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菊と力  作者: 石川博品
第2章 抜刀
8/22

侵入 I

 勧学院かんがくいん中等部道場のシャワー室には他に誰もいなかった。


 こうはプロテクターを更衣室の床に転がし、道衣を脱ぎ散らかし、ロッカーを開けっぱなしにした。バスタオルとポーチをベンチの上に置いて湯あがりに備えると、汗まみれのスパッツとブラを剥ぎ取り、洗面台の前まで裸で歩いていく。この時間は貸し切りのようなものなので、更衣室を自由に使える。


 鏡を見て、今日のけいでやられた傷を確認する。一番ひどいのは左鎖骨の下にあるあざ――突きがプロテクターの隙間に入った。左脇腹にむちで打たれたようなあと――雑な一打をたまたま食らった。それから左肘一帯が黒く変色している――胴打ちをブロックしていたためだ。それ以外はきれいだった。


 傷がすべて木刀によるものなら、我が肉体もまた剣を振ることのみで作りあげたものだ。複雑に絡み合った筋肉が体に芯を通している。しなやかに動き、それでいて力強い。


 今日も彼女は部の稽古が終わったあと、ひとり残って素振り500本、さらに片手素振りを左右300本ずつこなした。一本一本に全力をこめるので、終わる頃には疲れ果て、汗がマットの上で池になっていた。


 今日も満足だ。


 彼女はへそを触った。帰ったら菜種油と綿棒で清めよう。


 彼女は彼女の中心から満足していた。


 スパッツの下で汗をかき続けた肌がすべすべしていて気持ちいい。彼女はお尻を撫であげながらシャワー室へ向かった。


 曇りガラスの戸を開けると、石鹸と塩素の香が混じった寂しい匂いがした。ひとりきりなので、シャワーカーテンも閉めずにお湯を出す。髪を留め、洗顔フォームを泡立たせる。


 彼女は生まれてこの方、顔や髪を洗っていて背後に何者かの気配を感じるという経験を一度もしたことがない。姉や妹たちにきくと、彼女たちにはあるそうなので、住んでいる家の問題ではないだろう。きっと剣術で磨いた、脅威に対する我が嗅覚がそうした錯覚を許さないのだろうと思う。


 だから彼女はその者たちのやってくる気配を察知したとき、我が知覚を疑わなかった。


 ちょうど彼女が床と水平になるところまで右脚を引きあげ、それを間仕切りに当てて突っかい棒にし、上体を預けていたところだった。お湯が背中を打ち、脇腹を伝い、左脚を流れ落ちていく音で彼女の空間は満たされていた。だから彼らが道場前の階段をのぼってくるのを知らせたのは音ではなかった。


 更子は、床のタイルとその目を流れる細いお湯を足の裏で感じるのと同じように彼らの存在を感じ取った。彼らが更衣室に続く廊下を渡りはじめたとき、更子はお湯を止めていたので、それをはっきりと聞き取ることができた。更衣室に入ってきた彼らはそこに留まるような気配を見せたが、服は脱がない。シャワーを浴びに来たのではない。


