第55章 女性達の決意(エルリック視点)
王宮から戻った僕は、父であるグルリッジ公爵に、サロンでのやり取りをありのまま、できるだけ正確に伝えた。
王宮を去る際に、王妃殿下からそうお願いをされたからだ。そして、筆頭公爵である父上へ、協力して欲しいという旨の国王陛下の書状を渡すことも。
これまで貴族達の様子見をしながら事を進めてきた王妃殿下だったが、これ以上時間をかけるのはもう限界だと、ようやく判断をされたのだ。
それは例の薬がほぼ完成したこと、そして、クリスタル嬢が国王陛下と王太子殿下をようやくやる気にさせたこと、それが大きかったようだ。
「鉄は熱いうちに打て! この勢いに乗じて反対勢力を抑え込むわ!」
王妃殿下はご自分を鼓舞するようにそうおっしゃった。
正直、陛下がよくこんなもの書いたな、と思った。
しかし、クリスタル嬢が話していたあの脅しを王妃殿下が使ったのだろう、ということは簡単に想像できた。
王妃殿下はとてもお優しい方だ。
これまで、例の事件に関する話を陛下には一切しなかったそうだ。責める言葉も発したことはなかったと。
もし、それを思い出させて陛下がその感情を爆発させておかしくなったらどうなるか、それが想像できなくて怖かったというのもあったからかもしれないが。
もちろん、それ以外の嫌味はチクチク言っていたと笑っておられたけれど。
それなのに、陛下のクリスタル嬢への態度が王妃殿下の怒りを爆発させてしまったのだ。そう、表面上は笑みを浮かべながらもその心の奥底でドカンっと。
陛下は「その血」による本能で危機を察したらしい。このままでは本当に妻に見限られてしまう。今度こそ本当に。
サロンのメンバーがディナーを取るために食堂へ移動していた時、王妃殿下は国王陛下の執務室へ向かっていた。
そこで、ほぼ出来上がった王室典範の草案を横目で見ながら、こうおっしゃったそうだ。
「やる気を出しさえすれば、こんなに早く出来上がるものだったのですね。
陛下には是非とも、これまで無駄に費やした私や娘達の貴重な時間と労力を返して頂きたいものですね」
これまでの妻だったら仕事をしたことを優しく褒めてくれたことだろう。
しかし、いまだかつて見たことのないその冷たい微笑に、陛下は体中が凍り付きそうになったらしい。
「グルリッジ公爵宛の法律改正のための協力依頼書を、今すぐこの場で書いて下さい。エルリック公子様がディナーを終える前に」
有無を言わせない妻の命令を聞いた陛下は、「その血」による本能により、激しく動揺したらしい。おそらくは警戒アラームが鳴りっ放しの状態だったのだろうな、と僕は想像した。
「父上、お受けするおつもりですか?」
「当然だ。元々私は宰相やギラバス侯爵とも王室典範を改正しなければと話していたのだからな。
なぜああも陛下がそれに無関心なのか、疑問でしかなかったが、それも先祖の血というもののせいなのかもしれないね。
この国を造ったのは、妻が夫に服従するという生態を持つ、番の夫婦だったらしいからな。
その血のせいで無意識に拒否反応が現れていたのかもしれないな」
父上の説明は王妃殿下の話よりも説得力があった。今まで知らなかったのだが、民俗学や歴史が父上の学生時代からの趣味なのだそうだ。
罠を掛けた伯爵というのは、王家の傍系の流れを汲んでいたらしい。
父上からすると能力やその性格に問題があり、側近には適していないように感じていて、強く忠告したのだという。
しかし、陛下とは何かと波長が合ったようで聞く耳を持たなかったそうだ。そして当時の国王も反対しなかったらしい。
おそらく彼もまた番の血が濃かったのだろう。もっともそれは、男が女よりも優位であるべきだという願望においてだけだったようだが。
本来の番の強さは、相手の番を守るため必要なものであり、その強さを他人に誇示するものでも、ましてやパートナーを一方的に服従させるものでもないらしい。
