10 『毒じゃないよ、大丈夫』
殿下はグラスを傾けて氷をカランと鳴らすと、懐かしむような目でその氷をじっと見ていた。どこから話そうか、と思っているように見えて、私は手を膝に乗せて待つ。
「昔、父上について兄と一緒に各地の視察に行ったことがある。私は5歳、やっと馬車の旅でも大丈夫だろうという事で、まぁ、勉強というよりも遊びだね」
「5歳で……王族というのも大変ですね」
自分が5歳の頃はまだ領地にいて、家の中で本を読んでもらったり人形遊びをしていた気がする。
「うん……、長旅の疲れが出たんだろうね。途中で熱を出してしまって……、そこは暑い場所だったけど、一生懸命冷やして風を送ってくれて……中々ご飯も食べられなくて、そこの領主の館で寝込んでしまった」
「まさか……、うちですか?」
ガブリエル殿下は肩を揺らして楽しそうに笑う。やっと気づいた? と、目で笑いながら問いかけてくれる。
5歳の頃の詳しい記憶なんて覚えていない。まさか、そんな事があったなんて……熱を出してる王子のそばに、子供を近寄らせないというのは正しい判断だろうけど。
「無理にでも連れて帰るか、ご飯が食べられるまで休ませるか、悩んでいたみたいでね。父とジュペル伯爵は夜も考えていて……、近くには兄も寄らせてもらえなかった。兄もまだ8歳だったからね。なのに、そこに侍女を連れた君が入ってきた」
「まぁ……、私ったらなんてことを」
「心細かったから、びっくりしたけど嬉しかったよ。それで……、ふふ、君は侍女に2つのマグカップを運ばせて来たんだ。私は侍女の手を借りて起こされてね。君の命令で」
「…………本当に申し訳ありません」
私は赤くなって小さくなった。我ながら、王族相手に何をしているんだろう。しかも、熱でご飯も食べられない子を起き上がらせるだなんて。
その侍女は叱られなかったかな、と、一抹の不安を覚えながら、殿下の話の続きに耳を傾ける。
「君が私にマグカップを握らせて。温めのマグカップの中には……カカオを粉にして、砂糖とホットミルクで割ったものが入っていた。ミルクティーとも違う香りだし、私は食欲もなかったけど、ベッドに座ったその子もマグカップを持ってね。『毒じゃないよ、大丈夫! とっても甘いおくすりなの!』って言って飲んでみせた。私は半信半疑ながら、甘い薬? と不思議に思って口にして……、本当に甘くて、美味しくて、お腹の中に何もなかったから余計に。一気に飲んでしまってね」
確かにカカオは今も薬として流通している。苦い物で、確か薬効としては滋養強壮やお通じの改善、少量なら安眠効果だったろうか、熱を下げる効果はない。
でも、疲れて食べられなかった殿下には効いたのだろう。飲み物で栄養補給する手段はあまり無いから。
「君がその子。フローラ、君があの飲み物を飲ませてくれたら、熱があったけれどゆっくり眠れてね。栄養失調だったんだろう。それからその子は私がご飯を食べられるようになるまで、毎晩甘い薬を持ってきてくれた。あの飲み物の名前は?」
「いえ、無いんです。私も風邪をひいた時なんかに飲まされていたので……それで、お節介したのだと思います」
「あれは……人を幸せにする、元気にする飲み物だった。それから暫くして、お菓子作りにハマって……なんとかカカオの事を思い出して、取り寄せて、数年前からずっと研究していた。そうしてできたのがショコラトール……苦い水。たしかに、砂糖とミルクが無ければ飲めた物じゃ無い。……そうだ、固形はショコラ、飲み物はショコラトールで出そう」
「ふふ……、ガブリエル殿下は本当にお菓子が好きなんですね」
私の話をしていたのに、すっかりお菓子の話になってしまっている。
理知的な顔の中で、目だけがきらきらと輝く様子は、愛しくて、素敵だ。
「そう、君のおかげでこうなった。君があの時ショコラトールを持ってきてくれなければ、私は下手をしたら死んでいたんだよ。分かるかい? 何より……君は私の前で私に配慮して、先に飲み物を飲んで、笑いかけた。私を気遣うその優しさと、笑顔。どれだけ心細かったか、そこに君が現れて嬉しかったか。……遅くなったね。今度は君を、私が心細さから助ける番だ。絶対に、一人にしない。笑顔にしてみせる。……好きだよ、フローラ」
「ガブリエル殿下……」
そっとテーブルの上に差し出された手に、私は少し慌てて、そっと手を乗せた。そろそろ夕日の頃だ。
「今日は帰ろう。お土産があるんだ、明日から1日一粒食べて、食べ終わる頃には色々と決着をつけて会いに行くよ」
握られた手に唇を寄せられてから、私はどうやって帰ったのか覚えていなかった。




