#27:キャンプ【後編】
前編と後編に分けたのに、前編の倍ぐらいの長さになってしまいました。
中編も作ろうかと思いましたが、同じ事なので一挙に更新します。
長いですのが、読んで頂けたら嬉しいです。
早く早くと急かす子供達に引っ張られるように、私達は、駆け出して行く子供達の後を急ぎ足でついて行く。子供達は先程の散策でバンガローの位置が分かっているのか、真っ直ぐにそちらを目指して駆けていく。
バンガローが並んでいる一画に入って行くと、吹き抜けの屋根だけある下に木のテーブルと椅子が並んでいるスペースがあり、そこでいくつかのグループが食事をしていた。そんな中に先生達のグループもいた。テーブルの上には手作りと思われるお弁当が広げられ、缶ビールを飲みながら楽しそうにお喋りして食べていた。男性4人と女性3人のグループの中に、彼はいた。そして、隣りには彼女が……。
「せんせー、守谷先生!」
3人の子供達が、先生を見つけたのか手を振りながら走って行く。お兄ちゃんの智也君にとっても、守谷先生は去年の担任だ。
子供達の声に、驚いて先生全員がこちらを見た。西森さんと私は、軽く会釈すると、子供達の後を追って、先生達に近づいて行った。
「こんにちは、さっき愛先生からキャンプに来ていらっしゃると聞いて、挨拶に来ました」
西森さんが挨拶をするのに続いて私も「こんにちは」と挨拶をすると、みんなからも挨拶が返って来た。顔に張り付けた笑顔は不自然じゃないだろうか?
「ああ、聞いていますよ。偶然ですね。守谷先生のクラスの役員さん達だって?」
私達に一番近い位置にいた、20代後半ぐらいの男性教諭がにこやかに話しかけて来た。
「はい、そうなんですよ。今日は6年生のキャンプの下見だって聞きましたけど……」
「そうです。私と谷崎先生が初めてのキャンプの引率で、雰囲気と時間配分を見るために、当日と同じスケジュールでキャンプをしてみようと話していたら、守谷先生がキャンプなら参加したいと言ってくれまして、そうしたら、いつの間にか人数が増えていたんですよ……これだと仕事と言うより、遊びみたいですね」
苦笑しながら言い訳の様に話す先生の右手には、缶ビールが握られ、完全に休日モードだった。
子供達は守谷先生のところへ行って楽しそうにお喋りをしている。彼は一番奥の席に座っていたので、私達が立つ位置から一番遠い。子供達と彼とのやり取りを、目を細めて楽しそうに見ている愛先生は、時折子供達に話しかけたりして、その輪の中に自然に溶け込んでいた。
別に二人がイチャイチャしている訳でもないのに、二人の間の自然な雰囲気に胸が詰まって、目を逸らす。運命に立ち向かおうと決意して来たのに、早くも私の心は逃げ腰だ。
そして、私は居た堪れなくなって、小さな声で「お邪魔しちゃいけないから、そろそろ行こうか?」と西森さんに話しかけた。けれど、今の西森さんはすんなり帰ってくれる訳もなく、「そうね、守谷先生と金子先生に挨拶をしてからね」と返って来た。
さっき挨拶したと言うのに、わざわざ傍まで行って挨拶をすると言うのか……。
心の中で盛大に溜息を吐き、西森さんの後を付いて行く。できるだけ視線を合わせないように気を付けながら、笑顔、笑顔、と言い聞かせる。
「守谷先生、子供達がすいません」
そう言いながら担任に近づいて行く西森さんの後ろに隠れる様に付いて行く。
「いいえ、かまいませんよ。それにしても、偶然ですね。西森さんはよくキャンプされるんですか?」
彼はいつもと変わらぬ調子で会話を続ける。
「ええ、毎年夏にはキャンプに行くんですよ。それで今年は、翔也が拓都君と行きたいって言うので、篠崎さんも誘ったんですよ」
嬉しそうに受け答えする西森さん。私の名前は出さないで欲しい。私は視線をどこに向けていいのやら……俯いたままでも変だろうし……。
キャンプの話を続けている西森さんの斜め後ろから覗くように彼の姿を伺い見る。Tシャツにジーンズの彼は、あの頃と変わりがなくて、切なくなる。こんなに傍にあの頃のままの彼がいるのに、二人の間は何万光年も離れている様に遠い。
「私はこのキャンプ場は、子供達が生まれる前に来たきりだから、10年ぐらい前かな? 篠崎さんは4年前に来た事あるそうですよ」
何気ない会話の何気ない言葉が、思い出を引き寄せる。思わず彼の方を見てしまうと、彼と視線が合った。一瞬彼の眼が見開いた様に見えた。きっと私も同じ様に驚いた顔をしたのかもしれない。すぐに引き剥がす様にお互いが視線を逸らし、笑顔に戻す。そんな私達に気付きもせずに話し続ける西森さんに、今は救われた思いだった。
子供達を連れて、今度は金子先生に声をかける西森さん。金子先生は20代ぐらいの女性の先生だった。そして、やっとこの場を離れようとしていた時、最初に話しかけて来た6年の担任の男性教諭がまた声をかけて来た。
「今夜、あちらの広場でキャンプファイヤーをしますので、よかったら来て下さい。大勢の方が楽しいですから」
「本当ですか? 本格的ですね。是非参加させてください」
西森さんは嬉しそうに答えている。
千裕さん……独断ですか? 私の意見は聞いてくれないの?
