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前編

 国のために死ね、ですって?


 役立たずの烙印を押して冷遇したのに、重い責務だけは求めるのね。


 よく分かったわ。


 もう家族とは縁が切れても結構よ。


 もうこれ以上、この人たちには従えないわ。


「つまりお嬢様、俺と駆け落ちってことデスね?」


 ちっ、違うわよ!



 §



 首都にあるパルレシア侯爵家のタウンハウスには、自然豊かな庭園が広がっている。

 水路の流れた先に池があり、三人の若い娘が集まっていた。

 汚れてくすんだ金髪を簡素に一つに束ねているのはアンナだ。

 この家の十八歳の長女で、彼女の腕の中には魔獣の卵が一つあった。


「この池に入るの?」


 アンナは困惑した視線を妹レリティに向ける。

 アンナが使用人のような地味な身なりに対して、妹は貴族の令嬢らしく華やかなドレス姿だ。

 長いブラウンの髪に光沢のある白いリボンが飾られ、可愛らしくセットされている。


 妹の橙色の瞳が、アンナの不安そうな金眼を不快そうに受け止めた。


「ええ、そうよ。その卵は、水を求めているの。でも、ただ水につけるだけでは駄目なのよ。生き物が住まう水辺が良いみたいなの。ねぇ、そうでしょう?」


 レリティが卵に問いかけるが、何も返事はない。


「ほんと、お姉様がいると何も話さなくなるわね」


 蔑んだ目を向けられる。レイティだけではなく、背後に控える妹の侍女からも。


「そういうことだから、卵を割らないように大事に抱えて池に入ってくださらない?」

「でもレリティ、水はまだ冷たいわ」


 春になり、ようやく日差しが温かく感じる日が増えてきたが、まだ上着が必要な時期だ。


「困ったわね。温かくなるまで待っていたら、予定が狂ってしまうわ。お姉様は忘れたのかもしれないけど、卵や魔獣と契約できるのは一つだけで、同時にできないの」


 レリティは頬に手を当てて考え込む仕草を見せる。その彼女の手の甲には、卵との契約印があった。


「そうだわ。お姉様がどうしても嫌だと言うなら、ベニハに頼むわ。あの下男ならお姉様の代わりに喜んで引き受けてくれると思うの」


 ベニハはアンナが採用した召使いだ。アンナがまだ両親に愛されていた頃、彼が屋敷近くの道端で力尽きていたので助けたのだ。レリティの言うとおり、アンナに恩義を感じている彼なら代わりを務めるだろう。


 でも、自分の役割を他人に押し付けるのは、アンナ自身の矜持が許さなかった。


「……私が池に入るわ」

「そう、頑張ってね」


 レリティは満足そうにほくそ笑んだ。


 妹たちが監視する中、アンナは歯を食いしばりながら卵を抱えて入水する。

 身体が急激に冷え、刺すような痛みまで感じる。


 すると、抱えていた卵が仄かに光り出した。


「ほら、やっぱり私の予想は当たっていたわ!」

「さすがです。卵師としてお嬢様の右に並ぶものはおりません」


 レリティに同意を求められた侍女は、とても鼻が高そうだ。


「あとで様子を見に行くわ。それまでそのままでいてね」


 レリティは容赦なく命令を下し、自分の侍女を連れて屋敷に戻っていく。

 アンナはガタガタと歯を鳴らしながら、ひたすら寒さに耐えるしかなかった。


「……だいじょうぶ、ですか?」


 抱えた卵から不安そうな子供のような声が聞こえてくる。


「だだだだいじょぶよ」


 でも、あまりの辛さに意識を失いかけたときだ。


「お嬢様! ナニをしているんですか!」


 突然現れたベニハに池から救助された。

 彼の黒髪はこの国では珍しい。

 さらに彼は独特なイントネーションで話すから、意識が朦朧としていても、彼だとすぐに分かった。


 彼に抱きかかえられた状態で、彼を仰ぎ見たとき、普段は長い前髪で隠れている瞳が見えた気がした。


(とても綺麗……)


