋に唯一存在しているのは、今俺が座っている白い椅子と、俺の目の前で同じ白い椅子に座っている笑顔の男。
部屋を見渡した後、男に目を移す。
細身のジーパンに黒のジャケット。今の季節にはまさにピッタリな服装で、別に変わっているところもない。顔は……悔しいが、かなりのイケメン。容姿が平均レベルの俺にとっては羨ましい限りだ。
ニコニコと笑みを浮かべ、俺の顔をまじまじと見つめるのを止めてくれれば、もっと印象はよかったんだけどな。
まあ、こんな状況なわけだが、ずっと不思議に思っていることがある。
ここがどこなのか。一切話kらない。
ついさっき目覚めたような感覚だが、それはありえない。だって、俺はさっきまで食堂で昼ご飯を食べていた。この部屋に入った記憶も無い。
もしかすると、さっき食べた生姜焼き定食に睡眠薬でも入っていたのか?
俺はしばらく思考を巡らせた後、男に向かって問いかける。
「ここは……どこだ?」
見覚えのない場所に、見覚えのない男。この質問はきっと正しいだろう。
すると男は軽く首を縦に振り、姿勢を正す。
「ああ、まったく……その言葉を待ちくたびれたよ」
笑顔を浮かべる。そしてどこか芝居がかった口調で話を続ける。
「見ればわかるだろ、部屋だ。ちなみに僕の部屋ね。いいセンスだと思わない? ほら、あそこの白い壁とか、どう? まあ、どれも同じに見えるんだけどね。あははは……」
こいつは何を言ってるんだ。
改めて周囲を確認するが、何もない。ただただ真っ白だ。真っ白すぎて、平衡感覚がおかしくなりそうなほどに。
「……いいセンス?」
ただの白い壁だぜ。
「シンプルが好きなんだ。好きすぎて、ここにはもう……かれこれ50年くらいは住んでるかな」
にへら、と笑う。頭のおかしなやつみたいに。
五十年? どう見ても五十歳を越えているようには見えない。せいぜい三十歳ってところだ。
「あー……こっちは真面目に質問してるんだけど。っていうか、あんた誰?」
「神様だ」
男は平然と答えた。
「神、様?」
神などというものを信じるつもりはないし、どう見たって人間じゃないか。
話していても埒が明かないと判断した俺は、椅子から立ち上がろうと足に力を籠める。
しかし、なぜか体は椅子に張り付き、足は床にぴたりと張り付いて動かない。子供が母親に甘えるかのごとく、バタバタと両手を動かすことしかできなかった。
「生きがいいね。でも残念。キミは動けない」
自分を神様と名乗る男は、馬鹿にしたように笑った。
立ち上がろうと何度も力籠めてみるが、どれだけやっても足は床にピタリと張り付いたまま。
「どういうことだ? 俺に何をした?」
薬でも盛りやがったのか。
俺の冷たい視線を感じ取ったのか、男は困ったように眉を顰めて納得したように頷いた。
「なるほど。これ以上質問を繰り返しても無駄だな。キミはいささか現実主義が過ぎるな。もう少し遊んでいたいが、早速本題に入らせてもらおう」
男は椅子から立ち上がり、台本を読み上げるように淡々と言葉を続ける。
「全ては運命だ。偶然ではなく、運命だ。三嶋玲央、キミにはやらなければならないことがあるだろ? 言ってる意味わかるか?」
運命?
「いや、まったくわからん」
俺は肩をすくめてみせる。
「そうか。それは残念だ……わかった、簡潔に言ってやる。キミには今から、異世界に行ってもらう。そこでは心躍る冒険が待っている」
最高だろ、と男は微笑む。
「ふーん……つまり、俺は今からその異世界ってところに行くのか?」
そして、心躍る冒険をする。あほか。
「その通り! さすが、大学に通っているだけのことはあるな。ご褒美をあげよう」
男は嬉しそうにこちらへ近づいてくると、俺の右腕をに何やら銀色の物体を取り付け始めた。
「おい、やめろ。何してる」
俺が慌てて止めようとすると、男はムッとした表情で言う。
「うるさいな、キミは。ちょっと動かないでもらえるかな」
いったい何なんだ、こいつは。
大人しく待っていると、男は満足したように俺の腕を解放した。
「……これがご褒美か?」
俺の右手にはキラキラと輝く銀色の腕輪。飾りは一切無し。指輪をそのまま大きくした感じ。『鉄の塊』と称してもいいだろう。
無駄に重い。邪魔。かっこ悪い。三拍子揃っている。
やめてほしいんだが。
「僕、シンプルが好きなんだ」
「それはさっきも聞いた」
この腕輪はシンプルにも程がある。
「じゃあ、早速行ってくれるかな?」
「行くってどこに?」
「さっきも言ったでしょ。異世界だよ」
「異世界とか、ありえないだろ。ゲームのやりすぎか?」
「あはは、ナイスジョーク」
親指を突き立ててくる。
うぜぇ。
どうやら本気で異世界があると信じているようだ。
まあ、いい。今はこの男の妄想に乗っかってやろうじゃないか。
「ちなみに聞いておきたいんだけど、異世界に行ったとして、途中で戻ってくることはできるのか? 現実世界に戻る方法がないなら、俺は絶対にいかないぞ」
「ああ、それなら心配はいらない。帰りたいなら、その腕輪に『召喚!』っていうんだ」
「召喚? それは恥ずかしいな」
誰かに聞かれていたらどうするつもりだ。
もしも街中で腕輪に向かって『召喚!』とか叫んでるやつを見かけたら、頭の痛い人だと思われること間違いなしだ。
「よし。だったら一生帰ってこなくてもいい。それじゃあ、また会おう。三嶋玲央君」
自称神様がパチンッと指を鳴らした瞬間、俺の意識は途絶えた。