カズサ
目がさめたとき、体が熱っぽかった。
耳の奥にうずくような痛みがある。喉がやけに渇いた。
カーテンの隙間から差しこむ光が帯になって体を縦断している。その暖かみがなぜだか重苦しかった。
三上和梓は寝返りを打ち、目ざまし時計に手を伸ばした。時計の針は8時を指していた。アラーム時刻を示す針はいつもどおり7時半のところにある。毎晩寝る前に必ずアラームをセットするが、消したおぼえもないのにスイッチが切れていて、結局寝坊してしまう。
二度寝に入るつもりだったが、喉の渇きが耐えがたかった。彼は俯せの体勢から体を起こし、目ざまし代わりに額を布団に打ちつけてから立った。
居間に通じるふすまを開けると、
「おはよう」
声をかけられた。母が座椅子の上でテレビを観ていた。
「おはよ」
カズサは彼女の背後を通って台所に向かった。
「お母さん今日午後から仕事に行くことにしたから」
母のことばにカズサは、
「そう」
とだけ答え、前夜の飲み残しのお茶を流しに捨てた。
「朝起きたら腰が痛くてねえ」
「病院行ったら?」
彼は蛇口を捻ってグラスに水を汲んだ。
「でも予約してないし……午後行くと、一日休むことになるでしょ。そしたら伯父さん倒れちゃうわよ。昨日の夜から休みなしでずっと働くことになっちゃうから」
彼の母は彼女の兄が店長を務める小川町のコンビニで週6日、朝7時から夕方5時まで働いていた。それが終わると夜の10時まで武蔵駅前の別のコンビニで働く。これも週6日。
みっともない、とカズサは思う。コンビニの浮かれたような色の制服も、大学生に交じって働く姿も、どちらもみっともない。もっと見ばえがよくて、給料も高くて、時間も短い仕事が他にあるはずだ。それをさがさないのは、面倒だからだ。病院のことだってそうだ。年中痛い痛いといいながら、結局治療はしない。面倒だからだ。
彼はぬるい水を飲み干し、グラスを流しに置いた。
母はカズサの着古した長袖Tシャツを着ていた。
「カズサ、今日学校は?」
あるよ、という答えが口を衝いて出そうになる。母のきいているのは、そんなことではない。自分が学校に行くのか行かないのか――いや、それもちがう。行く、という答えを聞きたがっている。母が朝早くから仕事に出ているのをいいことに、カズサは毎日学校をサボっていた。
面倒くさいから行かない――これが一番正直な答えなのだが、それを口にするとしばらく母の悲しげな顔を見てすごさなければならなくなる。
「いま行くとこ」
カズサは時計を見た。自転車で飛ばせばまだ間に合う。
「朝ご飯は?」
「いらない」
彼は部屋にもどると、制服に着替えた。時間割表が見当たらないので、とりあえず目に入った教科書とノートを鞄に詰めた。ソードベルトを肩にかけ、部屋を出る。
玄関のチャイムが鳴った。
母が立ちあがり、ドアに向かった。カズサはもう一度水道の水を飲んだ。
「カズサ、波止野くん迎えに来てくれたよ」
「はーい」
母の呼びかけに彼は小さく返事をした。
玄関先に同じ団地の波止野輝騎が立っていた。
「おう、今日は起きてたのか」
声をかけられ、カズサは頭を掻いた。
「おまえどうしたの?」
「どうしたのじゃねえよ」
波止野は学ランの第1ボタンを開けた。「俺、毎日迎えに来てやってんのに、オメーいっつも寝てんじゃん」
「ねえカズサ、学校行ってないの?」
母の問いに、
「いや、行ってるよ。寝坊はするけど」
白々しく嘘をつく。本当はゴールデンウィーク明けから一度も登校していない。カズサは、余計なことをいうな、と波止野をにらみつけた。
「クラスに嫌な人でもいるの? 先生に相談してみようか?」
「いいよ。だいじょうぶ」
時間に追われるふりをして彼は波止野の背中を押し、家を出た。錆の浮いたドアが大きな音を立てて閉まった。
「おまえ、ちゃんと学校来いよな」
階段をおりる途中で、波止野がカズサの胸を小突く。力が強くてカズサはふらついた。波止野は中学1年生ながら身長が175cmもある。カズサはクラスでも小さな方だ。
「おまえもタクも来ねえから、俺ぼっちじゃん。はじめっから辺津小出身の奴はすくねえんだからよ」
「最近起きれねえんだ。何か眠くてさ」
カズサはソードベルトを手に巻きつけた。
