憑依
第一章:侵食の始まり
俺は、東野慎二。大学病院に勤める、ごく普通の医師だ。日々、人の命と向き合う仕事に、俺の人生は満ち足りていた。そう、あの日までは。
あの日以来、俺は毎晩同じ夢を見る。
夢の中の俺は、高井千尋という名の女になっていた。華奢な体、長い髪、そしてどこか儚げな雰囲気をまとった女性。俺は、夢の中で千尋として、ある男に恋をしていた。彼の名は、神崎彰。スマートな顔立ち、理知的な雰囲気。俺は、夢の中で千尋として、毎晩、神崎にアピールを繰り返していた。だが、夢の中の千尋は、どうにも神崎の心をつかめない。努力は空回りし、その距離は縮まるどころか、離れていくばかりだった。夢から覚めるたびに、見知らぬ女の絶望感が、俺の胸に重くのしかかった。
だが、ある夜を境に、夢の内容が変わった。
夢の中の俺、つまり千尋は、以前とは全く違う振る舞いを始めた。恋愛の駆け引きも、必死なアピールもやめた。その代わり、俺が培ってきた知性や、趣味のクラシック音楽の知識を、ごく自然に神崎との会話に織り込んだ。神崎が読みかけの本について尋ねると、俺はまるで自分のことのように、その作家の背景や、作品のテーマについて淀みなく語った。神崎が趣味のチェスについて話すと、俺は過去の棋譜を引用しながら、戦略的な視点からその面白さを語り合った。
俺が、千尋に「憑依」するようになってから、神崎は明らかに態度を変えた。彼の視線は、俺が語る言葉一つひとつに真剣に向けられ、やがてその瞳に、興味とは異なる、はっきりとした「愛」が宿り始めた。夢の中で、千尋の体は神崎と最高の時間を過ごした。知的な会話を楽しみ、同じ音楽に心震わせ、まるで魂が共鳴するような感覚を味わった。
俺は夢から覚めるたびに、奇妙な感覚に襲われた。他人の体で他人の恋愛を成就させるという奇妙な満足感と、もう一つ、その女性、千尋に自分の体が侵食されていくような、言い知れぬ不快感だった。
第二章:現実との交錯
ある土曜日の午後。病院の近所のカフェで、俺は現実の神崎彰に、偶然出会った。
夢の中の彼と寸分違わぬ姿。心臓が跳ねた。気がつけば、俺は彼に話しかけていた。「もしかして、神崎さんですか?」
神崎は驚いた顔で俺を見た。俺は、夢で何度も交わした会話の内容を元に、彼と話した。クラシック音楽、チェス、そして彼が愛読する作家のこと。話せば話すほど、彼は俺に惹かれていくようだった。
「どうして、僕の趣味をそんなに…」神崎は不思議そうに尋ねた。
俺は、一瞬戸惑った後、勇気を出して、夢の中の女性、千尋のことを尋ねた。「実は、高井千尋さんという方をご存知で…?」
神崎は一瞬顔を曇らせたが、すぐに笑顔に戻った。「ああ、千尋さんね。知っているよ。昔、知り合いだったんだ。でも…最近は全然会っていないかな」
その言葉に、俺は胸をなでおろした。そして同時に、言いようのない罪悪感に襲われた。夢の中で、俺が千尋の体で神崎を夢中にさせている間、現実の彼女は、彼から遠ざけられていたのだ。
だが、罪悪感は、神崎への募る想いの前では、あまりに無力だった。夢の中の俺と千尋がそうだったように、現実の俺と神崎も、まるで磁石のように惹かれ合った。そして、俺たちは、男同士であるという葛藤を乗り越え、結ばれてしまった。
愛が深まるにつれて、俺の体には、奇妙な異変が起き始めた。鏡を見ると、一瞬だけ、俺の顔が千尋の顔に見える。誰かと話していると、時折、千尋の声と話し方が混じる。そして、俺の知らない記憶が、断片的に頭の中に流れ込んでくるようになった。
第三章:千尋の怨念
その記憶の断片は、悪夢のようだった。
神崎に愛されたい一心で、常軌を逸した行動をとる千尋の姿。彼の周りの女性を傷つけ、神崎に嘘を重ねる姿。そして、俺は、最後に彼女が見た光景を見た。神崎が、恐怖に顔を歪ませながら、千尋を突き飛ばす姿。千尋の頭は、床の鋭利な角に打ち付けられ、血が噴き出した。
そう、千尋は、神崎に殺されていたのだ。
彼女は、あまりにも神崎を愛しすぎた。そして、その狂気じみた愛の末に、自らの命を散らしたのだ。そして、その怨念が、俺の夢に、そして現実の肉体に憑依し始めた。なぜなら、神崎が千尋を愛したのは、彼女が「俺」だった時だけだったからだ。
ある夜、俺は決心した。真実を確かめるために、神崎と向き合うのだ。
「彰…君は、高井千尋のことを、どう思っていたんだ?」
俺は震える声で尋ねた。神崎は、一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げ、穏やかな声で言った。「千尋さんには、感謝しているんだ。僕に、君と出会うきっかけをくれたから」
その言葉を聞いた瞬間、俺の体は、俺の意志とは無関係に震え始めた。神崎の言葉は、まるで千尋の怒りの導火線に火をつけたようだった。
「感謝?……感謝だと…?」
俺の声が、千尋の声に変わった。その口から、止めどなく彼女の怨念が溢れ出す。
「お前は、この私を殺しておいて、まだそんなことが言えるの…!?」
俺の腕が、勝手に動いた。神崎の首に、冷たい手が伸びる。神崎は、怯えた顔で俺の顔を見た。その瞳に、かつて千尋が殺される直前に見た、恐怖の色が浮かんでいた。俺の意識は、肉体の奥深くへと沈んでいく。
俺は、自分の体で、愛する男を殺す瞬間の、その全てを、ただ見ていることしかできなかった。俺の顔に浮かぶのは、千尋の歪んだ喜びの表情。俺の腕に込められるのは、千尋の怨念が生み出した、狂気じみた力。
俺は、彼女の体を借りて、彼を愛した。 そして今、彼女は、俺の体を借りて、彼を殺した。
俺の人生は、千尋という女の怨念に、完全に飲み込まれていた。