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役立たずの針子と追い出されましたが、軍服の縫い目は帳面より正直でした

作者: 花房 ゆり
掲載日:2026/08/23

「右袖は夕刻まで持ちません。腕を上げたところで反乱します」


「礼装服が反乱?」


 レジスが笑うと、裁断台の向こうでも二人の職人が顔を見合わせた。


 反乱は大げさかもしれない。では離反。脱走。好きな言葉を選べばいい。どのみち、この軍服の右袖は着用者の腕についていく気がなかった。


 エロイーズは脇から肩へ走る縫い目を指で押した。


「ここへ補強を足します。表からは少々線が見えますが、腕を上げたときの力が肘へ逃げます」


「醜い継ぎはぎを増やすな。礼装だぞ」


「では、式典で右腕だけ休暇を取らせますか」


「お前は黙って縫え」


 職人たちの含み笑いは、レジスが振り返るより早く作業机へ潜った。安全な背中にだけ愛想よく笑う。ずいぶん仕立てのよい勇気だ。


 エロイーズは夜半までに指定された細い縫い目を仕上げ、その後で糸を替えた。


 肩、脇、肘。


 立っているだけなら余計に見える線だった。だが着用者が敬礼し、剣を掲げ、馬へ手を伸ばすなら必要になる。服は壁に飾られるためではなく、中へ人間を入れるためにある。


 明け方、指の節は赤く膨らんでいた。握った針が抜けず、左手で一本ずつ指を開かなければならない。


 それでも礼装服は無事に式典を終えた。


 翌朝、レジスは組合へ提出する登録票を職人たちの前で読み上げた。


「右袖の不具合を発見し、監督者レジスの指示で修正。制作者、レジス」


「最後の名前が違います」


「補強を嫌がったお前を、俺が働かせてやったんだ。監督した者の実績になる」


「注文控えには、依頼人と受取人と私の署名があります」


 エロイーズは革の書類入れへ手を置いた。昨夜、ついでに直してほしいと口頭だけで頼まれた一着については、何も書いていない。頼まれた記憶はあっても、記録にない仕事まで自分のものだと叫ぶつもりはなかった。


