プロローグ
青い客車に揺られて、旅をする。
客車を牽くのは、二両の蒸気機関車。
かつては僕の故郷、北海道で活躍したこの機関車たちは、今は内地の観光地で、余生を過ごしていた。
全盛期ほどの力は出さないけれど。彼等は今も、生きた機関車であり続けている。
発車時刻を迎えると、彼等は汽笛の声を絞る。
バルブが開き、シリンダに蒸気が送られ、動輪が動き出す。
一回転、回り切れば、白んだ蒸気が外界に開放される。
動輪から絞り出される引張力の脈動に、ガコン、ガコンと連結器をぶつけながら、客車は前後に揺られ、ゆっくりと加速していく。
側面の窓から見えるのは、後方に流れていく煤煙と、移ろう外界の景色、それだけ。
視覚から得られる情報は僅かだ。
だが機関車の息遣いは、それに頼らずとも伝わってくるものだ。
彼等はもう百年も走り続けている。
それなのに、走れることが心の底から幸せなのだと言うように、走る。
それだけしか知らないのに。それだけしか知らないから。
絞る汽笛も高らかに。出発合図の長和音は、彼等の生命の叫びだ。
今この瞬間は、世界一の奏者が奏でる楽器よりも、彼等の汽笛が美しい。
機械はその使命を果たすとき、最も輝く。
博物館に固定されている時じゃない。
どれだけ磨かれ、荘厳な住まいに置かれようとも。
エジプトのミイラの棺は美しいが、中に入っているのはただの骸だ。
骸も人だが、人だったものだ。
機関車も同じだ。
生きている時こそが、最盛期で、全盛期なのだ。
そう僕に教えてくれたのは、誰だっただろうか。
小さい頃から、蒸気機関車がかっこよかった。そこに理由は無かった。
子供の頃、何か好きだと思うのに、理由は必要なかったように思う。
大人になるということは、割り切る、ということを知るということだと、誰かが言っていた。
ぎこちなさの中で、自分なりの落とし所を見つけることが、大人になるということなのだと。
子供でなくなり、僕の生き方は、そんなふうになった。
例えば何かを決めるとき。そう、何かを手に入れたり、逆に手放したりするとき、僕は理由を探す。
それは、ともすれば屁理屈になるのかもしれない。
それでも、僕たちは割り切るしかないのだろう。
三月。
二度目の大学三年生も終わる。僕はこの年にひとつの決断をした。
高校の頃から暮らしていた東京から、地元に戻ることを決めた。
地元の鉄道会社に内定が出たので、そこに就職することに決めたのだ。
高校大学と東京に居たわけで、周りの人もそうだったから、この場所で仕事を見つけて家族も作って生きていくものだと思っていた。
しかし、そうはならなかった。
おととし、船乗りだった父が、事故で亡くなった。
十八年前に母を亡くしていた僕から、親というものがいなくなった。
これで、状況は変わってしまった。
葬儀や法事で地元に何度も戻るにつれ、僕という人間がどんどん分からなくなっていった。
人間は、居住地というものに随分と影響を受ける生き物らしい。
昔、あれほどまで出ていってしまいたいと思っていた地元に、後ろ髪を引かれていた。
だから、地元の会社に入れたことは、その点では幸運だった。
そうして、今はひと足先に、地元釧別に戻ってきている。
内地の三月といえば、なんだかんだで春の気配を感じる空気に変わる時期だろう。花粉も辛くなる。
釧別のある道東はどうかというと、まだまだ冬が続いている。
こっちは道内でも雪は少ない方だが、雪解けには程遠い。
僕は父と母の眠る寺の墓地へ、車を走らせる。
お寺さんはちょっとした山の中ほどにあり、坂路は何度も急カーブを繰り返す。
流れる景色はずっとモノトーンで、どこを見ても代り映えしない。
道の左右に広がるマツと白樺の林は、まだ完全に冬装いだ。地面が顔を出す余地はなく、一面がすっかり雪に覆われている。
車道こそ除雪されているが、道路脇はずっとこの調子だ。今の時期の墓地がどうなっているかは、想像に難くない。
こっちでは、冬に墓参りに来る人は少ない。それは文字通り、墓が雪に埋もれてしまうからだ。
厳冬期の墓地というのは、雪原と区別がつかなくなる。
それほどまでに雪が積もるのだ。3月に入ろうが、その風景はほとんど変わらない。
東京の雪と違って、雪国の雪は一度降ると春までずっと残る。だから、とても墓参りどころではない。
が、しかし、今日ばかりはそういうわけにもいかない。
今日は、母の命日なのだ。誰も手を合わせに来ないというのは、あまりに寂しい。
仏壇で済ませてもいいのかもしれないが、これまでは、きちんと墓前に手を合わせにいくようにしていた。
その時は父さんとふたりで、墓をせっせと雪の中から掘り起こしたものだ。見かねた住職さんが手伝ってくれることもあり、そのあとは、きまって暖かい母屋に入れてもらって、お茶とお菓子をご馳走になった。懐かしい思い出だ。
とはいえ、である。
何も、こんな季節に亡くなることも無かっただろうに。
せめて雪解けの春まで、もう少しだけでも、と思ってしまう。
それに今年も僕ひとりだ。隣に父の姿は無い。
だから余計に、寂しく思う。
どうせ聴き流すだろうに、普段なら聴きもしないカーラジオをザッピングする。直感で選んだチャンネルでは、聴いたこともないような曲が流れ、パーソナリティの陳腐な感想が続く。
大した気紛らわしにもならない。曲を知っていれば、もう少し楽しめるのだろうか。
ふと気づくと、ねずみ色の曇天から、いつの間にか粉雪がちらつきはじめていた。
寒さから逃げられるわけでもないのに、僕は無意識に道を急いでいた。
寺の境内の道をぽつぽつ歩く。道は綺麗に除雪されていた。彼岸が近いとはいえ、大変な仕事に違いない。ご住職さんに挨拶に行ったら、お礼を伝えておこう。
今は風は無く、人の気配も無い。雪の降り積もる音が聞こえてきそうなほど、あたりは静まりかえっていた。
お墓の方を見ると、墓石のちょうど根本くらいまで雪に埋もれていた。
今年は雪は少ない方と聞いていたが、この様子なら掘り起こすのもそこまで苦ではないだろう。
しかしそれでも、新雪の積もった墓地通路に入ると、膝下まで足が埋もれてしまう。本当にまだ誰も来ていないらしく、辿れる足跡も無かった。
足を雪にうずめながら、のそのそ進む。これも仕方のないことだ。
そうして――墓の前までたどり着くと、案の定、墓石より下は完全に雪に埋まっていた。
きっと、寒いだろう。
香炉まで掘り返し、花を供えて、線香を焚く。
風が過ぎ、線香皿から薄紫の煙が流れて、消えていく。
コートの襟の隙間を冷風が巻く。身体の芯から冷えるような感じがした。
改めて、静かな場所だと思う。
雪に半分埋もれた墓の前でしゃがみ込む。僕の他には誰もいない。
急に、寂しさを感じた。
ふと、思い返される。
父親の死は、思った以上に応えるものがあった。
母親の時も、散々泣き散らかして父さんや親戚を困らせた記憶がある。
あの時はまだ七歳かそこらで、肉親の死に対する感情といっても、ただそのように表現するしかなかったのだろう。
しかし、今になってもう一人の親を亡くして、泣けば済むものではないということがよく分かった。
自分はついに家族というものを失ってしまったのだと理解した。足元を掬われたような気持ちだった。
あのときは東京に下宿していたが、帰る場所が無くなったような気がして、色々なことが頭をよぎった。
僕が高校で上京すると決めた時、父はこれっぽっちも止めず、むしろ背中を押してくれた。
これで僕もまた船に戻れる――と、母が亡くなってから、僕のためにずっと陸職に居続けてくれた父は、そんなことを言っていた。
それから、僕と父が会うことはほとんどなかった。
だって、父と息子なのだ。お互いに、何を考えているかなど、分かっていた。
心の底でどこまでも自分勝手な親子同士だ。僕は東京に出たく、父は船に乗りたい。
それが叶った。それでよかったと思った。それは、また会えると信じて疑わなかったからだ。
こんなことになるなど、思ってもいなかった。
だから悲しさよりも、悔しさだった。自分本位なのだ。僕はあの父の息子で、そういう人間だ。
白い制服、制帽に身を包んだ父の姿が頭に浮かぶ。父さんは商船の機関士だった。
父さんが亡くなったのは、色々ときな臭い事故だった。事故報告書のようなものを読むこともあったが、生き残った乗組員の人から、父さんに責任はない、むしろ事故状況下で最善の行動をしていました、と何度も聞いた。
父は元来、真面目なひとだった。信頼されるひとだった。だからその人の言葉を、僕は疑わなかった。
しかしある意味で、信じすぎていたのかもしれないと、今になって思う。
責任、という言葉を反芻する。父は最後まで、船を守るべく、責任を果たしたのだろう。今の自分にそんな行動が取れるだろうか。
子はいつも心のどこかで、親の背中を追いかけている。
追いつきたくて。追い越したくて。
父のように船乗りになるつもりはなかったが、船員の大学に進んだという父と同じように、東京の学校に進みたかった。それを真似して、東京の高校に入学したのだ。父は大学から上京したと聞いていた。これでひとつは追い越せたと思った。
だけど、そこまでだった。
僕は、父を追い越す権利を、永久に失った。
敢えて言いたい。恨むぞ、父さん。
僕はもう一度、墓前に手を合わせる。
再び、風が吹く。粉雪が舞い散る。やはり、まだ冬が続いているのだと肌で感じる。
「……また来るよ。父さん。母さん」
そうして立ちあがろうとしたとき、ふと、何かに惹かれるような気がして――僕は隣の墓の方に目をやった。
僕以外、人は来ていないと思っていたが――――
そこで、僕は目を疑った。
綺麗に除雪された墓の前に、中学生くらいだろうか、女の子が立っていた。
体躯に反して明らかにオーバーサイズな濃紺色の外套を着込んで、その子は墓石をじっと見つめている。
見れば、外套は随分と古ぼけていた。誰かのお下がりなのだろうか。
それに、この年頃の女の子が着るには、随分と厳めしく見える。
そして手元には、何かの制帽のようなものが握られていた。
「君は…」
その呼びかけは届いていないように見えた。少女はぴたりと立ち尽くしている。
僕が来た時には、他に誰もいなかったと思う。一体いつの間に来て、いつの間に雪を除けたのだろう。この子ひとりで?