 更子はシャワーヘッドをつかんだ。愛刀がここにあればと思った。ローミラーは教室の外のロッカーに入れてある。目下の彼女は文字どおり寸鉄も帯びていなかった。


 彼らはシャワー室の戸を押し開け、侵入してきた。煙草の臭いがする。更子は我が身を抱き、膝を合わせた。何て柔らかな体。無防備で、満ち足りた――


 閃光が彼女を襲った。大袈裟な電子音が彼女の恐怖を茶化して響いた。


「おっ、撮れてる撮れてる。スゲーぞ」


 ぱしゃぱしゃと靴が水を踏む音。男が顔の前でスマホを操作しながら姿を現した。そのうしろからさらに2人。いずれも刀とスマホを手にしている。


 彼らは私服を着ていた。顔に見おぼえがない。学外の者か。


「おっぱいハンパねえな」


 ポロシャツを着た男がいい、スマホのカメラを更子に向けた。ふたたびフラッシュがかれる。


「顔もいいじゃん。こりゃ当たりだな」


 メッシュキャップをかぶった背の高い男が他の者の頭越しにスマホを構えていう。動画を撮っているようだ。


 更子は乳房を手で覆い、彼らに背を向ける。


「誰?」


 強く出たつもりだったが、彼女の声は震えていた。はっと思いついてコックを捻り、シャワーのバルブを開放した。体にかかるお湯がぞっとするほど熱かった。


「俺たち、あいつの紹介で来たんだけど」


 最初に出てきた、襟ぐりの広く開いたカットソーを着た男が更衣室の方を指した。他の2人がそちらを見て笑った。


「おいおい、マジでやる気まんまんだな」


「アホだこいつ」


 ひょこひょこと頭をさげながらボクサーブリーフ一枚の男がやってきた。そのニヤケ顔に更子は、あっと声をあげた。


「あなた……西園さいおん、だっけ?」


「おぼえててくれたんスか。うれしいなあ」


 西園寺は刀を持つ腕をぐるぐるとまわした。


「先輩がゆうさんのこと嗅ぎまわってる理由を聞かせてもらいたいんですけど、1人じゃ何なんで仲間連れてきちゃいました。俺ら4人と、あと外にもう1人いるんで、相手してやってくださいよ」


 あい


 こちらには武器もないのに?


 卑怯者め、と更子は内心罵倒するが、表には出さない。


「不法侵入に盗撮――いつもこんなことしてるわけ?」


 そう尋ねながら打開の糸口をさぐる。


「いつもじゃないッスよ~。なあ?」


 西園寺は他の3人と顔を見合わせる。「先輩みたいないい女、なかなかいませんから」


「更子ちゃんは? はじめて? その体なら相当やってんじゃないの?」


 ポロシャツの男がカメラを向けたままいう。「こっち向いて笑顔見せてよ」


「おい西園寺、おまえ最初だろ。行ってこいよ」


 カットソーの男がいうと、西園寺は品定めするような目つきで更子の全身を眺めまわし、振り返った。


「んじゃ、お先に。ちゃんと撮っといてね」


 彼はメッシュキャップの男に向かってピースした。男はTシャツの裾でスマホを拭った。


「何かスゲー曇ってんだけど。防水とかだいじょうぶなのか、これ」


「生活防水ってやつだろ」


「それってどれくらい平気なん?」


「知るかよ」


 西園寺の背後で更子は左手をそっとおろし、シャワーホースの中ほどをつかんだ。体を開くと同時に、振りおろすようなフォームでシャワーヘッドを投げつける。


てッ」


 西園寺の右手に当たって、刀が床に落ちた。


 彼女は足から滑りこんでそれを奪った。床が濡れているのを利用してスライディングで彼らの足元を抜け、背後にまわる。


 尻と脚を床につけたまま、右手に持った刀で肩越しに後方を突く。これには手応えがない。


 体を捻って対手の方を向き、立ちあがる。なおも滑り続ける体を、床に突いた左手で止めた。


 刀は得たがあまり状況はよくなかった。シャワー室を横切って、向かいの間仕切りの中に入ってしまった。両側面を塞がれた形だ。対手4人は中央の通路に立っていて、前後左右、自由に動ける。こちらから打って出るのは厳しいだろう。


「いまのモロ見えたな。ちゃんと撮ったか?」


「撮れっかよ、あんなえェの」


 ポロシャツとカットソーがしゃべっている。メッシュキャップがスマホをしまい、刀を構えた。


「簡単には行かなくなったな。ちょっと傷をつけるぜ」


「仕方ねえな。まあ、ここなら血がついても洗えばいいから」


 西園寺はつまらなそうにいった。彼の足元で仰向けになったシャワーがごぼごぼと音を立ててお湯を吐いていた。


「俺、替えの刀取ってくるわ」


 そういって西園寺は更衣室へと引き返していく。メッシュキャップが中段に構えて仲間の内から一歩前に出た。更子も合わせて中段構えを取る。


 彼女はすこし退き、狭間のさらに深くへ入る。対手は動かない。仕切りの間に入ることをちゅうちょしている。


 だがそれも長いことではないだろう。更子は知っている――奴らは我が身を欲している。満足し充実したこの体をむさぼろうという気だ。いいだろう。欲しがれ欲しがれ。貴様らの飢えた面が我が身の満足と充実を裏づけてくれる。