「台帳の訂正を求めます」


 レジスの口元から笑みが落ちた。


「婚約者の家を盗人扱いするのか」


「私の名を消した登録を訂正してくださいと申しております」


「身内の手伝いに職人名など要らない。お前の補強は見栄えが悪いんだ。今回は俺が直したから事故にならなかった」


 仕上がった服の前では、ずいぶん元気だ。昨日は線を消せと命じていた口が、今日は線を救ったことになっている。糸よりよく伸びる。


「では、組合の公会堂へ訂正を申し立てます。控えも提出いたします」


「その手で何ができる」


 レジスはエロイーズの腫れた指を見た。


 裁断台の端に置いていた鋏を取り、棚の最上段へ押し込む。手を伸ばしても届かない場所だった。


「もう、その手を使わなくていい」


 婚約の解消と解雇は、同じ紙へ並べられた。


 署名を求められ、エロイーズは曲がりにくい指で自分の名を書いた。書類入れを抱え、棚の鋏は置いていく。


「お世話になりました。次にお会いするときは、記録官の前で」


 戸口を出るまで、引き止める声はなかった。


    *    *    *


「左肩は、腕を上げれば裂けます」


 辺境軍の装備庫へ着いて早々、エロイーズはそう告げた。


 紹介してくれた糸商人のガスパールは驚かなかった。


「この人です」


 それだけ言って、糸束の納品票を受取台へ置く。日付、糸番、購入者、受取人。ガスパールの帳面には、商売人の愛想より頼もしいものが並んでいた。


「裂けると分かるのか」


 辺境伯ロドルフは、納入済みの軍服を持ち上げた。声も眉も動かない。服のほうが緊張して縮みそうである。


「分かります。布ではなく、着る方が先に動きますので」


「着ます」


 装備受取担当のミュリエルが上着を羽織った。


 左腕を肩の高さまで上げる。


 ぴしり、と糸が切れた。


 エロイーズは裂け目へ指を差し込み、布端がミュリエルの脇へ食い込む前に止めた。あと一息強く引かれていれば、金具が皮膚を擦っていた。


「下ろしてください。服が敗北を認めました」


 ミュリエルは腕を下ろし、裂けた箇所を見た。


「このまま剣を抜けば脇を傷めます。三度目の納入分も同じ裁断なら、訓練開始までに負傷者が出ます」


「納入済みの制服をすべて廃棄する」


 ロドルフの決断は速かった。速すぎる。軍服が裂ける前に予算が裂ける。


「お待ちくださいませ。全部を捨てる必要はありません」


「安全が確認できない」


「ですから、私が確認した分だけ直します。直していないものは使わない。私が見ていないものまで安全だとは申しません」


「指が腫れている」


「目は腫れておりません」


「手を使う仕事だ」


「ご存じでしたか。針子とは、ときどき手を使うのです」


 ガスパールが咳払いをした。笑ったのではない。商談に余分な感情を記録しない男なので、きっと糸屑でも喉へ入ったのだろう。


 ロドルフは裂けた軍服とエロイーズの指を交互に見た。


「三度目の納入まで、何日ある」


「十二日です」とミュリエルが答える。「同じ仕立屋から届きます」


 同じ仕立屋。


 エロイーズを追い出し、その名だけ抜いた家から。


「十一日で検査します」


「十二日使え」


「最終日は公会堂へ参ります。組合へ申し立て済みですから」


 ロドルフは一度だけ瞬いた。


「ならば、公会堂で三度目を検査する」


 話が大きい。だが、嫌いではない。


 糸の切れる音は小さくても、兵の傷と職人の責任は小さくならない。見物人が多いなら、なお結構。逃げ道は広い場所ほど塞ぎやすい。


    *    *    *


「夜の工房は閉める」


 雇用契約の一行目から、ロドルフは雇い主ではなく門番になろうとしていた。


「閉める時刻をご記入ください」


「日没」


「冬は昼食を終えた頃に日没です」


「では六の鐘」


「繁忙期は七の鐘まで。週に二度だけ」


「認めない」


「禁止ではなく時間制限です。私の仕事を取り上げる条項には署名いたしません」


 エロイーズが羽根ペンを置くと、ロドルフも黙ってペンを置いた。


 契約机の中央で、二本のペンがにらみ合う。先に折れたほうが負けだ。


 やがてロドルフが書き直した。


 夜仕事は原則六の鐘まで。本人が選んだ二日に限り七の鐘まで。翌朝の開始を一刻遅らせること。


「補助職人を二人つける」


「私が選びます」


「食事は工房へ運ばせる」


