014 小さい子
「あー、何だ。それで、お前はいつ甘える?」
ラビを捕まえクンクンと耳の中の匂いを嗅いで遊んでいたオレの前にディック様がしゃがみこんだ。
「もうたっくさん甘えてるよ。」
クスクスと笑いながら、ラビから目を離さずに返事をする。
ラビは耳が尻尾の近くまで伸びる幻獣猫だ。白い長いフワフワの毛にピンクの襟巻きのような首毛。オレのお腹と同じくらいの大きさだから持ち上げるのが大変だ。でもお腹の下にあるちょっと薄くなった毛がサラサラとしていて気持ちがいい。肉球を押して爪を出すとギロリと睨まれ
「坊主、怪我するぜえ」
みたいな目つきをするのが面白くて恐ろしくて。それが癖になり、何度も繰り返しては嫌がれる。でも噛んだり引っ掻いたりはしない。ついでに滅多に鳴くこともないよ。
「ん?準備中じゃなかったか?」
ニヤリと笑ったディック様にキョトンと首を傾るが、ああ、そうだったと途端に顔が熱くなってラビの腹に突っ伏す。
「ギュニャオ!」
ビックリして飛び上がったラビが長い耳でペシとオレの頬を叩いて逃げていった。お、珍しい? と思うと突然グンと身体が持ち上がり、どさりと高い肩に下ろされた。
「あはははは! もう、乱暴だよ。小さい子だったら泣いちゃうよ」
「泣かねえよ。小さい子はな。ほら、笑ってるぞ」
「えー? オレ小さい子じゃないよ」
足をバタつかせ、嬉しさと恥ずかしさで身じろぎする。
「そうかぁ? 自分でちっちゃいって言ってたろう?」
キャアキャア言いながら背中に回ると長い腕に追いかけられ、広い背中を蹴り上げて頭によじ登った。 おっ? っと、ディック様がよろめいたから、オレはうっかり手を離す。
ーー落ちる。ぎゅっと目を瞑り、浮遊感を味わうとシュッタ。すんでのところで抱き止められる。オレはそっと目を開いて顔を上げた。
「俺が獲物を落とすと思ったか?」
したり顔のディック様は、無精髭があっても文句なくカッコよくって、オレはソラのごとく両手を広げて
「ううん! そうくると思ったよ。」
と部屋を一周してから硬い胸に飛び込んだ。
さほど広くもないサロン。上に下に宙を飛んでは背に担がれ、脚に挟まれ、逃げては捕まり、飛び込めば受けられ。思い切り身体を預けてもびくともしないディック様は、どうしようもない心に絶大な安心感を与えてくれる。
高揚した気分にはぁはぁと息が上がり、足を投げ出して座り込むと、ちょっとひんやりした風を背負った執事さんと目が合った。
「コウタ様はそれでよろしいんですよ。」
オレにだけニコリと笑った執事さんは、くるりと背を向けたかと思うと
「館にはお子様は一人かと思っておりましたが……、今日は致し方ありませんねぇ」
と呟き、オヤツにしましょうと紅茶を淹れてくれた。
この館ではオレのために毎日オヤツを出してくれる。幼児は一度にたくさん食べられないからって。ミルク粥とか、チーズとか、ドライフルーツやナッツが多い。でも今日は薄く切ったパンを焼いてお砂糖をまぶしたもの。甘いオヤツだ。
硬いパンは油断をすると口中の水分を持っていってしまい、噛むのにも飲み込むのにも苦労する。一口大にするためにパキリパキリと小さな手で格闘すると、ディック様が手を伸ばしてあっという間に割ってくれた。
「それで、お前は……、いいのか?」
歯切れの悪い言い様に、何の事かと見上げるとディック様は敢えてオレを見ないで話し続ける。
「本当はサーシャや息子達に話してからと思ったんだが……。俺はお前の……母様か? ……任せろと言っちまったからさ、……。」
ディック様はオレを抱き上げ、向かい合わせて膝に乗せると、なるべく優しい口調で話そうと気遣ってくれている。
「諦めろ。 俺達と、何だ、その、一緒に、その腹ん中に、幸せをいっぱい詰め込もうって事だよ」
「それって、それって……。オレ、ここにいていいってこと? ずっと……いい、の? 一緒に……? 」
漆黒と薄茶の瞳がしっかり繋がると、ぼやんと視界が歪み、砂糖にまみれた小さな手から、ポロリとパンが落ちた。
「違げぇよ」
ディック様は初めて出会った時と変わらないニカっと笑った顔で乱暴に言うと、ぎゅうっとオレを抱きしめてから額を合わせた。
「諦めろって言ったぞ。 居候なんかになるんじゃねぇ。 お前は俺の子だ。 親が増えたと思えばいい。 俺がお前と居たいって事だ。 離さねぇから覚悟しろ」
小さなオレの体に顔を埋め、ぶっきらぼうに胸の内を吐き出したディック様は耳まで紅く染めている。こんなに大きいのにオレと同じくらいに小さく見えて、それが可笑しいのに笑えない。
「う、嬉しいです……」
それだけ言うのが精一杯。 ディック様の背中をわさわさと弄る。今日もまた、オレの顔は涙でぐしょぐしょだ。