更子
朱雀通りの歩道橋にのぼった更子はセーラー服の裾から手を差し入れ、腹の肉をぺちぺち叩いた。
「うーん、どうしたものか……」
へその穴を指の腹で塞ぎ、円を描くように動かしながら彼女は肩にかけた鞄をのぞきこんだ。
切岸陸橋は七号交差点の上にかかっている。カルラ坂から這いあがってきた朱雀通りから足近通りが枝分かれして走り出す地点だ。
陸橋の上にはサイクリングロードのように滑らかな舗装がなされていた。路面には白線が走り、通る者に左側通行を強いる。自転車の通るべき道がさらに破線で分割されており、違法駐輪だらけの朱雀通りよりよっぽど通行に便利だった。
地上からの階段をのぼったところは――切岸側と海田谷側のどちらも――ちょっとした広場になっていた。中央に植込が設けられ、そのまわりをベンチが囲んでいる。時計やゴミ箱まで備わっていて、休憩するにはもってこいの場所だ。
海田谷側の階段を使った更子は、橋の上を一往復してからベンチに腰をおろした。
さんざん悩んだあげく彼女は鞄の中からカスタードシュークリームを取り出した。賞味期限が刻一刻と迫っているという焦燥感に駆り立てられてのことだった。
彼女は封を破り、自身が考案した「おどり」――ちょうどよい大きさのシュークリームを一口で食べると、シューの中の空気とたっぷりのクリームが口の中でせめぎ合い、まるで生き物のように暴れまわることからその名がつけられた――に挑んだ。
次にレアチーズケーキ(ブルーベリーソース)――あえて扇形の弧の側から食べてみたが、中心から食べたときと満足感は変わらなかった。ただの2口で腹の中に収まってしまう。
さらにキャンディのように一粒一粒包装されたアーモンドチョコ(お徳用パック)――空の包み紙を袋にもどしながら食べ進めていくと最終的に日数のたった小鳥の餌箱みたいに殻だらけになって、中身の入ったものをさがし当てるのに時間がかかり、集中力が養われる気がする――を食べ終えたところでようやく人心地ついた。
ペットボトルの紅茶を飲み、ため息を吐く。母親に手を引かれた幼児に物欲しそうな目で見られて獣の表情でにらみ返す。
口のまわりについていたカスタードクリームを拭い取り、愛刀・ローミラーを肩に担いだ。
陸橋の反対側にある広場は結城智弘の遺体が発見された場所なのだが、更子は花も持たない。
雲がすべて溶け出てしまったような鈍い青空の午後、陸橋を渡る人々はみな丸腰だった。
道場を離れてひとり、何の所縁もない場所でこうしてたたずんでいると、この世で刀を持っているのが自分ひとりであるような錯覚に陥る。更子の眼前を通りすぎる人々は刀なしでも心安らかそうに見える。
「犯罪都市」という枕詞とともに語られることの多いこの街で、住民たちはそれぞれの領分をわきまえ、平和な日々を送っている。
人を斬る道具を持ち歩くことに伴う責任感を肌にまとわりつかせて頑なになっている自分が滑稽にも思えた。
我がすべてを刀に賭けるつもりはない。だが刀を持たない我が身というのも想像できなかった。自分が丸腰になるとすれば、それはすべての人が丸腰の世界においてだろう。
帯刀の権利のない世。
戦前まで、武装する権利はごく一部の者にしか与えられていなかった。そうした時代に逆もどりすることはできないだろう。いま丸腰で出歩いている人々でさえ反対するはずだ。彼らも家に帰ればどこかに刀を隠し持っている。いざというときに振るう力を人が簡単に手放すはずもない。
刀のない世界なら結城智弘は殺されずに済んだろうか。帯刀権に否定的な人たちは「そうだ」と答えるだろう。外国から押しつけられた権利の犠牲者なのだ、と。
果たしてそうか。
更子は彼の死を運命だと考える。そこには肯定的・否定的、どちらの意味もない。彼はただ、この世界に生まれ、この世界に死んだ。彼を自分の知る彼その人にしたのもこの世界だし、彼を殺した奴をそのような人間に育てあげたのもこの世界だ。そのことは受け入れるしかない。
そしてその犯人を自分が斬るのもまた運命だ。もともとの運命がどうあろうと、自分がその運命の土手ッ腹に意志の刃で奴の死を刻みこむ。自分にはその力がある――彼女はそう信じていた。
事件の現場は清掃業者の手できれいに洗い流されていた。結城の倒れていたという植込の脇から、路面、ベンチの座面の裏に至るまで、血痕は残っていない。どこでどんな事件があってもすぐ通行可能になる。人々の営為が中断・延期されることはない。天童式粒子洗浄機――日本が世界に誇る技術。
手向けの花を献ずる者はない。
結城の死は報道されなかった。重大な犯罪に関係する少年の名は公表を控えるという暗黙の了解がマスコミの間にできあがっていた。報道の内容が刺激となって新たな犯罪を生む。特に過敏なのが少年を構成員とする犯罪組織だ。かつて、ある殺人事件の被害者の家族を、事件とまったく関係のない少年たちが惨殺したことがあった。彼らの動機は複雑すぎて、傍目には空虚で野蛮に映る。
結城の死を知る者はいない。花を手向ける気になれないのは当然のことだった。どうせこの街では毎日誰かが殺されている。死者の魂に対してよりも自分が犯罪に巻きこまれないよう祈るのが先だ。
