120 簡単に言ってくれるな
確信に満ちた瞳。揺るぎなく俺に向けられたその漆黒に、信頼を得た喜びで胸が熱くなる。
ーーーー出来る?
ついこの前まで、馴染みの森に入ることすら心配で涙ぐんでいたアイツ。随分、株を上げたじゃねぇか。なぁ、俺?
だが、今回の奴は流石に気が抜けねぇ。アイツの目の前の所業だ。下手に傷を喰らえば小っけぇ胸にデカい傷だ。無事に戻らねぇと。
くくく、責任重大だな、俺よ。
でっかいトカゲを狭い壁で足止めする。上手い手だ。例えブレスを吐いたって自分に跳ね返る。被害は最小限。
・・・あの壁がどんくらいもつか、なんてアイツの頭にはねぇな。瞬時にやれってか? 俺にビビる隙を与えないって寸法だ。よく考えたじゃねぇか?
上から襲って顎に喰らわせろって言ったが……。
簡単に言ってくれるなよ
閉鎖された環境で上から襲うっていうのはどういうことか分かってるのか? 口を開けられたらそのまま飲まれるだろうが。
俺なら喰われずに避けられる。
アイツはそう読んだ。魔法を弾き返した鋭く堅い角。それすらも避け、大きく開くだろうあの口に飛び込め。そして剣で切り割きながら、尚、下に到達し、そこからも切れってことだ。
色んな奴と対峙したが、んなことやった事がある訳ねぇ。危険すぎんだろう、俺。
だが、やるっきゃねぇ。
俺なら出来る。アイツがそう言った。
俺は、奴を閉じ込めた壁を蹴り、高く飛び上がる。
やっぱり、読み通り。
トカゲの野郎は大きな口の奥底に燃えるような熱いブレスを貯めていやがる。それを避けりゃ頭の角でブッ刺そうってんだろう?
ーーーー舐めんじゃねえよ!
ブンと振り上げた剣を盾のように使って急所を庇い、俺は奴の口に向かって滑空する。
ーーーーまだ出すんじゃねえぞ、貯めといてくれよ。
まともに喰らえば流石の俺も無事ではいられねぇ。熱を浴びるその直前、奴の隙を狙って躱わす。
ーーーー今!
▪️▪️▪️▪️
コウタとキールさんで立ち上げた分厚く高い壁。その上から飛び上がり、勢いづけて滑空する兄さんに、僕は何も言えずに唇を噛む。
正気か?
まさか、本当に突っ込んで行くのか?
混乱しつつ、守るべき弟を引き寄せ、はやる鼓動を誤魔化すかのように抱きしめる。
無茶だ! いくら兄さんでも!
息苦しく締め付けられる胸。漆黒の瞳が不安げに僕を覗き込んだ。次の瞬間、兄さんが飛び込んだ壁が白く発光したかと思うと、上空で熱い豪炎が吹き上がる。
ボーーーーォオオオオオ!!!!
ーーーーブレス?! やっぱり? 兄さん!!
ズシュウウウウウウウ!!
荒々しく空を舞った炎は、逃げ惑う人々に狂気と恐怖を煽る。ガクガクと震えるコウタ。僕は泣きたくなる気持ちを、精一杯に息を吐くことで抑えて漆黒の髪を乱暴に抱く。
「だ、大丈夫。大丈夫だから、コウタ! 兄さんを信じるんだ」
自分に言い聞かせるように。腰抜けた僕たちは壁から僅かに離れただけで、長い長い一瞬を待つ。兄さんの気配を探して。
ーーーーブシュッ!
ーーギュギャォオオオオオ!
高く飛び散った赤黒い血飛沫。響き上がる罵声とも叫声ともとれる不気味で不快な音。そして、バキバキドドドと分厚い壁が崩れ落ちてきた。
ーーーー兄さん? 兄さん!
「う、う、うわあぁぁぁぁ。に、兄さん。アイファ兄さん。ご、ごめ…なさい。お、オレ、ブレスなんて……、うっ、うっ……し、知らな……」
這いつくばって崩れる壁に向かっていくコウタを、僕は手を伸ばして引き留めている。この血は……、どっち……、だ?