「食堂へ参ります。布のそばで汁物を飲ませるおつもりなら、軍服に勇敢な染みが増えます」


「三食、食堂で取る」


「承知しました」


 負けた気がする。しかも腹が減っているので、敗北が香ばしい。


 ロドルフは新しい指当てと、湯気の立つ温布を机へ置いた。


「鋏と針は毎晩預かる」


「却下です。道具は私の許可なく動かさないこと」


「使うだろう」


「使うかどうかを決めるのは私です。心配を理由に隠された鋏は、一度で十分です」


 ロドルフの視線が棚の高さを測るように上がった。


 エロイーズは説明しなかった。契約文へ一行足す。


 職人の道具は、本人の許可なく移動、保管、廃棄しない。


 ロドルフはその一行を読み、反論せず署名した。


「仕事を選ぶ権利も私に」


「兵を危険にする依頼は断れ」


「それは担当職人として私が判断します」


「では判断理由を私へ提出しろ」


「相談はいたします。許可は求めません」


 また書き直す。


 命令口調は一歩も引かないのに、書面はきちんと引く。妙な人だ。過保護を美徳の飾りにせず、責任のある条項へ縫いつけてくる。


「雇用契約はこれでよい」


 ロドルフは署名欄を指した。


「その先の契約についても、私は同じ条件を認める」


「その先、とは」


「私の隣席を、伴侶の席として望むなら」


 真顔で言う内容ではない。いや、笑顔で言われても困る。職人長候補へ向けて、採寸の報告と同じ温度で求愛する辺境伯。恋の仕立て方が武骨すぎる。


「順序が違います、ロドルフ様」


「どこから直す」


「まず、私が職人として自分の名を取り戻します。それまでは席を空けておいてくださいませ」


「分かった」


 ロドルフは自分の隣の椅子へ手を置いた。


「空けておく」


 触れようとした手が、エロイーズの指の手前で止まる。手のひらだけを上へ向け、待った。


 エロイーズが自分から指先を載せると、温布が腫れた節を包んだ。


「三度目の軍服は公会堂で検査します。私の注文控え、ガスパールさんの購入票、ミュリエルさんの検品記録も、同じ日に照合してください」


「初めから公表するのか」


「はい。私は何を求めているか、隠しておりません」


 エロイーズは契約書の下へ本名を置いた。


「仕事と名前を、正しい欄へ戻していただきます」


    *    *    *


「この軍服は、私が監督した改良品です」


 公会堂の中央で、レジスは三着目の軍服を掲げた。


 よく磨かれた靴。癖のない上着。役人へ向ける声だけは丁寧で、糸一本ほどの乱れもない。


 記録官たちが長机へ並び、その向かいにガスパールとミュリエルが座っている。見物席には仕立職人、軍の受取担当、依頼人たちが集まっていた。


 ロドルフの隣には、空の椅子が一脚ある。


 まだ座らない。


「改良した点を説明してください」


 記録官の問いに、レジスは胸を張った。


「不要な縫い目を減らし、礼装にも使える美しい仕上がりにいたしました。以前の手伝いが、見栄えの悪い補強を勝手に加えておりまして」


「以前の手伝いとは、誰ですか」


「エロイーズです。婚約中、家業を手伝わせていました」


 職人へは呼び捨て。記録官へ向ける文末には、きれいな敬語。声にも表地と裏地があるらしい。裏がずいぶん粗い。


「責任者はどなたですか」


「私です。仕入れも製作管理も、すべて私が」


「事故が起きた場合も?」


 レジスの親指が、人差し指の爪を擦った。


「旧作業の不備が残っていれば、当時縫製していた者の責任になるかと存じます」


 美しい仕事は自分のもの。裂ければ追い出した針子のもの。便利な帳面である。どうやら表紙ではなく、都合が革張りだ。


 記録官がエロイーズへ顔を向けた。


「申し立て人。提出する記録を」


 エロイーズは革の書類入れを開いた。


 秘密はない。切り札を袖へ隠す趣味もない。針が引っかかるからだ。


「三者署名のある注文控えが二件ございます。依頼人、受取人、制作者である私の署名です。ほかに、口頭で頼まれて修繕した軍服が一着ございます」


 レジスがすぐに口を挟んだ。


「ほら見ろ。何でも自分の仕事だと言い出すつもりだ」


 見物席にいた若い職人へ向けたときだけ、声が太くなった。だが記録官がペン先を上げると、語尾が急に行儀を思い出す。


 エロイーズは口約束の一着を机の端へ置いた。


「その修繕は口約束でした。悔しいですが、私の仕事だとは申し立てません。証明できる二着だけで十分です」