彼女は花の代わりに刀を持つ。復讐に花はいらない。
そばの階段を騒がしい集団がのぼってきた。若い男。人数は20人弱。声の分布からして何の規範もなく階段いっぱいにひろがり、のろのろとあがってくる。
かすかな鍔音が交じる。
更子は両の太腿で挟むようにして刀を保持し、ハンドガードを手で包んだ。刀の存在は示すべきだが、抜く意志は隠した方が賢明だ。
やがて姿を現した男たちは、見るからに混成の集団だった。年齢は十代前半から後半。区立中の学ランを着ている者もいれば、私服の者もいる。
更子は彼らをおしゃれだと思った。彼らの身に着けているものは、帽子からトップス、パンツ、靴に至るまでどれも清潔で洗練されていた――まるでショップのディスプレイを丸ごと盗んできたかのように。更子と同じ勧学院中のブレザーを着た者の姿も見えた。
彼らはうしろ向きに歩いたり、意味もなく手すりに寄りかかったり、スマホを一心にいじったりしながら、てんでばらばらに階段をのぼってきた。
私服の者は例外なく刀を佩いていた。シルバーやゴールドで飾ったソードベルトから改造ジョイントで低く吊っている。スカバードにはモノグラムや迷彩、スネークスキンなど、様々な模様の尻鞘を被せてある。おそらく帯刀免許は持っていまい。
制服姿の者たちは、すくなくとも表向きは刀は帯びていなかった。区立中の学ランを着た男子が1人、更子の刀を見て腰のあたりをさりげなく触った。折りたたみ剣を隠し持っているにちがいない。
異色の者が1人交じっているのを彼女の目は見逃さなかった。
まわりより頭ひとつ大きいその男は、ギャング風に刀をさげていたが、刀を揺らさぬその歩き方は正規の道場で訓練された者のそれにまちがいなかった。
彼は更子に一瞥くれて彼女を値踏みした。剣術の選手が対手と向き合ったときにする目つきだった。彼女は「自分さがし真っ最中でまわりが見えない旅の武芸者」を装い、その視線に気づかぬふりをした。
「あれっ、更子先輩?」
彼女の前を通りすぎていく一団から離れて男子が1人、足を止めた。勧学院中の制服を着ている。そのニヤケ面と、校章の入った鞄の口を開けたまま肩にかけただらしなさが気に入らなかったので、彼女は先ほどのプロフィールに「彼氏と待ち合わせをしている」という項目をつけ加えた。
「どうもどうも。俺、2-Aの西園寺ッス。こうやって話すのはじめてッスよね」
「そうね」
「俺ら仲間内でいっつも先輩のうわさしてるんスよ。こんなとこで会えるなんてラッキーだなあ。いま何してんスか」
「ちょっとね」
「ひょっとして彼氏さんと待ち合わせとか?」
「それは秘密。あなたは? お友達がいっしょみたいだけど」
「あ、俺ッスか?」
西園寺はなぜか得意げに笑い、座ったままの彼女を見おろした。「実は、ツレがそこで斬られたんス。ほら、あの木が生えてるとこ」
彼女はつむじのあたりがぴりぴりと痛むのを感じた。
「……いつのこと?」
「昨日の夜ッス」
「何ていう人?」
「結城さんって人ッス。剣術2段だったんスけど、ひょっとして先輩、剣術つながりで知ってました?」
彼女の指がグリップセーフティに触れた。
「聞いたことあるかも。2段ってことは高校生?」
「そうッス」
西園寺は彼女の左隣に腰をおろした。「スゲー強い人でしたよ。俺らに剣術教えてくれてて」
「へえ」
彼と触れそうになった脚を更子はそっと引いた。「だからみんな刀を持ってるのね」
「でも先輩にはかなわないッスよ。全国1位とかでしょ?」
彼の視線が更子の刀と太腿の上を這った。
「あの人は?」
彼女はわざと無遠慮に橋の対岸を指した。「あの背の高い人」
「ああ、金谷修理大夫さんね」
西園寺は身をよじって振り向いた。その際に背中を彼女の体に押しつけてくる。
「あの人は強いッス。桁ちがいッスね。人を斬るのにためらいがないッスから」
喫煙者特有の体臭が鼻を衝く。こみあげる吐き気を更子は必死でこらえた。
煙草は大嫌いだった。わざわざ煙なんか吸いこんで感覚を鈍くする意味がわからない。
「更子先輩、今度俺に剣術教えてくださいよ」
更子は気取られないようゆっくりと体を捻り、腰を西園寺に正対させた。もし対手が妙な動きをすれば、即座に斬って捨てる構えだった。
「よかったらLYNEのID教えてもらえます? 今度ゆっくり話しましょうよ」
彼のニヤケ顔が近づいてきた。
「やだ」
抜きつけて左袈裟に斬り払うイメージが頭の中に描かれた。「あそこにいるみんなに教えるつもりでしょ」
「そんなことしないッスよ」
西園寺は笑った。膝を抱えるような格好で体を折り曲げ、彼女を見あげる。
「先輩っていつもヘソ見せてますよね。スタイルいいから、いいッスよね」
「あなたも真似する? 似合うよ、きっと」
そういって更子は立ちあがった。丹田から気を抜き取られたような思いだった。いや、もっと嫌な、ぬめぬめとした何かを挿し入れられたような感触。
彼女は鞄を肩にかけ直し、急ぎ足で階段に向かった。
朱雀通りにおりるまでに、彼女は2件のメッセージを送った。
ひとつは母に。
――もうすぐ帰る。
ひとつは当真大介に。
――金谷修理大夫についていますぐ調べあげろ。
街路樹のざわめきが風に乗って彼女を追い越していった。




