240 新たな敵
ダダッ、ダダダン!
ーーーーボチャン!
ーーーードボン!!
ガシっと岩場を確保したディック様とアイファ兄さんとは対照的に、オレと閣下は血の浴槽に落とされた。どろりとした血液に気が遠くなると、慌てて拾い上げてくれた兄さんがビリビリのブラウスで顔を拭いてくれ、やっとのことで息を吹き返す。生臭い、気持ち悪い。魔法でザブンと水をかぶって洗い流した。だけど、未だ浴槽の中にいる閣下は、その液体を手ですくってうっとりとしているようだった。
「ひでーな。薄暗いが、この臭い」
「ああ。証拠なんてもんじゃねー。よく見りゃ周囲が墓場のようだ」
アイファ兄さんが髪紐を咥えて髪を整える。こんな時にと思ったけれど、もじゃもじゃの後ろ毛の中から回復薬に剣、滑り止めだろう手袋を出して、オレとディック様に投げつけた。髪の中に小さくたたんだ収納袋を仕込んでいたみたい。こんな場所で飲めたものではないけれど、まだ敵がいるのならと、こみ上げる酸っぱい液体を押し戻しながら無理矢理に回復薬を飲む。
「……で? マメ、敵は少女趣味だけじゃねーってか?」
きょろきょろと視線を漂わせたディック様が、オレの頭上のマメを捉えて怪訝な瞳を寄越す。オレの頭で胡座をかいているマメは、偉そうに腰に手を当てて言った。
「いんや、少女趣味のおっさんだぜ? だが……本領発揮だ。アイツは悪魔から血を分けて貰っているからな、まぁ、悪魔ジュニアだ。もともとの芽小僧は我より小さいが、浸った血は桁違い。不味いと思うなら、後ろの小山を聖剣で刺せ。もってるんだろう? 猛犬のあんちゃん」
言われたまま後ろを向けば、無数の骸骨の中央に小さな山。その中央には女神像が頭を半分割られた状態で立っていた。
「マ、マメ。あ、あそこ?」
アイファ兄さんに抱きついたまま聞くと、マメは頭から飛び降りて嬉しそうに言った。
「感じるだろう? 嫌な煙を。付け焼き刃でなく、長く歴史を重ねた悪意。 美味いぞ。アレをそのまま飲み込めば、人だった身体がどんな変化をするか楽しみだ」
ペロリと舌を出すマメにゾッとする。やっぱりマメは悪魔の化身。行かせちゃ駄目だ!
ーーーーシュッ!
兄さんの剣に、マメが慌ててオレに飛びついた。ウルルンの瞳。
「だ、大丈夫っス。我、主と契約で結ばれているから、自我の制御くらい簡単だ! 我らの秘密を教え助けるのも我の役目。ほらほら、あんちゃん。早くあの山を崩せ。アイツが飲み込む前に」
可愛い瞳を全開にして媚びるマメに、兄さんは舌打ちをしする。視線を移し、小山に勇者の剣を刺そうと一気に距離を詰めた。
ーーーーズルリ!
「うげっ!」
粘っこく飛び跳ねた血液が兄さんの身体を覆った。思わずガクンと膝をつく。身体から流れ落ちる血液を触手のようにうねうねとはべらせた閣下は、既に人の体をなさず、ドロドロと崩しながら小山に向かってゆっくりと歩き出していく。
「アイファ!」
兄さんに伸ばしたディック様の手にも、どろりと深紅の液体がこびりつく。慌ててオレはマイクロバブルで二人を包んだ。そのすきに、巨大なスライムのように軟体になった閣下が小山にたどり着き、女神像の下に身体を潜らせる。
「「「 しまった! 」」」
小山の周囲の骸骨達が、生きているかのように骨をならし、地面がうねるように波打つ。続けざまに小山がゆっくりと膨れ上がり、見上げるほどの巨体のどろりとした赤黒い人形が立ち上がった。
「クッ! クロームめ! 悪魔に呑まれやがったか?」
ディック様のつぶやきを聞いた液体が、嬉しそうに笑った。
「はははは。可愛いは正義なのだよ? だれが悪魔か。呑まれるのはお前だ!」
ーーーーキン!
ーーーーガガッ! ガキン! キン!
液体は金属なのか? そう思えるほどに剣が打ち合う音が響き渡る。兄さんの勇者の剣も、ディック様の怒りの剣も巨体の足にしか当たらない。前の悪魔との対決を思い出し、身震いをする。
ーーーーガッキン!
ジュル! ダダダダ! ドガン!
ちぎり切れた触手が壁にぶち合ったる。
ーーーーガキーン!
