二
眠りについた私は、ひどく懐かしい夢を見た。⋯⋯私が、笹原への復讐を決意した日の夢を。
教室の窓際に立つ私の目の前には、自分の机に座るみぃちゃんがいた。私たちが通っていた中学校の制服を着て、窓から差し込む陽光を頬に受けている。
日差しが、やけにまぶしい。私は目を細めてしまった。
そこに、大きくて可愛い目から涙が溢れる。
泣かないで、みぃちゃん。泣かないで。
急に、あれだけ暖かかった光が、夕暮れの色に変わる。
ああ、そうだ。あれは夕方のことだった。
不器用な私は、彼女を泣き止ませようと必死に自分の制服の裾で零れ続ける雫を拭う。しかし、私の思いとは裏腹に、みぃちゃんの涙は止まるどころか余計にボロボロと流れていってしまう。このままじゃ、みぃちゃんの目がこぼれ落ちちゃいそうだ。そんな馬鹿げたことを、当時の私は考えていた気がする。ぼんやりとそのことを思い出していると、泣き続けるみぃちゃんが静かに声を出した。
ちぃちゃん、私⋯⋯もう、怖いよ。
涙が、オレンジ色の光を反射する。
『男の人が怖い』⋯⋯そう言ったみぃちゃんの手はひどく震えていて、私がその手を握っても治まらなかった。みぃちゃんの想い人の、他校のサッカー部に所属する笹原優吾。確かその人が今日、たまたま試合でこの学校に来ていたから、勇気を出して二人で会う約束をした。そして放課後の校舎裏で、みぃちゃんは彼に告白をした。そう、友達から聞いた。
⋯⋯ああ、そうだ。この時だ。私が、笹原に明確な敵意を持ったのは。
そこからの夢は、まるで走馬灯を見ているように早く流れていった。どうして怖いのかをみぃちゃんに聞いて、途切れ途切れに話してくれた話。笹原がみぃちゃんを傷つけるような言葉で告白を断って、勝手に覗き見していたあいつの取り巻きが更にみぃちゃんを傷つけた。そのことを聞いて⋯⋯私は、決意した。
みぃちゃん。私が、そいつに復讐してあげる。
そう伝えた時のみぃちゃんの顔は、困惑したような、けれど希望を見つけたような、そんな顔をしていたのを鮮明に覚えている。でもこの時、既に私は分かっていた。これは⋯⋯ただの私の、逆恨みなんだって。
そこまで思い出した瞬間、ぐにゃり、と視界が急激に歪んだ。⋯⋯ああ、もう終わりなのか。夢の終わりを理解した私は、そのまま意識を手放すように目を閉じた。
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そんなやり取りをし、あんな夢を見たのが、一昨日の夜。スマホに残ったトーク履歴を眺めあの記憶を反芻しながら、私は目の前の大きな門に吸い込まれていく人達の楽しそうな声を、可愛らしいデザインの外灯の下で傍聴していた。
今日は来てほしくもなかった、笹原と約束した日曜日だ。昨日の放課後にまた笹原が来て、集合場所と時間を決めて、そのまま別れて今に至る。
世界的に有名なテーマパーク、『ネバーグレイトランド』。通称『NGランド』は様々な年代に愛されており、恋人と一度は行きたいデートスポットとしても人気だ。···なるほど、今考えてみれば確かに意中の相手にアピールするには絶好の場所だ。あいつの場合は、ただの操り人形の製作工場だろうけど。偏見による嫌味を心の中で呟きながら、私はテーマパークの入り口のすぐ近くにあったベンチに座る。ちいさな曇がぽつぽつと浮かんでいる空を見上げながら、私は偏見をもとにした考えを巡らせた。
笹原はこの手口で、一体何人の女子を弄んだのだろうか。きっと、想像もできないほどの数を泣かせたのだろう。演劇部のヘルプも受けられるくらいには演技力があるんだ、あいつの本性なんて簡単に見破れっこない。···なんだか、可哀想な話だ。私がそんなことを言う資格なんてどこにもないけれど、そう思わずにはいられない。いや、毎回ここで落としているわけではないのか。
「姫咲さん」
ぼんやりと空を見続けていると、私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。前のほうに視線を戻すと、爽やかな好青年を体現したかのような男⋯もとい、私服の笹原が立っていた。
「ごめんね、待たせちゃって」
「ううん、大丈夫。早く行こう」
白々しく謝る笹原に、いつもの作り笑いを見せながら私はそう急かす。笹原はそんな私を見て気持ち悪いほど幸せそうに微笑みながら、言われるがままNGランドの改札を一緒に抜ける。さあ、こいつはここで、私に何をしてくるのだろうか。
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その後のデートは、拍子抜けするくらいに『普通』だった。
最初にNGランドの全体地図の載ったパンフレットを二つもらい、次に一番近いアトラクションから順に二人で乗った。お昼は景色が綺麗なレストランで食べて、柊和とみぃちゃんへのお土産を買った。⋯⋯全部笹原の奢りで。
いや普通におかしくないか⁇今まで調べた笹原の情報だとこんなに奢られた女子はいなかったはず。なぜ新しい玩具候補にこんなに金をつかうんだ?まさか私を落とすつもりのこのタイミングで『戦法』を変えたのか⁉
そんな自分の予測に鳥肌がたち、思わず適当な理由をつけて改札を出た先にあったトイレに駆け込んでしまった。絶対混乱させた、気まずい、どうしよう。いや私があいつに気をつかう必要なんてないし、でもここで変なイメージ持たれたら私の計画が⋯。
悶々と考えに考え続けて一周回って冷静になり始めたころに、私の中である一つの可能性が浮かんだ。
まさかとは思うが、笹原はもうあんなクズ野郎から更生して、普通の男子高校生になったのか?あの時みぃちゃんを傷つけて笑ってたあいつは、もういなくなったのか?
