015 報告
朝食に出されたホットミルクをコクリと飲み干すと、心も身体も満たされてご機嫌だ。
「美味しかったー。ご馳走様でした。ソラと遊んでくるね!」
メイドさんの介助を待たずに、ぴょんと椅子から飛び降りようとするオレを制止するディック様は、大ぶりに切られた果物を慌てて口に押し込んだところだった。
「まへっ、ひょうはれかけるぞ」
口の端からジュルリと滴り落ちそうな汁を溢さぬように袖で塞ぎ、ゴクンと飲み込む。
「あはははは! もう、お行儀が悪いよ! お口に入っている時はお話ししないの! 」
「お子様は大きい方でしたかねえ。」
執事さんのツッコミをジトっとした目で受け流すディック様は冷めた紅茶をぐぐっと一飲みする。
「まあいい。 おう、コウタ。 出かけるぞ。 一緒に行くだろう? 着替えて来い。 昨日の事もあるし、村の奴らに顔を通した方がいいと思ってな」
モルケル村は領主館から見渡せてしまうほどの規模だ。海側の絶壁の下には広大な牧場が広がり、ぐるりと回り込むように質素な道を行くと民家と小さな商店が点在し始める。昨日の夫婦の家はこちらから三番目の家だって。
数件ずつが集まった幾つかの集落を過ぎれば、小さな林が点在し、湖へと繋がる。
村外れとなる湖からこちらに流れ出る小川を少し下ると、石造りの水車小屋があり、そこから牧場に繋がる道が伸びる。小高い丘を登り切った崖下の大きな家が村長宅であり、村一番の酪農家の家だ。牧場下の対岸は畑となっていて、小麦やトウモロコシ、豆なども栽培されている。
村長さんの家まではほどほどの距離があるけれど、領主館から牧場を突っ切って直線で行けば子どものオレでも行けそうな程、さほど遠くない距離だ。でも今日はご挨拶だから馬で行くんだよ。
レースもフリルもついたよそ行きの服に着替えたオレは、裾に刺繍が施してあるやっぱり豪華な上着を着せられ、ディック様の前にポンと乗せられた。
ヒヒン! 馬さんとアイコンタクト。ご機嫌だね!
お前はちゃんと分かりそうだからと、ディック様は時折立ち止まって、ゆっくりと説明をしながら馬を操る。
先代様が冬でも枯れない特別な牧草を見つけてきて広めたとか、小川が南の森の奥まで続いているとか、大きな嵐が来ても湖の水が溢れることはないとか。
うん、分かるよ。だってオレ、吸収する器が大っきいから、知れば知るだけ身に付けられるって! 魂を見ることのできる山のおばあが教えてくれたもん。ね、オレ、しっかりしてるでしょ? 正式な挨拶だってできるんだから。
村長さんの奥さんが出迎えてくれ、部屋に案内されたオレは、優しげな初老の村長さんがくると、出来る漢を見せようと張り切って片膝をついて傅く。
「お初にお目にかかります。コウタと申します。若輩者ですが、何卒宜しくお願い申し上げます」
ーーーー時を止める村長夫妻。
完璧な挨拶なのに、しまったという顔で頭を掻くディック様。
オレは慌てたディック様にガシリと担ぎ上げられて、どかっと横に置かれるとゴシゴシと頭を掻き回される。
「悪いな。時間取らせて。コイツがコウタだ。今ので分かったと思うが普通じゃねえ。だが、悪い奴じゃねぇ。村のみんなも事情は分かっていると思うが……。こんなんだからな、俺の子にすることにした。宜しく頼む。」
普通じゃないって何? こんなんってどういうこと? ぷうと憤慨するオレに、時間が戻った村長さんは優しい顔で頷いてくれた。
「まあ、可愛らしい。サーシャ様もお喜びになるんじゃなくて? 飾り甲斐があるわぁ。でもディック様のご心配も頷けます。この子ならどんな殿方もイチコロですもの。でも、楽しみが増えますわね!」
村長婦人が満面の笑みで微笑む。飾り甲斐……。殿方……?
「まあ、その、綺麗な奴なんだが、オレも嬢ちゃんだと思ったんだが、一応男だ。坊主だ。あぁ、その辺も言っといてくれ」
歯切れ悪くも付け足してくれたディック様! えぇ? オレ、女の子に見えたの?
がっくり肩を落としたオレに搾りたてのミルクはほんのり温かかった。
酪農で有名になりつつある村は、村長さんとディック様が協力しあって牧場を運営している。貴量な牛や馬や鶏がきちんと管理され、少しずつ数を増やしているし、チーズやバターを作る工房なんかもある。
1年を通して収入があるように、村の誰もが仕事を持てるようにと考えられた領政は『人は宝』とするエンデアベルト家と領民達が手と手を取り合って厳しい辺境を切り拓いてきた結果だと村長さんが熱弁していた。
厄災と呼ばれる天変地異から数百年。魔素の乱れで多くの動物や生き物は魔物化し、神聖な力を持つ弱い動物達は幻獣として生き残った。それでもこのホフムング王国は人と共に生きる家畜と呼ばれる動物に恵まれているそうだ。
領主と村長夫妻による ”今後の牧場経営と労働力“ 談義には流石についていけれなかったけれど、朝食後と言うのに美味しいチーズとミルクをしっかりいただいてオレの腹ははち切れそうだ。
頬にあたる風がキリリと冷たく、抜けるような青空と瑠璃色のソラが気持ち良さげに溶け合う様子を眺めながら、今、オレ達は少し硬くなった牧草の上に寝転がっている。牛達の歓迎のベロベロはデイック様のひと睨みで終わり、今はとても静かだ。
「まだ寝るなよ……。あと一つ寄る所がある……」
ディック様の重そうな口ぶりに思考が停止した幼児の瞼がかろうじてこじ開けられる。……あと、一つ?
よっ、と身体を起こしたディック様の薄茶の瞳には領主館が写っているようだ。
「セガやメリルは……まだ早いって言ったが、お前は賢い。 俺がついてる。 それに……自由になったら自分で何とかしそうだからな。」
そう言うとオレの身体を掴んで真上に放り投げ、しばらく浮遊させた後、荷物よろしく腰のあたりで軽々と受け止めた。
目まぐるしく変わる景色に、わわ、と慄くと視界がぐんと開け、わぷっ。
ディック様の硬い胸に押しつぶされてオレの肺はぺちゃんこだ。
「行こうか。お前の母ちゃん、いや、母様のとこだ! お前の幸せを引き受けるって言わねぇとな!」
ディック様は村の中とは思えぬスピードで馬を走らせると、切り立った岩山から海岸へ降りる小道に向かった。