 右の腿に擦り傷がある。滑りこんだ際に床のタイルで切れたものだ。血がにじむのを感じる。


 さあおいで。血を嗅げ、すすれ。


 対手がさらに一歩寄せてきた。更子の気迫は内に沸きあがり、噴き出るみちを求めていた。それは細く狭い軌道だった。だがそれゆえに圧力を増した。


 気合いとともに彼女は打って出た。


 対手は正面で受けた。そのまま剣をつけて押し合いを挑んでくると見た更子は構わず出る。


 剣の交わったところから滑るように突きへと移る。切先きっさきが対手の胸を浅くえぐる。


 次の動きを許さずに更子はぎゃくどう打ち。


 水を打つような手応えがあった。


 対手の体は壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。更子は剣を対手の後頭部めがけて振りおろす。がいがぱっくり割れる。血が噴き出る。


 その血を踏んで不覚を取るまいと、更子は背後にあるシャワーからお湯を流した。無傷のままのメッシュキャップが濡れて流れた。


「いいねえ。構えたときの、あの挟まれたおっぱいがいいねえ」


 そういってポロシャツがスマホをパンツのポケットに収めた。


「あの逆胴、結城くんよりも速えェ……」


 カットソーは青くなっている。


 更子はサウスポーの八相はっそうに構えた。対手を見据え、腰をじっくりと割る。


 オーソドックス中段のポロシャツが下半身に舐めるような視線を注いでくる。彼は中央通路に陣取り、もう1人が仕切りの際に立っている。こちらが出ようとするところを打つつもりだろう。


 更子はそこをあえて狙った。


 対手の目を見ながら、つっと出る。


 まだ遠い。対手は待ち構えるだけ。


 更子は足を止め、壁に寄る。様子を見るため体をかしがせた対手に彼女は切先をすばやく走らせた。


 小手打ちよりもなお浅い位置。対手の指と刀が床に落ちる。


 更子は悲鳴をあげる対手を捨て置き、広い空間を占めに行く。その前に立ち塞がったもう1人の対手が振りかぶって打ちこんでくる。


 予備動作が大きすぎて話にならない。


 応じて更子は上段に取り、右に大きく踏み出す。刀を後方に倒しながら対手の面打ちを受け、みずからは対手の側面にまわる。


 対手の打撃で流れた剣を、きぬかづくようにふわりと頭上に持ってくる。


 剣の勢いを殺さずに、そのまま袈裟斬けさぎり。肩口から食いこんだ刃が肺の底にまで達し、対手は血を吐いて倒れた。


 指を落とされた男が泣き叫んでいる。更子は詰めて、腹に刀を突き立てる。あばらの裏を深くえぐるために体を対手に密着させる。濡れた布地が胸に重く擦れた。熱いはらわたを手の内に感じた。


 西園寺がもどったとき、更子はすでに血振りを済ませ、構えていた。息は切れているが、まだ戦える。


「あいたー、やられちまったか」


 西園寺は刀を持つ手をだらりとさげた。「まあいいや。俺と先輩、ふたりきりだ」


 彼はブリーフを脱ぎ捨てた。屹立きつりつする男根があらわになる。


 その姿に更子は目を見張った。幼い頃に見た大介だいすけのとはずいぶんちがう。


 西園寺はおのれを誇示するかのように腰を振った。


「いやあ、全裸最高。何か自由でフルパワーな感じがするんスよね」


「そうね。それには同意しとく」


 更子は手の内についた血を乾きはじめた肩口の肌で拭い、サウスポー八相に構えた。


「いっときますけど、俺、こいつらよりはるかに強いんで」


「へえ。それは楽しみだ」


 西園寺は上段に構え、振りおろしてきた。ぎ澄まされていない、ざんな打ちこみだ。


 結城先輩に剣術を教わった? 何を教わったというのか。


 更子は剣を倒し、かすみに受けると、切り返して小手を打った。腕の肉が崩れ、骨が割れる。


 ひいっと叫んで構えをあげたところに潜りこむ。


けんぎょしゅう一篷月いちほうげつッ」


 床に膝を突き、まっぷたつに腰斬ようざんする。


 彼女は血振りして剣を見つめた。西園寺から奪ったツモリのヒルハウス。軽さとスタイリッシュなグリップが売りの折りたたみ剣。ラダーバックと呼ばれる、四角い穴の並んだブレードバックが外観の大きな特徴だ。