波止野は丸腰だった。喧嘩して木刀を折ってしまったのだという。
カズサの木刀はオニキリ社製の競技剣術モデルだが、波止野はいつも街路樹の添え木から削り出した手作りの差料を使っていた。
「じゃあ明日からドア蹴って起こしてやるよ」
「いや、それでもたぶん起きねえし」
ふたりは第8号棟を出て自転車置き場から自転車をひっぱり出した。鞄を籠に放りこんで押していく。団地の出口は急なくだり坂になっていて、自転車に跨った彼らは加速して道に飛び出す。
川口通りの狭い歩道を行き、小川町交差点の赤信号で停まる。
鏡のように磨かれた黒のステーションワゴンが交差点の直前で急ブレーキをかけた。後続の車がクラクションを鳴らす。ワゴンの窓が開き、髪を金色に染めた男が顔を出した。
「文句あんのかコラァ。叩ッ斬んぞ」
彼が後方に向かって怒鳴ると、先ほどまで威勢のよかった後続車は慌てて車線を変更し、走り去った。
カズサと波止野は顔を見合わせた。
「あれ、ヒロちゃんじゃね?」
「あのガラの悪さ、まちがいねえな」
助手席の窓から男が手を振ってきた。
「カズサ、テル、久しぶりだな」
八木丘宏政はカズサと同じ団地の兄貴分だった。喧嘩が滅法強く、彼を恐れた近所のガキどもは団地内に立ち入ろうとしなかった。そのためカズサたち年少の者は団地の中で安心して遊ぶことができた。
彼はこの春、団地を出て、近くのアパートで一人暮らしをはじめていた。カズサより5つ上の17歳だが、高校に行かず仕事もしていない。彼の高そうなサングラスやピカピカ光るブレスレットを見てカズサは、どこでこんなものを手に入れたのだろうと不思議に思った。
「おまえらにいいもん見せてやる」
そういって彼は一振の刀を取り出した。そのハンドガードと一体成型になったグリップフレームをカズサは雑誌で見たことがあった。
「スミヨシのコノイド? スゲー。本物?」
カズサがいうと、宏政はあたりを見渡し、セーフティを切ってみせた。マット加工の白刃がわずかにのぞいた。
波止野は眉をひそめた。
「ヒロちゃん、それどうしたの。無免だとヤバイんじゃねえの?」
宏政は刀を車内の仲間に渡し、煙草をくわえた。
「ちょっと借りてるだけだ。その辺歩いてた奴にな」
車内に笑いが起きる。すこし遅れてカズサにも笑いの意味がわかった。
悪さをしても大袈裟にいわないのが宏政の流儀だ。カズサの目にはそれが痺れるほど格好よく映った。同じフレーズをどこかで使ってみようと思う。
うしろの窓が開いて別の男が顔を出す。
「テル、オメーまた木刀折ったのか? 弱えェなあ」
波止野の兄だった。バカにしたような笑いを浮かべる彼を、波止野は無言でにらみつけた。
「おまえら学校か?」
宏政が煙を吐いた。
「うん。ヒロちゃんは?」
「俺は帰って寝る。気をつけて行けよ。最近危ない奴が多いからな」
彼が合図すると、車は音もなく走り出した。カズサは去っていく車に手を振った。
「カッケーなあ、コノイド。あれ、2013年型だぜ」
「あの人らヤベーって。『蟻』のメンバーだってよ。関わんねえ方がいい」
波止野はズボンのポケットに手を突っこみ、鼻を啜った。
カズサは刀が欲しかった。だが高価すぎて彼には手が届かない。帯刀免許を取得するためには道場に通って競技剣術を長期間学ばなければならないが、彼にはそのカネもなかった。
剣術は金持ちのやるスポーツだ。道場の月謝と道具代がかかる。帯刀の権利はみんな平等に持っているというが、どこが平等なものかと彼は思う。この狭い歩道も、駐車違反の車のせいで実質1.5車線の川口通りも、学校の中も、何もかもが平等ではない。
すべてを手に入れたいわけではなかった。ただ自分の求めるわずかなものを斬り取る力が欲しいとカズサは願った。
●
団地から学校まで自転車で15分。当真家の広大な敷地を迂回するので余分な時間がかかる。化け物みたいに大きな木が思うさま日を浴び、影を街に落としている。
ふたりは武蔵駅前の違法駐輪の列に自転車を紛れこませた。カズサはソードベルトを腰に巻き、籠に入れてあった鞄を手に提げた。
家を出るときには余計かと思われた学ランが途中の寒さを防ぐのに役立った。朝の風がこれほど冷たいとは、カズサには意外だった。窓越しに見る朝はあれほど生温そうでうっとうしかったというのに。