そもそもこの子は、いったい何だ?
思い当たる存在が、すぐそこまで出かかっている気がした。
記憶の奥の何かに触れたような気がした。しかし、それも眩暈にかき消される。
刹那、ひときわ強い風が吹きすさぶ。
彼女に向けて発しかけた声が、かき消えてゆく。
雪混じりの突風に、思わず目を閉じる。
腰まである長い白髪が、風に靡くのが最後に見えた。
雲間から陽の光が差し込んだのか、髪は銀色に輝いて見えた。
雪風に、彼女の髪が、輪郭が、溶けていく。
そして、風が止む。
再び目を開けると、少女の姿は、すでにそこには無かった。
それどころか、除雪されているように見えた墓も、雪に埋もれていた。
まさか、と思った。
線香皿に目を遣ると、点けたばかりのはずの線香は、既に燃え尽きていた。
一気に身体が底冷えする感じがした。本当に幻でも見たのだろうか。
気づけば、雪はもう止んでいた。
住職さんに挨拶をしたのち、車に戻る。車内はすっかり冷えてしまっていた。
暖房を全開にしつつ、スマホの検索画面を、何を打ち込むでもなくぼーっと眺める。
あれは、気掛かりな出来事ではあった。しかし初めて見るものではなかった。
最初に見たのは、父さんの葬儀のために、釧別に帰ってきていた時だ。その時も先ほどのような背格好だった気がする。僕に霊感があるとは思えなかったが、"幻覚が見えます"と言って病院に行く気にもなれなかった。そもそもあれが霊だという保証を、誰が出来るだろうか?
しかし、本気で超常的な心霊現象だったら、と思ってしまう。僕としてはむしろ、その方が折り合いがつく。
父の法要で、今まで会ったことも無かったような親戚や父の知り合いとか、色々顔を合わせてきたが、ピンと来る人はどこにもいなかった。
奇妙なことだとは思うが、これはそういうものだ、という思いもどこかにあった。慣れなのかもしれない。
最初こそ驚いたが、こう繰り返すと、次第に異質さが薄れていく。初めは受け入れ難くとも、時間と回数がそれを解決する。
『人はどんなことにも慣れられる存在である』とは、誰の言葉だっただろうか。至極、当を得ていると思った。
また、スマホに目を落とす。時刻は昼過ぎ。帰りの飛行機は明日の便だ。まだ時間はある。
そこで、ぽこん、と気の抜けた通知音が鳴った。メッセージアプリの通知だった。
送信者の欄には『天内 澪』と、見知った名前があった。澪は、僕の従姉だ。和人さん――叔父さんが店長をしている、小さな喫茶店で働いている。
『久しぶり。今日は家で仕事してるよ。お父さんもいるから、そのまま来ても大丈夫』
そこに、ピンク色の猫のキャラクターのスタンプが続いた。太眉な猫がグーサインをしている。
澪には、釧別に戻るので、顔を出しに行く旨を伝えておいたのだった。
この後行くよ、と軽く返信して、さてお店までの道はどうだったか、とスマホの地図を開く。
『分かった。待ってるよ』そんな通知のバナーが見えた。
地図をスワイプして、道もなんとなく思い出した。どのみち昔何度も通った場所だ。
スマホをズボンのポケットに押し込んで、僕は再び、ハンドルを握る。
車を転がし、市街の中心である釧別駅の方面を目指す。これから長い付き合いになるだろう、この周りの景色を確かめながら。
内地にいた頃に免許は取ったが、釧別で運転したことはほとんど無かった。
かつて父の車の助手席から見ていた景色は、今もさして変わっていない。けれど自分がドライバーとなれば、不思議と新鮮な光景に思えてくる。
釧別川を渡る橋に差し掛かると、右手に小じんまりした鉄橋が見えてくる。短い橋脚の橋だった。
ここは、釧別と、北の愛走を結ぶローカル線、「オホーツクたんちょう鉄道」の鉄橋だ。
ちょうど一両の列車が、向こうから橋を渡ってきた。甲高い汽笛の音が響く。
薄曇りの空の下、赤と黒の帯を巻いた銀色の車体が鈍く輝いている。
河口のすぐ手前に架けられた橋梁は、水面からの高さがない。列車はぼんやりとした姿を水面に映し、橋上を走り抜けていく。
あの列車は、これから三時間近くかけて愛走に向かう。たった一両で随分な長旅だが、それがこの鉄道の日常の光景でもあった。
しかし、この長閑な風景は、この鉄道の非効率さ、低い採算性の裏返しでもあるのだろう。
さて、橋を越えれば目的地はもう近い。県道から逸れて、川沿いの住宅地へと入っていく。
そして、ごくありふれた雰囲気の宅地の一角に、「Café Clickety-Clack」と看板の出た民家が見える。
外見は看板以外なんの変哲もない民家のそれだが、側には"お客様用"と書かれた小さな駐車場がつくられてあった。
店のすぐ傍には釧別川があり、さらに川の先を見遣ると、先程のオホ鉄線の鉄橋がたたずんでいる。
この店は、あの橋を渡る列車が見える、というのが売りだった
北海道特有の玄関フード、つまるところ二重玄関を越えて店内に入る。
「いらっしゃいませ。……あ、しばらく列車は来ないですから、カウンターとテーブル、どちらでもお好きなお席に――」
カウンターの奥で洗い物をしていた店員さん――澪は、そこで、はっとしたような顔で、こちらに向き直る。ひとつ結びの後ろ髪が翻る。
「あっ……湊。えっと、おかえりなさい」
澪が、目を細めて笑う。
ちょいちょいと手招きされる。ここ座りな、の合図。
促されるままにカウンター席に腰を下ろす。僕の他に、お客さんはいなかった。
「ただいま」
「久しぶり、湊。あんまり変わってないね」
「そうかな。まあ確かに、まだ何か変わったわけじゃないし……」
「ううん。まだ落ち込んでる顔、してるから」
ああ、そういうことか。
また澪に気を遣わせてしまっているのかな、と考えた。
「ほら、今も。湊はすぐ顔に出るもの。……今日、叔母さんと叔父さんのお墓、行ってきたの?」
「……さっき、行ってきたよ。今戻ってきたところ」
「そっか。呼んでくれればよかったのに。雪かき大変だったでしょ?」
「気を遣わなくていいよ。店は開けなきゃだろうし」
「じゃあ、何か飲みたいものある? 今日はサービス」
澪がテーブルのメニュー表を指差す。
「……いや、ちゃんと払うよ」
「良いの。お墓参り、寒かっただろうし。ね、良いよね」
澪は、おとうさーん、と、裏に居るのだろう、和人さんを呼ぶ。
和人さんは、すぐにやってきた。
アイボリーのエプロンを着込んだ姿で……僕を見るや否や、澪とよく似た笑みをこぼす。
親娘なんだな、と感じる。雰囲気が同じだ。
澪よりずっと飄々ととしている。掴みどころのない人のように見えるが、根の部分は同じと見える。
要するに、世話焼きの塊のような人だ。
「湊くん……来てたんだ。久しぶりだね」
物柔らかな口調も、昔から変わっていない。
和人さんは父さんの弟さんなのだが、性格はまるで正反対だ。
活発な兄と、物腰柔らかな弟といったふうだった。
「お久しぶりです、和人さん。ご無沙汰してます」
「ゆっくりしていきなよ。この時間帯、お客さん少ないしさ」
和人さんはカウンターを一瞥して、何も飲み物がないのを見るや、"いつもので良い?"と聞いてきた。
僕のいつもの、ミルクティーをお願いする。
「おとうさん、私やるよ」
「ま、こういう時ぐらい、任せてくれなきゃさ……じゃ湊君、ちょっとお待ちを」
「いいけどさ、いつもは私に任せっきりなのに」
和人さんはそんな澪の指摘を躱わすように、ひょいひょいと厨房の方へ歩いていった。
「……うちのお店、今度、茶葉とか茶器の通販を始めるんだけどね。おとうさん、最近はそっちの準備にかかりっきりで。普段は私が店番してるんだ」
「それだけもう一人前だ、ってことじゃないの?」
「まさかぁ。あの人に限って、それは無いよ。今だって自分でやりたがってるでしょ?」
澪はそう言って、悪戯っぽく笑う。
「おとうさんの場合、自分がやりたいだけなのかもだけどね」
カウンター席からだと、奥で仕事をしている和人さんの背中が見える。
紅茶を淹れている和人さんの姿は、なんとはなしに楽しそうな背中に見えた。