 そのあと、アンナは高熱を出して一週間も寝込んだ。


『俺を置いて死ぬなんて許さない』


 彼は看病をしながら必死に何か言っていたが、あいにく熱でうなされていただけではなく、言語すら異なっていたので聞き取れなかった。


 一週間後、アンナは無事に熱が下がり、再び動けるようになった。

 屋敷の廊下でレリティとすれ違う。

 彼女は最後まで池に来なかった。


「お姉様元気になったの? ――死ねば良かったのに残念」


 そう去り際に小さく呟くレリティの目は、酷く冷たかった。


 それからアンナは母に呼び出され、部屋で厳しい叱責を受けた。


「レリティの大事な卵を池に落としたらしいわね。手伝いもまともにできないなんて本当に役立たずね」

「申し訳ございません」

「お仕置きよ。今日は背中を出しなさい」


 母の手には、鞭が握られていた。




 §



 アンナが貴族の娘でありながら、使用人よりも厳しい生活を送っているのには理由がある。

 魔獣と全く契約できない、役立たずだからだ。


 カロンテ国の生活は、便利な魔獣の労力に頼って営まれている。

 大型魔獣は運送の要で、魔法を使える魔獣は、土木工事の主力だ。

 小型の魔獣は、小回りが利くので、屋敷で簡単な家事を任されたり、雑用をこなしたりする。


 戦争においても、魔獣の高い攻撃力は軍事力に繋がっている。

 領民を統治する貴族である以上、魔獣に関する能力は必須とされていた。


 魔獣を使役するためには、まず卵を孵す必要がある。

 卵と契約後、卵から教えられた方法で孵化させるのだ。


 孵化した魔獣は、その契約者に従い、他の人間に魔獣を譲渡することも可能だ。

 卵を孵す契約者の存在は絶対だからこそ、ただの獣使いとは違う名称で呼ばれていた。


『卵師』と――。


 アンナの生家であるパルレシア侯爵家は、代々優秀な卵師を何人も輩出し、魔獣に関して国に多大な貢献をしてきた名家として広く知られていた。


 だから、アンナの両親は、アンナが産まれたとき、彼女の容姿を見て大いに期待を抱かずにはいられなかった。

 建国の父とされる初代国王と同じ特徴を兼ね備えていたからだ。


 美しい金髪と、とても珍しい金目。

 存在する全ての魔獣の卵を孵し、全ての魔獣が彼に従ったとさえ言われていた。


 特に瞳の色は、卵師としての資質が高いほど、金色に近づくと言われている。


 彼が亡くなって以降、彼の子孫で彼と同じ特徴の子が生まれなかっただけではなく、彼以上の卵師は現れていなかった。

 そんな中、彼を彷彿させる特徴をアンナは持って生まれた。

 それだけではなく、両親が幼いアンナと王宮を訪れたとき、保管していた魔獣の卵が一斉に震えて反応したので、「伝説の卵師の再来だ!」と両親は周囲に自慢した。


 物心がついた頃には、魔獣や卵の話し声が聞こえたので卵師の資質があるとみなされ、「これはやはり大物になるに違いない」と、両親の期待はさらに高まった。


 王家の耳にも入り、年の近い王太子との婚約者候補にも選ばれ、彼との交流のために他の令嬢たちと共に城に呼ばれたこともあった。


 ところが、アンナが十二歳になり、慣例どおりに王宮の卵保管庫にて階位の高い卵から試したが、今まで一つも卵と契約できなかった。

 それどころか、魔獣とも契約できない。


 一方で二年後に生まれた妹のレリティは、同じ十二歳のときに国内最高位の魔獣の卵と契約して孵化させたことを皮切りに次から次へと様々な階位の魔獣を孵化させていった。

 妹は優秀な卵師として幼い頃から活躍し、国内だけではなく、国外にもその名声は広まるようになっていた。


 伝説の卵師の再来とアンナを持て囃した両親は、自分たちの早とちりを誤魔化すために妹のレリティがそうだと話を上手くすり替えていた。


 そして、アンナに対しては、「役立たず」「期待外れ」「お前のせいで恥をかいた」と責めて冷遇するようになり、代わりにレリティをより一層大切にするようになった。


 魔獣の声が聞こえるのも、「そんなことを言っていない。嘘つきだ」と信じてもらえなくなった。


 優秀な妹を見習えと、彼女の卵師としての仕事を手伝うようにアンナは親から命じられ、妹の元で働くようになった。


 自分の部屋が日の当たらない物置のような部屋に変わっても、服の質が悪くなっても、食事は使用人から残り物をもらう日々でも、両親に再び愛されたくて、アンナは必死に頑張った。


