侵入 II
カズサはうれしかった。
学校から帰って木刀を斬られた話をすると、霧哉はカズサを慰めようとことばを尽くしてくれた。あの木刀の価値を他の誰よりもわかってくれていた。彼はカズサの喧嘩をいつも一番近いところで見ていた存在だし、あるときは喧嘩の対手でもあったのだ。
ひとつ年長の彼はカズサたちに先駆けて中学にあがり、木刀を持ち歩かなくなった。他の3人のチャンバラにも加わらなくなった。カズサたちが『ソードニッポン』のページを繰りながら「いつか刀を持てる日が来たらどのモデルを最初の1振にしようか」と語り合うのを、彼ひとり醒めた目で見るようになっていた。
その彼がおもむろにこういったのだ。
「刀が欲しい。いますぐに」
カズサも同じ気持ちだった。刀で白石を斬りたかった。今日、奴は自分の大事なものと浅海六郎悠理の大事なものを斬った。絶対に許さない――
悠理?
カズサは笑い出しそうになる。どうして彼女のと自分のが同じレベルなのか。髪なんて放っておけば伸びる。でもあの木刀は二度とくっつかない。父も帰ってこない。
火の点いた煙草を手に、富田は思案顔をしていた。学校が終わって家に押しかけてきたカズサと霧哉を出迎えたときはいつもの能天気な表情だったのだが、霧哉の提案を聞いて顔色が変わっていた。
「――じゃあさ、煙草売ってるガキどものとこに行って、そいつらの『番犬』から分捕るってのは?」
ベッドに腰かけた霧哉は頭を振った。
「駄目だ。あいつらは二人一組で行動する」
「波止野がいるときならやれんだろ」
富田がいう。波止野は祖母の見舞いで病院だ。
霧哉は穏やかな、だがきっぱりとした口調で答えた。
「それでも駄目だ。俺たちじゃ刀を持った2人を同時には倒せない。1人に逃げられれば、すぐに街中手配されて追いこみかけられる。刀1振盗むのにそれじゃあ割に合わない」
カズサは感嘆のため息を漏らた。
霧哉は本気だ。
彼はカズサとちがって何事にも計画を立てて当たるタイプだった。彼の刀への思いは本物だ。
自分なんて「刀が欲しい」といっても、「いつかぶっ殺す」という負け惜しみと同じで、「いつか刀が欲しい」だった。そんなのは本気と呼べない。
いや、果たしてそうだろうか。カズサはずっと刀を手にすることを夢見ていた。それが本気でなければ何なのか。いま、霧哉が本気になっている。自分はずっと本気だ。ふたりが本気になればやれる。どんな無茶なことでも力を合わせればやりとげられる。
カズサは刀の在処を求めて頭の中にある武蔵の街を歩きまわった。
それはすぐに見つかった。
あまりの早さに、最初からそこを目指していたのではないかとみずからを疑いすらした。
自責の念が彼を襲った。こんなの最低だ。クズすぎる。まともな人間の考えることじゃない。
だけど、自分の仲間はどっちだ。自分はどっちを取るのだ。
答えは最初から決まっていた。
「ヒロちゃんが刀持ってる。あれを借りる」
そういってカズサはカンタベリーの煙を吐いた。煙とともに体から何かが抜けていくようなに感じた。
富田が顔をしかめ、鼻を啜る。
「そう簡単に貸してくれるかよ」
カズサは笑った。
「黙って借りるんだよ。決まってんだろ」
ちっともおかしくはない。なのに笑いが出る。
霧哉が暗い目でカズサを見つめた。口にくわえた煙草が小刻みに動く。
「入れんのか、宏政くんち」
「合鍵はねえけどな」
カズサは冗談のつもりでいったのだが、それを聞いても霧哉は表情を変えなかった。
「ガキどもから煙草ガメんのとはわけがちがうぞ」
カズサは笑うのをやめた。
「わかってるよ。バレたら殺される。でも俺は本気だ」
霧哉は顔を伏せた。体を伸ばして吸いかけの煙草をコーヒーの缶に押しこみ、すっくと立ちあがる。