「ごめなさいー。ごめなさーい。うわぁぁぁん、うわああああああ」
火がついたように泣き崩れるコウタにソラとジロウとプルがピタと寄り添う。気配に敏感な奴らが微動だにしないなんて。
コウタを抱えた僕の胸も弱々しく震えて力が抜けていく。だが、もしそうなら……。
キールさんとニコルは共に剣に持ち替えて構えを崩さない。僕はガクガクと不自然な動き方でかろうじて立ちあがろうとした。
ーーーーグッ。
ゴロン、ドドッ! 崩れた壁から鈍い音。危惧した通り、血濡れたトカゲの前足が持ち上がり、ズンと一歩を踏み出す。
「く、クソゥ。来るのか? アイファは? 」
キールさんの呟きに、泣き崩れたコウタが反応した。
「や、やだ! やだー!! アイファ兄さん、どこ、どこ?」
コウタを取り囲むように金の渦が巻き起こる。
赤、青、緑。粒子が怒りと絶望に染まっていくかのようにゆっくりと色を変え、漆黒の柔い毛がヒュウヒュウと鳴り荒ぶ風に吹き上げられている。
僕は魔力を暴れさせる弟を全身を使って押さえている。ジロウも前に立ち塞がり、自棄をも許す鬱屈した気配に牙を向ける。
ーーーーズ……ズズズ
奴の太く重い足が持ち上がった。
「 ・・・! 」
びちゃびちゃと雨のように噴き上がる血糊に向かって、キールさんが剣を鈍く光らせて走り出る。
ーーと、奴の身体が奥に向かってズザンッと倒れる。
「クッソォ! 不味い! ペッ! ペッ! 殺るのはいいが、逃げ場がねえ。 返り血の浴び放題だ」
オオトカゲの野太い足の下から這い出てきた男は、行儀悪く唾を吐いて、赤黒く染め上がった服の袖で顔を拭きつつ、ニヤと得意げに笑った。
「ーーぶげっ」
僕の美しい顔を蹴飛ばして一直線に駆け出したアイツは、わんわんおいおいと泣き叫びながら新しき英雄の胸に抱かれた。
「テメェがやれるって言ったんだろう?」
「だって、だって。火を吐くって……し、知らなくて。 うっ、よかった、よかった。わぁああああん! よかったよーー」
「リーダー、怪我は?」
指の間にいくつもの小瓶を挟んで見せたニコルに、兄さんはコウタを抱いたまま 「ねェよ」 と呟き、涙と鼻水と返り血で見るも無惨に真っ赤に染め上がった幼子を愛しそうに抱きしめる。
だが……。
悪夢は再び訪れた。
崩れた建物から砂煙が黙々と立ち上る。
ドドドドドドドドーーーー
ーーーーダダダダダダダダ
成り行きを見守っていた人々が再び逃げ始めた。
ホーンラットにゴブリン、コボルト。脅威になりそうなものは精々ワジワジ程度だが……。
数百? いや、もっとだろう。おびただしい数の魔物たちが崩れた塔から溢れだし、一直線に向かってくる。不気味に白目を紫に染め、瞳は紅くギラギラと輝いている。
「く、速い! 来るよ!」
「退け! 魔法で蹴散らす」
「いや、守れ! テメェはシールド展開だ!」
「分かったーーーー」
素速い『砦』の判断。
僕は投げ渡されたコウタを抱え、キールさんの真後ろで構える。
兄さんは赤黒く滑った剣を拾い上げると、焼け焦げた上着を脱ぎ捨てた。
やはり、無傷ではいられなかったのか。
高品質の装備から無数の焦げ跡。その下のシャツから滲んだ赤い染みは返り血だけとは思えない。シールドの後ろで手も足も出せない自分に臍を噛む。
「もう、……もう嫌だ……」
らしからぬ小さな声。ハッと手の中に視線を戻せば、僕の天使が見たこともない形相で溢れる魔物達を睨んでいる。
違う、この顔はいつか見た顔だ。サースポートの教会で。悪魔に贖った時の、あの顔。
「く……、だ、大丈夫だ。 大丈夫だ、コウタ。 だから押さえろ。 アイツらは雑魚だ。 僕達の相手じゃ…………」
何が大丈夫なのか? 何を押さえるのか? ただ本能的に不味いと思った。奴らを一掃するのは簡単な筈だ。数だけならば。奴らだけならば。
この時の僕は、まだ何も解かっちゃいなかった。
天使の持つ力と危うさを……。