 レジスの口が半ば開いた。


 反論用に用意していた布を、こちらから裁ち落とされた顔だった。


「一件目を読み上げます」


 記録官が注文控えを取った。


 礼装軍服一着。右袖、肩、肘の動作補強。依頼人署名。受取人署名。制作者、エロイーズ。


 紙が次の記録官へ渡る。署名帳と筆跡が照合され、三つの欄へ確認印が押された。


 一つ。


「制作者欄に訂正や削除の跡はありません」


 次に、組合へ提出された登録票が並べられた。


 同じ注文番号。同じ納品日。同じ受取人。


 制作者、レジス。


「レジス。登録票を提出したのはあなたですか」


「はい。ただし監督者として——」


「質問にだけ答えてください」


「……私です」


「採寸したのは?」


「エロイーズです」


「縫製したのは?」


「作業の一部は、エロイーズが」


「右袖、肩、肘の補強を縫ったのは?」


 レジスの親指が、爪の脇を白くした。


「エロイーズです」


「登録票から、その名を外したのは?」


 公会堂の窓から差す光が、レジスの頬だけを薄くした。


「私です」


 確認印が、もう一つ押された。


 小さな音だった。


 けれど、一晩分の針目を自分の名前へ縫いつけていた糸が切れた。


「ガスパールさん」


「はい」


「この礼装軍服に使用された補強糸について、購入票を確認します。購入日は?」


 ガスパールは票面を見た。


「注文控えの日付の前日です」


「購入者は?」


「エロイーズ」


「受取署名は?」


「本人の署名です」


「同じ糸番を、レジスが購入した記録は?」


「ありません」


 余計な肩入れは一言もない。日付、糸番、受取署名。それだけで、レジスの監督実績はずいぶん身軽になった。


「別の者が購入し、私が指示した可能性もございます」


 レジスは記録官へ向けて笑みを作った。


「では、あなたの指示書を提出してください」


「口頭でしたので」


「記録はない、と」


「家業の内部指示ですから、いちいち残すものでは——」


「申し立て人は、記録のない一着を請求対象から外しました」


 記録官の声は平らだった。


「あなたは記録のない指示を、実績の根拠として採用するよう求めるのですか」


 レジスは答えず、襟元へ指を入れた。


 エロイーズの胸の内で、採点票に一本線が引かれる。自分に有利な口約束だけは証拠。こちらの口約束は虚言。縫い代不足。やり直し。


「二件目を読み上げます」


 三着目の注文控えが開かれた。


 辺境軍訓練服。腕、肘、腰、膝の動作補強。依頼人署名。受取予定担当ミュリエルの署名。制作者、エロイーズ。


「この注文は、申し立て人が解雇される前に受けたものです。裁断と仮縫いを終え、補強位置を指定したところまで記録されています」


「完成させたのは私どもです」


 レジスが言った。


「だからこそ、改良品と申しました。あの者の醜い線を消し、商品として通用する形へ整えたのです」


「醜い線を消した」


「はい」


「不要だと判断したのは?」


「私です」


「その判断を記録したのは?」


「製作管理者として、私が登録しました」


「事故時の責任者は?」


 レジスの肩がわずかに上がった。


「完成前の裁断に問題があれば、元の作業者にも責任が」


「補強を削った判断は、あなたですか」


「はい。しかし元の裁断が——」


「削った箇所が裂けた場合、誰の判断による事故ですか」


「それは、検査をしてからでなければ」


「では、検査します」


 ミュリエルが立ち上がった。


 三着目の軍服を受け取り、衝立の向こうで着替える。戻った彼女は前を留め、肩を回した。


「静止時、異常なし」


 記録官が検品欄へ記す。


 ミュリエルは右腕を前へ伸ばした。


「腕、前方。異常なし」


 横へ上げる。


 肩口が引きつれた。


「肩、横方向。可動不足」


 さらに高く上げた瞬間、脇の糸が続けて三本切れた。


 見物席から息を吸う音が重なった。


 ミュリエルは腕を下ろさない。


「続けます」


「危険だ」


 ロドルフが短く言った。


「ここまでなら問題ありません」


 ミュリエルは肘を曲げ、剣を抜く動きをした。


 肘の外側が裂けた。


 だが、その内側に残っていた細かな補強線は切れない。布の力を受け、別の方向へ逃がしている。表から見れば余計な線。動いた瞬間だけ、着用者の腕を守る線。


