霧哉
教室移動は住吉霧哉にとって楽しみでもあり恐怖でもあった。
2時間目の英語が終わって生徒たちが一斉に廊下に出た。霧哉は次回までの課題と予習範囲をノートに書きこんでから席を立った。
勧学院中等部では廊下の壁に沿ってロッカーが並べられている。2年A組の生徒たちは3・4時間目の美術で使う道具をその中から取り出していた。
霧哉はかすかに胸を躍らせながら彼らの間を歩いた。彼のロッカーは教室側にある。
鍵を開け、英語の教科書・ノート・辞書を立てて置く。絵具箱を取り出し、さりげなく背後の様子をうかがう。
彼に背を向ける格好で多々良浜冥沙が立っていた。ひとりでロッカーに向かっている彼女に話しかける者はない。
霧哉は彼女の後姿を見つめながら、背中でロッカーの扉を閉めた。
「なあ多々良浜、この前教えてもらった動画、観たよ」
「ホント? どうだった?」
冥沙はロッカーの扉を静かに閉じた。彼女が鍵のシリンダーをまわすと、仔鼠が鳴くようなきいきいという音がした。
彼女は指で髪を掬い取り、耳にかけながら振り返った。白い肌に映える濃い眉とその下の大きな目。化粧気のない顔を彩る薄いそばかす。だらしなくも映る、すこし歪んだ唇。決して整っているわけではなかったが、彼女の顔は霧哉にとって唯一の美の基準となっていた。
「おもしろい動画だった。はじめて見る人だったけど、スゲー体張ってたな」
「でしょ? すごいよね。部屋ボロボロになってたもん」
そういって冥沙は絵具箱の紐を指にかけ、振り子のように振った。絵具箱が脛にこつんと当たって彼女はびっくりしたような表情を浮かべた。霧哉はそれを見てほほえんだ。
「まだ再生数すくないけど、これから人気出そうだな、あの人」
彼はロッカーにもたれかかった。同級生たちは美術室に移動しはじめていた。冥沙と仲のいい内藤律子と田井笑留奈がふたりの間を通る。冥沙は彼女たちを目で追うが、霧哉の前から立ち去ろうとはしない。
彼は思い切って本題に入った。
「なあ、今日の花、あれ何ていうの」
冥沙はすこし怪訝そうな顔をした。自分の口調に変なところがあっただろうかと霧哉はすこし不安になった。
「今日のはね、サワオグルマっていうの」
彼女はやや上目がちにいった。「住吉くんも花に興味出てきた?」
「うん、ちょっとだけ」
霧哉は目を逸らした。「花の種類とかさ、俺よく知らないけど、多々良浜が新しく持ってきたら、あれ何ていう花かなって気になるようにはなってきた。今日のはすごくきれいだよ」
それを聞いた冥沙はにっこり笑い、えくぼを作った。
「よかった。最初自分の部屋に飾ったとき、ちょっと地味かなあって思ったんだ。でもうちの教室って黄色が足りない気がしてたから」
「黄色が足りない?」
霧哉は笑って頭を振った。「そんなの考えたこともなかった」
冥沙は花を自宅の庭から教室に持ってきて、黒板の脇の棚に飾る。誰かにいわれてはじめたことではなかった。まるで朝起きてカーテンを開けるような自然な動作で彼女は、登校してきて教室に入ると花瓶を取り、水を入れ替えて新しい花を活ける。
彼女は特別な感性を持っているのだと霧哉は思う。彼女はふつうだけど特別だ。その混ざり具合がとても特別だ――すくなくとも自分にとっては。
「そろそろ行こっか」
彼女にいわれて霧哉はロッカーから身を離す。いつも内藤や田井といった友人たちが彼女にまとわりついているので、こうやってふたりきりでことばを交わせるのは教室移動のときだけだ。
一方、霧哉にも教室移動になるとまとわりついてくる者がいた。
「あ~あ」
彼は教室の敷居を踏んで立っていた。「爆睡しちったよ」
そういうと西園寺光大は大きな欠伸をした。ネクタイの緩んだ襟元に手を突っこんで胸のあたりを掻く。背が高い。クラスの平均身長に近い霧哉より10cmは高かった。
冥沙は彼を見てすこし表情を曇らせた。だが見くだすようなそぶりは見せない。彼女はそんな人ではない。特別なものを何も持たないクズに対しても平等に接する。
自分とはちがう。
霧哉は自分の顔に露骨な嫌悪の色が浮かんでいることに気づいていた。だがそれを隠そうとも思わない。それを読み取れるほど相手は敏感ではない。