「よし。じゃあいまから行こう」
カズサも慌てて立った。
「そうするか。思い立ったがキチリツだもんな」
「キチジツな」
霧哉がこの日はじめてカズサに笑顔を見せた。今日の彼はどこか塞ぎこんでいる様子だった。
「うるせえな。ちょっと噛んだだけだろ」
カズサは彼をにらみつけた。だが唇がひくつく。笑いを抑えられない。
「ビビってんのか」
霧哉の問いにカズサは、
「バーカ、ビビってねえよ」
笑いながら答える。ふたりは拳を突き合わせた。
「ヤベーって、あの人を敵にまわすのは」
富田は床にあぐらをかき、背を丸めた。「マジでヤベーよ。絶対殺される」
カズサは霧哉と目を見合わせた。霧哉がうなずく。
「わかった。ならテメーは『ソードニッポン』のポスターで一生シコってな。俺らは本物の刀をゲットする。いっとくが、何本盗ろうとテメーには1本も分けてやらねえ。ビビリに真剣は持たせらんねえからよ」
富田はティッシュで鼻をかみ、それをズボンのポケットにもどす。うつむき、目をこすり、やがて煙草の火を揉み消した。
●
八木丘宏政のアパートは坂下の足羽町にあった。切岸の崖下を洗う足羽川のすぐそばだ。
川沿いの遊歩道から1本入ったところに、白っぽい外壁のアパートが似た者同士寄り集まっている。このあたりには内藤区の繁華街で働く者が住んでいる。そのため午後6時をまわったいまは多くが出払っているはずだった。
カズサはいやに足音の大きく鳴る階段を踏み、「ラ・メゾン足羽」の3階へとあがった。3つ並んだ部屋の、表の通りから見て一番奥にあるのが宏政の家だ。
チャイムを鳴らす。案の定誰も出ない。彼はすでにこのアパートの隣にある月極駐車場を下見し、宏政の車がないのを確認してあった。
廊下は真っ暗だ。ドアの脇に置かれた洗濯機の下をさぐってみたが、鍵はなかった。手についた埃を払ってカズサはアパートを出た。朱雀通りの方へすこし歩くと、かえで公園がある。そこの自転車置き場で霧哉と富田が待っていた。
「どうだった」
霧哉は自転車のサドルに浅く腰をかけている。
「だいじょうぶだ。行ける」
カズサが答えると、彼は小さくうなずいた。
「ああ煙草吸いてえ」
自転車の籠から出した鞄をひろげながら富田がつぶやいた。カズサは彼の尻を叩いた。
「煙草もついでに借りようぜ、タク」
彼らはそれぞれに鞄を持った。富田の母と姉の旅行鞄。カズサと霧哉は富田の家からいったん自宅に帰って目立たない色の服に着替えてきていた。
アパート隣の駐車場には電気工事に使うような工具を載せたワンボックスと白のミニバンが停めてあった。カズサと霧哉はバンダナを巻いて顔を覆った。富田は花粉用のマスクを着けた。指紋を残さぬよう、剣術用グローブを嵌める。
ブロック塀をよじのぼり、アパートとの隙間にあるわずかな空き地におり立つ。1階ベランダの柵の上にあがり、まずカズサがジャンプして上階の柵をつかむ。懸垂の要領で体を引きあげる。下のふたりに足を押してもらって彼は2階ベランダの外側に取りついた。
部屋に明かりは点いていない。下のふたりを引きあげ、さっきと同じ作業を繰り返して3階にのぼる。
柵の隙間から中の様子をうかがう。部屋は暗い。カーテンは開いている。彼はふたりを手招きしておいて、みずからは柵を乗り越えた。
次にのぼってきたのは霧哉だった。富田はふたりがかりで袖をつかんでひっぱりあげねばならなかった。
「タク、下を見るなって」
「重いな畜生。すこし痩せろ」
カズサと霧哉は富田の体をベランダに引きこむと、ほっと息を吐いた。
冷たい窓ガラスにカズサは額をつけ、室内に目を凝らした。次に耳をつけて物音をさぐった。人の気配はなかった。傍らの霧哉に見つめられる。カズサはうなずいた。