 一年前、遂にレリティが十六歳になり、社交界デビューを果たしたとき、彼女は王太子の婚約者に内定した。

 アンナの存在など世間から完全に忘れ去られていたはずだった。

 半年前、王宮で行われた婚約式に王太子がアンナまで呼び出すまでは。


 アンナにとって彼はとても尊い方で、当時会っていたときは丁寧に接してもらえたので、彼に悪い印象はなかった。

 よい思い出の中の幼馴染に過ぎなかった。


 ところが、彼は人気のないところでアンナに言い寄ってきた。


「私の伴侶になるのは、当然あなただと思っていた。美しいあなたに一目惚れした日から。今回あなたと婚約できなかったのは私の立場とあなたの都合で残念だったが、どうか私を陰で支える存在になってくれないだろうか」


 王太子の告白はアンナにとって寝耳に水であり、到底受け入れられるものではなかった。


「それって、愛人になれってことですか?」

「まぁ、有り体に言えばそうだね。あなたにとって悪い話ではないと思うが」


 すぐに拒否しようとしたとき、背後から人の気配を感じて振り返ると、そこに妹のレリティがいた。


 それからだ。妹から凄まじい憎悪を向けられるようになったのは。


 でも彼女が怒るのも無理はない。嫌がらせのような命令をされても仕方がないと思っていた。

 これから結ばれる相手が、落ちこぼれの姉に愛人となるように迫っていたら、誰だって嫌だろう。妹が不快に思うのも当たり前だ。


(でも、まさか死まで望まれているなんて……)


 そこまで憎まれているとは思ってもいなくて、とてもショックだった。


 今までは「お姉様、可哀想にね」と、ただ単に哀れまれるだけだったから。


 夜になり、アンナがそろそろ寝ようと硬いベッドに入った時だ。

 窓からベニハが静かに侵入してきた。


 ここは三階の部屋なのに、彼には全く障害ではないようだ。

 風紀が乱れないように、住み込みの使用人たちの部屋は男女で階層が分かれていた。


「お嬢様、体調はいかがデスか?」

「うん、だいぶ良いわ。あなたには大変世話になったわね」


 アンナは上半身を起こし、ベニハを出迎える。


 小さな灯りしかない薄暗い中、ベニハはベッドの側まで近づき、身を屈めてアンナの顔色を窺ってくる。


 彼の前髪は長くて顔の半分は隠れているが、しっかりと見えているようだ。


 六年前に出会ったとき十五歳だった少年の彼は、今では二十一才と立派な青年だ。

 アンナが両親に愛されていたときから、今の惨めな状態に至るまでを見守り続けている。


「そうは言っても、病み上がりなんデスから、ご無理なさらないでくだサイ」

「ええ、ありがとう」


 先日、アンナが熱で寝込んだときも、彼はこうして部屋にやってきて、薬湯をわざわざ飲ませてくれた。

 具合が悪くて動けなかったのに、食べ物すら他の使用人が運んでくれなかったから、彼が忍び込んで食べさせてくれた。

 彼がいなかったら、衰弱死していたかもしれない。


「ところで今日は何しに来たの?」


 彼は手ぶらなので、何かを差し入れに来たわけではなさそうだ。


 すると、ベニハは口元に弧を作る。

 彼は断りもせずにベッドに勝手に腰かける。

 ギジリと木が軋む音が響いた。


「野暮なことをお聞きになるんデスね。男が夜に女性のもとに訪れるなんて、理由は決まっているじゃないデスか」

「ふーん、それで要件は何かしら?」


 軽い口調から、またいつもの冗談だと、アンナは軽く受け流す。

 彼の目は長い前髪で見えないが、きっと楽しそうに目を細めて笑っている姿が想像された。


 彼の艶のある長い黒髪は一つに束ねられている。

 線の細い身体は引き締まっており、姿勢の良い振る舞いは丁寧で品がある。

 でも、衣服は下男らしく使い古されたものだ。


(今日も彼から何か香水のような匂いがするわ)