それでも、事情を知らない彼女の前では、私は従うしかなかった。
自分達のテントのところまで戻って来ると、急に西森さんが真面目な顔になって私の顔を覗き込んだ。
「美緒ちゃん、疲れてる? 大丈夫? さっき全然話をしなかったけど……」
さっきは笑顔を作るのに必死で、お喋りまで気が回らなかった。そう言えば、挨拶しかしていない。
「大丈夫よ。知らない先生が多かったから、ちょっと人みしり?」
私は、西森さんが心配しないようにと、少しふざけて返した。
「千裕がお喋りだから、篠崎さんは口を挟むすきがなかったんだよ」
西森さんのご主人が笑って指摘する。あ……それも少しはあったかも。
「もう~パパったら! 私はそこまでお喋りじゃありません」
プンと怒って見せる西森さんに、ハハハと笑って返すご主人。やっぱりこの二人は、夫婦なんだなと、独身の私には伺い知れない絆を感じた。
テントサイト近くを流れる川は、水の深さが大人の膝までぐらいで、水遊びにちょうど良く、子供達は水着になって遊び始めた。私も素足を水につけてみたら、冷たくて気持ち良かった。拓都の楽しそうな顔を見たら、連れて来てもらって良かったと思った。たとえ、辛い思いをしたとしても……。
もうこれで、彼と会うのはキャンプファイヤーの時だけだから、何とかやり過ごせば、楽しく過ごせるだろう。気持ちを前向きに。終わった恋に囚われていないで……。
3時のおやつにスイカ割りをしてから食べようと、子供達に目隠しをして、順番にスイカを叩かせる。あらぬ方向へ行ったり、地面を叩いたりと、皆で声をかけて誘導するけれど、ちぐはぐな行動に大笑いする。皆でひとしきり笑った後、割れたスイカを食べやすいように切って食べると、いつものスイカよりずっと美味しく感じた。
子供達と西森さんのご主人がまた川遊びに戻ると、私と西森さんは夕食の準備に取り掛かかった。いつもは家族全員で食事の用意をするらしいが、今日は私がいるので、みんなにはもうしばらく遊んでいてもらう事にした。
夕食はパエリアとチキンソテーと野菜スープと言うメニューで、自宅でもパエリアなんて作った事がなかったので、驚いた。さすがにキャンプ慣れしている西森さんは、食材は全てあらかじめ切ってあり、後は調理するばかりとなっていて、その準備と段取りの良さに、私は感心してしまった。
調理途中で子供達が帰ってきたので、服に着替えさせると、料理の匂いに釣られてみんなが集まって来た。子供たちにも手伝いをさせながら、出来上がった料理をテーブルに並べると、キャンプだと言う事を忘れてしまう程の、豪華なディナーだった。
夜だからと言う事で、私も缶ビールを一本頂いた。ちょっとぐらい酔っていた方が、いろいろ考えなくてもいいかもしれない。
お料理が美味しくて、昼間の暑さが和らぎ涼しい川風が吹くと、ビールとの相乗効果でとっても気持ち良くなってきた。
「う~ん。これがキャンプの醍醐味かしらね?」
西森さんが少し頬を赤くして、ビールを片手に言う。
「ホント、気持ちいいねぇ」
私も目を閉じてビールで少し火照った頬を撫でていく川風を感じていた。
「キャンプでのビールは最高だねぇ」
西森さんのご主人ものんびりと口を開いた。智也君もそんな父親を見て、ジュース片手に「キャンプのジュースは最高だねぇ」と言った。それを聞いて、みんなで又笑った。
「ママ、美味しいね。来てよかったね」
拓都が私を見上げてニッコリと笑った。私も微笑み返すと「翔也君に誘ってもらって良かったね」と言った。
「食事が済んだら、キャンプファイヤーに行くよ」
食事を終えた西森さんが声をあげて立ち上がった。それを聞いた子供達もわーいと声をあげた。みんなで後片付けを済まし、私達は広場へ向かった。
もう陽は落ちて、辺りは薄暗くなっていた。キャンプ場の中にはところどころ街灯があり、ぼんやりと辺りを照らしている。西森さんのご主人が、優しい明かりのカンテラを持って誘導する様に先頭を行く。その周りを子供達がキャッキャと騒ぎながら付いて行く。私と西森さんも、お喋りしながら、その後を歩いて行った。