「でも嬉しいな。仕事中なのに、わざわざ」
澪が、くすりと笑う。
「またそういうこと言って。湊がまたしょぼくれた顔で帰ってきたから、気にしてるんだよ、おとうさん」
結局、僕はこの二人に遠慮しているのだろう。
長い付き合いとはいえ、澪と和人さんはあくまで親戚だ。
分かってはいても、こうも親切にされると、ある意味で複雑な気分だった。
だから割り切っていた。きっとこの親切は、義理や人情の類であると。
「やっぱり、顔に出てるのかな」
「出てる出てる。……気持ちは分かるけどさ」
「……どうして」
「どうしたの?」
「澪は、どうしてさっき、僕に『おかえり』って言ったのかな、って」
聞いてみて、答えなどはじめからわかっているのかもしれないと思った。
でも、僕の中だけに通用する理由は、それは嘘かもしれない。
ある意味で、自分に言い聞かせているだけなのであって、正しいとは限らない。だから、聞いたんだろう。教えてもらえれば、それはきっと嘘ではなくなる。
澪は、ちょっとだけ考える素振りを見せる。
「だって……帰ってきてくれたでしょ」
「それは、まあ、そうだけど」
「……それが嬉しかったの。また会えるな、って」
澪はまた、目を細めて笑う。
「……それだけ、なのか」
「もっとちゃんとした理由、欲しかった?」
「まあ、欲しくはある……かな?」
でも、僕も僕で考えすぎなのかもしれない、と思った。
「でも残念。ほんとにそれだけなんです。湊のそういうとこ、昔っから変わらないなぁ。でも、それでいいと思うよ」
澪は、僕のことを肯定してくれる。昔からそうだった。年上風を吹かせて、いつも。
この居心地の良さが、好意を義理だと割り切れなくする。
より無遠慮に好意を求めてしまいかけて、やはり踏みとどまる。僕の中にあるものは、そういう遠慮だった。
「……まあ、私の理由はそれだけだけど。おとうさんが紅茶淹れるのだって、自分が好きでやってるところもあるし。そう考えたら、結構Win-Winの関係なんじゃない?」
ちょうどそこで、和人さんがカップとソーサー、それからティーポットを運んでくる。
「さあ、湊くん。ダージリン一番茶のミルクティー、お待たせ。ミルクはちょっと待ってて」
ミルク、私が取ってくるよ、と澪。厨房に消えていく。
「和人さん、ありがとうございます」
「良いの良いの、湊くん。それからお代は結構だけど……代わりに後で僕にも、土産話聞かせてくれると嬉しいな」
「そんな、別に面白い話じゃないですよ」
とはいったものの、和人さんには、僕の思うところは見透かされているんだという気がした。
面白かろうが、そうじゃなかろうが、そんなところは問題じゃない。
「これは、損得の話じゃないよ。まあ、僕なりの君への好意ってところ。……湊くんが釧別に戻ってきたって聞いて、正直驚いた。兄貴の法事が終わった後、湊君、『大学は卒業する』って言って、東京に戻っただろう?」
父が亡くなってから、しばらく釧別で暮らしていた。
触れる空気が変わって、いろんなことを感じた。感じすぎてしまったのかもしれない。
このまま釧別に残ろうかとも思ったが、色々考えて、やはり有耶無耶には出来なかった。
とにかく大学は卒業しようと決めた。出席は足りなかったので、その学期の単位は諦めをつけ、留年することにしたのだった。
「ずっと、悩んでいると聞いていた。ああ、澪経由でね。……実はね、色々と君のことについて相談されるものだから――澪が君へしていたアドバイスは、半分くらいは僕の考えたセリフかもしれないね」
初耳だった。澪が聞いていたら怒りそうだ。
「思いっきり当人に聞こえてるんだけど」
聞いていたらしい。戻ってきた澪から、ミルクピッチャーを受け取る。
「……ありがとう、澪。色々と」
「もう。そういう辛気臭いのは無しだよ。……それでおとうさん、その話長くなりそ?」
「はいはい、もう終わるから。……それで、湊君が東京に戻るって決めたとき、ようやく悩みも晴れたのかと思った。同時に、こうも感じた。もう、こっちで暮らすってことはないのかもしれないなって。だからさ……身勝手だけどね、なんというか、今ちょっと嬉しいんだ」
きっと僕は、そうは考えていなかった。
本当は、ずっと釧別に帰りたかったのかもしれない。結局、今の僕が答えになっているのだと思う。
紅茶が冷めてしまう前に、ミルクを注いで、混ぜる。
二色が混じりきって、均一になる。そして、柔らかな香りに変わる。
まずひとくちだけ、口にする。
紅茶と牛乳だけなのに、ほの甘い。
溜め息。
僕はこれが好きだった。子供の頃から、ずーっと。
小学校に上がる前、まだ母さんも居た頃に――札幌に住んでいた僕らは、父さんの実家がある釧別に引っ越してきた。
その頃、もう母さんの病状は既に芳しくなかった。本当のところは聞かされなかったけど、多分、母さんは釧別で最期を過ごしたかったのだと思う。内地の出身の母さんは、父と出会ったこの街を、とても愛していた。物心ついてから澪と和人さんに初めて会ったのも、この引っ越しの時だった。
その頃から、ここは喫茶店だった。
僕もここでミルクティーというものを初めて飲んで、すごく気に入った。
そしてその頃から澪は、僕のことを弟のように扱っていた。
僕は僕で変な意地を張っていて、弟扱いされるのは嫌がっていた。
きっと澪とは対等に、友達のようになりたがっていたんだろうけど、結局上手く丸め込まれていたなあ、と思う。
そしていつからか、こうも考えるようになった。
世話を焼かれるのは分かっている。向こうはそれを楽しんでいるのだから、僕も焼かれておこうと思うようになった。そして、そんな澪との関係性が、僕には心地の良いものだった。
この縁は形を少しずつ変えつつも、今まで続いている。
きっと、父さんと母さんが結んでくれた縁なのだろう。
この紅茶にしろ、カフェにしろ、自分と他人を結びつけるモノがあるというのは、幸せなことだと思う。
……あとは、僕の気持ちだけだ。
もう一口、カップを傾ける。懐かしく、落ち着く味。
僕の中に残っていたわだかまりは、それで消えていった。
「……いつもどおり、美味しかった。やっと帰ってきた、って気がします」
そう口にして、やっと落ち着けた気がする。
和人さんが、満足気に微笑む。
「それなら良かった。振る舞った甲斐があったよ。……じゃ、僕はこれで。邪魔したね」
和人さんは去っていき、店内は、また僕と澪だけになる。
「――それで。湊はお茶で帰郷を実感するんだね。ま、キミらしいけど」
澪が、ちょっと呆れたように言う。
「でも……少しは良い顔になったんじゃない?そっちの方がいいよ」
「……でも、澪がおかえりって言ってくれたのも、嬉しかったよ」
「あら。雪でも降るのかな?」
「東京じゃあるまいし。釧別じゃ、まだ降るでしょ。というか僕を一体なんだと」
「……意地っ張りな弟分。えっへへ」
まあ、そう言われて悪い気はしなかった。
それから、しばらく澪と雑談を続けていた。なんだかんだでこの為に、ここに来たかったのだと思う。
「湊が東京に戻ってる間に、お店、またちょっぴり改装したんだ。ね、どこだと思う?」
僕は店内を見渡す。思えば、まだちゃんと見ていなかった。僕が今座っているカウンターの席。他にテーブルが2、3つ。壁には蒸気機関車D51のナンバープレートやら、昔の駅名標やら行先標やらが、所狭しと並ぶ。そもそも、この店は昔から鉄道が見えるカフェとして宣伝していた。しかし、その当時は鉄道の要素といえば、本当に窓から橋が見える程度であり、内装は至って普通の喫茶店だった。
そう考えれば随分、怪しげなカフェになったものだ。今や、名実ともに鉄道カフェという雰囲気を醸している。
さて、それはともかく、さらに増えたものはというと……
「……あそこの本棚は無かったよね」
《Clickety-Clack》の店内は、入るとすぐ大きな本棚が並んでいる。目につく場所だから、物が増えれば、なんとなく気付く。