富田が鞄の中から石を取り出す。かえで公園で拾ってきたものだ。カズサはそれを受け取り、右に左に持ち換えてみた。テレビのリモコンくらいの大きさで、ちょうどよいと思った。
カズサは目標の箇所を指でひとつ撫で、石で殴りつけた。雪の結晶のような小さなひびが入る。ガラスにはワイヤーが埋めこまれているため、一撃では砕けない。重ねて叩くとひびが放射状に走り、穴が空いた。
カズサはガラスを蹴破り、穴をひろげた。足を引き抜いてしばらく周囲の様子をうかがう。室内にガラスの散らばる音がしなかった。カーペットが敷かれているのだろう。霧哉が窓の鍵を指した。カズサはガラスの穴に手を入れ、鍵を開けた。
最初にあがりこんだのは霧哉だった。彼はカズサと富田に手信号で待機を指示し、ポケットからキーホルダーのマグライトと果物ナイフを出すと、玄関の方へ向かった。
カズサは暗い室内を見渡した。ワンルームの向こうにキッチン、その先に玄関。彼のいる部屋はベッドと作業机のようなものがそれぞれ左右の壁につけて置かれている。床には吸い殻で溢れる灰皿、宅配ピザの空き箱、漫画雑誌。煙草の臭い。
富田がカズサの脇腹をつついた。
「見ろよあれ。60式か63式」
彼の指す机の上には、巨大な剃刀のようなものが2本置かれていた。一端に鍬の歯のような格好で金属板が取りつけられている。中共の60式小剣、あるいはそのコピーモデルである民国の63式日剣だ。富田は手に取ってみたくてうずうずしている様子だった。カズサもそれは同じだが、霧哉が偵察を終えてもどるまでは動かない方がいいだろうと判断した。
台所からもどってきた霧哉はバンダナを顎の下まで引きおろした。
「誰もいない。はじめよう」
いうまでもなく最初の狙いは剣だった。富田が大陸製の折りたたみ剣を手に取り、金属板をつまんで木製グリップの中からブレードを引き出す。180度回転させてブレードとグリップを一直線にすると、金属板をグリップとブレードの接点まで引きさげた。
「これでロッキングピンが嵌まって抜刀完了だ」
彼の真似をして霧哉がもう1振の折りたたみ剣を伸ばした。ガチッと音が鳴るまで金属板を押しこめば、元の姿からは想像もつかないほど立派な剣が現れる。そのギラギラ輝く分厚いブレードを見ると、抜きやすさやグリップとの一体感を重視した昨今の製品よりも刀本来の姿に近いようにカズサの目には映った。
彼の視線に気づいた霧哉が剣を貸してくれた。カズサは片手で捧げるように保持しブレードの表裏に目を走らせた。両手で持って中段に構えてみる。無論、木刀よりも重いが、カズサにはそれが快かった。人を斬るのに足る重みだ。
ブレードを起こすのと固定するのに使うハンドルがハンドガードも兼ねている。荒っぽい造りだが、人を斬る道具としての説得力があった。全長はおよそ80cm。折りたたみにしては長い。居合が対手でもきっちり踏みこめば切先を突き立てられる。
富田が懐中電灯を点け、ブレードに顔を寄せて刻印を調べていた。
「これは60式だ。でも民国が作ってる60式のコピーってのもあるからな。あと60式のブレードに民国製のグリップつけたのもあるんだ」
「ややこしいな」
霧哉が笑った。富田はマスクを引きさげて、鼻息を荒くした。
「60式ももともとは日本の新居式をパクったものなんだ。戦後初の警察制式刀な。それがあっちじゃいまだに現役バリバリで――」
「もういいだろ」
霧哉は富田とカズサの肩を叩いた。カズサは剣をおろした。富田の教えに従ってブレードリリーススイッチを押し、元どおり折りたたむ。
霧哉が鞄を床に置いた。
「よし、折りたたみはゲットした。あとは本命の刀をさがそう」