そこまで考えて、私はかぶりを振った。⋯⋯反吐が出る、というのは、この気持ちのことをいうのだろう。あんな、あんな最低最悪な性格、性分のやつが、この短期間でそんなに簡単に変わるはずない。私は、そのことを誰よりも理解している。している、つもりなのだ。
「⋯戻ろう」
やめよう。こんなの、ただの私の理想論でしかない。それに、もしもこの憶測が事実であったとしても、私のやることは変わらない。
私は軽く服を整えてから個室をあとにし、鏡の前で髪を直す。そして一度自分の頬を両手で叩き、鏡の中の自分を見つめる。
大丈夫、今日の私はちゃんと可愛い女の子だった。我ながら完璧な演技だったとさえ思う。あいつにとっての都合のいい、簡単に手篭めにできる女子⋯⋯それを演じきれていたはずだ。 だから大丈夫、大丈夫⋯⋯。
そう自分に暗示をかけながら、私はようやく笹原のもとへ戻る。おっと、ちゃんと『可愛い笑顔』も作らないとね。
「おまたせ。ごめんね、急にいなくなって」
私がそう声をかけると、顔を上げた笹原は一見するととても優しそうな微笑みをこちらに向けてきた。ああ、気持ち悪い!一日中その顔を向けられたせいで鳥肌が治まらないんだ、いっそ真顔になって私を苦労人の彼女にでも仕立て上げてくれ!!
「大丈夫だよ。オレもその間にトイレ行ってたから」
「⋯⋯そっか。じゃあそろそろ時間も時間だし、ここでお別れする?」
その提案に、笹原は顔を曇らせる。⋯⋯この様子から見るに、おそらくここからが問題なのだろう。ここで、笹原に何か言われた女子はこいつに惚れて、遊び道具にされるのだ。私は絶対にならないけど。
うーん、やっぱり『まだ一緒にいたい』辺りが妥当かな? いや、案外もうちょっと違う感じだったりして。そうだな⋯⋯『もっと君のことを知りたい』、とか? ⋯⋯さすがにないか。
「姫咲さん」
笹原がこれから言うであろうセリフを予想していると唐突に名前を呼ばれ、私の意識は一瞬で現実に戻った。ああ、やっとセリフがお決まりですか? 王子様。と心の中で小馬鹿にしつつ、笑顔を作り直して笹原に向き直る。
「なあに?笹原くん」
「⋯⋯もしよかったら、近くのファミレスにでも行かない?そろそろ夜ご飯の時間だし」
少しの沈黙の後、とっても爽やかな笑顔でそんな提案をされてしまった。何を言っているんだこいつは。まさかとは思うが、このまま暗くなるまで粘って比較的近い自分の家に連れ込もうとしている⋯⋯という展開はただのドラマの見過ぎだな、うん。⋯⋯だよね?
