異変と視線
そんな平和な日々にちょっとした異変が起こったのは、午後の最後の便が終わり、牛舎に戻ってきた時であった。牛舎の中でも干し草が大量に積まれているスペースで夕方の食事をしながら、コータローといつものように他愛のない会話をしていると、突然、牛舎と道路を隔てる石垣の上の雑草がごそっと消えたのだ。厳密にいうと私たちは目が悪いため、それが雑草なのかどうかは断言できないのだが、とにかく、道路と牛舎を隔てていた目隠しが一瞬のうちに一部なくなったのである。
「コータロー、誰か人間が抜き取ったのか?」
「いや、よくわからなかったけど、自然に草が抜けることもないだろう。あれは人間の仕業だよ」
「誰が、何のために?」
「そんなこと知らないよ」
今の瞬間を目撃した人間はいないのか、と周りを見渡すが、運悪く外に出てい者はいなかった。竹男は明日からの準備でお堂にいってしまっているし、他のスタッフは事務仕事のためか事務所内にいるようだ。
「なにか不穏な感じだな」
「嫌なことをいうなよ、コータロー」
不穏というと思い出すのは、昨年浮上した私のトレード話である。新たに建設される予定の本土の高級リゾートホテルのオーナーが、どういうわけかそのホテルの目玉として飼育する水牛に、私を指名したのだ。聞いた話では、以前観光でこの島にやってきたオーナーが、私の引く水牛車に乗った際、ひとめぼれをしたということだ。別に私でなくてもいいのではないか、本土で飼育されている水牛でいいではないか、と思ったのだが、オーナーのような人間は細部までこだわりが強いのであろう。本土で飼育されている若い水牛三頭と交換してほしい、という破格の条件をつきつけてきた。もともとその高級リゾートホテルの建設は、県の重要施策の一つとして進められてきたものであるため、安易に断れるものではなく、また、若い水牛が三頭も手に入るという条件から、一度は島とオーナーとの間でほぼ話がついてしまった。
しかし、竹男をはじめとする水牛関係者が強固に反対したこと、オーナーが持病を悪化させて引退し家督を息子に譲ったことから、このトレード話は破談となった。
コータローもそのときのことを思い出したのか、「悪いことにならなければいいけど」と呟く。私ももちろん不安であったが、「雑草がなくなっただけじゃないか。観光客が記念に持ち帰ろうと思っただけさ」と強がって見せた。厳密にいうと、島の植物を勝手に持ち去ることは違法であるが、それは人間社会の問題であるので、私には関係がない。
そんなことを考えていると、牛舎のある広場の入り口から、人が二人入ってくるのが見えた。だんだんと私たちの方に近づいてくる。足音からして、竹男をはじめとするスタッフではない。さすがに私もコータローも警戒心を抱き、牛舎の奥の方へと移動する。何やら深刻そうな声色で話す二人の顔をようやく認識する。見覚えのあるその顔は、午前中水牛車に載せた四人家族の父親と母親だ。怪しい人ではない、心配するな。角の角度でコータローに合図する。
父親と母親は私たちに近づくと、スマートフォンで私の写真を撮影し、何やら小声で話している。
「写真なんか撮って意味あるのかしら」
「最後まで諦めるな、できることは何でもするんだ」
切迫感のある二人の雰囲気に私はごくりと唾を飲み込んだが、緊張もつかの間、二人は二分ほどで牛舎から離れていった。
「あれは、誰だ?」二人の背中をみつめながら、コータローがささやいた。
「午前中に乗せた観光客さ。四人家族の父親と母親だ」
「子供の姿が見えないけど」
「今日はこの島に泊まるようだから、宿にでもいるんじゃないか」
「子供抜きで散歩だなんて、おかしいんじゃないか」
たしかに、コータローの言うとおりだ。午前中の雰囲気だと、子供二人、特に下の男の子は私のことを気に入ってくれていたようだった。私の顔を見て、ピタリと泣き止んだように。
「それに、あの二人は私たちをみて、楽しんでいる風には・・・観光をしているようには見えなかったぜ。何か、調査しているような感じだった」
「たしかに、そうだな」
そう答えた私の背筋に、スーッと冷たいものが走った。先ほど何者かによって雑草が抜き取られた隙間から、先ほどの父親の視線が私を射抜くようにとらえていたのだ。その視線からは、若い水牛三匹と交換してでも私を手に入れたかったあのオーナーのような、最後まで諦めたくないという執念が感じられた。