つまりその伯爵は真に人を愛せず、ただ人を支配したいという願望のみに生きた、最低最悪の男だったのだろう。
そんな男を恨んでいた人間は数多くいることは想像に難くない。そんな者達にルディン殿下は狙われているのだ。
ルディン殿下はとても心優しいお子様だ。素っ気ない兄のことも慕っているし、母親である王妃殿下にも子供ながらに気遣いができる。
そして、なによりパトリシア嬢のことが大好きだというのだから、同じ番の血でも、その伯爵とは違うだろう。
いくら伯爵家の血が憎くても、殿下には何の罪もない。それなのに命を奪うなんてとんでもない話だ。
できるだけ早く殿下を王宮から解放しなくてはいけない。
そのために自分は何ができるのだろうか。早急にそれを考えなければならない、と僕はそう思った。
✽✽✽✽✽
その翌日に学園の授業を終えた僕は、すぐその足で王太子殿下やルビア嬢と共に王宮へ向かった。
王妃殿下、いや国王陛下から何か言われたのだろうか。王太子殿下はいつもと違っておとなしかった。そして僕達の顔色を伺っていた。
それを分かっていて、ルビア嬢は完全に殿下を無視していた。
十歳の頃には既に完璧な淑女だったルビア嬢が、人前で感情を爆発させたのは、あのガーデンパーティー直後の時の一度きりだったと記憶している。
そう。クリスタル嬢のことで怒りを爆発させたらしいルビア嬢に、王太子殿下は酷く動揺して僕に泣き付いてきたことがあったのだ。
その時は詳しい理由は教えてもらえなかったので、ボディーガードに酷い嫉妬をして怒りを買ったのだろうと思っていた。
その後は僕の知る限り、ルビア嬢が殿下に対して感情を露わにしたことはない。
おそらくクリスタル嬢に関することは何を言っても無駄だと彼女は悟ったのだろう。
そして徐々に他のことでも期待しなくなっていったのではないだろうか。
殿下に向けるそのアルカイックスマイルを目にする度に、諦めたような冷めた感情が垣間見えていたから。
僕はこれまで何度も殿下に注意をしてきた。彼女の気持ちを思いやって下さいと。
貴方は抜け殻の彼女でも側に置いておけば満足するのですか?と問いて続けてきた。
その度に殿下は顔を苦しそうに歪めて
「分かっている。君の言う通りだ。僕だって彼女を大切にしたいんだ。でも、どうしようもできないんだ」
と言っていた。殿下は番の血に抗えずに苦しんでいたのかもしれない。昨日の話を聞いてそう思った。早く例の薬を投与できればいいのだが。
薬の効果が出るまで、ルビア嬢は我慢してくれるのだろうか。もう無理なのだろうか。
そんなことを考えていたら、王宮に着き、ルビア嬢は王太子殿下に向かってこう言った。
「殿下、何故私達の後を付いて来られるのですか? 執務室とは反対ですわ」
「クリスタルの見舞いに行くのだろう? 私も一緒に行くよ」
「何故ですか?」
「何故って、二度も倒れたと聞いたら心配するのが当然じゃないか」
「陛下に見舞いに行けと言われたのですか?」
冷たい顔でそう聞かれて、殿下は目を大きく見開いた。そして違うと震える声でそう言った。しかし目が泳いでいたから、おそらく陛下に忠告されたのだろう。
このままクリスタル嬢に冷たい態度をとっていたら、本当にルビア嬢に嫌われると。
「心からクリスを心配しているわけではないのでしょう? そんな方に見舞いに来てもらっても迷惑ですからご遠慮下さいませ」
その冷たい言葉を投げかけられて、王太子殿下は呆然としてその場に立ち尽くした。
しかし、彼女はそんな殿下を見ようともせずに背を向けて歩いて行った。もちろん僕もそれに従った。
正直彼よりもクリスタル嬢の方が大切だから。
「王妃殿下に倣うつもりかな?」
彼女の後ろからそう小声で訊ねると、ルビア嬢は両肩を少し上げて、何も言わずにニコリと笑った。