陽が落ちて一層涼しくなってきた空気の中を歩いているのは、とても気持ちがいい。お酒のせいか、少しフアフアとしたいい気分で、これから起こる不安も、何とかなるさと言う鷹揚な気持ちになっていた。
広場の方に炎の灯りが見えて来た。風に乗って歌声も聞こえて来た。もうキャンプファイヤーを始めている様だ。
広場に到着して「こんばんは」とみんなが挨拶をすると、先生達も歓迎ムードで「こんばんは」と返って来た。
昼間と違い、暗闇の中の炎の灯りに照らされているみんなの顔は、和やかなのに何処か厳かな雰囲気もあって、変に緊張する。
火の周りに場所を開けてもらい、私達は座らせてもらった。斜め向こう側に彼がいるのが見えた。隣にいる愛先生と何か話をしている。このキャンプファイヤーのせいだろうか、二人の雰囲気が一層親密な物に見える。私は目を逸らした。ビールの効果も、目の前の光景に、一遍に吹き飛んでしまったようだった。
それからキャンプファイヤーの周りで、6年生のキャンプ本番で歌う予定の歌を歌ったり、本番では児童が班ごとに出し物をする事になっているので、今日は先生達が順番にいろいろな芸を披露してくれた。
6年の担任の先生が、一発芸とも言える様な校長先生の真似をして見せたり、他の先生が怖い話をしたりした。愛先生達女性3人は、練習していたのか女性アイドルグループの歌を振付付きで歌った。これには子供を含め男性陣に大いに受けていた。
そして彼は、今流行っているバラード曲をアカペラで歌った。隣にいる愛先生がウットリとして見つめている。
私は目を閉じて聞いた。
彼の歌う時の低音の甘い声が、過去の記憶とリンクする。
彼の腕の中で、私だけのために歌ってくれた彼の声と重なる。
無意識に過去の記憶の中を、彼の声を聞きながら漂い続けた。
彼の歌が終わって目を開けると、彼と眼が合った。でもそれはすぐに暗闇の中に紛れていった。
「守谷先生って、ホント、噂通り歌が上手いんだねぇ。なんだかすごく得した気分。今年はやっぱりいい年だわ」
西森さんもウットリした表情で、私にだけ聞こえるように言った。その声に現実に引き戻された。また彼との思い出に浸っていた自分を嫌悪する。その時目の片隅に、彼と愛先生が仲良く話をしている姿が焼付いた。
―――――――――いい加減に目の前の現実を受け入れなければ……。
最後に簡単なダンスをしようと、歌に合わせてみんなで手を繋いだりしながら、火の回りをグルグルと回って踊った。
子供達もキャンプファイヤーは初めてだったけれど、充分楽しめていたようだった。拓都の楽しそうな横顔を見ながら、そろそろこの想いに踏ん切りをつける潮時なのだと、感じていた。
そうしてキャンプの夜は更けていった。
私は寝付けないまま、短い睡眠を繰り返し、とうとう眼が覚めて起き出してみると、時間は朝の4時半。外はもう薄っすらと明るくなって来ていて、夜明けが近い事を教えていた。
隣で寝ている拓都は、昨日の疲れのせいかぐっすりとよく眠っている。私は思い切って、携帯電話だけポケットに入れると、散歩に出る事にした。
記憶を頼りに川沿いの遊歩道を歩いて行く。道が川沿いを離れて森の方へ曲がった辺りから、道を外れてそのまま川沿いを歩いて行くと、川は流れが急な水遊び禁止区域になる。上流のせいか大きな岩があちらこちらに転がっていて、子供達が昼間遊んでいた人工的な河原と違い、自然のままの河原が続いていた。
キャンプに来ている人がこの辺にも入り込んでいるのか、道は無いけれど獣道の様に、草が踏まれて通りやすくなっていた。
確か、この辺……4年前の記憶を手繰り寄せながら、慎重に歩いて行くと、小さな滝(滝とは言えない程の川の中の落差による水が垂直に落ち込む所)がある場所にたどり着いた。
それは、4年前に彼と散策していて、偶然に見つけた滝だった。あの時の様に、近くの岩に腰掛けると、その水が落ちる様を見つめる。早朝の静寂の中、落ち込む水音が響いていく。
バカだな……私。
未練タラタラで……。
二人の姿から目を逸らしたって、現実は変わりはしないのに……。
