殺すための力 II
掃除をサボって霧哉は西園寺とともにいた。
北棟中央階段の一番上を西園寺は秘密の喫煙スペースにしていた。
霧哉はついてこいといわれてついてきただけで、掃除当番をサボりたいなどとは思ってもいなかった。彼が抜ければ班のみんなの負担は増える。それを思うと気が重い。
だが何より嫌なのは、「西園寺が呼んでいるから行く」と伝えたときの相手の顔だ。自分に危害が及ぶことを恐れるその表情。堂々とサボり宣言なんてしている彼に「ああ、いいよ」と答える卑屈な笑顔。
自分も西園寺の前で同じような顔をしている。それを思い知らされて嫌だった。
西園寺はバカだ。バカでいつ刀を抜くかわからないから、みんなビビってる。同学年の奴だけじゃなく、3年も。先生も。
そして自分も。
こんなバカにペコペコしてる姿なんてカズサたちには絶対見せられない。彼らはきっとこんな自分に幻滅するだろう。
中学が別になってよかったと思う。それに、同じ学校だったら変な上下関係ができてしまって、いままでみたいな友達づきあいができなくなりそうな気がする。
でも――霧哉は想像してみる――もしあの3人がこの学校にいたら。
彼らは自分を助けるために西園寺を闇討ちしたりしていたかもしれない。彼らは凶暴で悪賢くて、何より友達思いだ。彼らとずっと友達でいたい。彼らが友達でいてくれるから、このクソみたいな学校にも耐えられる。
西園寺に友達なんているのだろうか、と霧哉は考える。彼はいつも同じクラスの脇屋圭一と行動をともにしている。脇屋はバスケ部員で、身長が西園寺より高く、スポーツ万能だ。だが彼は西園寺にビビっている。うわさでは1年生のとき西園寺にボコボコにされたらしい。きっと奴は西園寺を友達だと思っていない。ただ怖いから従っているだけなのだ。
霧哉もそうだった。こんな奴、友達でも何でもないと思っている。
西園寺は何が楽しくて生きているのか。生きていていいことがあるのだろうか。本当の友達なんて一人もいないのに。学校が終わったらこいつは何もやることがないんじゃないだろうか。だからこうして脇屋の部活が終わるのをただダラダラと待っている――自分を巻きこんで。
屋上に通じるドアの小窓から西日が差し、踊り場の壁をスクリーンにして幻のような四角い影が映し出される。ガラスに埋めこまれた耐震補強のワイヤーが無限に交叉している。
西園寺は階段の手すりに寄りかかって煙草に火を点けた。
「なあ住吉、最近どうよ。何かいいことあったか」
校内は人の声も絶え、静まり返っていた。空き缶の中に落とした煙草の火が音を立てて消えた。カンタベリーの箱に指を突っこんだが、もう一本も残っていなかった。霧哉は箱を握り潰し、ブレザーの内ポケットにしまった。
「いいこと? いいことって何だ。10000円ゲットとかか?」
「10000円……? ああ、くじの話か」
西園寺は煙草の箱に印刷された現金プレゼントキャンペーンの広告を見つめた。「半端なカネだな。こんなのマジで欲しがってる奴いんのか? これなら禁煙してその分貯金した方がましだ」
霧哉は膝を抱えて階段の一番上に腰かけていた。
「10000円でやらしてくれる女がいるって。スゲー巨乳」
西園寺は煙をゆっくりと吐いた。
「へえ。それで? おまえはやったのか?」
「え、俺?」
霧哉はことばに詰まった。「……いや、やってないけど」
「おまえ、そんなのとやるのがいいことなのか? 俺がいってんのは一発で人生変わるようないいことな」
西園寺のことばが天井の闇に煙った。霧哉は息苦しかった。
「ただそういうのがあるってだけ。それがいいことだとはいってねえよ」
「つーか安いんだよ」
西園寺は煙草を指に挟んだまま、額を掻いた。「その10000円の女も、そいつに10000円払ってやる男もさ、安い。安すぎる。自分を安売りしすぎだ。もっと体とか命とかをいいことに使わねえと。もっといい、燃えるようなことによ。でなきゃもったいねえだろ。何つーか、生きてる甲斐がない」
なんでこんなところでこんな奴に説教されてんだろう、と霧哉は思った。しかも何もやってないのに。
困惑する彼の顔を見て西園寺は心底おかしそうに笑った。
「でもおまえの目のつけどころは悪くねえと思うわ。女だよ、女。人生を変えるいいことのひとつであることにまちがいねえな、あれは」
彼はカンタベリーの箱を霧哉に差し出した。白いフィルターの断面が並んできれいだと霧哉は思った。
1本取ってくわえる。西園寺が火を貸してくれた。
「住吉おまえ、目ェつけてる女いんのか?」
