170 待てない!
ポチャリ。
ヤギのミルクに真っ赤なベリーを落としたメイドさんは、つやつやと金色に輝くはちみつをスプーンにすくうと、悪戯気な瞳を寄越して笑った。
「これはどちらに入れます?」
どちらにって......。口かミルクかってこと? そんなの決まっているよ。
「もちろん......ミ?!」
ミルクだと言おうとしたその時、華奢な指がオレの唇をふさいだ。あれ?
「本当はブルか、山ヤギのミルクがいいのでしょうけれど、ここでは手に入りませんからね。そうそう、今は文字のお勉強をしていらっしゃいますね。お絵描きはしていますか? 芸術もお忘れなく」
そういって、メガネとそばかすのお姉さんは1枚のカードを出した。中央にはオレンジと緑の絵の具。同じ大きさの矢印が2つ、互い違いに描かれている。
「これって......?!」
慌てて飛びつこうとすると、さっとポケットにしまわれ、再び指で唇を押えられた。
「うふふ、書き付けを間違えてしまいましたわ。お渡ししたいのは、こちらの白いカードです。もし、お時間があったら私目に絵でもプレゼントしていただけないかしら? 文字の練習でもいいのだけれど」
「うん! うん! かくよ、かく! あぁ、何をかこう! 想像したことかな? 見たことかな? 悩む~~」
数枚の白いカードを受け取って目を合わせると、悪戯なウインクでひらひらと手の平を返した。
この人、サンだ!
王都に来てからずっと会えなかったけれど、ひまわりの瞳がメガネの奥で笑っていたもの。山ヤギのことを知っているのはエンデアベルトの人だけだし。そして、たぶん、アイファ兄さんもニコルも無事だ。暗号の意味は分からないけれど。大丈夫。きっと迎えが来る日は近い!
だけど、油断大敵ってことだ。サンは正体を明かさない。オレがへまをすると敵の懐にいるサンが危ない。ケドラレルナヨってことなんだ。そして......この白いカードに何を託すのか? 見られても大丈夫なようにサンに伝えろってことだけど、何を伝えるの? 何が知りたいの?
大好きなベリーミルクはナンブルタルで飲んだのと同じ、薄いヤギのミルクだ。だけどたっぷりのはちみつのおかげで甘くて美味しい。一粒だけ、涙がこぼれてしまったけれど、大丈夫。オレ、まだ待てるから。頑張るよ!
夕刻になるととろとろと瞼が下りてくる。ここ数日、首飾りに魔力を吸い取られないように、必死で魔力を内に押さえている。魔力は十分だけれど、おへその周囲が筋肉痛で、それなりに体力を使うから、やっぱり眠くなる。首飾りの魔力はほとんど溜まっていないから、魔力コントロールはできているのだとおもうのだけれど。
晩御飯、まだかなぁ。寝ちゃいそう。あまり身体を動かしていないからお腹はすかない。でもちゃんと食べないとディック様達が悲し気な顔をするから。スカに報告されちゃうし。
夢うつつに考えていると、赤ちゃんの泣き声が聞こえて来た。気のせいか、赤ちゃんの泣き声が初めの頃より弱く感じる。首飾りのせいで疲れてしまっているかもしれないね。
そうだ、オレの魔力を分けてあげれば元気が戻ってくるんじゃないかな? 回復をしなければいいよね。励ましとか、応援とかなら大丈夫!
『それって、回復と何が違うのかしら? 見つかりそうになったら教えるからほどほどにね』
「分かったよ、ソラ。いつもありがとう」
カチャと扉を開けると、一番大きい赤ちゃんがベッドの柵につかまって手を伸ばして泣いていた。お腹がすいたのかな? それとも寂しくなっちゃった?
メイドさん、来ないね。きっと夕食の支度ですぐに手が離せないんだ。それに交替の時間だし。引継ぎってものをしているのかもしれない。
ベッドサイドに持って行った椅子によじ登る。小さい手をとって抱き寄せ、よしよしと身体をさする。元気になあれ、元気になあれ! もうすぐご飯だよ。美味しいミルク、もらえるといいねぇ。
ふわふわ漂う金の魔力。いいよ、しっかり浴びて元気になって。
赤ちゃんたちの頬がつやつやと色付いてきた。あぁ、かわいい手がポカポカしてきたよ。眠れそう? 眠れるといいね。オレも、眠い。一緒に寝ちゃう?
柵がじゃまだなぁ。ぴょんと飛び越えて、赤ちゃんと布団に潜り込んだ。気持ちいいね。うれしいね。一緒に寝ると安心するよね。
ため込んだ魔力はゆらゆらと部屋を漂っていく。随分ため込んでいたからね、赤ちゃんが元気になればうれしいよ。たくさんたくさん浴びるといいよ。
赤ちゃんのお世話をしにきたメイドさんが、夕食を持ってきてくれたメイドさんが、プルプルと肩を震わせて悶絶していたんだって。うふふ、ご機嫌赤ちゃんは可愛さ倍増だものね!
■■■■
「ほぉ、これは……。なかなか良い。あの魔力を全身で受けたのか。赤子の身体は柔い。おそらく、染まっているかもしれぬ。面白い」
鳥肌が立つような重低音。びりびりと肌を刺し、押しつぶすされるような気配で目が覚めた。身体が動かない。ソラが油断なくオレの手の中に隠れて身構えているのが分かった。
ー-----あ、あの方が来た?
動けない。ううん、動いちゃ駄目だ。
オレの力じゃ敵わない。
ディック様なら勝てる? 分からない。
やばい、まずい。それだけは分かる。
全身が真っ暗な闇。
吸い込まれそうな闇。
オレの漆黒をもっと深くした底知れぬ闇。
多分扉の向こう。こっちには来ない。
メイドさんが隣に眠っていた赤ちゃんを抱き上げると、あの方と一緒に部屋から出て行った。そしてオレは違うメイドさんに抱き上げられて自分のベッドに寝かされてしまった。
翌朝から、赤ちゃんが一人消えた。どこかに行ったのではなくて、消えた。オレには分かった。オレが、オレが軽率に魔力なんか浴びせたから。きっとそうだ。悔しくて悲しくて。だけど泣けない。
ごめん、赤ちゃん。
ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ー---ここにいては駄目だ!
オレも、赤ちゃんも。
ごめん、ディック様。もう、もう、待てない!