彼の幸せを一番に祈らなければいけないのに……。
この気持ちを封印するのじゃ無くて、すっぱりと切り捨ててしまわなければ……。
美緒、もういい加減に、潮時だよ。
いつまでも、昔の恋に縋っていたらダメだよ。
あの写真も、消してしまわないと……。
彼から送られたたくさんの写メールの中、たった一つだけ消せなかったあの写真。
二人の心が繋がった虹の写真を、私は自分への戒めの為に残した。
K市で拓都と過ごした3年間、一人で頑張っている事にどうしようもなく辛くて寂しくなった時、この写真を見て、彼へと繋がるこの虹を、私が壊したのだと、だから、一人で頑張らなきゃいけないのだと、言い聞かせた。
それなのに、再会した途端、自分の中に封印した彼への想いに翻弄されて、どうしようもなく弱くなってしまった私の心。
でも本当は、この写真を待ち受けにまでして残しているのは、あの頃の彼に繋がっているこの虹の写真に縋っていたから……何処かで彼に繋がっている様な気がして、私は思い出も、彼への想いも手放せないまま、身動き取れなくなってしまっていた。
――――――もう、潮時だよ。
私は、あの虹の写真を見つめながら、削除の操作をするのをためらった。
その時、ガサリと落ち葉を踏みしめる音に、慌てて振り返った。
そこには、とても驚いた顔をした彼が立っていた。
私は携帯を握ったまま、周りの空間ごとフリーズした気がした。彼の視線と私の視線が、絡まったままその空間に固定された様だった。
「参ったな……」
彼の言葉が、解凍のスイッチだったように、その一言で私も我に返り、携帯をポケットへ入れた。
「あ、あの……おはようございます」
挨拶の言葉をどうにか言うと、私は立ち上がった。
ここにいてはいけない。
私の理性がそう命令する。
「ああ、おはようございます」
彼は私の挨拶に答える様に返すと、こちらに近づいて来た。
どうして?
一緒にいる所を誰かに見られたら……先生達も沢山いるのに……愛先生だって……。
「すいません。失礼します」
私が立ち去ろうとしたら、彼は困った様な顔をした。
「そんなに慌てて、行かなくてもいいよ。まだ早朝だし、誰もここまでは来ないだろうし……」
それは、どういう意味?
だれにも見つからないから、ここにいろと?
私が困惑したまま立ち尽くしていると、彼は傍にあった岩に腰掛けた。そして私に「座れば?」と傍の岩を指差した。
その言葉にコントロールされた様に私は彼が指し示した岩に座る。二人の間は1mも無い。心臓はさっきからドキドキとどんどん速く打ち出し、頭はさっきまで考えていた事など、すっかり飛んでしまっていた。
「驚いたよ。こんな所で会うなんて……それも、このキャンプ場だなんてな」
彼は滝の方に顔を向けたまま苦笑しながら話し、最後にこちらを一瞥した。
「ごめんなさい。先生達も来るって分かってたら、断ってたんだけど……」
私は居た堪れなくなった。せっかくのキャンプなのに、私なんかに会って、嫌な思いをしたのかもしれない。彼女と一緒なのだもの、それは当たり前だ。
「いや、別に会った事が悪いだなんて言って無いよ。ただ驚いただけで……そもそも、小学校で再会した事自体、驚きだったけどな……」
今の彼は担任の彼じゃない。砕けた物言いは、あの頃のままの慧だ。でも、私は保護者の仮面を脱ぐ事は出来ない。それなのに、彼の砕けた物言いを喜んでいる自分が情けなかった。
「その事も、本当に申し訳なくて……知っていたら、こちらへ転勤しなかったのに……」
「いやいや、それこそ偶然なんだから、仕方がないだろ? そんな事言ったら、この県で先生になった俺の方が悪いと言う事になるだろ?」
彼がこちらを向いて、照れたように苦笑している。
私は首を左右に振った。
そんな……あなたは先生になるのが夢だったんだから……どこで先生になろうが、あなたの勝手だもの……
「美緒は俺に会いたくなかったんだろ? だから、再会した事を申し訳ないなんて言うんだろ?」
彼は急に真剣な顔で私を真っ直ぐに見つめて来た。