「そうだなあ――」
霧哉は煙にむせるふりをして、廊下や教室ですれちがう女子の顔を思い出そうとすこし考えこむ。幸い、西園寺がスマホをいじりはじめたので、霧哉の真剣な表情は見られずに済んだ。
「D組の南。あれはふつうに美人だろ。街歩いてるとしょっちゅうスカウトされるって」
「でもあいつ、大学生とつきあってんぜ」
西園寺が画面から目を離さずにいった。
「マジで? 何その男。ロリコンじゃん」
「な、キツいよな。大学生で彼女が中2とかよ。俺だったら恥ずくてツレにもいえねえわ」
「じゃあ、うちのクラスの上杉は? あれスゲーよ。超巨乳。ゆたかすぎる」
「ゆたかだなあ。うしろから揉みしだきてえなあ」
そういいながら西園寺が自分の股間を揉みしだいたので霧哉は笑い、彼の脛を蹴った。西園寺も笑った。
結局自分たちはいつもこうだ、と霧哉は思った。西園寺も自分も、行き着くところはこういうしょうもない話だ。みんな同じくらいバカだ。
西園寺が霧哉の顔をのぞきこんできた。
「うちのクラスなら、多々良浜とかよくね?」
意外なところで多々良浜冥沙の名が出たので、霧哉は顔を強張らせた。
「なあ住吉、多々良浜どうよ。目立たないタイプだけど、よく見りゃ結構いいと思うんだ」
「そ、そうかな」
霧哉は空き缶の縁で煙草を揉み消し、飲み口に落とした。「優等生っぽい感じで、俺はちょっと……」
「えーマジか。俺はいいと思うけど。100点満点でいうと85点くらいだろ」
西園寺がスマホをいじっている隙に霧哉は彼をにらみつけた。自分の好きな人に点数なんかつけられたくはない。
「まあ、かわいいかかわいくないかでいえば、かわいい方かな。でもまあ、俺なんかは――」
霧哉の胸に、とん、とスマホが当たって腹の上に落ちた。顔をあげると、西園寺がこちらを指差している。スマホを取れといいたいらしい。霧哉はそれを拾いあげて画面をのぞきこんだ。
冥沙がそこにいた。
写真の彼女は目を細めていて、泣いているようにも笑っているようにも見えた。彼女の頭を押さえつけているのか、撫でているのか、男の手が髪を掻きあげるような格好で置かれていた。冥沙は制服を着ている。口をすぼめた変な顔。縮れた黒い毛が唇に触れそうだ。いつもよりきれいに見える。光で鼻筋やそばかすが飛んでいるからなのか。背景は真っ暗で、どこなのかわからない。
「あの……これは……」
霧哉の声はかすれた。
「いっとくけど、俺のチンコにコメントつけんのは禁止な」
西園寺は空き缶に手を伸ばしたが、誤って倒した。
缶は霧哉の足元に転がった。
いいこと。
これはいいことだ。体がそういっている。これがやりたかったんだ。これが欲しいんだ。みんなみんなこれがしたくてたまらないんだ。自分もしていいことなんだ。
霧哉の手の中で西園寺のスマホが鳴った。西園寺はそれを奪い取り、耳に当てた。
「どうなった? あ、マジ? もうOK? みんなは? よし。いまどこ? うん。うん。じゃ、そこで。うん。じゃあな」
霧哉はすっかり光の去った壁を見つめていた。
西園寺は電話を切ると目をつぶり、いかにも気持ちよさそうに伸びをした。
「俺もう行くけど、おまえどうする」
霧哉は立たなかった。脚が震えて、立てる気がしなかった。
「俺は……もうすこしここにいるよ」
そういってポケットをさぐりかけ、煙草がもうないことを思い出した。
「そっか」
西園寺は小さくうなずいた。「悪かったな、つきあわせて」
彼はカンタベリーの箱を霧哉に投げて寄越した。中から何本か飛び出て、霧哉のブレザーの裾の上に転がった。
「おまえ、いっしょに来るか?」
煙草を拾い集める霧哉に西園寺はいった。
霧哉は顔をあげた。
「どこに」
「いいとこだよ」
西園寺は目を細めた。「スゲーいいとこ。人生が変わるような」
彼はしばらく霧哉を見つめていたが、ふと腰に手をまわし、憐れむような目をして笑った。
「いや、やっぱ駄目だ。おまえ、刀持ってねえもんな。やっぱ連れてけねえわ」
そういうと彼は階段をおりていった。
霧哉はひとり座り、煙草のフィルターをちぎれるほどに噛み締めながら、階段の上にぽっかり明いた闇を見ていた。
体の表面だけがじっとり熱かった。冥沙の上目遣いの顔がちらついた。泣きたくなるほどに彼女が欲しかった。
自分は西園寺を殺してもいいのだな、と思った。幼い頃プールで、すい、と泳げるようになったときの感覚に似ていた。
そうか、刀さえあれば俺は殺せるんだ。殺してもいいんだ。
霧哉は指で闇を断った。煙草の火の残像がじわりと滲んだ。