 スタイル重視のカジュアルモデルと彼女はバカにしていたが、実際使ってみると悪くなかった。4人斬ってもブレードがびくともしない。


 そういえば、もう1人いるといっていた。更衣室に――


 彼女はその記憶よりも、体の欲求に従ってシャワー室から出た。


 更衣室の空気の冷たさに、剥き出しの肌がぴんと張りつめた。欠乏していた酸素を胸いっぱいに吸いこんでむせ返る。打ちつけ合った刃のくそが口や鼻の奥に入りこみ、ひりひりと辛い。


 競技剣術の試合時間5分というのも長いのに、真剣勝負を4人分、閉め切られた高温の部屋で戦った。「息詰まる」なんてものじゃない、ありえない長さの無酸素運動。まったくの不健康。アスリート失格だと更子は滲む涙に目をしばたたかせながら思った。


 入り口近くのロッカーに寄りかかって座りこみ、涙を流している男がいた。勧学院の制服を着ている。彼は更子の姿を見ると頭を抱えた。


「お、俺……関係ないです……あいつらとは……だから、こ、殺さないで……」


 更子は咳きこみながら彼に尋ねる。


関係ない(・・・・)? ならどうしてここにいる」


「こんなことになるなんて、俺、知らなかったから……」


 男はしゃくりあげた。「西園寺に更子先輩のこと見張れっていわれて……ホント知らなかったんです。先輩を、その……襲うなんて。俺、先輩から話を聞くだけだと思って」


 更子はすこし気が遠くなる。立っていられなくなり、裸のまま彼の前に腰をおろす。


()? 話って何よ」


「女の件です。更子先輩が嗅ぎまわってんのはとう整刀せいとうりゅうが関わってるからじゃないかって……かな谷修やす理大りのだいさんが……」


「女?」


「結城くんがさらった女ですよ」


「結城先輩が?」


 更子はけっ趺坐ふざし、呼吸を整える。男がへつらうような笑みを浮かべる。


「そうです。金谷修理大夫さんトコで使ってた女です。それを勝手に連れ出したんで金谷修理大夫さんブチギレたんです」


「それで結城先輩を殺したの?」


「たぶんそうです。商売道具に手を出したら死刑ってのが俺らのルールなんで。誰が殺ったかは知らないッスけど、追手を出したか、もしかしたら金谷修理大夫さんが直接――」


 男は更子の刺すような眼差しにことばを切った。


 更子は丹田たんでんから力が湧きあがってくるのを感じた。酸素が脳に行き渡り、思考が鮮明になる。


 彼女は意を決して立ちあがった。


「携帯ある?」


 彼女は彼の差し出すスマホを受け取ると、110番にかけた。


「あなた、名前は?」


わき……脇屋圭一(けいいち)


 更子は通話口に出たオペレーターに西園寺と脇屋の名を伝えて、シャワー室でのことを通報した。


「あ、あの……いま俺がしゃべったこと、秘密にしてもらえませんか。でないと俺……消されちまう……」


 通話を切った更子はそのスマホを床に捨て、ヒルハウスの切っ先で貫いた。脇屋はそれを見て顔をあげる。ちょうど彼の眼前に更子の下腹部があった。ふんわりと乾きはじめた彼女の茂みに露が置いていた。


「俺、あの……前から先輩のこと遠くで見てて――」


 彼のはにかんだような笑顔に更子の膝蹴りが突き刺さった。頭ががくんと揺れて、うしろのロッカーにぶち当たる。彼は鼻血を噴き出しながら昏倒こんとうした。


 更子はきびすを返した。


 洗面台の鏡には彼女の体が映し出されていた。返り血で赤黒く染まった裸身――彼女はいつか見た写真を思い出す。遠い国の祭り――赤い土を体中に塗りたくった巫女みこ――さげすまれる聖者――こっちを見ている――美しい。


 我が身はそれに刀を備えたものだ、と彼女は思う。


 美しく、尊く、いやしく、強い。


 他に遅れを取るはずがない。


 いま(いま)しいほどの強さ。


 いみ更子。


 日本剣術界の至宝。


 当真整刀流の次代を担う者。


 血まみれの星。


 彼女は我が鏡像をさっとぐ。血の飛沫(しぶき)が鏡の面に走った。

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