噂の顛末(その4)
4月5日火曜日、春の陽射しは温もりを惜しげもなく地上に降り注ぎ、桜はわずかな風にも花びらを散らしている。それでも今日の入学式は、どうにか最後の桜に間に合ったようだった。
去年の入学式を思い出す。
思えばあれが全ての始まりだった。
あの担任紹介で、彼の名を聞いた時の衝撃は、もう今となってはリアルに思いだせない程遠く、酷く懐かしい。
今日から2年生になる拓都は、いつもの時間に学校へ行って、始業式をして入学式が始まる前に帰る事になっている。しかし、学童にお世話になっている拓都は、お弁当持参で始業式の後は学童の方で夕方まで過ごす。
仕事を終えて迎えに行くと、拓都は少し沈んだ顔をしていた。朝、とても元気に出て行ったのに。
「拓都、どこか痛いの? 気分悪い?」
拓都の顔を覗きこんで尋ねると、静かに首を左右に振った。
「どうかした?」
「あのね、陸君と翔也君と違うクラスになったの」
ああ、今度は皆と別れちゃったのか。私も何だか心細い気がした。
「そっかぁ、残念だったけど、すぐに新しいお友達もできるから、大丈夫だよ」
ありきたりな励ましでは、拓都の気分を浮上させる事はできず、沈んだ表情のまま拓都は「うん」と頷いた。
「それで、クラスは何組? 担任は誰?」
私はわざと明るい声で話を変えた。
「2年2組で、広瀬先生だよ」
広瀬先生って引っ越しの時手伝ってくれた、慧の仲良くしてる先輩の広瀬先生かな?
「広瀬先生って、この間引っ越しの時に来てくれた先生?」
私が問いかけると、拓都は少し嬉しそうな顔をして、「そうだよ」と答えた。
その日、慧の帰りは遅く、拓都は先に眠ってしまった。結婚してから、時間が合えば拓都と一緒にお風呂に入ると言っていた慧は、新しい職場の上に新学期の忙しさのため、実現したのは日曜日の一回だけだった。
「ただいま」
「おかえり」
結婚5日目、彼が毎日家に帰って来る事に、どこかまだ慣れない。
帰って来た慧は、朝は入学式のためにスーツで出かけたのに、今はポロシャツと綿セーターにチノパンと言う姿だ。入学式が終わって学校で着替えたようだ。スーツを専用バッグに入れて持ち帰って来た彼は、片付けるために寝室へ向かいながら、「拓都はもう寝てるよな」と分かっているのに確認するように訊いた。
「残念だけど、寝ちゃったわ」
そう答えると、慧の後を付いて寝室へ向かわず、彼の夕食を用意するために台所へと向う。
夕食を温め直してテーブルに並べる頃、2階から下りてくる足音が聞こえた。拓都の寝顔を見に行ってたんだと思うと、心がほわっと温かくなった。
ダイニングに入って来た慧と目が合い、お互いに微笑み合う。私は彼がテーブルに着いたら出そうと思っていたスープとご飯を用意するために流し台の方へ歩きかけた時、「美緒」と呼ばれ、振り返った。いつの間にか傍まで来ていた彼に抱きしめられ、「美緒、ただいま」と耳元で囁やかれた。
うわぁ~と心の中で叫びながら、彼のこんな態度に慣れなくて、焦りながら「お、おかえり」と何とか答える。
「け、慧。スープとご飯、用意するから……」
だから離してと目で訴えながら身じろぎすると、彼は溜息を吐いて「美緒は冷たいな」と言うと、小さくキスを落として私を解放した。
冷たいって、何なのよ! と心の中で叫びながら、私は熱くなった頬を隠すように踵を返すと、テキパキと用意をしてテーブルに並べた。そして、二人分のお茶を淹れて、私も彼の前に座ると、日課となった今日の出来事を報告し始めた。
「拓都ね、広瀬先生のクラスになったんだって」
「えっ? 広瀬先生? この前分かってたくせに何も言わなかったな」
彼は独り言のように言うと、ズボンのポケットから携帯を出して、メールを打つと送信した。また食事に戻り食べかけた所で、テーブルの上の彼の携帯電話がメールの着信を告げる。
もう返事? 早!
彼は嬉しそうに携帯を開くとメールを読んでニヤニヤしている。
「広瀬先生、拓都の事は任せておけってさ」
彼はそう言って、私に笑顔を向けると、また食事を始めた。
任せておけって……噂の事だろうか?
