104 恐怖とは
ヒュンと岩陰に転移したはずなのにジャボンと水の中。しまった、狙いを外した! 泳げなくはないけれど足もつかない、視界がおぼつかない中でぶくぶくと水中に引きずられる。ゴボと息が吐き出されれば、もう何もできない。ゆるりと力を抜いて身を預けるとチャポチャポと何かに運ばれて岸に辿り着いた。
ひょいと顔を上げれば烈火の如く怒りの形相のアイファ兄さんが仁王立ちだ。プルルと水を弾き飛ばすジロウの飛沫にきゃあと悲鳴を上げたミュウ達。チラと横目にしつつも迫力のある怖い笑顔は微動だにしない。
「それ、使うなっつたよな? お前ぇどこに行ってきた?」
びしょ濡れのオレをそのまま龍爺に抱かせて龍爺と共に説教される。
転移はするな、簡単に魔法を見せるな、そもそも龍爺が好き勝手にやらせるからこうなるんだ、ズコックさんに杖をもらってきたことを正直に言えば、それはそれで叱られ、酔っ払っているから余計に説教が堂々巡りとなっている。
ドンクたちはこの際とばかりに素知らぬ顔でお弁当タイムだ。遠い目をして説教をくらう龍爺は果たして神獣だった片鱗もない。オレたちは兄さんの酔いがそこそこ治るまでじっと耐えた。
「親分、あっちで剣を教えて!」
満腹になったドンクがタイミングを見計らって声をかけた。そう、イライラした兄さんは身体を動かすのが一番。パチンとウインクをしたところをみると、ドンクは兄さんが収まるまで、ひたすら受け流しの練習をする覚悟をしてくれたらしい。オレはふうとため息をついて弁当に向き合った。
見事に肉ばかり食べ散らかされた弁当は、彩りに添えられた野菜とほんの少しのパンだけになっていた。
「ほっほっほっ、血は争えんの。説教の仕方が父親そっくりじゃい」
トントンと肩を叩いて首をコキコキ回した龍爺。父親そっくり? と首を傾げながら、オレ達ちびっ子組がプルちゃんと初転移した時のことを思い出した。そうだ、あの日の晩、ディック様と執事さんと一緒にお酒を飲んだらしいけど、まさか説教されていたとは……。
エンデアベルト家の人たちは基本、すごく優しい。けれど怒ると怖い。めちゃくちゃ怖い。そしてしつこい。身をもって知っているだけに唇を引き攣らせて同情する。濡らしてごめんとこっそり風魔法を使ってオレと龍爺の服を乾かした。
「しかし、坊よ、お昼はそれで足りるかな? ほれ、干し肉にチーズ、果物も出そうかのう」
龍爺の懐から美味しそうな食材が出てくる。オレは食べ物よりもそっちが気になって仕方がない。
「ねぇ、それってどうやるの?」
「ん? 空間魔法じゃよ。前も見せたが……?」
不思議がるオレに龍爺は包み隠さず丁寧に教えてくれる。
自分の前に箱があるつもりで、その蓋を開けて、今度は閉めてみる。手応えを感じたらその箱を消す。その上で蓋を開け閉めする。
空間の大きさは魔力量に相当するけど、巷で出回っている収納袋よりはたくさん入るらしい。亜空間だから基本は入れた時のままだし、入れたものは手を突っ込めば触るから忘れても大丈夫。ただし、使えるのは本人限定だから死んでしまったら取り出せない。
ふむふむ、イメージが大事。これって詠唱がない魔法? だったらオレにピッタリだ。
「まぁ原理がわかったからと言って、簡単にできるものではないぞ? ないものをあると思って練習し、あるように思った、実はないものをなくすんじゃから。使えるもんがほとんどいなくて今では古代魔法と……」
髭をシワシワと伸ばしながら饒舌になった龍爺が止まる。
この杖を入れてみて……、よし、消えた。今度は手を突っ込んで、おっ、杖が触ったぞ、よし、取り出そう。 出来たかも。 不思議で半信半疑。食べ物を入れては取り出し、味を確認。コップを入れては取り出して……、おお、出来た。
今度はこれを入れて、あれを入れて、こっちも入る? 持ち上げられない大きい座卓は……。蓋を開けて突っ込むイメージで、無理やり蓋をしたつもりになればほら消えた!
手にしたもの全てを消し去り、満足感でいっぱいになったオレは顔を上げてにっぱぁと笑う。
隣でプルちゃんを撫でていたリリアが停止していることに気づき、龍爺を見上げる。ああ、またやってしまった! 夢中になると周りが見えなくなる。
「お……い」
ゆっくりと吐かれる吐息に乗せて低い声が響き渡る。冷や汗とはこんなに背筋が凍るものなのだろうか? 周囲を凍てつかせるものだろうか? ああ、だめだ。いたたまれない。さっきの説教どころじゃない。 瞳の奥にうっすらと水滴が滲む。
「まず、出せ! 今しまったもんだ。 全部」
アイファ兄さんの強い口調に逆らえるはずもなく、とぼとぼと座卓を出し、お弁当箱を出し、コップを出し……。何もないはずの空間から今あった物を取り出す滑稽な風景。あんぐりと開いた口々にこの果物を放り込みたい衝動に駆られる。だがやっちゃだめだ。怒りが一層高まるだけ。そんなくだらないことを考えるほどにオレは冷静でいられなかった。
ああ、やっぱり……。
ひょいと肩に担がれたオレは、いやオレ達は強制送還だ。おそらくこの後、ディック様にもコッテリ絞られるだろうと思うと気が重い。ズコックさんからもらった杖をこっそりミュウに渡して、オレ達は大人しくプルちゃんに包まれる。
プルちゃんの転移とオレの転移。何を間違えちゃったのだろう。僅かな違いを探しながら水車小屋の前に立った。
「じゃぁ気をつけてね」
別れ際にミュウが言った。手に入れた杖をさっさとポケットにしまい、同情するかのような瞳に眉を寄せる。
「私、何も見ていないから」
さすがリリア。アイファ兄さんの剣幕に何かを悟ってくれたようだ。
「早く帰ってこいよ。俺、ちゃんと待ってっから」
名残り惜しそうにドンクが言った。オレはこくんと頷いて、胸がキュンと締め付けられた。
サースポートに行く時は嬉しかった。王都に行くのだって嬉しい。だけど、淋しい。オレの口がダックバードの嘴のように尖ってきゅっと締まった。
アイファ兄さんがオレを抱っこしたまま背中をトントンと叩く。寝かそうっていうのじゃなく、大丈夫だっていう感じ。淋しいね。切ないってこんな感じ? でも、楽しみでもあるのだけれど。
オレはさっきまでのやらかしを忘れて、アイファ兄さんに身体を預けた。兄さんの歩調はジロウよりもずっと安定していてすぐに瞼が重くなる。館に着く頃にはぐっすりと夢の中。
だけど夕飯前にはガッツリと起こされ、恐怖の時間を過ごすことになることをオレはまだ知らない。
あけましておめでとうございます。
皆様にとって幸多き一年となりますように、願いを込めて。