忘れられない人【美緒の同僚視点】(おまけ付き)
久々の番外編です。
美緒と慧の結婚が決まった頃のお話です。
今まで登場しなかった美緒の元同僚(男性)の視点です。
末尾におまけとして美緒視点のお話もあります。
どうぞよろしくお願いします。
僕には忘れられない女性がいる。
5年前、僕の職場に新卒として入って来た彼女。真面目で一生懸命で、目立つような美人じゃないけれど、いつも真っ直ぐに伸ばした背中と、こちらの頬まで緩む様な暖かい笑顔が印象的な女性だった。
僕より2つ下のその彼女への気持ちに気付いたのは、半年も過ぎたころだっただろうか。そんな僕の恋心は仲の良い同僚にバレ、背中を押されてやっと告白したのは、年が明けた2月の始め。
結果、みごと玉砕!
彼女には遠距離恋愛中の彼がいるそうだ。
それでも彼女の態度は変わる事無く、今までどおり同僚として接してくれた。そんな彼女だから、僕の彼女への気持ちはすぐには無くならないけれど、彼女が幸せならと自分に言い聞かせていたんだ。
しかし、僕の告白から1ヶ月半と少し経った3月の後半頃、彼女に不幸が訪れた。彼女の姉夫婦が交通事故で亡くなったらしい。それも、3歳の息子を残して。
彼女はすでに両親はなく、姉家族が唯一の家族と言う事で、喪主も彼女だった。残された息子は彼女が育てていくと聞いた。
葬儀や後片付けを済まして職場に復帰した彼女は、どこか痛々しくげっそりと痩せていた。それでも、仕事を今まで通り頑張っている姿を見る度、僕は何か彼女の力になれ無いだろうかといつも考えていたんだ。
慣れない子育てと仕事を頑張っている彼女には、付き合っている彼がいるのだからと何度も自分を諌めたけれど、僕ならすぐに結婚して彼女を支えるのにと、彼女の向こうにいる見えない彼に腹が立ったりもした。
それでも、彼女が甥の事で急な早退をする時など、できるだけ仕事の手伝いを申し出たりと、仕事面でフォローして行こうと考えていた。
それから彼女もだんだんと子育てしながらの生活になれていったのか、以前の様な笑顔が出るようになった頃(それまでの笑顔はどこか痛々しかったんだ)、彼女と仲の良い同僚から驚く話を聞かされた。
彼女の彼は年下でまだ大学生で、これからずっと子育てしていく自分の人生に巻き込んではいけないと、彼には姉夫婦が亡くなった事を言わず(丁度春休みで彼は実家へ帰っていて、彼女の姉夫婦が亡くなった事を知らなかったらしい)一方的に別れたらしい。
彼女の覚悟と決意は強いものらしく、甥を育てていく間、恋愛も結婚もしないと決めているらしい。
まだ若い彼女の切なくなるような決意に、胸が痛んだ。
僕は、そんな彼女の事情を分かった上で、彼女を助けて行きたいと強く思った。けれど、周りの友達からは止められたんだ。
やはり血の繋がらない子供がいる事は、いつかネックになるから止めろと。若いのにわざわざそんなリスクのある恋愛をしなくてもいいじゃないかと。
そんな風に言われると、やはり僕も不安になった。それに、彼女が好きな相手を諦めてまでした決意を覆すはず無いと諭され、納得せざるを得なかった。
それからも彼女にとって良き同僚であり、困っている時は力になろうと思い続けていた僕を、友人達は心配して合コンや職場の独身者達のイベントに強引に誘いだしてくれた。そして、やがて友人が紹介してくれた女性と付き合う事にしたんだ。
しかし、心の中に忘れられない人がいる状態(おまけにその人と毎日顔を合わせる状態)で、だんだんと新しい恋に向き合うのは難しくなって行った。無意識に比べている自分を自覚せざるを得なかった。
罪悪感から別れを告げた僕は、忘れられない彼女への想いが過去の事として整理できるまでは、新しい恋をするのはよそうと考えていた。
その後も相変わらず良き同僚とした立場でいながら、彼女の笑顔に癒され、少しでも彼女の助けができる事を喜びとする日々を過ごしていた。
