幸せな、ただの人間
約束の朝4時になる十分前、僕と彰は駅前の一番高いビルの屋上にいた。
日はまだ出ておらず、薄暗い。秋に近いせいか、ほんの少し肌寒い。
「佐々木さん、来るかな?」
「来るはずだ。佐々木さんはきっと、来なければならない」
階段のほうからコツコツと音がする。ドアが開かれ、佐々木さんが現れる。紺色のジャケットに、紺色のスーツ。あいかわらず、律儀で堅苦しい。
「まだ、10分前ですよ」
「10分前につくことが礼儀だわ」
佐々木さんの長い髪が、風に吹かれてふわりと浮く。
「僕ら、付き合い始めたんですよ。昨日から」
僕は横にいる蓮を見て微笑む。蓮も微笑み返す。
「おめでとう」
「それでね、佐々木さん。私たちはもう人を殺すことはできません」
「なぜかしら?」
僕は迷った。佐々木さんは多分、この能力について正しく理解している。僕が考えたこと、そしてたどり着いた答えをそのまま言うべきか。
それは違う。僕の中の意思が強く否定する。彼女に話させるべきだ。そのためには、僕はあえて間違った答えを言わなければならない。
佐々木さんと僕は似ている。きっと、話してくれるだろう。僕は彼女を信頼している。だからこそ、僕は彼女にひどいことをしなければならない。それはある意味、旅立つための儀式のようなものだ。
「僕はもう、本が好きではないからです」
間が開く。それは一年や二年。下手したら、それ以上の長い長い時間のように思えた。20分ほどして彼女が小さく、でもはっきりと聞こえる声で言う。
「そうじゃないわ。それは間違いよ」
朝日がちょうど、顔をのぞかせる。やわらかいやわらかい日差しを受けて、彼女はもう一度口を開く。彼女はきっと、覚悟を決めた。
「答え合わせをしましょうか」
『はい』
「私はあなたたちに『愛しているという気持ち』で能力が使えるといったわ。でも、本当はそうじゃない。『満たされていない気持ち』で能力は使えるの。あなたたちは、ずっと好きなものがあった。でも、心のどこかで満たされていないと思っていた。満たされていないことに気が付けていない人。そんな人が一番、この能力を使うことができるのよ」
佐々木さんはほんの少し、笑って言った。
初めて会ったときに比べて、毒気が抜けたような顔をしている。
「実はわかっていました」
「でしょうね」
佐々木さんは子供を見る、母のような顔をしていた。そんな顔を見れて、少しうれしい。
「今の僕らは、満たされていると思いますか?」
「そのくらい、自分たちでわかるでしょう?」
僕と蓮は顔を見合わせて笑った。触れていないことが不自然なくらいに近かった、手袋を付けていない手で、彼女の手をとる。蓮が指を僕の指の股に通す。蓮の手はひんやりしていて、気持ちがよかった。蓮は照れ臭そうに笑った。
久しぶりだ。人間の手のぬくもりに触れられた。僕はもう、怪物でも、化け物でもない、蓮の手を握ることができる幸せな人間だ。
「佐々木さん。私たちを殺しますか?」
「私は今、能力を失ってしまった。わかっているでしょう?」
「佐々木さんはずっと、幸せそうな人を見たかったんですね。それがあなたの、満たされていない部分だったんですね?」
「変でしょう?」
佐々木さんが自嘲気味に笑う。
自分の幸せだけでなく、他人の幸せを願った彼女は優しすぎる。礼儀正しく動くのも、いつもしわ一つない服を着ているのも、きっと優しいからだろう。
「素敵なことだと思います」
佐々木さんは、会社が僕らの命を取らないようにすると約束し、来た時と同じように長い髪を揺らしながら帰っていった。その姿はとてもかっこよくて、ほんの少し、嫉妬した。
「私も佐々木さんのような人になりたいな」
「やめてくれ。僕の立つ瀬が無くなる」
僕らはひとしきり笑った後、ゆっくりと抱き合った。
やわらかく差す朝日の光は、今日の始まりを知らせている。
今日を大事に生きよう。明日を夢見て、前を向こう。
何十年、何百年とこの思いを忘れないように。
僕らは今日を歩みだす。
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読んでくださりありがとうございます。
今回はかなり物騒な言葉が多々出てきてしまいました。苦手だった方、すみません。
暗い話が多いので、明るくしようと挑んだのがこの作品でした。明るくなっていないかもしれませんが、もがいてみました(笑)
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また会える日を楽しみにしています。