「正解。ちょっと前に、常連さんのグループがダンボール何箱分かの本を寄付してくれたの。おとうさん、せっかくだから全部並べようって、DIYしちゃったの」
「相変わらず自分で作るんだなあ、和人さん。やっぱり、本は鉄道の?」
「そう。寄付してくれたのは鉄道愛好会のおじいちゃんたちでね。昔の時刻表とか雑誌とか、写真集とか、色々入ってた。私はよく分かんないけど、わかる人が見たら喜ぶんじゃないかな」
「ここもすっかり、鉄道カフェらしくなったなあ」
「新規のお客さんもね、鉄道ファンのお客さん、結構増えたんだ。旅行で来たってお客さんも居て、駅からじゃ遠いのに、わざわざ足を運んでくれて……嬉しいよね。私も知識つけといたほうが良いよね、きっと」
「ちょうどいい本があるじゃん」
「もっと入門用じゃないと、私読めないよ。……そういえばさ、湊って、昔は鉄ちゃんだったよね。お父さんは船乗りだったのに、不思議だね」
「船はダメだったんだ。初めて乗った時、信じられないくらい酔って、それから怖がってた」
「でも、汽車は大丈夫そうだったよね」
「いや、汽車も酔ってた。船ほどじゃないけどね。今はマシになったけど、昔は鉄道も、見る方が好きだった」
「……湊が向こうの窓に張り付いて鉄橋見てたの、覚えてる。しばらく汽車来ないのに、動かないの。私が遊ぼうって声かけても、『もうすぐ来るんだ!』って言い張って、話聞いてくれなかったなぁ」
懐かしんでるようだが、どこか恨み言のようにも聞こえた。
「……あの頃は、意固地だったものな」
「今はどうなんだか」
澪はまた、イタズラっぽく微笑む。
「ねぇ、私でも読めそうなの、一冊持ってきて欲しいんだけど」
「うん。任せとけ」
ということで、腰を上げて、本を眺めてみる。
並んでいる本はひとつひとつ丁寧にカバーフィルムがかけられており、随分と手間がかけられている。鉄道関連の本はまとまって置かれていた。
時刻表やらはともかく、背表紙をざっと見ても、なんのこっちゃという感じのラインナップだった。内容は道内外問わず色々と取り揃えているらしかったが、それにしても古い本が多い。《国鉄時代の〇〇》だとか、そんな感じの本ばかりだった。結構なマニア向けのラインナップと見える。
「とりあえず、道内の鉄道は……」
なんとなく内容毎にまとめられているようなのが、見ているとなんとなくわかった。きっと、鉄道に詳しい和人さんの仕事だろう。
そして、やはり道内の鉄道の本が一番多い。旅行記のようなものはひとりでじっくり読むものだし、写真集のようなものなら、澪もとっつきやすいだろうと思い、手が伸びる。
ふと、そこに一冊だけ、見覚えのあるタイトルがあることに気づいた。
手にとって表紙を見ると、それは確証に変わった。
「『道東の蒸気機関車』……」
「面白そうなの、見つけた?」
「……ちょっと懐かしい本が」
おおよそ他の本と似たような雰囲気のタイトル、装丁、それに紙のくたびれ具合。それだけであれば、目に留まらなかったかもしれないが、この本は違った。
また席に戻って、本を開く。
「これだ。間違いない」
白い煙をあげて、山間のカーブを走り抜ける……車両基地にずらりと並ぶ……白銀の釧別湿原を駆け抜ける、蒸気機関車の写真の数々。
客車と貨車が混ざった列車。石炭を運ぶ長大な貨物列車。窓はおろか、ドアさえも開け放って走る客車。ドアの前には、平然と乗客が立っている。今ではとても考えられない、もう現代にはない光景ばかりだ。
でも、どの写真も見覚えがある。
この本は、僕が蒸気機関車に熱中していた頃……古本屋さんで見つけ、買ってもらったのだ。
「これ……デゴイチ?」
澪が指したのは、釧別湿原をゆく客車列車の写真だった。先頭に立つのは、これはデゴイチではない。
「いや……これはシゴハチ。ほら、ここの車輪の数が、こっちの写真のより少ない」
僕は、もう一枚の写真――長い貨物列車を引くD51の足許を指差す。
D51は動輪の数が4つ。だからアルファベット順でA、B、C、Dと数えてD。C58は動輪が3つなので、C。
子供の頃に仕込んだこういう豆知識は、存外覚えているものだった。
「本当だ、違うね。……この本、どうしたの?」
「昔、同じのを持ってた。古本屋で買った記憶がある」
「湊って、SLが好きだったんだっけ」
「うん。釧別に越してくる前、苗穂のJRのイベントで、大っきなSLを見たんだよ。多分、それがきっかけじゃないかな」
「そんな昔のこと、よく覚えてるわね。じゃ、アレは?トー〇ス」
「トー〇スか……」
「なんか、歯切れ悪いね」
「いや……観てたんだけどさ。ほら、実物から入った人間はさ、蒸気機関車って『カッコいい!』で覚えてるものじゃん?」
「確かに、カッコいいとは違うか。〇ーマスって」
「ある意味、寓話みたいなもんだからなあ」
「ぐうわ?」
「教訓的なお話ってこと」
「子供向けのお話って、結構そういう雰囲気だよね」
「そうそう。結局、なんだかんだ本物が好きでさ。確か釧別駅の近くの公園に、機関車があって……」
そのとき、入り口のベルがカランコロン、と鳴った。数時間ぶりの来客だった。
「こんにちはあ」
女性の声だった。わざわざ振り返って見るものでもないし、僕はまた本を開いていた。
「いらっしゃ……あっ、シイバさん」
「あっ、こんにちは。澪ちゃん」
シイバ……どういう字を書くのだろう。澪の口調から察するに、常連客だろうか。
「澪ちゃんで良かった。和人くん、コーヒーを頼んでも紅茶出してくるんだもの」
これは常連さんに違いない。和人さんは、常連客相手にはそういうことをする。勿論、お代は取らないが。
「あはは……いつもすみません」
「カウンター、失礼するね」
「お冷、どうぞ」
「有難う。えっとね、ブレンドコーヒーと……パンケーキ、お願いしても?」
「わかりました。ちょっとお待ちくださいね」
澪がまた後で、と目配せする。僕も目線で応える。
そして、ほとんど無意識に、視線をちらりと横に向けていた。
"シイバさん”の横顔が見える。
――いや。
そんなことはないと、頭が否定した。
でも、見覚えがあった。記憶がつながった。
……ああ、なんてことだろう。
同じだった。
あのときの少女、墓地で見た、あの子の横顔と。
そんなことは、有り得ないと思った。この人の名前を聞いたことも、会ったこともないはずだ。
だからなぜ、この人があの少女と印象が一致するのか、それがわからなかった、
髪型も、幻覚の姿とは違う。"シイバさん"は肩にかかるくらいに切り揃えていたが、あの少女は腰ほどもある長い髪だった。
一瞥した限りでは高校生くらいに見えた。しかし、和人さんのことを「和人くん」と、妙に馴れ馴れしく呼んでいた。そういうキャラの子なのかもしれないが……
……ともかく、ちっとも分からなかった。
何か飲み物でも飲んで、気を紛らわそう……にも、あいにくミルクティーはもう空っぽだった。
そうだ。本でも読もう。『道東の蒸気機関車』を読もう。
僕は蒸気機関車が大好きだったのだ。たまにはこうして懐かしさに浸るのも悪くないだろう。
本をぱらぱらとめくる。
……駄目だ。ちっとも頭に入ってこなかった。
澪が戻ってきたら、冷たい飲み物でも頼んで頭を冷やそう。そう思って、本を閉じ置いた。
何と無しに、チラリと横を見てみる。再確認のつもりで。見間違えかもしれない。
すると、シイバさんが本の表紙を見つめていた。
「……『道東の蒸気機関車』」
「……え?」
「蒸気機関車、お好きなんですか?」
先ほど澪と話していた時とは一転して、別人のような静かな声のトーンだった。
「僕、ですか?」
「僕、以外には、お客さん、いらっしゃらないないようですが…」
「……そうですね」
なんだか不思議な人だと思った。気安さはないが、高圧的な感じもしない。
この人には、上品な、清廉な……といった形容詞が似合う。名家のお嬢さんのような気品があった。
どこか非日常的な雰囲気を感じるのは、あの幻影の少女の姿が重なるからだろうか?