「それって、私達の噂の事?」
「まあ、それも含んでの事だろうな」
「そっか、ちょっと安心した」
「まだ起こっても無い事心配したって仕方ないだろ。それで、拓都は新学期が始まって何も無かったのか?」
心配するなといいながら、一番心配してるのは慧じゃない。
心の中でフフッと笑いながら、今日の元気の無かった拓都の顔を思い出した。
「陸君や翔也君と別のクラスになって、少し落ち込んでるのよ」
「クラス替えの時期はみんなそうだよ。友達と一緒になれた子は大喜びだし、離れた子は落ち込んでるな。でも、子供はすぐにクラスの子に馴染むから、大丈夫だよ」
「私もそう思って、大丈夫って言ったけど、あまり慰めにならなかったみたい」
「そんな事はわざわざ言わなくてもいいんだよ」
「そうですね、さすが守谷先生」
私が茶化して言うと、彼は「守谷先生って誰の事?」と不機嫌に言葉を返した。
「わーごめんなさい。でも、私の中ではやっぱり慧は守谷先生なんだもの。篠崎先生なんて呼ばれてるの聞いた事無いし……」
「まあ、そうだな。俺もまだ篠崎先生って呼ばれても、気付かない事があるから」
「何だか冗談みたいだね。慧が篠崎先生って呼ばれるなんて……」
私がテーブルに肘を付いて、手の上に顎をのせて、天井の方に視線を向けながら、感慨に耽っていると、正面から伸びてきた手に鼻をつままれ、思わず「痛ーい!」と訴えた。
「冗談みたいなんて言うからだよ」
彼は悪びれもせず、フフンと笑った。
なんだか悔しくて彼を睨むと、彼は甘く微笑んで私を見つめた。
「美緒、これは夢でも冗談でもない現実なんだよ。そして、他人がどう思おうが関係ない俺たち自身の事だよ。周りとのかかわりは大切だけど、俺達3人の家族の足元がグラグラしてたら、バラバラになってしまうだろ。俺達3人がしっかりと信頼し合って、お互いを思い合っていたら、周りの雑音なんて気にならなくなるよ」
慧が引っ越した日の夜に話をした時と同じような事を、また彼は繰り返した。
「それはそうだけど……でもね、拓都が心無い言葉で傷つけられたら…」
「そうなった時に、3人で話しあって、拓都の気持ちをフォローしてやればいいんじゃないか? それよりも美緒、拓都に俺達の結婚や俺が拓都の父親になる事を、秘密にしようって言っただろ?」
えっ……どうしてそれを……。
そうなのだ。私は彼の実家から帰って来た日の夜、まだ入籍前と言う事と、拓都が春休みも学童へ行くので、拓都には今は秘密にしておこうねと話したのだった。
その事をすっかり忘れていた。
「拓都から聞いたの? いつ?」
慧は毎日遅く帰って来るから、拓都と会話する時間なんてあっただろうか?
「今朝だよ。今日から新学期が始まるから、聞いてみたんだよ。俺がパパになった事を誰かに話したいかって。そうしたら、ママが秘密にしようって言ったって言うから…。拓都が話したかったら言ってもいいぞって言ったけど、恥ずかしいから言わないってさ」
慧だって、拓都が皆に話すか気になった癖に、私を責められないでしょ、と思ったけど、それは言えない。でも、拓都も一年前と比べたら、ずいぶん精神的にも成長しているようだ。
1年生の最初の頃は、担任に対して母親である私の話を良くしていたらしいのに、今は家族の事を話すのは、少し照れる気持ちが出て来たのだろうか?
「ごめんなさい。それを言ったのは、入籍前なのよ。そんな事言ったなんて、すっかり忘れてたわ。でも、私がそんな事を言ったからだけじゃなくて、拓都自身も話さないって思ってるんだね」
私は素直に謝った。慧が拓都に尋ねてくれた事で、拓都自身が私たち家族の事を周りに広める不安が解消できたから。
「だけどさ、拓都も1年生の初めの頃は、ママが、ママがってママの話ばかりしてたのに、パパの話はしてくれないんだな」
慧が私と同じ事を思い出しているのが嬉しかったけど、そんな事で拗ねなくても……。
私は、淋しそうに呟いた彼を見て、クスクスと笑ってしまった。
アルファーポリス様の「恋愛小説大賞」の投票期間が終わりました。
皆さん応援、投票、ありがとうございました。
皆さんの応援してくださった気持ちを胸に、
これからも、皆さんが少しでも楽しんで頂けるようなお話が書けるよう
頑張って行きたいと思います。
本当にありがとうございました。