地獄の天使
血の池地獄。
紅色の空に覆われた裏切り者が落ちる地獄、そこでは今日も夥しい数の亡者たちが摂氏百度の煮えたぎる血の湯の中で煮られている
その横の荒涼たる荒野で、一人の男が追われていた。新郎の袴を着た若い男である、声にならない悲鳴を上げながら裸足から血を垂れ流しながら逃げていた
追手は女が一人、男が二人、三人とも馬に乗っていた。女はウェディングドレスを着た美しい少女で、馬上にまたがるその姿は一刻の姫君のようだったが肌は青く、鬼気迫った表情は幽鬼のそれだった
男二人の方は正真正銘の鬼で、この地獄の獄卒だった。武者鎧をまとい、兜からは骸の顔面がのぞいている。左手で首無しの馬を操り、左手には黒き三叉の槍を持ち、今にも男に向かって投げつけようとしている
男は人間にはできないすさまじい速度で逃げるが、馬の速度に勝れるわけもなくやがて追いつかれる。男の勢いが弱まったところで、女が指示すると鬼は狙いを定めて槍を直線状に投擲した
見事男の腹に命中し、衝撃と共に男の身体が崩れ去る。赤黒い内臓をむき出しにしながら息絶えた男の死体を馬から降りた女が無我夢中で貪り、その零れ落ちた腸を鬼たちに分け与える
そしてしばらくすると、男の身体が再生し、また血と油にまみれた逃走劇が始まる
常世の世界では考えられない気が狂った暗澹たる惨状、この地獄ではこれが延々と繰り返されていた。裏切った男と裏切られた女
自殺した女の無念を晴らすために、男の罪を禊ぐために、この儀式は永遠に続く。だが永久というとても長い時間の為に目を付けた闖入者がいた
闖入者たる女は時間を止めて、男に語り掛けた
「おぉ亡者よ。なにゆえ貴様はそのような目に遭っている」
「貴方は何者ですか」
「私は天使。“地獄の天使”。此度は度々この広大な地獄でこのような珍事を見かけたので話しかけたところだ。貴様はかような罪を犯せば、このようなけったいな責め苦を受けねばならんのだ?」
「これはこれは天使様、私は閻魔様から裏切りの罪を言い渡されました。しかし、断じてそのような愚行はしていないのです。私は彼女から逃げたかっただけなのです」
「逃げたいとな?現世でも彼女から逃げていたというのか貴様は」
輝くようなブロンドに碧玉の瞳。見るからに白皙人種とわかる白き翼をはやした地獄の天使は、なぜか異文化である着物を着ていて、これが非常に様になっていた
「はい、私は彼女…冬原 竜香に監禁され勝手に婚約させられ、友人の手伝いでやっとの思いで逃げおおせた所なんと彼女が自殺してしまったのです
「ほぉ面白い、確かにそれは一種の罪かもしれんな。しかし、お前に落ち度は全くないし。たったそれだけで地獄で永劫の罰を受けることになるとは、東方の閻魔もなかなかに鬼畜なことをする」
「私が“上”に行って再審を執り行わさせてみようか」
それは甘い囁きだった。しかし
「いいえ、滅相もございません」
「なぜだ?」
「私も後を追って自殺したからでございます。私もまた彼女のことをまだ愛していたのです。東西を問わず自死は罪でしょう」
「しかし、お前はそれでいいのか?これから永遠とこの惨劇を繰り返す羽目になるんだぞ。彼女の怒りが…つっ!なるほど、そういうことか」
「そう、私はこの結果に満足しているのです。彼女に追われ、殺され、彼女の一部である地獄の騎士たちに食われることで私は彼女の怒りを晴らしているわけですが、ここまでそれこそ骨の髄まで愛されてしまえばもう観念せざるを得ません」
「怒りの深さは愛の深さと同じか、なるほどいいことを考えるな。閻魔はお前たち夫婦に永遠の愛を育める機会を与えたというわけか」
「はい」
男は澄み切った瞳でそう言い切った
端正な顔立ちをした女好きのする非常に容姿の整った男だった。それでいて一途で、偏愛を受け止める器のデカさ。これならふさわしいと地獄の天使は考えた
「しかし、ならんぞ。こんな結末は私が認めない」
地獄の天使はそう言い切ると大きな翼をしまい、地上に降りてきて、男の手を取った
「龍膳 翔、私はお前に惚れてしまった。だが人の夫を寝取るような真似はしたくない。だからお前に一つ仕事を依頼したいんだが、どうかな」
「仕事?天使様が、俺に?」
亡者翔は何かの冗談かと思ったが天使の眼は本気だった。滔々と事情を語り始める
「―――というわけだ」
「つまり、私に伝言役を務めてほしいというわけですね?」
「あぁそうだ、私は訳あって天界にはいけない身。私の友人である“天国の悪魔”への鳩役、引き受けてくれるな?」
「身の上話を聞いてくださって、お受けしたいところなのですがしかし、私には永遠の伴侶がいます。またしても彼女から離れることはできません」
「感心なやつだ、リュウカが羨ましいよ。しかし心配するな、こう時を止めたように私は地獄においては一定の権限を持っているのだ…彼女を目に住まわせよう。お前の両目の光彩は、永遠の地獄の炎と共にあるだろう」
「彼女の意思はどうなのですか?」
「それも案ずるな。今もう一人の私が彼女とも対談を行っている。夫婦二人の共同作業に彼女も心躍っている」
「それでは安心しました。ではこの俺…不肖龍膳 翔が御名を引き受けただせていただきます」
「ならば手繰ろう。この地獄から抜け出すための糸を、お前の為に!」
轟音がして、大地が割れ、空は嘶き、紅い雲から蜘蛛の糸が降ってきた。か細いがそれでも造りは頑丈で大の男である翔が全体重を乗せてもびくともしない。これならこの地獄の外まで、上まで昇っていけるだろう
「そんな悠長な真似はしない。私ならこうだ!」
地獄の天使の声が響くと、蜘蛛の糸がみるみる勢いで上昇していく。このマーレボルジェからの脱獄を、神が、閻魔が認めたように糸を握った翔の背中には黄昏の光が照らし、それはまるで冥界の太陽が祝福しているかのようだった