 普段の彼は香水をつけていないので、誰かからうつったのだろう。

 密着するほどの何かをして。

 だから彼に色恋を匂わされても全く本気にしなかった。


 でも、思いのほか素っ気ない声が出て、冷たい対応になっていた。


「今の言い方はキツかったわね。悪かったわ。いつもより眠くて」

「いえ、こちらこそ夜に来て申し訳ないデス。今日はお嬢様の傷の手当てに来マシた」

「傷? なんのこと?」

「鞭で打たれマシたよね?」

「……なんで知っているの?」


 アンナの質問にベニハは無言だ。


「見せてくだサイ。薬を塗りマス」

「いらないわ。大丈夫よ」

「いいえ、体力が落ちている状況なので、傷が膿むかもしれまセン。手当は必要デス」

「……でも、今日は背中なの。恥ずかしいわ」


 そう言って断ったら、彼はくすりと笑った。


「先日、お嬢様の身体を拭いて着替えさせたのは俺デスよ。今さらなので大丈夫デス」


 熱で寝込んでいるとき、確かにベニハの世話にはなっていた。

 よく覚えている。

 ろくに力が入らず、抵抗できない状態で、ほぼ強制的だった。

 ありがたいけど、歳の近い若い異性に見られるのは、心理的に抵抗があった。


 今もアンナが困って黙っていたら、彼は勝手にアンナの寝間着のボタンを外していく。


「じ、自分でやるわ」


 このまま脱がされたら、胸が全開で丸見えだ。

 過去に一度見られたとはいえ、積極的に見せる気は全くない。

 慌てて彼に背中を向けて、自分で服を脱ぎ、彼に背中を見せる。


「薬を塗りマスね」

「……分かったわ」


 彼の指が慎重にアンナの背中を撫でるように動いていく。

 鞭打ちの傷にしみたのか、少しヒリヒリする感じがした。


(こんな傷だらけの身体で、まともに嫁入りなんて、できないわね)