「おう住吉ィ、脇屋どこ行ったか知らね?」
「さあ……。先に行ったんじゃないの」
霧哉が答えると、西園寺はポケットからスマホをひっぱり出し、いじりはじめた。
「おまえさあ、ちょっとコンビニ行ってきてくれや。俺、腹減っちった」
画面から目を離さずにいう。
「ああ……わかった」
霧哉はうつむく。こんなときに冥沙の顔なんて見られるはずがない。
「俺はおにぎり。種類は何でもいいや。梅以外な。それから紅茶。新しいのあったらそれにして。脇屋にはいつものチョコ系の菓子。それと炭酸。よろしくな」
西園寺は千円札を無造作にポケットからつかみ出す。受け取った霧哉はそれを隠すようにしてポケットにねじこんだ。
「わかったよ。場所はいつものとこ?」
「ああ」
西園寺はポケットをさぐり、顔をしかめる。「それと煙草。カンタベリーのボックスな。石津交差点のところに煙草売りが出てるからそこで頼む。あそこなら500円だから」
千円札をもう1枚差し出してから、彼はスリッパをぱたぱた鳴らして美術室と反対の方へ歩いていった。上着の裾から折りたたみ剣の先がのぞいた。ツモリの最近のモデルだ――ヒルハウスかレッドアンドブルー。
「じゃあ私、先に行ってるから」
そういって冥沙が立ち去る。霧哉にはわかっている。先もあともない。もう今日は美術室に行けない。
ひとりになって霧哉は手に提げた絵具箱に視線を落とした。まぬけな四角。平板な青。こんなものを持って出歩くなんてバカらしい。同級生にパシられてるというだけで充分バカらしいのに。
彼はふたたびロッカーを開け、絵具箱を乱暴に放りこんだ。
●
アーチェリー部の練習場の裏にあるフェンスをよじのぼり、勧学院の敷地から抜け出した。
スマホを出して富田の家にかける。
『はい、富田です』
富田拓人の慢性鼻詰まり声が聞こえた。
「おう、タクか。俺だけど。いまから行っていいか?」
『いいよ。波止野もカズサも来てるし』
富田が電話の向こうで鼻を啜った。
「やっぱりな。そうだと思った。俺いま学校出たとこ。もうすぐ着く。じゃあな」
海田谷通りを歩く。
途中のコンビニに寄って、いわれたものを買う。
西園寺は嫌な奴だが、金はきちんと払う。そこが一番嫌だった。
金を取られたりすればどこかに相談できるのに。あの日あのときいくら盗られたって数字を出してみせるのに。
コンビニにおにぎりを買いに行かされたと訴え出ても、親だって先生だってまともに取り合わないだろう。友達なんだからそれくらい行ってやれ、というはずだ。自分だってそう思う。同じことを誰かに相談されたら、そう答える。だから嫌なのだ。
石津の交差点で海田谷通りは朱雀通りと交わる。歩行者用信号が点滅しはじめたので、霧哉は駆け足で海田谷通りの横断歩道を渡った。黄信号が灯ったのを受けて朱雀通りの自動車の流れが停止線のあたりに滞りはじめた。
ビルの隙間からガキが湧いて出た。集団で信号待ちの車を取り囲む。窓やフロントガラスを叩き、ドライバーに声をかける。みなウエストポーチを着けて、その中に片手を突っこんでいる。煙草売りだ。
霧哉は日差しに目を細めながら、川霧のように漂うガキどもの姿を眺めた。彼らが小学校をサボって煙草を売るのは、よく売れるからだ。よく売れるということは、買う奴がたくさんいるということだ。ガキどもは1箱500円で煙草を売る。市価の半分だ。元が盗品だからこんなに安くできる。それを知りながら、カネの惜しい奴らは販売免許を持つ店でなく、ガキどもから煙草を買う。
内藤区にも路上煙草売りがいるのだが、あちらは定価で売っている。ミニスカへそ出しの若い女が売る。だから売れる。ヤクザと警察が癒着しているために許される商売だ。
霧哉の母は、肌を露出させた女の煙草売りを追放する運動に参加している。今度、都議会に申し入れを行うという。
霧哉にはどうでもいいことだった。そんな商売があるのは煙草がバカみたいに高いからだ。煙草がバカみたいに高いのは、関税のせいだ。日本で煙草を製造するか、関税を引きさげれば済む話だ。
霧哉の母もそうしたことを訴えていけばいいのに、風紀の乱れがどうとか、くだらない理由で煙草売りに目くじらを立てている。
