雨
世界は、灰色だった。少なくとも、僕、九条遥人の目にはそう映っていた。美術室のキャンバスの前で筆を止めてから、もう三ヶ月になる。かつて「色彩の魔術師」なんて大層なあだ名で呼ばれた僕の絵は、今や泥水をぶちまけたような濁った色しか生み出せなくなっていた。
「……また、雨か」
下校時刻。昇降口を出ると、アスファルトを叩く冷たい雨音が鼓膜を打った。傘を持っていなかった僕は、フードを深く被り、逃げるように走り出した。絵が描けない僕は、ただの無気力な高校生だ。家に帰りたくない。病弱な妹・カノンの、「お兄ちゃんの新しい絵が見たいな」という無邪気な期待に応えられないからだ。
街外れの寂れた商店街。その一角にある骨董屋『夢幻堂』の軒先で、僕は足を止めた。雨宿りをするつもりだった。薄暗いショーウィンドウの前に、一本の傘が立てかけられていた。ボロボロの黒い傘だ。骨組みは歪み、布地は色褪せている。まるで今の僕みたいだな、と自嘲気味に手を伸ばした時だった。
「それ、開かないほうがいいよ」
鈴を転がしたような声がした。振り返ると、そこに少女が立っていた。年齢は僕と同じくらいだろうか。透き通るような銀髪に、猫のように大きな瞳。着ているレインコートは目が覚めるような鮮烈なレモンイエローで、灰色の雨景色の中で、彼女だけが発光しているように見えた。
「え?」
「その傘。タダのゴミに見えるけど、中身はとびきりのワガママだから」
少女はイタズラっぽく笑うと、僕の手から傘をひょいと奪い取った。
「君、絵描きさんでしょ?指先に絵の具がついてる」
「……今は、描けてないけどね」
「ふうん。色が迷子になってるんだ」
彼女は僕の心を見透かしたように言うと、ボロボロの傘を空へと掲げた。
「私、ルナっていうの。ねえ、ちょっと面白いもの見せてあげる。代金は、君の驚いた顔だけでいいから」
ルナと名乗った少女は、傘の柄にある小さなスイッチのような突起を押した。バチッ、と静電気が弾けるような音がした。次の瞬間。ボロボロだった黒い布が、夜空のような深い紺色へと瞬時に変色した。歪んでいた骨組みは銀色の流線型になり、水晶のような柄が淡く発光する。
「開くよ、星屑の傘」
バサッ。傘が開かれた瞬間、世界が変わった。空から降り注いでいた冷たい雨粒が、傘の表面に触れた途端、パキン、パキンと硬質な音を立てて弾け飛んだのだ。それは水ではなかった。光だった。金、銀、ピンク、エメラルドグリーン。雨粒が、色とりどりの金平糖のような、小さな星の欠片に変わっていく。ざらざらと音を立てて地面に落ちた星屑たちが、薄暗い路地裏をプラネタリウムのように照らし出した。
「……嘘だろ」
僕は言葉を失った。灰色だった視界が、圧倒的な光の奔流に塗り潰されていく。
「綺麗でしょ?この傘はね、悲しい雨を星に変える魔法の道具なの」
ルナは傘をくるくると回しながら、足元に落ちた星屑を掌ですくい上げた。
「はい、あげる。これを持っていれば、ちょっとだけいいことがあるかもよ」
手渡された星屑は、ほんのりと温かかった。その温もりが指先から伝わった瞬間、僕の脳裏に、忘れていた「描きたい色」がフラッシュバックした。鮮やかな夕焼けの赤。深海の青。新緑の緑。ああ、そうだ。世界はこんなにも美しかったんだ。
「君は……何者なんだ?」
「私?私はただの、この傘の管理人。……兼、君の色のファンかな」
ルナは意味深にウィンクすると、傘を閉じた。星屑たちはふわりと溶けて、ただの水たまりに戻っていった。
それが、僕とルナ、そして魔法の傘との出会いだった。
それから、雨の日が待ち遠しくなった。僕は放課後になるとルナと落ち合い、街のあちこちで「星屑集め」をした。公園、神社の境内、誰もいない屋上。ルナが傘を開き、僕が瓶を持って星屑を集める。この星屑には、不思議な力があった。瓶に詰めて願いを込めると、ささやかな奇跡が起きるのだ。
枯れかけた花壇に星屑を撒けば、翌日には満開の花が咲いた。足を怪我した野良猫に星屑を与えれば、すぐに元気になって走り出した。泣いている迷子の子供に星屑を一粒あげると、母親がすぐに見つかった。