彼は仲間に指示を出す。「便所と風呂の間に段ボール箱が積んであった。タク、おまえはその中身を調べろ。カズサはベッドの下だ。俺はあのクローゼットを当たる」
カズサは鞄に60式をしまうと、しゃがみこんでベッドの下に手を伸ばした。
一番手前には紙の箱があった。ひっぱり出して中身を見ると、紐も通していないまっさらなスニーカーだった。スニーカーの箱は他にもたくさんあった。新品のベースボールキャップやソードベルトも見つかった。どれもサイズがまちまちだ。
「おいカズサ、どうするよこれ」
霧哉に呼ばれたが、カズサは肩までをベッドの下に突っこんでいたのでそちらを見ることは叶わなかった。
「どうした」
「スゲーよ。こっちにエロDVDが山のようにある。いや、山っつーか、こりゃ塔だな。エロタワーだ」
「エロタワー?」
カズサは笑った。床に胸を押しつけていたので咳のように響く。
「クソッ、ちょっと触っただけで崩れそうだ。ヤバイぜこれ」
「波止野に1本持ってってやれよ」
カズサがいうと霧哉は、
「何がいいんだ? 巨乳ものか?」
といって笑った。
「おい、こっち来てみろ」
富田の押し殺した声がカズサの耳に届いた。彼は腹這いのまま顔をあげた。
「いま手が離せねえ。おまえが来い」
富田は台所の方から戸を潜り、やってきた。手には白く細長い箱を抱えている。
「煙草だ、煙草。カートンでスゲー数ある」
「マジか」
霧哉が歩み寄った。「あそこにあったの、あれ全部そうか?」
「まだ2つしか開けてねえけど、いろんなのがある。あれ全部でいくらになるかな」
霧哉はカズサが床にひろげた品物を見まわした。
「ここの住人が何の仕事をしてるか、何となくわかってきた」
彼は富田の肩に手を置いた。「よし、おまえはその煙草、箱ごとこっち持ってきて鞄に詰めろ。売り飛ばそうぜ。カンタベリーネクストがあったら1カートン取っといてくれ」
「俺はゴンクールの無印な」
カズサは富田の背中に声をかけた。
ふたたびベッドの下をさぐりはじめた彼の手に、柔らかなものが触れた。最初はぬいぐるみか何かかと思った。だがその内側に硬いものがある。硬くて細長い。
彼は肘を突いてベッドの下から這い出た。ベッドの縁に後頭部をぶつけたが、痛みを感じている余裕はなかった。
手の中には起毛した布の袋があった。先が折りたたまれて、紐で留められている。グローブをはずした手でそれを解き、布を剥く。ポリマー製の筒がのぞく。
「あった。あったぞ」
彼のことばに仲間たちは駆け寄った。富田はカズサの手の中にあるものを見て息を呑んだ。霧哉はカズサの前に膝を突き、袋を抜き取った。
それは見事な刀だった。カズサがこれまでに写真で見たどの刀よりも立派に映った。それは長く、きれいなカーブを描き――何より彼の手の中にはっきりとあった。
「ヒヨシの、これは……デュプレだな。2002年製造開始。ゼロ年代新素材ブームの先駆けになったやつだ」
富田はハンドガードのまわりに指を走らせた。
「おまえが前に見たってのはこれか?」
霧哉の問いにカズサは首を横に振った。
「ヒロちゃんが持ってたのはスミヨシのコノイドだった。これじゃなくて……待て。ちょっと待て」
カズサは刀を富田に預け、ふたたびベッドの下に潜った。
刀はまだあった。
1振また1振と掘り出すたびに、富田ははあはあと鼻づまりの息を吐いた。
「スッゲー……NO.14にフレダーマウス、DCWにパイミオ……マジかよ、KNOLLINKのダイアモンドもある」
「こいつはちょっとヤバイな」
霧哉は床の上に座り、体を前後に揺らした。「宏政くんは俺らが思ってたよりずっとヤバイことに手を出してる」
カズサはとにかくこれらすべての刀を持って帰ることしか考えていなかった。全部で8振。手分けして運べばいい。