他にやることがあるだろうに、と霧哉は呆れる思いがする。たとえば大陸の難民、世界中の貧しい子供たち、水不足に悩む人々、天災、疫病その他諸々――どうしてよりによってクソ内藤区のクソ煙草売りなんだ。
結局、暇を持てあましているんだろう、と思う。暇すぎて切羽詰まっているのだ。母も自分も。
信号が変わる。車が動き出す。
霧哉は車道からもどってきたガキを呼び止め、1000円払ってカンタベリーを2箱買った。
●
玄関のチャイムを鳴らすと、Tシャツ短パン姿の富田が霧哉を招き入れた。太っているせいで短パンがパツパツだ。
彼は人差し指を立てて唇に当てた。
「カーチャンと姉ちゃんが寝てっから静かにな」
「わかってる」
霧哉はコンビニ袋の口を絞って持った。
湿った臭いの外廊下とは打って変わって、このマンションの一室には女の甘い香りが立ちこめていた。ふたりは連れ立って居間を抜け、富田の部屋に入った。
中では波止野とカズサが床に座って『ソードニッポン』のバックナンバーを読んでいた。霧哉は一目で異変に気づいた。
「カズサおまえ、木刀どうした」
「学校ん中で振りまわして没収」
波止野がくっくと愉快そうに笑った。「そんでキレて学校飛び出してここに来た」
カズサは雑誌からわずかに目をあげ、波止野をにらみつけた。
木刀を腰からさげていないカズサは弱々しく見えた。彼はいつでもあのカール・ヨシザワモデルの競技用木刀を身に帯びていた。霧哉がはじめて彼と出会ったときからそうだった。
カズサは刀を愛している。知識の量では刀剣オタクの富田に負けるが、剣の腕は4人の仲間の中で一番だ。真剣を持つときに備えてひとりで稽古している。
それを知っているから霧哉は胸が痛んだ。カズサの思いを知らずに木刀を取りあげた武蔵中の教師に怒りをおぼえる。教師というのはどこでもそうだ。えらそうで、生徒たちを下に見て、自分たちの認めたものしか与えないで――
「じゃあこうしろよ」
霧哉はカズサの隣に腰をおろした。「明日学校に行って先生に『剣術部に入るつもりだった』っていうんだ。『これからは毎日学校来て、部活もやろうと思ってたのに』って。ちゃんと本気っぽくいえよ。心を入れ替えたって感じでな。そしたらすぐに返ってくる。あいつら生徒が学校に来てりゃ、とりあえず安心するからな」
それを聞いたカズサは目を輝かせた。
「それいいな。やってみる」
「ほらな。俺いっただろ? 霧哉に相談してみろって」
富田がなぜか得意げにいった。
彼の胸を波止野が背後から揉んだ。
「オメーどこかで万引きしてこいっつってたじゃねえか。こいつはあの木刀でなきゃ駄目なんだよ」
カズサは照れくさそうに笑った。仲間たちも笑った。
霧哉は心が温かくなった。頼られている。必要とされていると感じる。
「そうだ。おまえらにお土産持ってきたんだ」
彼はコンビニ袋からカンタベリーを取り出した。「ほら、これ」
仲間たちは床に放り出された煙草の箱に額を寄せ合った。
「おお、新品だ」
「俺、最近シケモク続きだったんだよなあ」
どん、と壁が叩かれた。隣室で富田の母親が目ざめたのか。富田が人差し指を唇に当てた。
「どこで買った?」
カズサが尋ねてくる。
「すぐそこ。石津のとこでガキどもから。あそこ安いぞ」
「ここら辺の元締めは『セブン』かなあ。それとも『蟻』の連中が坂上まで来てんのか」
波止野がカンタベリーのパッケージを破いた。「タク、ライターと灰皿。早くしろよ」
「デケー声出すなよ。またカーチャン起きるだろうが」
富田はベッドの下からクッキーの空き缶と百円ライターを取り出した。
カズサがまわされてきた煙草を鼻の下に当て、匂いを嗅いだ。霧哉が見ているのに気づいた彼は照れ笑いを浮かべた。
4人はひとつのライターを順繰りに使い、煙草に火を点けた。
霧哉はこの瞬間の厳粛な空気が好きだった。煙草に火を点け、それまでしゃべっていた仲間たちが一瞬無口になる瞬間。一斉に吐き出された4人分の煙が混じり合う。仲間の絆というものを実感する。
彼はもう一服して仲間たちの顔を見渡した。
「むかし俺らもやったなあ、煙草売り」
「やったやった。懐かしいなあ」
波止野が笑って煙を断続的に吐いた。「カルラさんのお祭りでな」