 母から仕置きと称して傷をつけられるたびに、自分には価値がないと言われているみたいだった。


 落ち込んでいたら、急に後ろから抱きしめられた。

 そっと労わるような優しさに、アンナの胸の内は急に騒がしくなる。


「治療は終わったの?」

「エエ」

「なら離れてもらえる?」


 平静を装って、突き放すように言葉を発する。

 薬の塗布が終わったあと、アンナはすぐに身支度を整える。


「……ベニハ、いつもありがとう」


 顔が熱いせいで、まともに彼の顔を見られないまま、感謝を口にする。

 本来なら使用人には礼を言う必要はない。

 でも、彼の仕事の報酬には、アンナのお世話までは含まれていない。

 この治療は、彼の厚意によるものだから。


「実はお嬢様に折り入って話がありマシて」

「なぁに? ベニハにはいつも世話になっているから、できる限り聞き入れたいとは思っているわ。駆け落ち以外で」


 気を取り直して笑顔で答える。


「では、是非俺とこの屋敷を出て一緒に暮らしまセンか?」

「それは駆け落ちと同じよね?」


 家での扱いが悪くなってから、彼に家を捨てて逃げようと以前から誘われていた。

 でも、その都度アンナはしっかりと断ってきた。


「今回は命すら危うかったんデスよ? このままいたらお嬢様が危ないデス」


 ベニハの口調は真剣で、彼が真面目に提案していると伝わってくる。

 彼の心配は分からなくもない。

 具合がかなり悪かったのに完全に放置されるとは思ってもみなかった。

 妹に疎まれてから、アンナの居場所は確実になくなっている。


「……でも、あなたについて行ったとしても、先が全く見えないわ。あなたに頼れる人がいないでしょう?」


 だからずっと、彼はこの屋敷にいるのだと思っていた。


「大丈夫デス。今は俺の故郷に行けばナンとかなりマス」

「そうなの。……でも、ベニハにそこまで迷惑をかけられないわ」

「お嬢様を迷惑に思いまセン」

「それに、昔の恩は十分過ぎるほど返してもらったわ。あなたは好きに生きていいのよ」


 彼はこの屋敷で一番下っ端の下男として働いているが、三階の窓から侵入できるだけでなく、高価な薬湯や塗り薬を手に入れることも可能だ。

 有能な彼ならどこでも生きていけるはずだ。


「俺は恩返しではなくて、好きでお嬢様の側にいるんデスけどね」

「……あなたにはいつも感謝しているわ」


 アンナを「お嬢様」と呼ぶのは、もうベニハだけだ。


「でもね、まだ諦めたくないの。みんなには嘘つき呼ばわりされるけど、魔獣の声が本当に聞こえるのよ」


 過去にアンナが魔獣の言葉を伝えたら、家族は口を揃えてそんなこと言ってないと否定されてしまったのだ。


 しかもアンナが側にいると、魔獣が黙ってしまうので、嫌われているとさえ思われている。


 こんな状況でも、いつか自分の魔獣と出会いたいと、本能のような衝動がアンナを動かしていた。


 きっと契約できる魔獣はいるはずだと。根拠もないのに信じていた。


 でも、両親は全ての魔獣や卵と契約できないアンナに失望し、気にもかけてくれなくなった。


 苦しい心境を堪えるように俯くと、急に顎に触れられ、顔をぐいっと持ち上げられる。


「でもお嬢様、このままでは死にマスよ」

「え?」


 驚きつつも、彼の手を振り払った。


「勝手に触れないで、無礼よ。看病してもらったときは、やむを得ない状況だから咎めなかったけど」


 鋭い視線を向けると、彼は拒絶されたにもかかわらず、なぜか困ったように笑っていた。


 アンナに顔を近づけて、真っ直ぐに見つめてくる。


「お嬢様は、この家ではすでに死んでも構わない存在なんデスよ。死んだら魔獣と契約できないデスよ」

「……そんなこと、ないわ」


 思わずベニハを睨みつけていた。


「待遇が悪いのは、私が落ちこぼれだからよ。でも、それは仕方がないの。貴族なのに、役目をきちんと果たせない私が悪いのだから」


 怒りで声が震える。

 どうして彼がそんな酷いことを言うのか信じられなかった。


 取り乱したアンナとは正反対に冷静なままのベニハが非常に腹立たしかった。

 迷いのない落ち着いた彼の態度が、まるで正しいと言わんばかりだったから。


 妹との関係は王太子のせいで拗れてしまったが、両親はアンナが落ちこぼれでなくなれば、また愛してくれるはずなのに。


「アンナは当家の誇りだ」

「本当に。将来がとても楽しみだわ」


 優しかった両親との思い出があるから、なおさら簡単に捨てられなかった。

 あの頃に戻りたい。

 もう一度愛されたい。

 そう願うことの何がいけないのか。


 でも、母によってつけられた傷と妹の恐ろしい言葉が、アンナをじりじりと締め付けるように苦しめる。


「……お嬢様は、俺よりもあの人たちが良いんデスか?」

「あなた、他国の密偵なんでしょう?」


 彼の追い詰め方に腹が立ち、薄々気づいていた事実を突きつけていた。


(そうでなければ、彼の有能さに説明がつかないもの)


 他に頼るあてがあると言っていた。そうなると、この家に居続ける理由がない。


 そもそも彼は故郷を侵略されて失い、カロンテ国まで逃げてきたと説明していたが、それが事実なのか証拠がない。


 しかも、彼は有能だから下っ端で働く必要が全くなく、明らかに不自然だった。


 彼をじっと注視するように見ていたから、彼のわずかな反応に気づいた。

 指摘した直後、彼は可笑しそうに口の端を上げて笑っていた。


 それを目撃した瞬間、ズキンと胸の奥がひどく痛んだ。


(やっぱり彼は――私を利用したのね)