「あの、質問は……」
「あっ、すみません。蒸気機関車が好きか……という話でしたよね。すみません、僕、あまり詳しくなくって」
「でもこの本、かなりマニア向けの本ですよ」
その口ぶりは、僕の無知を指摘している感じではなかった。ただ純粋に、僕がなぜこの本を読んでいたか、ということを聞いているのだろう。
「写真なら、マニアでなくとも、それなりに楽しめますよ」
「……たしかに、そうかもしれませんね」
急に話しかけられたので驚いたが、思えばこれはいい機会かもしれない。
以前会ったことがあるか、僕と何か関係があるのか……
ともかく、何か情報を得られるかもしれない、と思った。
「蒸気機関車、好きではないわけではなくって。この本も、実は思い入れのあるもので」
「そうなんですか?」
「はい。子供の頃は大好きでした」
「……じゃあ、今は違うんですか?」
禅問答のようだと思った。少しばかり、やきもきとさせられる。
……でも、この人との会話に、引き込まれていく感じがした。頭の中の事実を整理し、言葉を組み上げる。
「……なんというか、子供の頃の無邪気な気持ちは、今は無いと思います。そういうことって、シイバさんもありませんか?」
少し、鎌をかけてみたつもりだった。この人の人となりが、少しでも分かるのではないかと考えた。
「ふむ。そうですね。私も……思い当たるものは、たくさん。でもそれではなんだか、寂しい感じがしますね」
そう言って、シイバさんは、たおやかに笑う。
「でも……それもある意味で、素敵なことじゃありませんか?」
「どうして?」
「だって。思い出って、美化されるものでしょう? 」
シイバさんは、少し考えこんで。
「……確かに、そうですね」
思い当たる節があるように、どこか寂しそうに笑った。
どうしてだろう。やはりこの人には、初めて会ったという感じがしない。
なぜ、そう思うのだろう。単に、あの少女と似ているからか?
本当にそれだけなのだろうか。
それ以上のものが……何か、あるような気がした。
「……でもそれは、過去のこと。やっぱり、今でも無条件で好きだと言えるものがあれば、それがいちばん幸せなんじゃないでしょうか」
「そうかもしれませんが、やっぱり難しいですね」
「私も、そう思います」
「シイバさんは、蒸気機関車、好きなんですか?」
「どうして?」
「初対面の僕に、同じ質問をしてくるぐらいだから」
「……やっぱり、変だったかな?」
「いいえ。少し驚きはしましたけど。こうしてお話ができて、結果的に良かったなと」
「……そっか。よかった。私もね、好きだよ。若い人で、蒸気機関車が好きって人、あまり居なくって」
「なるほど、それで」
だったら、この話をしよう。きっと、喜んでくれるはずだ。
「……釧別駅の近くの公園に、蒸気機関車がありましたよね」
「もしかして、C58の、106号機さん?」
シイバさんの顔が、ぱっと明るくなる。
やはり知っていた。この店の常連なら、そして蒸気機関車が好きというのなら、もしかしてと思ったが、当たったようだ。
しかも番号まで知っている。むしろ僕の方が、なんとなくでしか覚えていなかった。
「確か、そうです。今も残ってるんでしょうか。小さい頃、よく母と見に行ったんです」
「もちろん、まだあるよ。私ね、106号機さんのメンテナンスをしているの」
思わぬ答えが返ってきた。人は見かけによらないらしい。
「へぇ、凄い……何か、そういう団体があるんですか?」
「昔は保存会があったみたいだけど、今は私含めて数人ぐらいかな……もう、団体って規模じゃない。でも今は標茶の高校の子達がボランティアに来てくれてる。この前はその子たちと一緒に、照明を新しく取り付けたの」
「へぇ……明日には帰ってしまうので、行ってみようかな」
「ぜひ、そうしてください。……106号機さんも、きっと喜ぶと思います」
擬人化しているような、不思議な表現を使うものだと思った。
しかし展示されている以上、誰かが観に来てくれれば喜ぶものなのかもしれない。
「釧別には、旅行で?」
「いえ、ここが地元です。東京で学生やってるんですが、今日はちょっと、帰省中で」
「そっか……今、春休みだものね。……そういえば、あなたのお名前、聞いてなかった。私の事は名前で呼んでくれているのに」
「天内と言います。天文の天に、内側の内って書いて」
「天内くん……って、もしかして、君が澪の従弟さんの……湊、くん?」
「はい。いかにも、ですが」
「そっか……えっとね、私は椎場っていいます。どんぐりの椎に、場所の場で。……そう、澪ちゃんがね、君の話をしていたの」
「僕の話を?」
「うん。上京していた従弟が帰ってくるのが、嬉しくて仕方ない、って。仲が良いんだなあって、羨ましくなっちゃった」
「……ご家族で、何か?」
当たり障りのないように、言葉を選んだつもりだった。
「……私には、姉がいて。でも最近は邪険にあしらわれてばかりで。私なりに気遣っているつもりなんだけど、あまり、理解してくれなくって」
椎場さんは、また寂しげに笑う。
お姉さん、きっと何か事情があるのだろう。邪推はしない。
「きっと、理解してもらえますよ」
きっとこれも、根拠はないけれど。
「ありがとう。……そうだ。湊くん、良かったらこれを持っていって。『石炭おかき』っていうんだけど」
そう言うと椎場さんは、足下の手提げから、蒸気機関車の絵が描かれた箱を取り出した。
「石炭みたいに揚げたおかきなんだけど。私のいまの職場で売っていて」
「良いんですか?」
「見た目は石炭だけど、味は美味しく仕立ててるから安心してね」
「どうも、ありがとうございます」
中身が見えるように一部がくり抜かれていて、窓のように透明なフィルムが張ってある。
個包装されたおかきが見えた。見た目は、本当に石炭だった。表面は微かに艶があって、岩石の質感にしか見えなかった。
それに、パッケージの絵は、よく見るとデフォルメされたC58だった。
ナンバープレートに、書き文字でそう書いてある。C58なのか。有名な、デゴイチではなく。
……珍しいな、と思った。
澪がコーヒーを運んでくると、僕と椎場さんはまた、一人ずつの客に戻った。
あの少女との関係は結局分からずじまいだったけれど、面白いひとだなと思った。
また会えたら嬉しいと思う。普段は何をしているのだろう。
まあ幻覚らしきものの謎は、おいおい調べていくことにしよう。
そんなふうに楽観視できるのは、あの人の雰囲気がそうさせるのか、それは分からなかったが。
急がなくても良さそうだと、今はそんな気分だった。
いつしか椎場さんも帰っていき、僕もまた店を後にすることにした。
名残惜しさは無かった。来年になればもう、この街に住むことになるのだから。
店を出ると、すでに日は落ちていた。
もう帰ってもいいのだが、ふと、公園の蒸気機関車――C58のことが思い浮かんだ。電飾とかをつけたとか、椎場さんは言っていた。
せっかくだし、見に行ってみるか。明日の夜にはもう東京だ。
公園までの道は知っている。なにせずっと昔に、何度も行ったことがある場所だ。
僕は再び車に乗り込む。ついでに駅のコンビニで、夕飯でも買って帰ろう。
公園――幸町公園は、市街地の中の公園、という割にはそこそこな広さがある。
それもそうで、街の一区画がまるごと公園になっているのだ。
肝心の蒸気機関車はというと、公園の一角に波打ちトタンの屋根が建っているので、すぐに分かるだろう。
確かに灯りがついている。公園の中で、そこだけが妙に煌々と光っていた。
車はちょっとの間だけなので、路肩に停めさせてもらった。
公園には、まだ雪がしっかり残っていた。先人の足跡を辿らないと、多分膝下まで埋もれる。
こう暗いと、その足跡も見えない。スマホの懐中電灯で照らしながら進む。
近づくにつれ、だんだんとシルエットが明瞭になっていった。
三つの動輪。大きな車体。蒸気機関車が電球色の照明に照らされ、闇に浮かんでいた。
トタン屋根と、地面と。各所に取り付けられた小さな照明装置が見えた。
これが椎場さんの言っていたものだろう。
大昔の夜行列車は、こんな雰囲気だったのだろうか。とにかく、味があった。
側面についているナンバープレートには、『C58 106』とある。
懐かしい。釧別に越してきて、家の近くにあったこの機関車を、父さんや母さんとよく見にきたのだ。