あの頃の様に名前を呼ばれて、嬉しいと思ってしまう自分を戒めながら、彼の質問の意味を考えた。
会いたくなかったのだろうか? そう、こんなに苦しい想いをするのなら、会いたくなかった……。
でも……本当は、会いたかった。いいえ、彼の元気な姿を見られるだけで良かった。
「そんな事……考えた事もなかったし、もう二度と会う事がないと思ってたから……でも、あなたが先生になった姿を見れて、嬉しかった。夢が叶って、おめでとう」
私は、これだけはずーっと言いたいと思っていた。立派に先生を務めている姿をこの目で見られた事が、何よりも嬉しかった。
私は保護者の仮面を外して、伝えられた事に、少し興奮した。
……言ってしまった。これで思い残す事もない。
「あ、ありがとう……もう3年目なんで、先生になれた感動を忘れかけてたよ。そうだな、夢だったんだよな……」
彼は私の突然のお祝いの言葉に、少し照れたような反応をした。私は、お祝いを言えた事に、少し余裕ができて、彼に笑顔を向けた。
「これからも、頑張ってください。役員として精一杯協力しますから」
私はもう一度仮面をかぶり直し、彼との距離感を自覚した。
大丈夫だ。もうこれで本当に……。
私は、会話の締めくくりの言葉を告げると、立ち上がろうとした。
「あ、あの……拓都は……」
彼は私が立ち去ろうとした事に気付いたのか、引き留める様に何か言いかけた。
「えっ?」
「あ……拓都は……いい子だね。美緒の育て方がいいんだろうな」
私は面食らった。いきなり褒められて、どこかむず痒い。
彼は拓都が私の子でない事は分かっているはずだ。でも、誰の子供なのかは、尋ねてこない。そう言う事は個人情報なので、うかつに訊けないらしい。
それなのに育て方を褒めてくれるなんて……
「あ、ありがとう」
何か言ったらボロが出そうで、お礼の言葉しか言えない。
そして、私はゆっくりと立ち上がった。これでいいんだ。これで少しは二人の間のぎこちなさが取れるかも知れない。
私は「お先に」と会釈して歩き出した。
「あっ、美緒」
2,3歩行った所で、呼びとめられた。そして、振り返って首を傾げた私に、「美緒は今、幸せ?」と彼が訊いた。
えっ?
それは……元カノが不幸だったら心配だから?
自分を振った元カノの幸せまで心配してくれる……彼はそう言う人だった。一度懐に入れた人には、とことん情に厚い。
そんな彼に心配かけないために、私はとびきりの笑顔で答えよう。
「うん。幸せだよ」
あなたは? とは訊けなかった。心の中で、あなたも幸せでありますようにと祈る。
私は幸せだ。拓都がいるもの。あなたがいなくても、歩いて行けるんだよ。
「そっか、良かったよ。安心した」
その言葉を聞けて、私も安心したよ。こんな私の事を心配していてくれたんだね。もう、肩の荷をおろしていいよ。私の事は忘れていいから……。
笑顔が涙でゆがまない内に、私は背を向けた。「じゃあ、また……」と言うと、速足で彼から遠ざかった。
どんどんと距離が離れていく。私達はもう過去には戻れない。時は不可逆。前に進むしかないんだよ。
そう自分に言い聞かせて、零れそうになる涙を必死に押し留める。今泣いてしまったら、止まりそうにないから。
さようなら、慧。
あなたこそ、幸せになって……。
太陽はいつの間にか山の向こうから顔を出し、今日の暑さを約束している。
遊歩道に戻る所で、愛先生に会った。「おはようございます」と言う笑顔が幸せに輝いている様に見えた。私も「おはようございます」と返して、その場を去ろうとしたら、彼女に問いかけられた。
「あの……お散歩ですか? 守谷先生を見かけませんでしたか?」
あ……守谷先生を探しに来たんだ……それとも約束していたとか……
私には関係ない。
「はい。そちらの川沿いの所でお見かけしましたよ」
笑顔で答えると、彼女も恥ずかしそうに笑った。そして「ありがとうございます」と言うと、私の指し示した方向へ向かって歩き出した。
彼女の嬉しそうな後ろ姿をしばらく見つめて、どうぞ慧を幸せにしてあげて……と心の中で呟いた。