けれどそんな日々は長く続かず、今から一年前、彼女はここから車で3時間ほどかかる実家へ転勤のため引っ越して行った。
彼女の去った後、彼女の仲の良かった同僚から訊いた話では、彼女が育てている甥が小学校へ入ると言う事で、実家へ帰る事を考えたらしい。
彼女のいない毎日は、どこか心にぽっかりと穴が開いたようで、どんなに彼女の存在が大きかったのかを改めて思い知らされた。
それでも今度こそ忘れなければいけないのだと、自分に言い聞かせていたんだ。
今まで結婚して県外にいた僕の姉家族が、こちらへの転勤を機に実家近くに家を建てた。それから頻繁にやって来るようになった姉家族には、長女と長男の二人の子供がいる。甥と姪の相手をするうちに、子供がとても可愛くなり、たとえ血が繋がらなくても家族になれば自分の子として可愛がれるんじゃないかと思い始めたんだ。
もう一度彼女に想いを伝え、家族になりたいと申し出ようと言う考えがじわじわと脳裏に広がる。
彼女は転勤先でも一人で子供を抱えて頑張っているのだろうかと思うと、切なくなる。
20代の女性が恋を捨て、結婚も諦めるって、どんな心境なんだろう。
それでも誰にも頼らず一人で頑張ろうとしている姿は彼女らしくて、納得してしまう部分もあった。
彼女の転勤から一年後、僕の願いを叶えるように彼女と同じ県庁への転勤を命じられた。彼女とは部署は違うが、同じ建物の中だ。これは神様が背中を押してくれているのだと決意を新たに、送別会の席で友人達に宣言した。すると皆は、しつこく思い続けている事に呆れ、ストーカーの様だなと笑われ、しかし最後にそこまで好きなのなら頑張れとエールを送られた。
転勤前の3月最終日曜日、引っ越しを済ませた。あと数日は元の職場へ行かなくてはいけないが、そちらは実家から今まで通り通う。それよりも大学時代以来の一人暮らしにワクワクしている。けれどそのワクワクは彼女に再会できる事への期待だと思う。いよいよだ。
彼女はこの一年で変わっただろうか?
彼女の笑顔を脳裏に思い浮かべる。その笑顔がじわじわと胸を熱くする。
「ストーカーはないよな」
友人達に言われた言葉を思い出し、クスリと苦笑する。
そして僕が、新生活に足りない物を買うために、県庁所在地の市の郊外に新しくできたショッピングモールへと出かけたのは、もう陽も傾きかけた夕方だった。
新しくできたショッピングモールは、県内最大の規模で、全国展開しているスーパーや家電量販店、各種専門店に映画館まである。休日のせいか、人出も多い。
余りこう言う所へ買い物に来ないので、キョロキョロと並べられた商品を見ながら歩いて行く。ショッピングモールの中心部まで来ると、天井まで吹き抜けになったセンターコートに辿り着いた。そこはゆったりとスペースが取られ、中心部はイベントや催事用のスペースで、今も新しく出たハイブリッドのコンパクトカーの展示がされている。まわりに並べられたベンチには買い物に疲れた様な人や、誰かを待っている人などが座っていた。
あれっ? と思って、慌ててもう一度そちらに視線を向ける。まさか……。
見慣れたショートヘアーでは無い。でも、ベンチに座ってスマホを見ているのは、まぎれもなく忘れられない彼女だ。
これは、運命なのか。こんなに早く彼女と再会できるなんて、もう運命としか思えない。
「篠崎さん」
僕は真っ直ぐに彼女の前まで行くと、声をかけた。名前を呼ばれてこちらを見上げた彼女は、驚いた顔をして、慌てて立ち上がり、懐かしい笑顔を見せた。
「加納さん、お久しぶりです」
彼女はそう言うとペコリと頭を下げた。
「こちらこそ、お久しぶりです。一年ぶりですね。こんな所で会えるなんて、驚きました。買い物ですか?」
舞い上がりそうになる気持ちを押さえながら、僕は言葉を続ける。
「ええ、ここは初めて来たのですが、広いですね」
「僕も初めて来たんですよ。買いたい物を見つけるのが大変ですよね」
僕の言葉に彼女がフフッと笑う。そう言えば、彼女は疲れて座っていたのだろうか?