しかしこれも妙な縁だ。こっちに来てからというもの、蒸気機関車の話が次々と舞い込んでくる。
機関車の真正面まで回り込む。こちらも照明に照らされ、塗装の凹凸が浮かび上がって見えた。
艶やかな黒で綺麗に塗られている。椎場さんも言っていたが、丁寧に維持管理されているのだろう。
この機関車は、きっともう何十年もここに置かれているはずだ。
子供の頃、本物の動く蒸気機関車を一度だけ見たことがあった。それは常にそこらじゅうの部品が音や蒸気を上げていて、まるで生き物のようだと思った。その迫力に、圧倒され、感動した。
ここはとても静かだ。
蒸気の音も、油の匂いも、煤の汚れも、蒸気機関車を蒸気機関車たらしめるものは、ここには無い。
もう日本では、SLに乗れる場所はほとんど無くなってしまったと聞く。
しかし、この機関車はこんなにも綺麗に保たれている。今にも動きそうなほどに。
これを動かすというのは、やはり、難しい話なのだろうか。
だが実現すれば、きっと面白いはずで――――
――――そのとき、急にスマホの明かりが消えた。
電源ボタンを押しても、再起動しない。バッテリーはまだ十分に残っていたはずだ。
「418号機とは違う……こんな夜に、誰だ」
突然、声がする。女の子の声。
いや、耳が覚えている。
「椎場さん……?」
続けて、目の前を照らしていた灯りが落ちる。あたりは一瞬で真っ暗になる。
周囲の建物の明かりが漏れているが、真っ暗になったこの公園を見渡すには不十分すぎた。
「人、か。……部品泥棒か?」
声、四方から聞こえる。指向性がない。無指向な声。頭に直接響くような、声。
呼びかけられているという感じじゃない。そう、独り言のようだ。それが、周囲に溢れている。
スマホの電源を長押し。駄目だ。うんともすんとも言わない。
この状況は異常だと、五感がそう告げている。
「誰だっ!?僕は、泥棒じゃない!」
叫んでいた。誰だか知らないが、とにかく伝えなければ。
何をされるか、分かったもんじゃない!
「僕はこれを見に来ただけでっ!」
近所迷惑かもしれない。が、そんなことを気にする余裕はなかった。
しかしそんなことを考えるほど、やけに頭は回っていた。
「……何?」
突然、握りしめていたスマホの画面が、明るくなる。電源が戻ったのだ。
「私を認識しているのか?」
光の戻ったライトで、探るようにあたりを照らす。
「……私を、探しているのか?」
また声。前からだ。本当に、椎場さんの声そっくりだった。
光を機関車に当てる。線路と、スノープロウが照らされる。
照らす先を上に、上に。
機関車の先頭部の足場に、機関車の塗装とは違う、革の輝きが反射する。
一歩、二歩と近づき、注視する。それがブーツだと分かった。
投光器が再び灯る。何にも触れることなく。
冷や汗が、背筋を伝う。
僕が対峙しているものの、その姿が見える。
機関車ではない。それだけではない。
そこには、堂々と立っていたのだ。
あの墓地の少女そのものが。
紺色の古ぼけた外套に、制帽を被り。
腰まである白髪が、かすかな風に吹かれて、そよぐ。
投光器の光を受け、揺らぐ髪が銀色に光る。
口元を固く結び、その表情は堅く。こちらを警戒しているのか。
梔子色の大きな瞳が、瞬きひとつせず、まっすぐにこちらを見つめている。
人間のようだが、違う。この世のものとは思えない、精巧な人形のような佇まいだった。
そんなものは見たことがない。しかし直感があった。その感覚に、気圧されている。
そう確信させるだけの何かが、この少女にはあった。間違いなく、人間ではない。
「お前、私を認識しているのか。私が見えているのか」
少女が言う。抑揚の殆どない、無機質な声。
なんだこれは。何が起きている。分からない。分からないが、これはとんでもないことが起きている。
「見えている。君は、誰なんだ」
「C58 106」
少女の口からゆっくりと溢れる、文字数字の羅列。
その音を頭の中で文字に置き換え理解するのに、一呼吸の間が必要だった。
「目の前の、機関車が」
「鉄道省C58形蒸気機関車、106号機」
「喋って、いるのか」
「……如何にも。お前には、私が見える、私の言葉が届いている。そうだな? こんなことは、この姿を得てから初めてのことだ」
少女は興奮気味に語る。
白い肌が上気している。喜んでいるのか。
「この姿、とは」
「お前が今話している、この擬人体のことだ。人間の、姿形を模した、この」
少女は手足を動かしてみせる。どことなくぎこちない動き。
「まあ、しかし。この身体は、損傷も故障も起きない。身軽だが、ここから動けるわけでもない。見かけは人でも"はらも減らん"。牽く列車もなければ"疲れもせん"。つまらない身体になってしまった」
「君はこの機関車の、何なんだ?」
「先ほど述べた通り……」
少女は、顔の横にあるナンバープレートを指差した。
「この機関車、そのものである」
機関車そのもの。
その言葉を、何度か反芻する。
「……付喪神、の類いなのか?」
本気で聞いているわけではなかった。突拍子も無さすぎて、本気で聞けるわけがないと思った。
「ふぁはは、そう見えるか」
少女が初めて笑う。外見相応で、可愛らしい表情だと思った。
「神か。やおよろずと居るものな。よく使われた鉄道車両に宿ったとて不思議ではない。だが、私は付喪神ではない。私ははじめからこれそのものなのだ。……良いか?そしてここからが要点だから、よく聞け」
講義を受けているようだった。
「無機物にも、ただの機械装置にも、私のような精神が生じる。そして、この擬人体は君たち人間と通じるためのものらしい、と聞いている。この姿の造物主が、そう言っていた」
人間と通じる……つまりコミュニケーション用の人型の子機が、この少女の姿だという。
またそれは『造物主』に作り与えられたものであると、意味合いはこういうことだろうか。
「お前たちにとって見慣れぬものであるのは察する。精神は凡ゆる機械に生じるが……おそらく擬人体を得ることは、千に一つか万に一つか、その程度の確率のものなのだろう」
「ひとつ、聞いてもいいか」
「もうふたつみっつと聞かれている。今更かまわん」
「今日の午前中、妙円寺で僕と会っているはずだ。覚えていないか?」
「知らん。……私はここから動けないんだ」
即座に否定される。触れてほしくない事に触れられたみたいだった。
しかし身体があるのに動けないとは、どういうことなのだろう。
「……ずっと、ここに?」
「ああ。ここに安置されてから、もう半世紀以上経つ。この身体を得たのは最近だが」
「その擬人体で、どこかに行けないのか?」
「この邪魔な柵の中は動ける。柵を越えようとすると、壁のようなものに阻まれる。たまに人が来ても、私の姿は見えていないらしい。どうしたら出られるのか何も分からん。四面楚歌だ」
結界に囲われているようだと思った。
「なぜお前が認識できるのか、それは分からんが。……ともかく、こうして人と会話をするのは初めてだ」
少女は――106号機が、機関車の上からひょい、と飛び降りる。
「危ないだろう、そんな真似をして……」
「大丈夫だ。さきほども言ったが、この身体は見かけよりずっと頑丈だ。どうせ見かけだけだ」
「なんだか、よく分からなくなってきた…」
「良いか? ちょっと説明してやる。聞いていろ。廃車にされて、この公園にやってきた私は半世紀、ずっとここで見せ物の仕事してきた。お前達で例えるとな、食事を摂る。働く、そうした営みの一切を失って、ただ休み続けるということを半世紀、やってきた。時間は山のようにあるが、ほんとうに何も出来ないんだ」
「それは……確かに、辛いな」
「それで、幸運にもこの身体を頂いたが、状況は先ほど述べたとおり。この姿では、24時間ずっと意識があるんだ。そうだな……ずっと何もすることもなく、起きているようなものだ。これで少しは理解してもらえたか」
「……想像はつく。しかし君は機械なのに、随分と人間的な苦しみを味わっているんだな」
「機械が、自分が作られた目的を果たしたいと思うのは自然だろう。それが阻害されれば、不愉快にもなる。人間だって、似たようなところはあるはずだ」
「そうかもしれない。機械の精神か……」
貴賤なく、ただ僕たちと同じモノをもつ。機械なのに。あるいは、機械だからこそ?
