一日遅れのクリスマス
「ごめんねぇ~、結局行けなくなっちゃって」
「ううん、いいのいいの。たっくん大丈夫?」
しんしんと雪が降り続けるクリスマス。
スマホの向こうから聞こえてくる声は、あの頃と何も変わらない。私達が上司と部下として、バリバリ働いていたあの頃と。
「ん~何とか熱は少し下がってきてるけど、まだ7度台後半だね。今も部屋で寝てるさ」
小学5年生の息子・琢斗は、数日前から高熱を出して寝込んでいた。電話の相手、私の元部下であり親友でもある彼女の家族と、ここ数年毎年やっているささやかなクリスマスパーティーを、今年も楽しみにしていたと言うのに。ドンピシャで大当たりするんだから。
「葵さんは大丈夫? 看病疲れしてる声してる。ちゃんとご飯食べてる?」
昔と何も変わらない、せせらぎみたいな声で聞いてくる。
「ははは! なんかそれ、昔に私があんたによく言ってたようなセリフだね。大丈夫だよ私は」
陽気に答える私はと言うと、看病疲れで、ソファに寝転がりながらスマホを耳に当てているんだけど。
「ふふふ。それならよかったけど。泰輔さん今日もいないんでしょ?」
「うん。たいちゃんは2日後くらいかな、帰って来れるのは。海越えちゃってるしね」
泰輔、は旦那の名前。私より5つ年上で、長距離トラックの運転手をしている。
「優香ちゃんは風邪引いてない?」
「うん、うちは大丈夫。学校でも結構流行ってるみたいだけど」
「春琉も気ぃ付けなよ。私もさ、琢斗からもらわないように家でもずっとマスクしてるもん」
寝転がったままボーっと見つめる窓の外、白い空をバックに大きな雪の粒がわっさわさと降っている。
後で必ず埋め合わせする事を伝えて、電話を切った。
ふーっ、とため息を短くついて、ソファに身を預ける。
お互い年を取ったけれど、春琉は本当に変わらない。私より2つ年下の41歳だけれど、40代になんて見えないし、馬鹿がつくくらいに素直で純粋な性格も、ちょっと間抜けな所も、若い頃と何ひとつ変わらない。あの子に小1の娘がいるという現実も、何だかいまだに信じられないほどだ。
まだお互い20代だった頃、私達は手作りパン屋の移動販売員として働いていた。私が30になる少し前に、いわゆる寿退職と言うやつで仕事を辞め、春琉はその5年ほど後に退職している。
春琉が新人として入って来た時に私は彼女の育成担当となり、そこからずっと仲が良い。仕事を辞め、何年も経ってもずっと交流を続けられているこの関係は特別だと私は感じている。元々内気だったあの子に対し、私と来たら豪快で騒々しい性格だったから(今もだけど)、当時は何かと迷惑をかけたんじゃないかと思う。でも、そんな性格の差がかえって私達をうまく引き寄せあったのか、やたらと気が合った。
向こうはどうかわからないけれど、今でも彼女と仲良くいられている事に、少なくとも私は感謝している。
「ふああ……母ちゃ~ん……」
寝転がったまま雪がワサワサ落っこちて来る様子を見ていると、リビングの扉が開いてのそのそと琢斗が入って来た。髪の毛が大爆発していて、思わずブハッと吹き出してしまう。
「すんごいな頭! なした? 具合どう?」
「なんかアイスとか食いたい」
起き上がった私のすぐ隣に座りながら言う。ちょっとだけ赤く潤んだ目は、私を見ずにまっすぐ前を見つめている。
「お、ちょっと食欲出て来た? ちょっと待ってな」
私は立ち上がり、台所へと向かう。冷凍庫に、ネットスーパーで買い込んだカップアイスがたくさん入っている。琢斗が寝込んだその日に、スポーツドリンクと一緒に頼んで届けてもらっていた。
チョコがいい、と呟く声に短く応え、チョコ味のカップアイスを冷凍庫から取り出す。
「さっき優香ちゃんのママから電話あってさ」
アイスとスプーンをテーブルに置きながら、そう声をかける。
「心配してたよ、たっくん大丈夫? って」
「クリスマス会めっちゃ行きたかった……なんでこのタイミングなんだよ、風邪」
琢斗は怒りをぶつけるかのようにアイスの蓋をバリッとめくり、荒っぽくスプーンでアイスをすくい上げている。
「埋め合わせするって言ってあるから、治ったら遊びに行こ、優香ちゃんとこ」
「ん。行く」
ブスッとした表情でチョコアイスを頬張る様子が、何ともかわいい。もう小5だけれど、コイツはいつまでも赤ちゃんみたいにかわいいなと思ってしまう。親バカだと言われようが何だろうが、かわいいものはかわいい。
まさか私がね。こんなふうになっちゃうなんてな……。
自分でも知らなかった自分を、嫌と言うほど見せられた。琢斗が生まれて。
――琢斗、メリークリスマス!