「篠崎さんは、お一人で買い物に?」
もしも一人なら、ちょっとコーヒーでも……。
「えっ? いえ……」
「あっ、お子さんも一緒ですか?」
「ええ、まあ……」
どこか歯切れの悪い彼女の返答に、内心首をかしげていると、「ママー」と呼びながら男の子が駆け寄って来た。
「ママ、あのね、このぬいぐるみ、僕が取ったんだよ」
その男の子は僕の存在に気付かないのか、ぬいぐるみを差し出しながら、一生懸命に話をする。彼女は「良かったね」と言葉を返した後、僕の方を見て「すいません」と小さく頭を下げた。
「あ、篠崎さん。僕この四月から、県庁へ転勤になるんですよ。また、よろしくお願いします」
彼女が話を終わらせようとしているのが分かったから、僕は慌てて言い募った。
「え? そうなんですか? それは、こちらこそよろしくお願いします」
彼女がパッと明るい笑顔になった。
うん、やっぱり癒しの笑顔だ。
その時、背後から男の声で「美緒」と呼ぶ声が聞こえ、目の前の彼女がそちらへ視線を向けると、少し困ったような表情になった。
僕もつられて振り返ると、長身のイケメンが立っていた。
「美緒、誰?」
そのイケメンは、彼女の名前を呼び捨てにしている。おまえこそ、誰だ?
「あ、あの、前の職場の同僚の加納さんです」
「加納です」
僕はイケメンに向き直って名前を告げると会釈した。
「守谷です。美緒がお世話になりました」
彼の方も名前を告げると頭を下げたけれど、どうしてお前にそんな事を言われなきゃならない。
「篠崎さん、こちらは?」
「あ、あの……」
僕の問いかけに彼女は言い淀む。
「私は彼女の婚約者です」
憮然とした彼の言葉に、僕は一瞬呆けた。
コンヤクシャ?
「えっ?! 篠崎さん、結婚しないと決意してたんじゃなかったんですか?」
婚約者と言う言葉の意味を理解した途端、思わず本音が飛び出た。
「ええっ、それは……もしかして、皆川さんから聞いたんですか?」
僕の言葉に驚いた彼女は、思い当ったように尋ね返してきた。
皆川さんと言うのは、元の同僚で彼女が一番仲の良かった先輩女性だ。僕の気持ちにも気付いていたから、教えてくれたのだけど。
「そうです。子供のために恋も結婚も諦めたって……」
「はい、そのつもりでした。でも、一年前に彼に再会して……あ、彼は前に話した遠距離で付き合っていた人で……」
彼女は少し照れながら、話してくれた。
一年前に再会……今彼女と再会できた事は運命だと思ったけれど、彼女の運命の方が一年も早く再会できていたなんて……。
「そうでしたか……」
僕は茫然としたまま、呟くように答えた。するとさっきまで憮然と様子を窺っていた婚約者だと言うイケメンが、僕の方を真っ直ぐに見ると口を開いた。
「今月末に彼女と籍を入れて、3人で家族になる予定です。彼女は今後も仕事を続けて行きますので、またお仕事でお世話になるかもしれません。その時はどうぞよろしくお願いします」
そう言って彼は丁寧に頭を下げた。
「あ、あ、こちらこそ、よろしくお願いします。あ、それから、おめでとうございます」
僕より若そうに見えるのに彼のしっかりした態度に怯みながら、どうにかお祝いを言う事ができた。
「ありがとうございます」
彼女が照れたようにふんわりと笑う。
ああ、その笑顔はもう他人のものなのだ。
僕の決意が遅すぎたのか、元々彼女と彼は切っても切れない運命だったのか……。
幸せそうに寄り添って去っていく三人の後姿を見ながら、僕は大きく息を吐き出すと、あまりに呆気ない恋の終わりになんだか笑いさえ出てきそうになった。
彼女が幸せなら、それでいいじゃないか。
自分に言い聞かせるようにそう思うと、僕は3人の後姿から視線を剥がし、彼らとは逆の方向へ向かって歩き出した。
【おまけ】(美緒視点)
昨日から今日にかけて本当にいろいろな事があり過ぎて、頭も気持ちもまだよく整理できない。
昨日、突然慧が我が家へやって来て、拓都にパパになりたいと言って、拓都も受け入れてくれて、そしてそのまま彼の実家へ。