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしおって。ま、面白かろう」
「擬人体……『擬人化』の概念は知っているが」
しかし、それも結局は空想のものだろうと思っていた。
ふと、椎場さんの言葉が思い出される。
――――106号機さんも、きっと喜ぶと思います。
……存外、そうでもなさそうだった。むしろ、静態展示を嫌がっているとは、意外といえば意外だった。
「擬するもなにも、本物だからな。真似ているのは形だけだ」
「もう、今はそういうことにしておく」
「飲み込みが早いな。助かるぞ」
「咀嚼が終わらない」
「まあ、じきに慣れる。それでだ。お前の質問に答えてやったので、私からも頼みごとがあるのだが、ちょっと聞いてくれるか」
「僕に出来ることがあるとは、あまり思えないのだが」
「なぜそう思う?」
「なぜ、って……話を聞く限り、君と僕には隔絶されたものがある。君が人間ではない、というのが、そもそも決定的だ。本来干渉不能なもの同士が、何かのはずみで干渉しあえるようになっているのかもしれないが、君のその擬人体を造ったのは……なんと言えばいいのか。いや、それを表す言葉はあるんだが……言ってしまうのが恐ろしい。それで片付けてしまうのが、納得できない」
「造物主のことか」
「……まさか、それが神様だなんて言わないよな」
「おおかた、その辺りだろう」
「まさか。勘弁してくれ」
「この国には八百万の神がいる、と言ったはずだ。あれは言葉の綾ではない」
突拍子もない発言が止まない。もう一体、どこまで信じたものか。
「……神と君らは、やはり違うのか」
「違うな。むしろ、私たちはお前と同じものだ。要は、万能ではないということだ」
「だったら余計に、出来ることは無さそうなのだが」
「だからこそ、試してみなければならない。……私も、ぜひ君に協力を頼みたいのだ。このとおり」
106号機は脱帽し、深々と頭を下げる。
彼女はずっとこの公園で、見せ物の仕事をし続けたのだと言っていた。
見せ物、か。良い意味の言葉ではない。
確かに機関車は人や物を運ぶために作られたはずだ。
ここに安置されていては、その使命を果たすことは、もう二度と叶わないだろう。
気付けば彼女に同情のようなものを感じていた。
今まで誰にも認識してもらえなかったということは、僕が最初で最後の例になってもおかしくはない。
彼女とて、その機会を無駄にはしたくないのだろう。
そして初対面の僕にこんなにも深々と頭を下げ、自分に協力を頼む姿を、無碍には出来ないと思っていた。
「……分かった。どこまで力になれるかは、分からないが」
「そうか……!」
106号機の顔が、ぱっと明るくなる。それは、外見相応の表情に見えた。
「ありがとう。協力に感謝する。君は……名前はなんというんだ」
「天内湊だ。てんない、みなと」
何が出来るかもわからないが、まずはそれを確かめなければ。
「湊君か。私はC58の106号機である。語呂は悪いが以後よろしく」
歳上から名前を呼ばれるような、不思議な感覚だった。
いや、それはそうだ。この機関車、製造から百年近く経っている。僕の四倍弱は生きているということになる。
「……それで、僕はどうすればいいんだ」
「とりあえずは簡単なところからだ。簡単だが、最も重要なことでもある」
「というと」
「私の手を取ってほしい。触れられるか否か、試してほしいのだ。だから下まで降りてきた」
「柵からは、出れないんだろう」
「だから、湊君が手を突っ込むんだ。この隙間から。単純だろう」
「分かった。……何かこう、この柵に結界みたいなのが張っていて、突っ込んだら僕の腕が無くなるとか、そういうことは、無いよな」
「人にやらせるのは初めてだからな」
「……前例無しか。分かった、腹を括る」
「すまないが、よろしく頼まれたい」
何の確証もないが、やってみるしかない。
恐る恐る、柵に触れる。これ自体は、ただの柵らしい。
しかし、指先で柵の間に触れると、そこには明確に空間の隔たりがあった。
そう感じる、というだけなのだが。
熱いとか冷たいとか、そういった感触があるわけではなかった。
ただ明確に押し戻される感覚と、視覚の上では、水面の波紋のような同心円がいくつも生じ、広がっていくのがはっきりと見えた。
「なんだ、こりゃ…」
「……私がここに触れても、こうはならない。何か異常な感触などはあるか」
「今のところは、特に。しかしこれ……どうなってるんだ」
「私にも分からん」
「そりゃそうかもしれないが……ま、腹を括ると言った手前だしな」
軽く押し返しこそされるが、通り抜けられない、という感じもまたしなかった。
「よし……行くぞ」
一思いに、隙間に手を突っ込む。
境界は単なる境目ではないらしい。手が吸い込まれていく。
見かけは連続的な空間だが、この面だけはずっと奥行きがある。
恐る恐る奥に進めていくと、急に引っ張られる感じがあった。
直感的に、もう戻れない、と感じた。
しまったと思った。腕時計を外すのを忘れていた。何か影響が出たらどうしよう。
しかし、腕は引きこまれていき。思わず、目を細める。
……しかしすぐ、その心配は杞憂だったと分かった。
肘あたりまで進んだところで、何かを突き抜けた気がした。
そして、僕の手は、柵の向こうにあった。波紋がいくつも生じ、大きく広がっていく。
「あ……これが、キミの手、なのか」
106号機の声が震えている。
暖かく小さな手に、僕の手は強く、握り返される。柵の向こう側も、こちらと繋がっていた。
上手くいった。咄嗟に、そう思った。
106号機には、初めての感覚のようだった。梔子色の瞳が、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、確かめるように……こちらを見つめている。
「君も、そう感じているということは……認識のズレは無いってことだろうか」
「おそらくは」
「この後はどうすれば?」
「……掴んだまま、柵を抜けられるか試す。そのまま手を引いてくれ」
「わかった」
恐る恐る、手を引き戻す。
僕の手が、境界に呑まれていく。こちら側に戻ってきた手に、何か変化は見られない。付けていた腕時計も、そのまま消えることなく戻ってきた。
しかし、指先が境界に飲み込まれた瞬間、彼女の手が触れているという感覚は無くなった。
「さっきまであった触覚が、無くなった。君は」
「……私も同様だ。これでは、駄目か」
そもそも、なぜ境界があるんだろう。
それに僕だけ行き来出来るというのも、なんとも不思議な感じがする。
そして改めて、僕と彼女を隔てる『柵』の存在を意識する。
ただの鉄柵だと思っていたものが、見かけ以上に重い意味を持つ境界線になっているのだと、そう思った。
この隔たりの向こうから、連れ戻してあげたい。そうも思った。
「まあ、いい。次の手を試そう」
「分かった」
――――――
――――
――
そして、数時間ほど経った。夜はすっかりふけこみ、新月の空に星が散らばっている。
「ポ⚪︎ラも⚪︎ュージョンもダメか……」
106号機が力なく呟く。
「駄目に決まってるだろう。だいたい、蒸気機関車がどこでそんな知識を仕入れてくるんだ」
「ここは公園だぞ。子供達ぐらい遊びに来るものだ。彼ら彼女らの話し声など、いくらでも聞こえてくる」
「それは良いんだが……106号機、ひとつ、試してみたいことがあるんだ。ちょっと、ここで待っててくれないか」
「いいぞ。どうせ動けないのだ」
106号機が口を尖らせる。
「分かってるよ。だから動けるようにするんだろ」
僕は踵を返す。……妙に、背中に期待を感じる。最初に106号機の声が聞こえた時と同じだ。
「感じる」というのは比喩でなく、彼女の思考や意志のようなものが、直接伝わってくるのだ。