彼は刀を袋ごと鞄に入れ、手の届く範囲にあったソードベルトを空いたところに詰めこんだ。富田の座る傍らに置かれた段ボール箱をのぞきこみ、煙草のカートンをつかみ取る。アンブローズ、パーキーパット、カトンテール、ミシマ、マスケティアメンソール――ビニールの包装が汗でぬるつく。
「これ入れたらずらかるぞ」
霧哉も競うように煙草を鞄に移し替える。
「カズサ、おまえちょっとそっちの机見てくれ」
富田はベッドの下にあった赤いベースボールキャップをちゃっかりかぶっていた。「パウダーとグリースないかな。あと工具も」
カズサは立ちあがり、窓のそばにある机へと向かった。床に散乱したガラスの粒を踏むような音が聞こえた。
踏むような――踏むような? おかしい。踏んでいるのは自分だ。
はっとしてベランダに出た。隣の駐車場を見おろす。駐車場は三方を塀で囲まれていて、彼から見ると右手の辺が空いて道路に面している。
そこから入ってくる1台の車があった。
そうだ。いまの音はつい最近耳にした音だ。学校に行く途中で、小川町交差点のアスファルトに歯を立てる、あのタイヤの――
彼と向き合うような形で停まった車を見まごうはずもなかった。ヘッドライトの余光に黒い車体が照り映えた。
カズサは身を低くして仲間のもとへもどった。グローブを嵌めなおし、足元のガラス片をざっと払う。
「ヒロちゃん帰ってきた」
彼のことばに富田が身を強張らせた。
霧哉は手早く鞄のファスナーを閉め、立ちあがって肩に担いだ。
「行くぞ」
彼は窓に向かって歩き出した。カズサもそれにならう。富田はその場を離れようとしない。
「来いよ、タク」
霧哉が手招きする。
「ヤベーよ……捕まったら俺たち……」
富田はうわごとのようにつぶやく。腰をあげる気配はない。
霧哉が平手打ちをするような仕草で荒っぽく手招いた。
「だから逃げるんだよ、ここから」
「そこから? ここ3階だぞ? ふつうにドアから出た方がいいって」
「いいから来い」
霧哉は頭を低くして、窓枠に手を突いていた。ようやく近づいてきた富田に彼は駐車場を指し示した。
「あいつら、いま駐車場から出ていこうとしてるだろ? 俺たちが玄関から階段おりて出たら、表の道でバッタリご対面になっちまう。わかるな? 俺らは窓から出る。あいつらがこのアパートの表にまわって階段のぼってる間に飛びおりて、走って逃げる」
カズサはうなずいた。富田も顔をくしゃくしゃにしながら首を縦に振った。
車から降りてきたのは5人の男だった。大声でしゃべりながら駐車場の出口へと向かう。
1人の男が、仲間の一団から離れて歩を緩めた。
「何だ。あいつ何してる」
カズサはつぶやいた。
男はズボンのポケットからスマホを取り出し、耳に当てた。
「もしもし? いま? ああ、全然だいじょうぶ。うん――」
彼は足を止めて電話しはじめた。
「クソッ、何やってんだあのバカ」
霧哉が窓枠を強く握り締めた。
電話中の男を置いて仲間たちは駐車場を出ていく。右に曲がればすぐそこがアパートの前だ。
「うん……あー、マジで? どうだったって? へえ、いまそんな感じなんだ。あ、じゃ今度そこにする? ああ、俺は全然だいじょうぶだけど……うん……あ、そっかぁ」
男が四方に会話の断片を撒き散らす。
アパートの階段をのぼる足音が響いてくる。カズサは足元の床がたわんで波打っているかのように感じた。
「ヤバイ……ヤバイって……」
富田が鞄に顔を埋める。
「落ち着け。だいじょうぶだ」
そういう霧哉も明らかに呼吸が荒くなっていた。
カズサは唐突に、あの電話の相手は女なのではないかと思った。