体調はどう?
今年もクリスマス一緒にいられなくてごめんね。
母ちゃんがそばについてるからがんばれよ。
早く良くなって、次に父ちゃんが帰る時には一緒にクリスマスプレゼント買いに行こう。
楽しみに待っててね!
夜、たいちゃんから届いたメールを琢斗に見せる。父ちゃん大好きな琢斗は素直に喜んでいた。
こういった季節のイベント事やら学校行事なんかにたいちゃんがなかなか顔を出せない事には、琢斗はもう慣れっこだった。でも、本当は父ちゃんにも来てほしいと思っている事は、私にはわかっている。父ちゃんは忙しい人だと理解しているから、彼はわがままを決して言わない。言えば私に迷惑をかけるという事も理解していて、我慢しているんだ。
こればかりは仕方ない事とは言え、やっぱり申し訳なさを感じてしまう。
たいちゃん自身が子供思いで優しい事が、大きな救いだ。たまに家に帰って来ると、持てる限りの時間を琢斗と一緒に過ごしてくれる。
たいちゃんもまた母子家庭で育ち、子供の頃は寂しい思いを何度もしていたらしい。琢斗には出来る限り同じような思いをさせたくないと、彼はいつも口癖のように言っている。
夜になると、熱が上がってくる。琢斗は赤い顔をして、少し眉間に皺を寄せながら眠っている。そっと挟んだ体温計には、38.3℃と表示されている。流行りのインフルエンザやら何やらではなかった事はせめてもの救いだけれど、今回の風邪はしぶといようで、どうにもなかなかすっきりと治ってくれない。
うちのクリスマスパーティーはたいちゃんが帰ってきてからの予定だから、今日はプレゼントも特にない。熱にうなされるだけの、苦しいクリスマス。メリー苦しみます、なんて誰かが昔言っていたような……と、くだらない事を思い出す。
午前0時のリビングで1人テレビを見ていたら、突然玄関の扉がガチャガチャと開いた音が聞こえた。泥棒でも入って来たのかと思い、思わず私は廊下に飛び出した。考えるより先に体が動いていた。琢斗が寝ている部屋は、玄関に近い位置にある。
けれど、そこにいたのは見慣れた人物。
「た、たいちゃん!?」
全身が一気に脱力する。彼は、慌てて飛び出した私の姿を見てきょとんとしている。
「あれっ? 今日、帰ってくる日だっけ……?」
看病疲れで、記憶違いをしていたのかと思った。帰ってくるのは2日後だと思っていたんだけど。
「メリークリスマス」
小さな声だけど、はっきりとそう聞こえた。たいちゃんは玄関で靴を履いて突っ立ったまま、髭の生えたいかつい顔を照れくさそうに綻ばせた。彼が両手に大きな紙袋をいくつか持っている事に、初めて気付く。
聞くと、業務内容に急遽大きな予定変更があったらしい。想定よりも早く帰る事が出来そうだから、あえて知らせずに、クリスマスのサプライズにしてやろうと考えたと彼は笑った。
眠っている琢斗の顔を扉の隙間から覗いた後、リビングに入った途端にたいちゃんは突然私にバックハグをしてきやがった。クリスマスだからって……! ちょっと悔しいけれど、ついつい、嬉しくなってしまう。
「メリークリスマス」