あまりに性急過ぎて、よく頭が回らないまま彼の実家へ連れて行かれ、実家の皆さんも歓迎してくださって……本当に私で良かったのだろうか……一時は別れを告げた私なのに。
その上、彼が篠崎を名乗るなんて言ってくれるなんて……全ては拓都のために。彼のご両親もそれを許して下さるなんて……。
そして、今日は慧の大学時代の恩師宅へ、早速に結婚の報告に行った。恩師への報告と言うよりも、恩師の奥様が拓都が通っている小学校のPTA会長をしているから、保護者に人気の守谷先生の結婚についての噂対策の協力をお願いしに行ったようなものだった。
最後の締めくくりは、結婚式場の見学だった。慧は用意周到に事前にいくつか選んであったようで、候補の中に5月の第二土曜が空いている式場があり、早速に予約を入れて来た。この時期から一ヵ月半後の式場を押さえられたのは幸運だった。
なんだか全て慧の計画通りに進み、本当にこれで良かったのかと立ち止まる間もなく二日間を終えてしまったけれど、もう今更と言う気持ちになった。
この二日間の事を思い出すだけで胸が一杯になる。
慧と結婚する。慧と家族になる。一度は諦めた夢を彼が再び繋いでくれた。
私は夕食の後片づけをしながら、顔を緩ませて頭の中で何度も二日間の事をリピートさせていた。すると、階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
昨日から慧のテンションの高さに引きずられるように拓都もいつになくはしゃぎ、夕食中から食後も慧の実家にいるお兄さんの子供達と遊んだ事、恩師の息子さんと遊んだ事、そして、夕食の食材等を買いに寄ったショッピングモールで慧と遊んだゲームセンターでの事を喋り続けた。
そしていつもより早い時間に慧が本を読んであげると、拓都と二人ベッドへ向かったのだった。
丁度片付け終えた私は、二人分の紅茶を用意してリビングへ行くと、ソファに座った慧が私の方を見て「本を最後まで読まないうちに電池が切れたみたいに寝ちゃったよ」と笑った。私は「ありがとう」と言うと、彼の前に紅茶を置き私もソファに座って自分のカップを手に取った。
「なぁ、美緒。今日ショッピングモールで会った奴、美緒に告白しただろ?」
慧は紅茶を一口飲むと、視線をテレビの方へ向けたまま、さっきまでの2日間のリピート中にさえ思い出す事の無かった人の事を口にした。ましてやその指摘が、当っているから堪らない。そして彼は私の反応を見るためか、興味深げな視線を向けた。
私は言われてブホッとむせ込んだ。そして彼は、そんな私の様子を楽しげに「ふ~ん」と意味深なリアクション。
「ど、どうして……」
「どうして分かったかって? 美緒はさ、全くの作り話ってできないだろ? 4年前に俺に別れ話をした時、同僚に告白されたって言ったのは、本当の事だったんじゃないのかな。断ったのも本当。でも、その後の事は俺はわからない」
急に真面目な顔になった慧の言葉に、私は慌てた。
「その後は何もなかったから……ずっと慧が……」
ここまで言って急に恥ずかしくなった。
「ん? ずっと俺が…?」
「だから、変わらなかったから、今があるんでしょう」
「何が変わらなかったのかな?」
慧がニヤリと笑って私の顔を覗き込む。私は益々焦って「分かってるくせに!」と言うと、彼の視線から身体ごとそむけた。
背後で笑うような空気の振動を感じ、益々恥ずかしくなる。そして、伸びてきた手が私のカップを取り上げると、背後から抱きしめられた。胸が、身体が、震える。
耳元で低音ボイスが「美緒」と呼ぶ。私は一気に顔が熱くなった。
「美緒は俺の事、どう思ってるの? 今まで余り言葉で聞いた事が無い気がするんだけど……」
何を今更! と心の中で叫ぶけれど、言える雰囲気じゃない。それより、彼の腕にしっかり拘束され、身動きさえできない。なんだか悔しくて、反撃する言葉を頭の中で必死に探す。
「慧だって……」
何も言葉が見つからず思わず出たのは、こんな言葉で……。
「俺だって、何?」
なんだか今の慧はとっても意地悪だ。それとも何か怒ってるのだろうか? 怒らせてしまったのだろうか? 今彼はどんな顔をしてるの?
