2 甘くて黒くてちょっと懐かしい
「では、この場の空気も悪くなったし、出ようかフローラ嬢」
婚約を了承するや否や、私の背に手を添えて出口に向かおうとする。
その時軽く振り返ったガブリエル殿下がどんな顔をしていたかは分からないが、次に聞こえた声はひどく冷たかった。
「君らはそのまま、楽しんでお帰り。今後しばらく楽しめないと思うからね」
背後で小さな悲鳴が上がる。
私には笑顔を向けて、行こうか、と優しく笑いかけてくれる殿下に戸惑いながら、私は促されるまま出口に向かう。
ちらっと背後を見ると、顔を真っ赤にしたアイゼン様と、鬼のような形相になっているアンジュ様が見えて……そっと目を逸らした。あれは、見てはいけないモノだったようだ。
しかし、1年間孤立していた私になぜ今更、とか、そもそも私は殿下とお話ししたことも無いのに、と思いながら、隣を見た。
堂々とした長身の男性である殿下は、視線に気づくと蕩けるように笑ってくれる。
(こ、こんなに想われる理由なんてあったかしら……?!)
恥ずかしいとか嬉しいとか、……悔しいとか悲しいとかも、全部、一瞬忘れてしまう。
殿下の名前はよく見ていた。私はテストで上位10人に入るのが精々だったけれど、殿下はいつでも首位だったから。
こっそり、負けたく無い、と頑張っていたけど……結局最高記録は2位。殿下には敵わなかった。
ガブリエル殿下の馬車に乗って、屋敷まで送ってくれるという。パーティーが終わるまでは迎えは来ない予定だったし、助かった。
「あ……」
「フローラ嬢!」
一度にいろんなことが起こりすぎて、馬車に座ったら目眩がした。8年間の婚約があんな大勢の前で……ちゃんと話したこともないのにいじめたことになっていた。
謂れのない罪であれだけの人に槍玉にあげられて、怖くなかった訳は無い。たしかに冷たくされていたけど、他の女性の言葉を鵜呑みにしてあそこまでするだろうか? 悔しさに涙が滲んできた。
「大丈夫? 私が隣に座るから、ぶつからないように寄り掛かっておいで」
「殿下……」
そして、突然のプロポーズ。殿下は全ての証言と証拠を洗い、虚偽だった場合は王室侮辱罪に問うと言った。それもそうだ、私との婚約破棄の理由を嘘で申し立てて陛下に頷かせたとなれば、さすがに無理が過ぎる。
私はお言葉に甘えて殿下の肩に寄り添って目を伏せた。
そして、思い当たる。
「……だから、今日まで、待ったのですか? 陛下がいらっしゃる日を……」
「……うん。待たせてゴメン、噂は私の耳にも入ってきていた。でも、君が何も悪いことをしていないことも知っていた。——徹底的にやりたくなって。私は少し、凝り性なんだ」
凝り性、などという可愛らしい言葉で片付けるには過激な行動に、私は殿下の肩で小さく笑った。
それを見て微笑んだ殿下が、口を開けて、というので小さく口を開くと、丸い黒いモノを口の中に入れられた。
「むぐ」
「毒じゃ無いよ、大丈夫。甘いから噛んでみて」
言われた通り噛んでみる。表面は硬いけど、中はとろりと柔らかく、そしてびっくりする程甘い。懐かしい香りが鼻に抜けていき、杏のジャムも入っていて、ほろ苦さと甘さと甘酸っぱさに舌の上が幸せになる。
あっという間に口の中で溶けてほどけてしまった。
「殿下、これは……何です?」
「まだ名前は決めてない。フローラ嬢もよく知っているモノで出来てるよ」
「私もよく……あぁ! カカオ、ですか?」
「正解」
今食べたものが、薬の材料くらいにしかならないと言われているあの実で出来ているとは驚きだ。風邪の時に、粉に砕いてたっぷりのお砂糖とホットミルクで溶かして飲んだ記憶がある。
我が領地は、カカオとサトウキビを育てている、南の端。山と海に挟まれたそこは、あまり儲けている領地ではないが、皆一生懸命に生きている。
甘くて少し懐かしい味になんだか少しホッとして、私は殿下の肩で屋敷に着くまで休ませてもらった。