「スゲー儲かったよな。チップたくさんもらってよ」
富田が灰皿に灰を落とした。
「ヤクザ相手だったけどな」
カズサが煙草を持つ手の親指で頭を掻いた。
カルラ坂のてっぺんにある伽楼羅炎神社を坂下の住人は親しみをこめて「カルラさん」と呼ぶ。祭りの夜には本殿の裏で諸肌脱いだヤクザ連中が地面にカネを並べて即席の賭場を開く。
「そうだ。おまえらカルラさん呼ぶ方法知ってる? カズサは知ってるよな?」
波止野がいうとカズサは煙草をくわえてうなずいた。
坂上に住む富田と霧哉にはなじみのない話だった。
「俺知らねえ」
「何だよ、呼ぶって」
「じゃあ見せてやるよ。タク、おまえ実験台な。霧哉も俺の真似してやれ」
そういって波止野が立ちあがり、両の掌を柏手打つように合わせた。カズサも同じように手を合わせる。
「カルラさんカルラさん、オンニノリノリノリマアス」
波止野が呪文を唱えて頭を垂れた。カズサもそれに続く。
「カルラさんカルラさん、オンニノリノリノリマアス」
霧哉は「何だそりゃ」とつぶやきながら彼らにならった。座ったままの富田が不安げな顔でこちらを見あげていた。
「立て、タク」
波止野の命令で富田は立った。
「何すんだよ」
「いいからいいから」
波止野はしゃがみこんで、富田の両足首をつかんだ。「俺は足を持つから、霧哉とカズサは腋な」
カズサが合わせた手を富田の腋の下に差し入れた。真似して霧哉も反対の腋に手を入れる。
「くすぐったいって」
身をよじる富田の足を波止野が押さえつけた。
「動くんじゃねえデブ」
「行くぞ。せーので上にあげる」
カズサがまっすぐな目で霧哉を見た。「せーの――」
合わせた手を振りあげると、意外なほど軽やかに富田の体が持ちあがった。霧哉の手は肩の高さまであがり、顔の前をすぎ、天に祈りを捧げるような格好になって富田の体重から解放された。
最後は両足をつかむ波止野が天井に突き立てたようなものだった。ごりっという音がして、富田が悲鳴をあげた。まっすぐ持ちあげられた彼の体は傾いた状態で地上にもどってきて、床に叩きつけられた。
「痛ってえ。痛ってえよクソッ」
のたうちまわる富田を後目に波止野とカズサがハイタッチした。
「イエーイ、さすが力の神様。見たか、カルラさんのパワー」
「またひとつ伝説が加わった」
「だいじょうぶか、おまえ?」
霧哉はカルラさんの生贄となった哀れな肥満児を助け起こしてやった。額に大きな擦り傷ができていた。
「オメーら殺す。絶対殺す。死ぬまで――」
壁がふたたび叩かれた。母の機嫌を損ねたことを知った富田はわめくのをやめた。
「おいおいタク~、はしゃぎすぎだろ」
「タク、ヤベーって」
波止野とカズサが隣の部屋に向けて大声をあげた。
●
「俺、寝る前にあれ見たらマジビビると思うわ。マジで怖くね?」
富田は床に体育座りをして、天井の染みを見あげた。
「なんでテメーの血が怖えェんだよ。アホかよ死ねよ」
波止野が自分の吐く煙にむせながら笑った。
霧哉のポケットが震えた。スマホに着信。取り出して画面を見る。
西園寺。
隣でカズサがため息のような煙を吐いた。
「霧哉、どうした」
霧哉は表情を取り繕った。
「ああ、ちょっとな。俺の子分1号から電話」
彼は軽くほほえんで通話アイコンをタップした。
『住吉ィ、オメーどうなってんだよ』
電話越しに聞く西園寺の声はことばほど不機嫌そうではなかった。それが逆に怖かった。
「悪りィ、ちょっと……」
『頼むぜオイ。俺もう腹減って死にそうなんだけど』
「ああ、いま行く」
電話を切り、霧哉はひとつ舌打ちした。
「ったくよ~、俺がいねえとすぐにこれだ。ちっとは自分で解決しろっての」
「おい、カズサ。おまえのことだぞ」
波止野が笑いながらカズサの脇腹をつつく。
「スマホ持ってんのも不便だな。そうやっていちいち呼び出されんならよ」
富田がのんきな顔をしていった。
霧哉は苦笑いを作り、コンビニ袋を手に立ちあがった――これで俺のいい時間は終わり。悪い時間のはじまりだ。
廊下は静かに、と指で示す富田に手をあげて応え、部屋を出る。煙草の香りが体に柔らかくまとわりついていた。それが消えてしまわぬよう、彼はことさらにゆっくりと廊下を歩いた。