「……お嬢様、」

「言い訳は結構よ。世話になったのは事実だから、みんなには黙っていてあげるわ」


 何か言いかけたベニハを遮って拒絶した。


「……また来マス」

「もう来ないで」


 アンナは彼が出て行ったあと、苛々しながらいつもは解錠している窓の鍵をかけた。


 これで彼とは決別したつもりだった。

 次回、何事もなかったようにアンナの前に彼が現れるまでは。




 §



「恐れながら陛下。今、なんとおっしゃったんですか?」


 アンナは国王陛下の言葉に耳を疑い、思わず聞き返していた。


「アンナ嬢には、レリティ嬢に代わって伝説の卵師としてガンドレン帝国に行ってもらうと言ったのだ」


 ベニハと決別してから一週間後、近隣国から使者が来国し、アンナたちカロンテ国に驚くべき申し出があった。


『友好のために伝説の卵師を是非我が国に招待したい』と。


 それを聞いたレリティは断固拒否した。


「ガンドレン帝国なんて野蛮な国だと聞いていますわ。王位争いで後継ぎ同士が殺し合い、卵師の待遇ですら我が国と比べて劣悪だとか。そんな国に行ったら、どんな目に遭うか分かりませんわ。最悪人質にされるか傷物にされて、帰ってこられなくなるかもしれません」


 功績が広く知られていた妹は、過去にガンドレン帝国以外の王族から求婚されたこともあった。でも、カロンテ国が相手の国と同程度で、さらに友好国だったので、穏便に断ることができた。


 ところが、ガンドレン帝国は大国。

 やり取りが少ない状況で「友好のために」と話を振ってきたので、断れば友好を拒否したと彼の国を敵に回すことになる。


 ガンドレン帝国はここ十数年で周辺の小国を飲み込むような形で急成長しており、使役する魔獣や国力が増えている。

 敗戦国の王族たちは皆殺しで、生き残りはいないと聞く。非常に警戒が必要な国である。


 適当に扱って良い相手ではなかったので、非常に厄介な国交問題になりかけていた。

 そんな中、アンナは王宮から呼び出され、先ほど陛下からとんでもない命令を下されたのだ。


 謁見の間にいたのは、陛下の他に王太子と宰相、それからアンナに同行していた母とレリティだ。

 父は領地にいるので、王宮には来られなかった。


「どうしてですか? 彼の国から招待されたのは、優秀な妹だと聞いていますが」

「レリティ嬢は国にとって大事な宝だ。みすみす他国に奪われるわけにはいかない」


 他に方法はなかったのだろうか。

 そう思ったが、恐れ多くて口に出せなかった。


「それに、元々アンナ嬢も伝説の卵師と呼ばれたこともあっただろう。嘘はついてはいない」


 陛下は胡散臭い笑みを浮かべる。


「ですが、私が妹ではないと発覚するのも時間の問題です。欺いたと国交問題になる恐れがあるのでは?」

「アンナ嬢、これを差し上げよう」


 陛下が直接アンナに下賜したのは、液体が入った小瓶だ。


「これは苦しまずに眠るように死ねる薬だ。問題になる前に自分の身を対処するといい」

「それはつまり……」

「死人に口なしと言うだろう。我が国は相手の要望を叶えたいのだから、問題はなくなる。逆に他国で招待客が死ねば、相手の過失となる。こちらが交渉で優位に立つことができる。だから、国のために死ぬのだ」


 アンナは頭が真っ白になる。


「あの、お父様もこの件を承知しているのでしょうか?」


 そう確認すると、母が反応する。


「もちろんよ。旦那様には連絡鳥コールを使ってお伝えしているわ。当家だけではなく、国のために役立つ立派な仕事なのだから、無事にお役目を果たせることを祈っていると旦那様はおっしゃっていたわ」

「そうよ、お姉様にしかできない仕事だわ」

「……そうだったんですね。分かりました」


 ベニハの言うとおりだった。

 とっくの昔に両親からもアンナは必要とされていなかった。

 妹だけが両親にとって必要な存在なのだ。


 アンナはついに理解した。


「……慎んでお受けいたします」


 こうして死地へ向かう旅路が始まった。

 最低限の人数を連れて。

 それでも幸いなことに道中は飛行移動のおかげで何事もなく、ガンドレン帝国の首都に無事に到着した。


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