全く、おかしなことに巻き込まれたものだ。機関車と会話して、結界から脱出する手伝いまでしている。
とはいえあの機関車は……僕は子供の頃の、憧れだった訳で。その意味では、どこか胸躍る部分もあった。
そうして、車の前まで戻ってきた。
だらだらと彼女の言う「実験」に付き合う中、色々と頭に浮かんでいたことを、少し整理する。
ひとつの仮説として、今の106号機の擬人体が、車両自体に強く結びついた霊体のようなものだとしたら。
そう、例えるなら地縛霊のようなものだ。それは、ここから離れられない理由にもなる。
僕は例外として、僕以外の人間が認識できないということは、彼女がいる場所は、きっとこちら側ではない。
あの世、この世と簡単に分けられるものではないだろう。その境目のような、曖昧な場所かもしれない。
そこから引き戻す方法……心当たりがひとつだけあった。
後部ドアを開けて、座席に置いておいた『石炭おかき』に目を落とす。
黄泉竈へ食という言葉がある。
即ち、あの世の食べ物を食べると、この世には戻れなくなる、といった意味合いの言葉だ。
先ほどの実験で、あの境界を突破した腕時計は何事もなく戻ってきた。
それならば、こちらからあちらへ、僕の体以外のものを送り込むことも可能ということではないだろうか。
これを食べさせれば、もしかすると、もしかするかもしれない。
椎場さんはこの事態を見越して、僕にこれを渡したのだろうか。
……まさか。きっと偶然だろう。
おかきを抱えて戻ると、106号機は柵の向こうに立っていた。
やはり、こう見ると閉じ込められているのだな、というのが分かる。
早いとこ連れ出してあげたかった。
「戻ってきたか。それで、方法というのは」
「一応聞いておくが、その擬人体で何か食事をしたことは?」
「ない。生えている草を食べようとしたことはあるが、食べれたものではなかった。外部から何か送り込まれたことも当然ない」
「よし、分かった。……じゃあ、コイツを食べてみないか」
僕は『石炭おかき』を見せる。
「なんだこれ。石炭……ではないのか」
「煎餅を、石炭風にしたお菓子らしい」
「これを食べて、どうなるんだ」
「分からん。分からんが……日本神話には、こういう話がある。イザナギは、妻のイザナミが死んでしまったので、どうにか連れ戻したく黄泉の国に向かった。しかしイザナミは、自分は黄泉の国の食べものを口にしてしまったので、もう戻ることはできない、と言うんだ。この『石炭おかき』を食べれば、もしかすれば……」
106号機が、品定めをするように、おかきの箱を見ていた。
「この箱の絵、これはC58ではないか。それに、この見た目……」
「たまたま持ち合わせていた食料品が、これだけだったんだ」
「……湊くん。私が蒸気機関車だから、こんな酔狂な菓子を食わせようということは」
「……いや。他意は、ない」
「今、ちょっと返答を渋ったな」
言われなければ気づかなかったかもしれない。
「……ともかく食ってみることにする。人の食事は初めてだ。この身体を得てから、気になってはいたのだが……また、頼むぞ」
僕はおかきを柵の向こうに届ける。案の定、これは成功した。
「おお、触れる。さて、どこから開けるのかな」
蓋を留めるセロテープを剥がそうとするが、うまく剥がれない。
さっきからずっと爪先でカリカリしているが、先っぽが細切れになるだけだった。
「手伝おうか」
「待て、そう急ぐな。急いでも仕方ない。定時運行だ、定時運行。…………ほら、全部剥がれたぞ!」
「あと2か所で留まっている」
「……」
――とりあえず、どうにか箱は開いた。
「……袋か缶々にすればよいものを」
しょぼくれた様子だった。
擬人体は動かしなれていないと言っていた。不器用なのも、多少は仕方ないのだろう。
「見た目は石炭だな……」
106号機は石炭おかきを恐る恐る口に運び、ひと齧り。
「……見かけよりスカスカだ。それに塩だ。塩が、美味く感じる! この身体でなければ、塩化物イオンを摂取していると思うと気が狂いそうだが……今は、人の姿だものな!」
意外イケるようで、次々と口に放り込んでいく。
「ほんふぁいふふぁい」
「何か変化は?……あっ」
髪の色が、変わりはじめている。
色素の抜けたような銀髪が、毛先から少しずつ、黒く染まっていく。
「どうした?」
「ほら、髪が……」
「何だ……うわっ!」
腰まであった銀髪は、あっという間に真っ黒になっていた。
そう、ちょうど背後の蒸気機関車と同じ色になって。
紺色の外套に映える銀髪だったのが、今はなんというか、日本人らしくなった、というか。
ひとりの人がそこに居るようで……異質さが、無くなっていた。
「……黒髪に、なってしまった」
心臓がバクバクと高鳴るのが分かった。
これはビンゴだろうか。上手くいったのだろうか。外れたとは思えなかった。
「もう、これ以上ないってぐらい変化したじゃないか」
「そんなまさか。こんなことで」
106号機は、おそるおそる柵の間に触れる。
波紋は生じない――――どころか、その手は柵のこちら側に、ごく当たり前のように出ていた。
「あ……ちょっと、制帽、受け取れるか」
柵の隙間から制帽を渡されるが、これも何の障壁もなく受け取れる。
「……この柵を、越えられる気がする」
106号機は息を大きく吸うと、柵に向かって一歩、前に出る。
すると柵は干渉することなく、するりと身体にめり込んでいく。当たり判定が急に無くなったようだった。
また一歩、恐る恐る踏み出す。この一歩で、106号機は完全に、柵の外に出ていた。
「抜け、られた」
106号機は、雪が積もっていることなどお構いなしに、その場にへなへなとへたり込む。
お尻がぼすっと沈んだ。
「僕……凄いかもしれない」
こんな『石炭おかき』で本当に上手くいくとは、微塵も思っていなかった。
これは……椎場さんに感謝しなければ。何をどう伝えればいいのか、さっぱりわからないが。
「湊君……私、私は」
「柵の外、出れたじゃないか。上手くいったんだ!」
「ほ、本当にそうなのか?」
106号機はよろよろと立ち上がり、また柵に突っ込んでみる。
そこに柵が無いかのように、するすると透過して行ったり来たり出来た。
「ああ……ああ」
106号機、感動しているのか、震え声が溢れる。
僕が触れてみると、冷たい鉄の柵のままだった。もう隙間に境界面も生じていない。
この移動が出来るのは、106号機だけなのだろう。
「……柵の外、何年ぶりだろう。……これでようやく、この身体をまともらしく使える」
ぐーっと伸びをして、そのまま夜空を見上げる。
「星だ。懐かしい……三月の空だな……」
今まではこの屋根のために、空も見上げられなかったのだろう。
本能的に、ごくごく自然に一歩が伸びる。
そのままとてとてと歩き出す。だんだんとスピードを早め、走り出す。
雪が積もっていようが、お構いなしに。
スノーブーツを履いたままで、走れるような靴でもないのに、よくあそこまで。
「面白いっ!なかなかどうしてこの身体もっ!」
嬉しそうに、はしゃいでいる。
「疾く走れる、ものだっ!」
新月の夜空の下、雪を蹴散らして、106号機は走りまくる。
五十年振りの、柵の外。機関車の体でなくとも、それはきっと、あまりに大きな出来事なんだろう。
ひとしきり走り回って、また機関車の側まで戻ってくる。
満ち満ちた顔だった。
「嬉しそうで、良かった。あれで本当に上手くいくとは思っていなかったが」
「……湊君」
「どうした?」
「この度は、本当にありがとう。君が私を見つけてくれて、良かった。嬉しかった。……そして以後とも、宜しく頼む」
「ああ、今後とも……」
106号機は、会心の笑顔と共に、その右手を僕に差し出した。
二度目の握手。今度は、隔てる壁は何もない。
微熱が伝わる。蒸気機関車だからか、やはり暖かい手だった。
「……ん?」
ちょっと待てよ。
今後とも?