「あー、じゃ、ま、そんな感じで。うん、そうだな。その方がいいと思うわ。うん、じゃ、はい、う~い」
男はスマホを耳から離し、しばらく見つめた。
玄関の向こうで笑い声がした。
駐車場の男はふたたびスマホを耳元にやった。カズサの全身から冷たい汗が噴き出る。霧哉がベランダの柵に足をかけた。
電話をしながら男は歩き出す。
背後で玄関の鍵の開く音がした。
「いまだ」
霧哉が外に身を躍らせる。カズサも鞄を抱えあげ、それに続いた。
ベランダの柵を蹴って宙に飛び出してから後悔した。
もっと遠くに跳ばないと。
あのブロック塀の上に落ちたら痛そうだ。きっと何かヤバイ感じで足がグキッてなる。
金玉が縮みあがる。
不意に真っ暗な地面が迫ってきた。カズサの体は空中で前傾していた。足、抱えた鞄、手の順に着地して、その勢いで額をアスファルトに打ちつける。まぶたの裏に星がまたたく。
すぐに起き直り、走り出す。すこし足元がふらつく。荷物のせいか、頭を打ったせいか。
霧哉が駐車場出口のすぐそばに停めてあるミニバンの陰で身を屈め、周囲の様子をうかがっている。
行ける。逃げ切れる。
カズサはふと背後に目をやった。富田の姿はなかった。ブロック塀の上にスポーツバッグが置かれている。
事態を把握するのに時間がかかった。
宏政の部屋に明かりが灯る。
カズサは走っていってスポーツバッグをこちら側に引きおろした。塀によじのぼり、上半身を向こう側に出すと、富田の服をつかんでひっぱりあげる。
彼は駐車場でなくアパートの敷地内に飛びおりてしまったのだ。
「何だこりゃ」
「60式がねえ」
「おい、ベッドの下……」
「刀もねえぞ」
宏政の部屋から男たちの声がする。
カズサと富田は絡まり合って地面に転げ落ちた。走って逃げようとする富田をカズサは捕まえ、引きもどす。
体と鞄をできるだけ塀に密着させる。ここなら3階の窓から死角になってこちらの姿は見えないはずだ。その可能性に賭けるしかない。
彼は口に人差指を当て、声を立てるなと富田に指示した。相手はうなずいた。暗がりでもわかるほど真っ青な顔をしている。カズサは頭上から聞こえてくる怒号と足音に聞き耳を立てながらしゃがみこみ、背中を塀にぴったりとつけた。
宏政の声がはっきりと聞こえた。
「こりゃ遠くには行ってねえな。ついさっき慌てて逃げたって感じだ」
カズサは目を疑った。
駐車場の真ん中に赤いベースボールキャップがぽつんと居座っていた。
あれは何だ。あんなの、さっきまであっただろうか。宏政の部屋にあったはず――
カズサは富田の頭を見た。彼の頭は剥き出しになっていた。
帽子落としてるじゃねえかこのバカ――カズサは口を衝いて出そうになった罵りのことばを喉元で押さえた。
「おい、あれ見ろ。駐車場――」
ベランダで足音がする。
「誰かいんのかコラァッ」
宏政が怒鳴る。
カズサは頭を垂れた――駄目だ。俺は死ぬ。殺される。
戦って華々しく散ろうなどという考えは彼の頭をかすめもしなかった。足元の鞄に刀が入っていることさえ忘れていた。
「あいつ……ほら、あそこ」
3階の男たちがざわめく。
カズサは顔をあげた。
駐車場に駆けこんできた者があった。顔をバンダナで覆い、富田の姉の旅行鞄を肩にかけている。
彼はカズサたちのもとへ来て、富田の落とした帽子をひょいと拾いあげてかぶった。そのままカズサたちには目もくれず、宏政の車に駆け寄り、ヘッドライトを蹴って潰す。盗難防止のアラームが作動してけたたましく鳴る。
霧哉は、どうだといわんばかりに両手をひろげて宏政の部屋を仰ぎ見た。
「オイ待ってろテメー」
「殺すぞッラァ」
怒声、そして遠ざかる足音。
霧哉は視線をカズサに落とした。駐車場のミニバンを指差す。
あそこに行けという意味か?