急に不安が込み上げて来て、私は彼の腕の中でもぞもぞと身体ごと振り返ろうと動き出したら、彼もそれに気付いたのか腕の拘束を解いた。
「やっとこっち向いたな」
彼がニヤリと笑う。その笑顔にしてやられたと悔しくなって、俯く。
「俺は自分の気持ち、言ってると思うけどな。美緒は余り言葉にしないだろ? たまには言葉にして欲しいんだ。また俺に流されて、結婚を決めたんじゃないのかと不安になるんだよ」
彼の言い方がやけに真摯で思わず顔を上げると、真剣な顔を彼。
「流されたんじゃない! 私は慧が好きで、一生一緒に歩いて行きたいと思ったから……」
そんなに彼を不安にさせていたのだろうかと言う後悔と、そんな風に思われていたのかと言う悔しさと、よく分からない感情がぐちゃぐちゃになって、胸が苦しくなった。
そして彼は私の言葉の途中でぎゅっと私を抱きしめると、耳元で「ごめん」と言った。
「美緒を疑っている訳じゃないんだ。ただ、余りに今回の事は自分本位に進め過ぎたなと反省している所に美緒の同僚と遭遇して、4年前の事思い出して……」
「ううん。私こそ自分の気持ちをきちんと言えていなかったから」
私がそう言うと、彼は抱きしめていた腕を解いて身体を離すと、お互いに見つめ合った。
「美緒、俺と結婚してくれますか?」
「はい、よろしくお願いします」
私達は神妙に、そして今更であるが再び結婚の意思の確認をし終えた途端、二人揃って吹き出した。
そして、ひとしきり笑った後、私達は黙って見つめ合った。自然な雰囲気で近づく目と目。私は目を閉じる。唇が重なる直前、彼は「美緒、愛してる」と呟いた。
「そう言えば、美緒の元同僚、4月から県庁へ来るんだって?」
慧が帰るために玄関へと歩きかけた時、ふと思い出したのか振り返って問いかける。
「えっ? 聞いてたの?」
「聞いてたと言うか、聞こえたと言うか……まあ、釘を刺したし、結婚するし、美緒の事信じてるから……」
彼は、私の問い返しに言葉を濁したまま、途中から前を向いてぶつぶつ言いながら玄関に向けてさっさと歩いて行く。
え? なに? どう言う事?
「ねぇ、どう言う意味?」
私は彼を追いかけながら、靴を履いている彼の背中に問いかける。靴を履いて振り返った彼は、ニッコリと笑って「早く、帰らなくても良くなりたいな」と言った。
急に話を変えた事に少し驚いたけど、さっきの話は元同僚の事だし、もういいのだろう。
「後、数日だよ」
彼の笑顔が子供のようで、思わず笑って突っ込む。
「そうだな、木曜日忘れるなよ」
「忘れる訳ないでしょ。大切な日なのに」
そう、私達は今度の木曜日に入籍する。
「そ、大切な日だからな」
彼はそう言うと嬉しそうに笑った。そして「じゃあな」と一瞬私をハグすると、笑顔を残して帰って行った。