僕は夢中になった。誰かを笑顔にするたびに、僕の中の澱んだ灰色の絵の具が、少しずつ透明になっていく気がしたからだ。そして何より、雨の中で傘を差して笑うルナの横顔が、どんな名画よりも美しかった。
「ハルトの描く絵、優しくて好きだよ」
ある日、美術室で僕のスケッチブックを覗き込みながら、ルナが言った。最近、僕はまた筆を握れるようになっていた。以前のような技巧的な絵ではない。もっと素朴で、光に満ちた絵だ。
「ルナのおかげだよ。あの傘が、僕に色を思い出させてくれた」
「……そっか。役に立ててよかった」
ルナは嬉しそうに微笑んだが、その瞳の奥には、どこか寂しげな色が滲んでいた。
異変に気づいたのは、梅雨入りした六月のことだった。妹のカノンの見舞いに行った帰り道。信号待ちをしていると、赤信号の色が、妙に薄く見えた。
「あれ……?LED、切れてるのかな」
目をこする。だが、変わらない。家に帰って、カノンが剥いてくれたリンゴを見た時、背筋が凍った。リンゴの皮の赤さが、まるで色褪せた古い写真のように、くすんで見えたのだ。
翌日、僕はルナを問い詰めた。
「ルナ、隠してることあるよね。あの傘を使うと、何かが起きるの?」
いつもの路地裏。雨は降っていないが、空は重い雲に覆われている。ルナは視線を逸らし、足元の小石を蹴った。
「……気づいちゃった?」
「僕の目、おかしいんだ。赤色が、灰色に見える」
「それが、代償」ルナの声は静かだった。「星屑の傘は、奇跡を起こす。でも、エネルギー保存の法則からは逃げられない。星屑の輝きは、使用者の『色彩感覚』を燃料にしてるの」
「色彩感覚……?」
「そう。使えば使うほど、君の世界から色が消えていく。最初は赤、次は青、黄色……最後は、完全なモノクロになる。二度と戻らないわ」
僕は言葉を失った。画家を目指す僕にとって、色を失うことは死刑宣告に等しい。
「なんで……なんで最初に言わなかったんだ!」
「言ったら、君は使わなかったでしょ?君は優しすぎるから、誰かのために自分の色を差し出しちゃう。……でも、もう十分だよ。ハルトはスランプを脱出した。もう傘は使わないで」
ルナは僕から傘を取り上げようとした。だが、僕はその手を拒んだ。
「待ってくれ。カノンの病気……あれも、治せるのか?」
妹の病気は難病で、現代医学では治療法が見つかっていなかった。日に日に弱っていく妹。
「……理論上はね。でも、それには膨大な量の星屑が必要になる。台風くらいの豪雨を一晩中、傘で受け止め続けるくらいの。そんなことをしたら、ハルトの色は全部なくなるよ!」
「それでも、カノンが助かるなら……!」
「ダメ!私は君の絵が好きなの!君が色を失って、絶望する顔なんて見たくない!」
ルナは初めて声を荒げた。その目には涙が溜まっていた。彼女が僕のために、どれほど心を痛めていたのか。けれど、僕の決意は揺らがなかった。妹の命と、僕の色彩。天秤にかけるまでもない。
「ごめん、ルナ。僕は、妹に生きていてほしいんだ。色なんて、妹の笑顔に比べたら安いもんだよ」
僕はルナの手から傘を引ったくり、駆け出した。天気予報によれば、今夜、観測史上最大級の台風が上陸する。
夜。世界は轟音に包まれていた。暴風雨が街を殴りつける。僕は病院の屋上に立っていた。風で吹き飛ばされそうになる体をフェンスに縛り付け、手には星屑の傘を握りしめている。
「頼む……もってくれ!」
バサッ!傘を開いた瞬間、凄まじい衝撃が腕に走った。豪雨が傘に当たり、弾け飛び、光の奔流となって降り注ぐ。普段の優しい星屑ではない。隕石のような激しい光の礫。僕は足元に置いた大きなガラス瓶に、必死で光を集めた。
パリン。視界の端で、何かが割れる音がした。フェンスの緑色が、灰色になった。続いて、遠くのネオンの青色が、薄汚れた鼠色に変わる。
色が、死んでいく。僕の世界から、鮮やかさが剥がれ落ちていく。恐怖で手が震えた。これが、僕のこれから見る世界なのか?大好きな空の青も、桜のピンクも、夕焼けのオレンジも、すべて泥水の中に沈んでいく。