カズサが了解のサインを出す前に霧哉は走り去った。カズサは富田の袖を引き、ミニバン目指して走った。
2つの鞄を車体の下に押しこんでいるとき、宏政たちが道路に飛び出してきた。
「どこ行った」
「どこだオラァ」
カズサは車と塀の隙間に体をねじこんだ。富田も隣に来て座った。アラームがついていたらまずいので、車体には触れないようにする。視界の端を男たちが駆け抜ける。宏政の仲間はまだ道路の上にいる。
「車で追うぞ」
「おーい、こっち来い。車出す」
男たちが駐車場に入ってくる。カズサは車の下で伸ばしている脚が心許なかった。鮫の出る海でバタ足している気分だ。
富田がカズサの肩をつかんでいる。カズサはそこに手を重ねた。
強い光がカズサたちの隠れる車を照らし出す。影が塀に映り、ゆっくりと移ろって、去っていった。
車がアスファルトを踏み、渡り石をごとりと鳴らして車道に出た。
エンジン音が静かだ。あれで背後から忍び寄られたら霧哉も気がつかないだろう。
地面につけている脚から冷気が這いのぼってきた。
「なあ、もう行っちゃったんじゃないか」
富田が囁く。
「ゆっくり三十数えろ。それから出る」
カズサはいった。富田がマスクの下でもぐもぐと数字を唱える間に、カズサはヒロマサの部屋を観察した。ベランダに明かりが漏れている。誰か残っているのだろうか。
「荷物は置いてく。こんなもん持ってるとこヒロちゃんたちに見られたらおしまいだ」
カズサがいうと、富田はうなずいた。
「三十、数えた」
ふたりは車と塀の隙間からにじり出た。脚が強張って自分の脚でないようだった。
「霧哉だいじょうぶかな」
マスクを取った富田がつぶやいた。
「さあな」
カズサは自分の持ってきた鞄を車の下から引きずり出した。ファスナーを開け、中にある2振の折りたたみ剣をつかみ取る。
「タク、1本持ってけ。これなら目立たねえ。そんでおまえは公園行ってチャリ乗って家帰れ。俺は霧哉を助けに行く」
「助けにって――」
富田は渡された剣とカズサを交互に見た。「どうすんだよ。あいつがどこに行ったか、わかんのかよ」
「んなこと知るかよ」
カズサは鞄を足で押して車の下にもどす。「とにかく助けるんだよ。あいつは俺たちを助けてくれた」
「でも――」
「黙れ」
カズサは富田の胸倉をつかんだ。「ごちゃごちゃいってると叩っ斬んぞ」
富田は折りたたまれたままの剣に目を落とした。
「もう行け」
彼は富田の胸を押した。富田はよろめいた。
「なあカズサ、霧哉ならだいじょうぶだよ。きっと逃げ切れる。あいつは頭いいから」
「俺もそう思う」
カズサは道路へと歩き出した。富田が追ってくる。
「じゃあどうして――」
「あいつが俺なら助けに行ってる。あいつは俺らを見捨てなかった。だから俺もそうする」
カズサは道の中央に立った。街灯の光で足元に薄い影ができていた。
富田はTシャツをまくりあげ、ズボンに折りたたみ剣を差した。
「おまえ死ぬなよ」
「死なねえよ」
カズサは笑った。「逆に殺すかもな」
富田は軽くほほえむと、振り返って歩き出した。カズサは60式のブレードを引き出した。近くに富田がいる内に抜刀法を確認しておきたかった。
カズサはひとりきりで、手には剣があった。反った刃は人を殺す角度だった。道を行く者はなかった。
どこかで人が人を殺そうとしている。自分には準備ができている。
彼は抜身を手にしたまま、弾かれたように走り出した。