ジュバッ! シュルルル・・・・・
跳ね飛ばされた触手が床の骨や血液を呑み込んで再び巨人の身体の一部となる。
「くっそ、めんどくせぇぞ!」
「きりがねぇ! 親父! 策は無ぇのか?」
「マメ! 教えて!」
巨体の動きは鈍い。けれど液体のようになった身体から無数の触手がうねうねと伸びて、オレ達に襲いかかる。複数の攻撃にディック様と兄さんの剣が走る。素速く、鋭く、無駄のない動き。だけど、閣下には届かない。なにか、なにか、決定打が必要だ。オレに出来る援護をするんだ。
雷の魔法、氷の魔法、炎の魔法。今まで見てきた魔法を放ってみる。
効いてるのか、効いていないのか? 切った瞬間に魔法があたった場所の再生が少ない。だけど、それだけ。いくらでも生まれる触手には効果がない。兄さんやディック様の援護にはならない。オレにできるのは、再び人質にならないこと。身体ごと食べられないこと。
ディック様が戻してくれたソラをそっと確認して、顔を上げた途端、オレの決意が粉々に散った。
「わわわ!」
にゅっと伸びた液体が、オレの背後をとって、そのまま持ち上げる。ゴム紐が戻る時みたいに加速して、顔を上げた瞬間、奴の口が大きく動いた。
ーーーー不味い!
「「 コ、コウターーーーーーーー?? 」」
二人の悲痛な声が疑問形に変わる。 今度は食べられないって決めたんだから! 絶対に人質にはならない! オレは手足を広げて、喉に入る、すんでのところで踏ん張った。手足に魔力を集中する。呑まれるものか! 舌の上から奴の歯(らしき場所)を持ち上げる。ドロドロで形が分かりずらいけれど、きっと上顎だ。
「うぬぬぬぬぬぬぬぬ! えい!」
魔力を込めた手足がちぎれそうに痛い。そして重い。だけど、歯を食いしばって奴の顎を持ち上げる。隙間、身体を滑らせて踵を返す。鼻先でズンと岩のように重さを掛ければ、カクンと乾いた音を鳴らした奴の頭からプシューっと蒸気が噴き出した。
「兄さん、あそこだ! あそこに剣を!」
直感! だけどマメの声がつながる。
『そうだ! さすが主!』
「おう! 任せろーー!」
ディック様が兄さんの足を持って、思い切り空に向かって突き上げる。ぼろぼろの天井から城のシンボルとなる三角の屋根が見える。ディック様が投げ飛ばす岩を足場にガッツガッツと頭まで駆け上がった兄さんは、ドロドロの液体を身体でいなして、渾身の力を込めて勇者の剣を振るう。オレもなけなしの魔力を光り魔法に変えて、兄さんを追従するように放出する。頼もしい瞳、赤と緑のオッドアイ!
ーーーーカッ!
まぶしい光が周囲を覆い、勇者の剣の先に飲み込まれていく。壊れた天井から、夕焼けに照らされた城壁がひときわ白く輝いて、兄さんの影を真っ黒に映したかと思うと、赤と緑のイルミネーションを灯しながら閣下と共に小さく小さくなっていった。
地面に突き刺さった勇者の剣は、以前と同じように煙をしゅるしゅる吸い込んで動かなくなり、血みどろに汚れきったオレ達は、その場に倒れ込み、息を切らしながら空を見上げた。
「はぁはぁ、全く、お前って奴は……。あっちからもこっちからも、よく呑み込まれる」
「仕方ねーだろう。エンデアベルトだ。何をしたって人外になる。親父と俺と、一緒じゃねぇ?」
「あ、あはははは。 ご、ごめんなさい……」
互いに呼吸を乱れさせ、絶え絶えに吐きだした言葉。自然と笑いが漏れ、温かさと可笑しさを感じて、オレ達は仰向けに寝そべったまま解放された安心感に浸った。
しんと静まりかえった世界が動いたのは、ニコルとキールさんが迎えにきてくれた時だった。二人とも大慌てでオレ達を担いで外に連れ出すと、跳ね橋のたもとで乱暴に回復薬を振りかけた。
「おいおい、随分と乱暴だな? もうちっとゆっくりさせろよ」
「おい、ニコル。トリは飛ばしたんだろう? だったら後はオッ君が軍を手配するのを待つだけだぜ? まるでドラゴンでも出てきたみたいに急ぎやがって。それとも何だ? まさかドラゴンでも出て来たってか?」
ギロリ。いつもの二人じゃない。余裕なく苛立つ二人にぺこりと頭を下げる。ニコルが不満げにほかほかと温かな蒸しタオルでオレの顔を拭いてくれた。
「その、まさかだよ。あんなに慎重にしろって言ったのに暴れやがって!」
ドキリ。一番の惨事を引き起こしたオレは肩をすくめる。
「間もなく憲兵も気付く。町の人々は貴族の屋敷に避難するだろう。町に残られたら戦い辛い。俺達も当然、戦わねばらなん」
キールさんがアイファ兄さんの装備を放り投げながら上空を気にしている。はっ! ソラ! ソラは大丈夫だろうか? 慌てて胸をまさぐると、ブラウスのひだの中で小さな寝息を立てていた。ああ、よかった!
「町に入る前になんとかできねぇか?」
ぶんぶんと腕を振り回したディック様が、楽しげに言った。でも、駄目だよディック様。前に血まみれになった伝説があるもの。まぁ、今も無残な姿なのだけれど。
「町に入る前になんとか出来りゃいいが・・・。 相手次第だろう? どこに降りてくるか分からんぞ。誘導する暇もない」
日が沈みかけた空は、くぐもって、早々に闇をおろし始めている。真っ暗になったら……。いくら大きくてもドラゴンの姿が分かるんだろうか。ぎゅっとニコルの手を握って、オレは不安げに空を見つめている。