さっきと同じボソボソとした声で囁く。たいちゃんは見た目いかつくてヤンチャそうな雰囲気だけれど、声は小さいし、大人しい。
そして、究極に優しい。
「ズルいだろ。連絡くらい寄越せばいいのにさ」
ニヤニヤしながら言ってやると、私の耳元でフフッと笑う。吐息がくすぐったい。
「ありがと。帰って来てくれて」
「葵もありがとう。琢斗の事、1人で大変だったよね」
ボソボソ聞こえるその低い声に、自分の中の張り詰めていたものが一気に解けて行く。
口数少ない彼の一言は、その分詰まっているものが大きくて温かい。おそらく他の人からすればただの寡黙な男の呟きだろうけれど、私にとっては、不思議な力が込められた魔法のようだ。子供の発想みたいであんまりにも恥ずかしいから、そんな事、絶対に口に出したりはしないけれど。
春琉と一緒に働いていた手作りパン屋で、たいちゃんとも出会った。あの会社は私に素晴らしい宝物を色々与えてくれたと思う。入社当初の私はただ勢いが良いだけの生意気な若者だったけれど、たいちゃんや春琉との出会いのお陰で、私は優しくなれた。
「やったぁ! スーパームリオブラザーズだぁっ!」
翌朝、枕元に置かれていた袋の中からプレゼントの箱を取り出して、琢斗は叫び声をあげた。ずっと欲しがっていたスーパームリオの新作、たいちゃんが空き時間に買ってくれていたらしい。
「母ちゃ~ん! サンタさんが来……あれぇぇっ!?」
リビングに突進してきた琢斗は、さらに大きな声を出した。
「父ちゃんっ!!」
「琢斗、ただいま。メリークリスマス」
いないはずの父ちゃんの姿を見つけて、満面の笑みになる。ソファに座っていたたいちゃんに嬉しそうに飛びつく姿は、やっぱりまだまだ子供だなぁと微笑ましくなる。
「父ちゃん昨日の夜中に帰ってきたんだ。急に休みになってね」
「マジかよ! やったぁっ」
たいちゃんも琢斗に負けないくらいの、満面の笑み。相思相愛ってこいつらの為にある言葉だな……と思う。
不思議な事に、琢斗の熱は一気に36.9度まで下がっていた。数日がっつり寝込んだ分を取り戻すかのように食欲も爆発し、顔色もみるみる良くなって行った。
琢斗とたいちゃんは朝食後、早速スーパームリオブラザーズに熱中し始めた。歓声をあげてはしゃぐ2人の背中を見つめながら、幸せな気持ちになる。
琢斗にも私にも、たいちゃんという一日遅れのサンタが来てくれた。急激に琢斗が元気になったのも、間違いなくたいちゃんの力だ、と思う。
その時、インターホンが鳴った。モニターを確認すると、なんとサンタクロースが立っている。怪しさ満載……。もしやこれもたいちゃんが仕込んだサプライズか? と思ったけれど、彼もこちらを見て不思議そうな表情をしている。
ちょっと不審に思いながらも応答すると、
「メリークリスマス! 琢斗君に、お熱と戦ったご褒美を持ってきましたよ。琢斗君いますかぁ?」
帽子と付け髭の間で、優しそうな目が笑っている。声は作っているようだけれど、どこかで聞いた事があるような……?
琢斗が熱を出していた事を知っていた、と言う事は……
……いや、誰だよ?
