121 消えた?!
ーーーーヒュン!
急に軽くなった両の手。押さえていた身体が消えて、ズグッと前のめりに転びそうになる。
僕らはキールさんが張るシールドの中。シールドの硬い壁にカチとぶち当たり、空になった両手が硬い石畳に押し付けられた。
だが、前を見据えたその目が捉えたのはただの絶望だ。
僕らの小さい天使が、今まさに向かってくる魔物達の最前線に踊り出ている。
今、確かに僕らが護ろうとした、握っていた筈の柔い命が……、あろうことか瞬時にも届かない先に立っている。
「 なっ?! 転移か? 馬鹿野郎 」
「間に合わ…………」
ーーーー
時は止まったのだろうか?
静止した視界が急速に動き出した。
ーーーードガガガガ
ーーーーーーーーゴゴゴゴゴゴ
ーーズドドド、ガガガガ
ーーーーーーーーカッ
ピンクのシールドが僕達を守った。それは確かだ。
激しい破壊音。
幾つもの塔の崩壊。
えぐられた地面には真っ黒な闇が広がり、
世界を真っ白に染めた閃光は驚くほど常温で、
魔物達の気配が薄い煙となって昇華されていった。
幾つかの研究塔があり、まだ逃げ隠れた人もいたであろう僕らの視界は、堅強なシールドを露わにした敷地の随分先の王城壁と、一面に広がった更地に立ち尽くす小さな天使だけを捉えた。
「お、おまっ……」
「ち、ちびっ子?!」
僕は駆け出した。
腰が引け、足が絡れ、無惨な走り方だけれど。
一刻も早く君を抱きしめなければ……。
ただ、その想いだけ。
ガクガクする膝に、震える身体。
何故? 何が?
そんなことより、ちっこい弟を抱きしめて安心させなければ……。
「ぷっ、ぷぷぷ……」
ーーーー兄さん?
「くくく、ひひひ……」
「「「 あはは、ははは。 がはははは 」」」
突然、笑い出したアイファ兄さんにキールさんもニコルも笑い続く。
キョトンと振り返ったコウタ。僕も思わず足を止めた。
ザッ、ザッ。
歩き寄る兄さんの足元から砂煙が立ち上る。兄さんは僕の肩をポンと叩いてコウタに近づいた。
「お前、めちゃくちゃだぞ? いつも言うだろう? 魔法の大盤振る舞いだって」
脇に差し込まれた手に反応して両手を広げたコウタが高く抱き上げられる。ゆっくりとぐるり一周。
不思議そうに見開いた漆黒の瞳が徐々に正気を取り戻すように光を宿した。
「ち、ちびっ子。あんた意外と冷静だった? くくく……、あの塔、積み木じゃないんだから……」
腹を抱えて笑うニコルが指したのは、根本から引き抜かれたように形を留めて転がる研究塔。
中は崩れちゃいない。逃げ遅れた人に怪我くらいはあるだろうが、この惨劇で命が有れば文句は言えまい。
「あーあ、これ、どうすんだ? 親父に頼んだって誤魔化しようがねぇぞ?」
困るどころか嬉しそうな兄さんに僕もクスと笑みが溢れた。
「……、なぁ? まさか、これ、俺のせいにされないよな? めぼしい魔法使い……、他にいるよな? クライス?」
「さぁ? あっちで気絶してる先生や友人には無理っぽいなぁ」
意地悪く笑ってやれば、がっくしと頭を抱えて座ったキールさん。
あーーと大きな口を開けた間抜け面のコウタに緊張が一気に解けた。
だから……、そう、僕らはまた油断した。
エヘヘと笑うコウタ。傷が痛むのか、ふうと息をついて座り込んだアイファ兄さんと目を合わせて笑い合った。
そして彼は己の失敗をなかったことにしようと、うーんと首を傾げ、小さく小さくつぶやいてしまった。
「大丈夫! きっと元に戻るよ」
まさか?!
しゅるると漆黒の狼の毛を揺らした金の風。 頬擦りしていたソラと共にふわり高く竜巻を起こし、大きな塔をーーーーそう、積み木のように転がされた塔を持ち上げ、元の場所に据え置き、地面をえぐった闇をズゴゴと塞いで言った。
ああ、僕らは何て無力なんだ。
「ほら、何にもない! 大丈夫だよ! 何も起きなかったから、ねっ?」
呑気なコウタ。
草木一つない、だだっ広い更地は確かに何もない。崩れて積み重ねられた塔は、隅に追いやられ、何もないと言えないはずで……。
僕らはヘナヘナと力尽きてしゃがみ込んだ。
「なっ?! 何があったと言うのか? 痕跡が消えたとは……」
僕らと共に意識を失いかけた騎士隊長が正気を取り戻したのは、随分経ってからだ。くるり振り返ったコウタが兄さんの異変を察知して、お決まりの金の微笑みで回復させた後。
流石に魔力を使いすぎたのか、トンと兄さんに持たれかかって今ではスウスウ夢の中だ。
逃げ惑った人々もいれば、離れたところから一部始終を見ていた人もいる訳で。僕は何も言えずに苦笑するだけだ。まぁコウタが無事ならいいかと開き直り、首を傾げる騎士隊長や、使命に燃えた騎士らを横目に腰を抜かしているミルカの手を取る。
逃げるが勝ち。
そう思ったのに悪い顔をしたアイファ兄さんにずいと前に出されて、くそう、後始末を押しつけられた。
「先日の受勲者、クライス・エンデアベルト様だぜ? 流石だろう。 俺はただの冒険者だからコイツで足りなきゃギルドまで俺達を訪ねな!」
踵を返した兄さんをガチャガチャと甲冑を鳴らした騎士達が取り囲む。既視感を覚えたこの流れ。拘束か? 嫌な予感が過った。
だがそれは杞憂で終わった。
一人、また一人。
兄さんを取り囲むように騎士達が傅いていく。兜を脱ぎ、胸に手を当てて。うつむき、幾人もは知れず涙を滲まして。
僕達は彼らの中心にいる幼児の姿を見る。
砂と埃と、涙と……兄さんの返り血で汚れきった白い顔。細く柔らかい漆黒の髪がふわと微風に揺れ、あどけない薄桃色の唇が珍しく微笑むように閉じている。
だらりと力を抜いた手足。
兄さんの乱暴な動きで揺れる肢体は、穏やかな呼吸が隠され所々から擦り取られた返り血が出血のように浮き上がっている。
「ーー最大の敬意を」
騎士隊長のくっきりと響く声に、ズズと鼻を啜る者、嗚咽を漏らす者。哀悼の悲しみが広がる。
ニコルは笑いを堪えきれずに前のめりにうずくまり、両手で顔を覆ったが、それすらも悲しみを悼む女の演出。
ニヤニヤと上がる口角を項垂れ、握った拳で誤魔化す兄さんとキールさん。
凄い! これが冒険者の対応力か?
チャンスだ。 不謹慎なんて言ってられるか! 僕も下手くそに顔を曇らせて逃げるとしよう。
「あぁ、今はそっとしておいて貰えないだろうか。弟を……僕らの天使を穏やかに休ませたい」
「……し、心中、お察し致します。我らが無、無力で……。 お、お送りします。こちらに」
手渡された毛布でぐるぐるとコウタを巻き付け、僕らは騎士隊が用意した馬車で家に帰った。
ミルカが、真実を知らずさめざめと泣き崩れたおかげで、あいつが垂らしたよだれを誤魔化すことができた。
もちろん後でこっぴどく叱られたけれど。
もちろん、これはただの発端に過ぎないのだけれど。