呆気にとられている私を無視して、笹原は腕を引いてどこかへ連れて行こうとする。ファミレスとは言っていたが、こいつの言っていることに裏がないとも言い切れない。それに⋯⋯笹原に腕を掴まれたとき、血の気が引いていくのを感じたのだ。それだけでも、断るには十分な理由になるはずだ。
「っ⋯⋯ごめん! えっと、お母さんが夜ご飯用意してるって言ってたから、私⋯⋯帰らないと」
笹原の手を振り払い、私はいつも通りの笑顔でそう言い訳をした。これで納得してくれ、と強く願ったおかげか、これだけで笹原は諦めてくれたらしく再度手を掴もうとはしてこなかった。
「⋯⋯そっか。ならせめて、駅まで送るよ」
「ううん、大丈夫! じゃあ、また学校で!!」
その会話を最後に、私は逃げるように駅に行き最寄り駅まで行く電車へ飛び乗った。そして駅から全力で家まで走り、二階の自室に駆け込んだ。電車が三駅分の距離でよかった。そうでなければ、あの言い訳は通らずに笹原に付き合う羽目になったのだから。⋯⋯でも、どうして。どうして私の胸は、こんなにざわついているのだろう。
自分ではよく分からない感情を抱く私の脳裏には、笹原が別れ際に見せた寂しそうな顔が焼き付いていた。
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「つ、疲れた⋯⋯」
話をしていたモブ女子数名が帰ったあと、私は自席の椅子に座りながらそうボヤいた。今日は朝から散々だった。朝はみぃちゃんと柊和と一緒に教室に入った途端『私だけ』女子たちにとり囲まれ、笹原との『デート』について根掘り葉掘り聞かれた。昼休みにはその続き、放課後はみぃちゃんと柊和のところに行こうとすれば、まだ話は終わってないとばかりに道を阻まれ⋯⋯正直面倒くさかった。
第一、先週柊和がデートについて話すって言っていたのにどうして私を囲むんだ。柊和とみぃちゃんには日曜日に起きた事の顛末を細かく話してあったから、今日は柊和に任せて上手くやり過ごそうと思ってたのに⋯⋯。ああもう! うちのクラスの女子はなんで全員揃いも揃って記憶力皆無なんだ!!
「はぁ⋯⋯そろそろ帰ろう」
柊和は部活に行っちゃったし、みぃちゃんには先に帰ってもらっている。よって、今日は私にしては珍しくぼっち下校です! ⋯⋯うーん、自分で言っておいてなんだけど、結構寂しくなるな。でも四の五の言っていられない、早く帰ってゆっくり休もう。心の中で愚痴大会を開催した後に、私は鞄を肩にかけながら立ち上がった。
「⋯⋯?」
ふとすぐ横にある開いたドアに目を向けると、隣のクラスの前に人だかりができているのが見えた。なぜかは分からないが、私は隠れるように隅のほうに行きその集団を凝視する。⋯⋯女の勘というやつだろうか。何か、嫌な予感がする。
よく見た結果、その集団は笹原とその取り巻きの男子であることが分かった。幸いこちらに気づいてはいないらしく、耳障りなほどの大声で騒いでいる。そんな中でもすまし顔をしている笹原になんとなくイラつきながらも、男子集団の話に耳を澄ます。
「にしてもスゲーよなぁ、優吾! あの姫咲千彩都とデートしたんだろ?」
「彼女が優しかっただけだよ」
「なんだそれ、どーせ優吾が言いくるめただけだろ? ほんと女ってちょろいよなー!」
「ははは! マジそれなー!」
「顔が良けりゃ女も取っかえ引っ変えだもんなー。羨ましいぜホント!」
⋯⋯なんというか、想像以上に酷いな。笑い方が下品なのは仕方ないとしても、あまりにも考えが低俗すぎる。というか、今の話で分かったがあいつはこの短期間でそんなに女子を食い散らかしているのか? ⋯⋯まるで、発情期の獣だな。
軽蔑の眼差しで集団を見ながら耳を澄まし続けていると、笹原から聞き捨てならない言葉が聞こえてきた。
「⋯⋯。まあ⋯⋯女なんて、ちょっと優しくすれば簡単に玩具にできるし、どうせ今回も姫咲の方から俺の玩具になってくれるよ」
笹原の言い放ったその言葉をきっかけに、私の中で『何か』が切れた。⋯⋯ああ、やっぱりあいつは、なんにも変わっていないんだ。みぃちゃんを傷つけたあいつは、そのままあそこに立っている。⋯⋯私の名前を、口にしている。
「っ、うぇ⋯⋯」
その事実と、自分の感情がどうしようもなく気持ち悪くて、私は小さく嗚咽を漏らした。ああ、気持ち悪い、気持ち悪い! あんなクズが簡単に変わるはずないって、分かっていたはずなのに。なのに⋯⋯どうして私は、あいつに期待を寄せていたんだ!!!
その後、しばらく腹から出そうなものを抑え込み気分を落ち着けていると、いつの間にか笹原集団がいなくなっていることに気づいた。私は鞄を持ち直し、椅子も仕舞わずに駆け出した。玄関まで降り、靴を履き替えそのまま校門を走り抜け、無我夢中で駅に向かった。
「ハァ、ハァ⋯⋯みぃちゃん」
駅前広場に着いた私は、うわ言のように彼女の名前を呼びスマホを取り出した。そして素早く画面を操作し、みぃちゃんに電話をかける。⋯⋯予想に反して、彼女はすぐに電話に出てくれた。
「もしもし? うん、ごめんね急に。⋯⋯うん。あのね、みぃちゃん⋯⋯今時間大丈夫なら、駅前のあのカフェまで来てくれないかな」