「は、はい……ちょっと待って」
「あ、インターホン越しでいいですよ。風邪が悪化してはいけませんからのぅ」
ゲームをしている琢斗に声をかける。サンタさんが来ているよ、と。は? と言われたけれど、本当の事なんだから、それ以外に言いようがない。
モニターを覗き込んだ琢斗は、目を丸くしている。
「琢斗君、今年のクリスマスは風邪と戦ってえらかったなぁ! いいものを持ってきたぞ。何が入っているかはお楽しみ。では、さらばじゃ~!」
そう言ってサンタは片手を上げ、モニターの画面からサッとしゃがむようにして姿を消した。その途端、急に見慣れた人物が姿を現した。
「あれっ、春琉!?」
「あっ! おばちゃん!」
低身長で体の小さな春琉は、サンタの後ろにすっぽりと隠れていたらしく全く気がつかなかった。笑顔で手を振っている。
「葵さんと泰輔さんにもプレゼントがあるよ。たっくーん、風邪治ったら遊びに来てね」
「おばちゃん! オレもう元気になったよ」
「ホント? よかった! じゃあ今度、優香と待ってるね」
私はびっくりしてしまって、全然返答が出来なかった。
玄関のドアを開けると、もうそこにはサンタも春琉もいなかった。
サンタはきっと、ていうか絶対に、春琉の旦那のシュン君だとわかった。帽子と髭で顔は隠れていたけれど、あの優しい眼差しは、確かにシュン君の目だった気がする。今思えば。
床に、ビニールに入った大きな箱が置かれていた。ザ・プレゼント! と言った見た目の、赤いリボンが巻かれた黄色い正方形の箱。
意気揚々と琢斗がプレゼントを運び込み、リビングの真ん中で開封する。そこには、チョコやらポテチやらクッキーやら、見た事ないくらいの大量のお菓子の詰め合わせ。そして、きっと私やたいちゃん用にであろう、人気メーカーの紅茶のセットがたっぷりと入っていた。
『あおいさんお疲れ様。
大変だったと思うけど、これで少しでも疲れをとってね。
たいした事できないけど…
たっくん元気になったら、ゆっくり遊びに来てね。
はるサンタより』
丁寧な字で、そう書かれたメモ紙が添えられていた。
「へへっ。あいつも、粋な事すんねぇ……あの春琉がねぇ」
あの春琉が。
私は、40代になってまでもそんなふうに思ってしまう。
いまだに私は春琉に対して、内気で人と話す事が苦手で、いつもオドオドしていた若い頃のイメージを持ってしまう。あれから随分と経ったし、彼女だって成長して大人になったと言うのに、どうしたってあの頼りなさげな姿が今でも頭から離れないんだから。
「春琉ちゃん優しいね」
コントローラーを持ったままで、たいちゃんが柔らかく微笑む。あんたも優しいよ、そんな反応が出来るあんたも十分に。心の中だけで応えた。何でもないただの率直な感想だと思うけれど、やっぱり痛いくらいの優しさと温かさが詰まっていると私は感じてしまうんだ、たいちゃんの言葉には。
琢斗はもう、お菓子を3つくらい一気に開けてバリバリ食べていやがる。数日間熱に苦しんで頑張っていたんだから、別にそのくらい全然良いよね、今日は。元気になったなら、それが何より一番だ。
何でもないような事が幸せなんだって、何かの歌の歌詞にもあったような気がするけれど。
それ、本当なんだなぁと、今年ほど実感した事はなかったと思う。
琢斗がいて、たいちゃんがいて、私がいて、みんなが元気でいる事。心配して、気遣ってくれる友達がいる事。
普通の事が、当たり前の事が、この上なく幸せなんだと強く強く感じた。
いつもと何も変わらないけれど、いつもよりもずっと特別なクリスマス。一日過ぎちゃってるけれど。うん、今日が、私達にとっての最高のクリスマスだ。
窓の外を見ると、またパラパラと雪が降り始めていた。
暖かな空気と、温かな空気に包まれて眺める何でもない景色に、幸せを噛み締めて。
私も、大人になったな。