「エロイーズ」


 記録官が問うた。


「残っている縫い目は、あなたのものですか」


「はい。注文控えに図示した補強位置と一致します」


「ミュリエルさん。検品欄の控えを」


 ミュリエルは以前受け取った仮縫い品の記録を出した。


「解雇前に一度、試着しています。腕、肘、腰を動かし、この線がある状態では異常なしと記録しました」


「署名は?」


「私です」


 記録官が注文控えの番号と、検品欄の番号を照合する。


 一致。


 ガスパールの糸購入票がその横へ置かれた。


「補強糸の購入日は?」


「エロイーズが仮縫い品を仕上げた前日」


「購入者は?」


「エロイーズ」


「受取人は?」


「エロイーズ本人です」


「完成作業用として後日購入された表縫い糸は?」


「レジスが受け取っています。糸番は別です」


 同じ軍服の中へ、二人の仕事が残っていた。


 帳面はレジスを制作者と呼んでいる。軍服の縫い目は、誰がどこを縫い、誰がどこを切らせたか、一度も口裏を合わせていなかった。


「腰の動作へ移ります」


 ミュリエルが身体をひねった。


 腰脇の表縫いが弾けた。


 その下で斜めに渡された補強線だけが残り、布が大きく開くのを止める。


「ここも、削り残しです」


 ミュリエルは裂け目へ指を入れ、補強線を見せた。


「すべて削れと命じたはずだ!」


 レジスが、見物席の職人へ怒鳴った。


 名を呼ばれた職人は身を縮めた。レジスは椅子を蹴る勢いで一歩詰める。


「お前が勝手に残したんだろう!」


「レジス」


 ロドルフが名を呼んだ。


 それだけで、レジスの足が止まる。


「公会堂で証言者を威圧しないでください」


 記録官が告げた。


 先ほどまで太かった声が、今度は喉の奥へ入った。


「……申し訳ございません。ですが、職人の作業不備でございます」


「不要な線をすべて削れと命じたのですか」


「はい」


「残った線が裂断を防いだことは、今の検査で確認しました」


「偶然です」


「では、同じ動作を二着目の補修済み制服で確認します」


 エロイーズが辺境で補修した上着を、別の軍人が着用する。


 腕を前へ。横へ。頭上へ。肘を曲げる。腰をひねる。


 補強線は布の動きに沿ってわずかに沈み、戻った。


 どこも裂けない。


「偶然が二度続きました」


 エロイーズはレジスを見た。


「三度目もお望みですか。次は膝を曲げます」


 見物席のあちこちで口元が押さえられた。笑いを記録する欄はない。残念。


 ミュリエルが片膝をついた。


 三着目の膝裏が裂けた。


 膝頭の補強線は残り、床へぶつかる寸前で布を支えた。


「検査終了」


 記録官が告げる。


 ミュリエルが立ち上がると、三着目は腕、肘、腰、膝の四か所を開いていた。晴天の式典へ持ち込まれたはずが、局地的な暴風雨を全部引き受けた姿である。


「確認事項を読み上げます」


 記録官の一人が立った。


「一件目。エロイーズが採寸、縫製、補強を行った礼装軍服について、レジスが制作者登録からエロイーズの名を削除し、自らを制作者として登録した」


 確認印。


「二件目。エロイーズが裁断、仮縫い、動作補強を行った辺境軍訓練服について、レジスが補強の削除を指示し、自らの改良品として登録した」


 確認印。


「三着目の着用検査では、レジスが削除させた箇所が裂け、エロイーズの補強線が残った箇所では裂断が止まった」


 確認印。


「注文控えと納品検品欄は注文番号が一致し、糸購入票の日付と糸番は工程記録に符合した。各署名も署名帳と一致した。よって組合登録を訂正します」


 記録官たちが同時に立った。


「礼装軍服と三着目の正式な制作者をエロイーズと認定する。あわせて、辺境軍の制服製作および検品を統括する職人長として登録する」


 公会堂の大帳面が開かれた。


 エロイーズは差し出された羽根ペンを握った。指がすぐには閉じない。左手を添え、一本ずつ曲げる。


 今度は、誰の家の手伝いでもない。


 誰かの監督実績でもない。


 エロイーズ。


 その名を、酷使した指で職人長欄へ書いた。


 記録官が確認印を押す。


 よし。


 胸の中で、針箱の蓋を閉める音がした。勝手に持ち出されていた仕事が、一本残らず自分の名へ戻った。しかも返品不可。公的記録につき、返品不可である!