『ハルト!やめて!』屋上の扉が開き、ルナが飛び出してきた。彼女のレモンイエローのレインコートだけが、唯一の色として見えた。
「来ちゃダメだ!あと少しなんだ!」
「バカ!もう十分だよ!これ以上やったら、心が壊れちゃう!」
ルナが駆け寄ってくる。その瞬間、最後の一撃のような突風が吹き荒れた。傘が悲鳴を上げる。同時に、僕の視界から「黄色」が消えた。ルナの姿が、灰色の背景に同化した。
「……あ」
世界は、完全にモノクロになった。白と黒、そして無限のグレーだけの世界。瓶は星屑で満タンになり、眩い白色光を放っている。だが、その光ですら、僕にはただの「明るい白」にしか見えなかった。
「ハルト……」ルナが僕の前に膝をついた。彼女の表情はわかる。泣いている。でも、その瞳の色も、涙の色も、もうわからない。
「集まったよ、ルナ。これで、カノンは助かる」
僕は震える手で瓶を差し出した。ルナは瓶を受け取らず、僕の頬に触れた。
「……本当に、バカなんだから」
彼女は瓶を受け取ると、それを屋上の給水塔に向かって投げつけたのではなく――空へと掲げた。
「え?」
「この星屑は、カノンのために使う。でも、ハルトの世界をこんなままにしてはおけない」
ルナは悲しげに、でも決意に満ちた顔で微笑んだ。
「私はね、この傘から生まれた精霊なの。人々の『色』への憧れが形になった存在」
「何を……言ってるんだ?」
「私の命をすべて魔力に変えれば、一つだけ、理をねじ曲げられる」
ルナの体が、淡く発光し始めた。モノクロの世界の中で、彼女だけが、輪郭を取り戻していく。
「ダメだ!そんなことしたら、ルナは!」
「いいの。私はハルトの絵が大好きだった。ハルトが見る世界が、誰よりも美しかったことを知ってる。だから……私の色は、全部君にあげる」
ルナは瓶の蓋を開け、星屑を一気に空へ解き放った。同時に、彼女の体が光の粒子となって崩れ始めた。
「さよなら、ハルト。……最後に、君の最高の絵、見たかったな」
「ルナ!!」
僕が伸ばした手は、光の粒を掴んで空を切った。彼女の姿は消え、その光は星屑と混じり合い、病院の下の階――カノンの眠る病室へと降り注いでいった。そして、一部の光が、僕の目の中に飛び込んできた。
熱い。目が焼けるように熱い。僕は意識を失い、その場に崩れ落ちた。
目が覚めた時、台風は過ぎ去っていた。僕は病院のベッドの上にいた。
「お兄ちゃん!」
聞き慣れた声。振り返ると、そこには信じられない光景があった。カノンが、ベッドの上に起き上がって、リンゴを剥いている。その頬は――薔薇色に染まっていた。
「赤……」
僕は呟いた。赤いリンゴ。薄緑のカーテン。青い空。色が、戻っていた。いや、以前よりも遥かに鮮やかに、世界が輝いて見えた。
「お兄ちゃん、寝言で『ルナ』って言ってたけど、誰?」
カノンの問いに、僕は言葉に詰まった。ルナ。記憶は鮮明にある。レモンイエローのコート。銀色の髪。だが、僕の手元には何もなかった。あの傘も、星屑の瓶も。
僕は屋上へ駆け上がった。水たまりが、朝日を反射してきらきらと輝いている。そこには、一本の傘が落ちていた。骨組みが折れ、布が破れた、ただのボロボロの黒い傘。魔法の力など微塵も感じさせない、ただのゴミ。
でも、その傘の柄に、小さなステッカーが貼ってあるのを見つけた。黄色い、三日月のシール。『Luna』という文字。
「……バカは、そっちだろ」
僕は傘を抱きしめ、泣いた。彼女は自分の存在と引き換えに、妹の命を救い、僕に色を返してくれたのだ。彼女自身が、僕の目の中に溶けて、この世界を鮮やかに照らしているのだ。
数日後。僕は再び、美術室のキャンバスの前に立っていた。迷いはなかった。描きたいものは、決まっている。パレットに絵の具を出す。鮮烈なレモンイエロー。深い夜空の紺色。そして、光り輝く星屑の白。
筆を走らせる。灰色だった僕の世界を救ってくれた、あの日一番の色彩を。雨上がりの空に架かる虹のように、彼女は僕の心の中にずっと生き続けている。
完成した絵のタイトルは、『雨降る夜の星屑アンブレラ』。絵の中の少女は、今にも動き出しそうなほど鮮やかに、傘を差して悪戯っぽく微笑んでいた。




