166 あの方
こぽ
こぽぽぽ
ぴちゃん
古い建物の見晴台。男が一人、パイプから漏れ聞こえる音に耳を傾けていた。パイプが繋がれた先にはおそらく液体があるのだ。窺い知ることができる情報はそれだけ。誰も来ぬこの場所を守る男は、すんすんと犬のように空の臭いを嗅ぎ、静かに階段を降りて行く。
一日三回。
男は塔に上り、パイプに異常がないか、街に不穏な気配がないか、こちらに向かってくるものがいないかを確かめ、また別の塔に上る。塔は全部で四つ。東西南北に一つずつ。そして男のいた中央の建物は本館であり、四方向からパイプが集められる場所。パイプは地下へと続き、その先はあの方しか知らない。
真面目に生きてきた。貧しくとも親子四人、肩を寄せ合って生きてきた。だが、なんという理不尽。仕事から戻ると姉と母が何者かに惨殺されていた。憲兵の話では最近頻発している女性ばかりを狙った通り魔だと言われた。絶望で父は倒れた。収入が途絶え、医者にも診せられず己の無力さを呪った。
そんな時だ。悲しみも憎しみも身体の傷みさえも、全てを癒し、支えになってくれるというあの方の噂を耳にしたのは。半信半疑で父を背負い、ここに連れて来た。父は手遅れで亡くなったが、男に一筋の光が与えられた。
憎め!
惨殺した犯人を。何もできぬ憲兵を。奴らを野放しにしている政治を、王を。世界を司る女神を。
あの方が上に立てば世界が変わる。世界を変えるために、男は「あの方」の為に尽力しようと決めた。
迷いがなくなれば物事は上手くいく。その通りだった。あの方に雇われ、仕事を得た。志を共にする仲間もできた。悲しみを憎しみに変えればどんなことでもできる。何者でもなれる気がした。
願いは全てあの方に!
ここに関わる者は、大なり小なり、男のような辛い過去を引きずっていた。そして今また、男のようにあの方の助けを求めて来るものがいる。男は手に持った魔道具に光を反射させて来訪者を知らせた。
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天井まで届くほどの巨大なガラス壺。周囲の空気を取り込んで黒い煙は壺の中を漂う。今朝がたパイプから落とされた金の魔石は、下の液体に浸かるとコポコポと泡を出した。その泡が黒い煙を取り込むように底に沈み、黄色の液体となる。
赤い魔石、青い魔石。赤子から吸い取った魔石もわずかに泡を出すが、金の魔石の泡の量は比べるまでもなく、そしてどろりとした粘りが黄色を艶めかせるのだ。
「美しい! だが、黒煙が足りぬか? 金の魔力が強すぎれば酒が固まる。さすれば、うっかり浄化されかねん」
男が地下室から出ると、そこにはおびただしい数の遺体、しゃれこうべが転がっていた。束ねた長い髪から女の物だろう。まだ血液がしたたるそれを鷲掴んで天井に放り投げた。そして、男の手から魔法が放たれると生首は黒い煙となって部屋中に漂う。
「鮮度が違えば煙になるのも早い。ゆっくり上り、取り込まれておいで」
独り言に知らず口角が上がる。そろそろ行く時間であろう。悲嘆にくれた輩が訪ねてくる頃合いだ。
男は壺の下部につけられた蛇口を捻り、ポトリ、ポトリ、ほんのひと匙ほどの液体をコップに落とした。
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「そうですか。お姉様を……。あなたは何も悪くありません。もちろんお姉様も。祈りましょう。優しくて若き姉上が苦しみから解き放たれるように。残された少年が、悲しみに囚われずに生きて行けますように」
足元に跪いた少年は、真っ赤に晴らした銀杯色の瞳を虚ろにしてぎゅっと唇を噛んだ。
「いけませんよ。あなたは自分を傷つけてはいけません。悪いのはあなたではない。犯人です。そしてそれを生み出した政治。あなたを救えない女神を憎むのです」
白銀のローブを身に纏った司祭は、少年の唇の血液を白いチーフでそっとなぞった。白い光がふわりと放たれ、唇の噛み傷が消えてしまった。
司祭のそばで少年を見守っていたシスターは、小さな感嘆の声を漏らしたが、司祭は自身の手を見つめて小さく震え出した。
「少年よ。どこかで尊い魔力を浴びたのでは……?」
少し考えた少年は、分からないと首を振った。思い当たるのは先生とコウタだ。尊いと言われるのは、不思議な魔法使いのコウタだけ。だが、それは伝えない方がいいような気がした。
「まぁよい。気の毒な少年よ。しばらくここにいるがいい。食事も十分に用意しよう。そして、憎む気持ちが高まったら己のすべきことが見えよう」
シスターに促された少年は、重い身体を持ち上げて抜け殻のように突っ立った。シスターは先ほど司祭から渡された小さなグラスを少年に持たせ、飲むように促す。
ゴクリ。
喉がカッと熱くなり、酒だと分かる。身体中の血液が活性化し、あっという間に熱を持たせた。辛かった気持ちがふわふわと持ち上がるように穏やかになっていく。
「少しずつ、少しずつだ。辛かろう、悲しかろう。だが、少年よ。お前は前を向ける。きっとよき働きが出来る。だから、しばし休めよ」
豊かに生やした白髭を撫でた司祭は、シスターの腕の中でクッタリと身体を預けた少年を見て、愉快そうに目を細めた。