「レジス」


 呼ばれた男の顔には、反論の形だけが残っていなかった。


「訂正後の職名で、制作者を呼んでください」


「必要があるのでしょうか」


「公的審理で、あなたは一貫して申し立て人を元手伝いと呼びました。その評価が誤りであったことを記録します」


 レジスの唇が動き、閉じた。


 記録官は待った。


 ロドルフも、ガスパールも、ミュリエルも待った。


 見物席の全員が待っている。名を消すときは紙一枚で済ませた男が、名を戻すための一言を、これほど大勢の前で探している。


「……エロイーズ、職人長」


「正式な呼称を」


 レジスの頬が灰色になった。


「エロイーズ職人長」


「はい」


 エロイーズは答えた。


 それだけでよかった。罵倒はいらない。名前を正しい欄へ戻し、間違えた口自身に読み上げさせる。針仕事と同じだ。曲がった縫い目は、端からほどいて正しく縫い直す。


「続いて、登録改変と納入危険に関する処分を執行します」


 二枚の契約書がレジスの前へ置かれた。


 一枚目は仕入れ役の放棄。


 二枚目は賠償契約。再製作費、検査費、公会堂審理費。支払いは家業の収益から分割し、組合が監督する。レジスは家業へ残るが、役職は下働き。仕入れ、登録、検品の権限を持たない。


「署名してください」


「私は家の後継者です」


「後継の扱いは、ご家族と組合監督者が決めます。仕入れ権限の放棄は本日執行します」


「私がいなければ、仕入れが止まる」


 ガスパールが初めてレジスを正面から見た。


「注文書と受取署名を書ける方へなら、糸は売ります」


 簡潔。商売人の慈悲は、信用できる署名欄にしか住まない。


「署名を」


 記録官が繰り返した。


 レジスは羽根ペンを取った。


 一枚目へ名を書く。


 仕入れ役放棄の欄へ受領印が押され、彼の胸につけられていた取引証がその場で外された。組合監督者が受け取り、代わりに無地の下働き札を机へ置く。


 レジスの指が、その札へ触れた。


 二枚目へ署名する。


 賠償契約にも印が押された。


「処分を記録しました。レジスは本日より組合監督下の下働きとし、仕入れ、登録、検品の権限を停止します」


 レジスは下働き札を握ったまま、記録官へ一礼した。


 エロイーズへは顔を向けなかった。


 向けなくて結構。こちらはもう、彼の顔色を見て縫い方を変える職人ではない。


 記録官たちが長机の配置を変えた。


 ロドルフの隣に置かれていた椅子の前へ、新しい札が立てられる。


 辺境軍職人長 エロイーズ。


「エロイーズ職人長。こちらへ」


 エロイーズは書類入れを抱え、自分の足で歩いた。


 レジスの前を通る。


 下働き札を握る彼と、職人長札の置かれた椅子。名前を消せば仕事も奪えると信じていた顔から、その最後の一針が抜けていた。


 エロイーズはロドルフの隣席へ座る。


 その瞬間、公会堂の大帳面が閉じられた。


    *    *    *


 公会堂を出てから、エロイーズは書類入れを持ち替えようとした。


 右手が開かなかった。


 署名の形に曲がった指が、羽根ペンのない空を握っている。


「見せろ」


 ロドルフが手を伸ばし、途中で止めた。


 手のひらを上へ向けて待つ。


「鋏は工房にあります」


「動かしていない」


「針箱も?」


「契約どおりだ」


 徹底している。過保護なくせに、境界線の内側へ靴先を入れない。契約書へ書いた男は、書いたぶんだけ自分を縛る。


 従者が差し出した箱から、ロドルフは温布を取った。もう一方の手は、まだエロイーズの指へ触れずにいる。


「もう、その手を使わなくていい」


 エロイーズは手を引かなかった。


 曲がった指を一本ずつ、ロドルフの手のひらへ預ける。温布が指先から節まで包み、隣を歩く速度がゆっくりになった。


「鋏は明日返してください」


「ああ」


「今夜だけは、指のほうをお預けします」

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