回想
その忌まわしい出来事は、ちょうど一年前、祭りを三日後に控える日に起こった。天気はぐずついており、祭りの準備も思うように進まず、島全体が浮かない表情をしていた。
私のトレード話が耳に入ったのは、午後最初の便が始まる前のことであった。先に観光客を乗せて出発したコータローを見送り、牛舎で一頭たたずんでいたところ、竹男の上役にあたる喜友名という男と、見知らぬ男が私の前で会話を始めたのだ。
「この水牛ですわ。少し年は取ってますが、仕事に狂いはありません。もう一頭の水牛のように仕事中、粗相をしでかすこともありません。この島に来てもう8年になります」
喜友名が少し得意げに私のことを紹介した。私も悪い気はしない。
「そうですか、そうですか。思慮深そうな良い目をしていますなあ。気に入りましたよ」
見知らぬ男は私を見て舌なめずりをしそうな勢いだ。直観ではあるが、あまり好きなタイプの人間ではない。
「その件ですが、本当に交換が必要なのですかね?この子は、まあ私が気持ちがわかるわけでもありませんが、この島に愛着を持っている気がするんです。私どもとしましても、手間暇かけてこの子にコースを教え、一人前に育ててきたんです。また一から他の水牛に仕事を仕込むというのも、骨が折れますし」
交換?この言葉に私は急に不安を覚えた。
「喜友名さんね、たしかにお気持ちはお察ししますよ。しかしですね、こちらの島としましては、賢くて、落ち着きのある水牛がどうしても必要なんです。リゾート化を進めるために、水牛のいるリゾートホテル、これは絶対に譲れないんですわ」
リゾートホテル?そこに私が行かなければならないのか?
「ですが、この子でなければならないという理由もないでしょう」
「いえいえ、それが大ありなんです。まず、性格は大人しくなければならない。この水牛は雌ですし、何よりある程度年を取っている。そして、ある程度短期間で仕事に慣れる賢さをもっていなければならない。リゾートホテル内に水牛車用の道を作る予定ですが、そのコースを覚えさせるのには、ある程度経験があって、頭の良い水牛がうってつけなんです。そして、何より肝心なのは・・・」
「肝心なのは?」
喜友名が聞く。私も唾をごくりと飲み込んで、肝心なのは?と身構える。
「糞尿を人前で漏らさないことです。高級リゾートホテルである以上、そこで飼育する水牛にも品位を求めたいですからな。ところが、うちの島で飼っている水牛はどれも所かまわず漏らしてしまう。これではいけないのです。どうか、この水牛を私たちの島にください」
なんと、私が美徳としていたことがこんな形で裏目に出るとは思わなかった。こんなことになると分かっていれば・・・。
見知らぬ男はなおも続ける。
「交換条件も悪いものではないでしょう。若い水牛を三頭とお金もつきます。他にも何かございましたら何なりとお申し付けください。必ずやご期待に添えるようにいたしますので」
「もし、交換には応じない、と我々が申し上げたらどうなりますか?」
喜友名が意を決したように見知らぬ男に問いかけた。すると今までニヤニヤしていた見知らぬ男は急にこれまでの態度を変えた。
「それはあなた、この島に不利益なことが次々に起きるんじゃないですか。観光客を乗せる船の便は減り、野菜や肉などの食品も届かなくなり、経済的に疲弊していく・・・。我々の島がどれだけあなたがたの島を支えているのか、そこのところを考えて決断を願いたいですな。ここにきてつっぱねるなんて、そりゃ道理が通らないというものです」
「確かにそうですが・・・」
「お分かりになられましたね。明日明後日、祭りが終わり次第、本格的に準備を始めるとしましょう。この水牛の飼い主はどちらに?」
「今は別の水牛車を引いているのでこちらにはおりませんが・・・。もしかして、竹男、彼もそちらの島に行かなければならないのでしょうか?」
「まさか。こちらにはそちらの水牛だけで充分です。ただ、まだその飼い主にもこの話はまだしておられないようでしたので、私から話をしようと思ったまでです」
「竹男とこの子は本当に仲が良いので、竹男が何というか・・・」
「そんなことは関係ない。この島の未来とこの水牛、どっちに価値があるのかくらい、その竹男という人間にもわかるでしょう」
そういうと、見知らぬ男は右手に持っていたスマートフォンで私の写真を数枚撮った後、帰っていった。
喜友名は隣島の男が去っていく背中を見送った後、私に一言、「申し訳ない」と頭を下げた。私にその意味が分かるとはゆめゆめ思っていないだろうに、その言葉、仕草には竹男と同じような誠実さが感じられる。この島を離れたくない、竹男や喜友名と一緒にこれからも仕事をしていきたい。しかし、私が行かなければ、この島の未来は暗いものになってしまう。ただでさえ観光業しか収入源のない島だ。観光客が減ってしまえば、島民の生活はどうなる?これが人間がよく言うところの「葛藤」というものなのか。水牛として生まれて15年、初めて味わう感情であった。
その数日後、隣島の男が持病の糖尿病を急に悪化させ、事実上の引退をしたというニュースが島に流れてきた時は飛び上がりたいくらいうれしく、コータローも我が事のように糞尿を垂れ流して喜んでいた。まさか一年たって、再び同じような不安にさいなまれようとは思いもしなかった。心なしか、あのオーナーと先ほどの父親の目は似ていたような気もする。