彼は冴えた空気に触れたせいか何となく気分が晴れ晴れとしていた。
区立武蔵中学校では自転車通学が校則で禁じられている。駐輪場がないから、というのがその理由だった。
団地から学校まで歩いて30分。小学校は家から15分で行けた。もっと近くに中学校を建ててくれればいいのに、と思う。
個人では対抗できない規模のいやがらせを受けている気がして腹が立つ。自転車で来たことを隠して徒歩で校門を潜ると、その大規模な何かを出し抜いてやったようで気分がよかった。
昇降口の前に並んで大声をあげている生徒の一団があった。
彼らの明るくきびきびした様子が気に食わなかったので、カズサは登校する者たちの波を斜めに横切って逃げるように下駄箱へと向かった。すこし離れて波止野がついてくる。
「おはようございます」
1人の女子がはきはきした声とともにカズサの前に立ち、行く手を遮った。
彼女の頭のうしろで揺れる、長い2本の三つ編みに見おぼえがある。同じクラスの何とか委員だ。授業中も積極的に手を挙げて発言するうざい奴だったように記憶している。
適当に頭をさげて通りすぎようとするカズサの前にその女子は立ちはだかった。
「おはようございます。今週はオアシス週間だよ、三上くん」
彼女の声は大きかった。カズサは子供扱いされている気がした。
「オアシス?」
「おはようございます・ありがとうございます・失礼します・すみません――」
彼女は指を折った。「ね? その頭文字でオアシス。わかる?」
カズサは困惑し、助けを求める気持ちで波止野に目をやった。彼はにやにや笑いながらこちらを見ていた。どうやらこうなることを知っていたようだ。
「……おはようございます」
カズサが渋々頭をさげると、彼女は、
「よろしい」
といって満足げな笑みを浮かべた。
彼女の気が済んだようなので、カズサは気を取り直してふたたび歩き出した。だが彼女はまたも彼の前にまわりこんできた。
「ねえ、三上くんはどうしてずっと休んでたの?」
心がもやもやした。そんなくだらない質問を波止野がしてきたら金玉でもつかんで黙らせるところだが、それを彼女の口から聞くと、怒りとはちがう不可解な波が胸の内に立った。
「めんどくせえからだよ」
カズサは顔を背けた。「オアシス週間とか、おまえみたいなのがさ」
口下手な自分にしてはうまい切り返しだと思った。女子というのはとにかく口が達者で、男子の側がやりこめる機会などめったにない。
相手は引きさがらなかった。
「おまえって何よ。私は浅海六郎。浅海六郎悠理。同級生の名前くらい、ちゃんとおぼえといてよね」
カズサはさすがに焦れてきた。他の生徒たちはカズサたちの傍らを通りすぎて校舎に入っていく。自分ばかりが足止めを食っている。またいやがらせだ。
彼はベルトの木刀に左手を添わせた――こいつにものをいわせようか。そうすることで気を鎮めようとする。こうやって殴りたい相手を殴らずに済ませたことがこれまで何度もあった。
波止野が悠理の背後を通り抜け、カズサに舌を出す。
「いや~、俺B組でよかった。そっちはたいへんだねえ、生活委員が厳しくて」
「うっせえよテメー」
カズサはベルトのフックから木刀をはずす。
「ちょっと、ソードベルトは校則違反。いますぐはずして」
悠理が彼の左手首をつかんだ。細い指は見かけより力が強い。
カズサはそれを振り払った。
「触んな」
鞄を放り、木刀を右手に持ち替える。「なんで俺にばっかいうんだよ。他の奴もいるだろ?」
彼は振り返り、校門から入ってくる生徒に目を走らせた。通学鞄でなくスポーツバッグを肩にかけてやってくる男子がいた。学ランの一番上と下のボタンをひとつずつはずしている。
「あいつ見てみろよ。絶対折りたたみ剣を持ってる。ああやって下のボタン開けて抜きやすくしてんだ」
悠理はその生徒をちらりと見ただけで、視線をカズサにもどした。
「持ってないかもしれない」
「調べてみろよ」
「あの人は3年生だもん。私は1-Aの生活委員だから、1-Aの人に注意する。よそはよそ、うちはうち」
チャイムが鳴った。悠理は校舎の外壁にかけられた時計をわざとらしく見あげた。
「ああそうかよ」
カズサはベルトをはずした。「これでいいんだろ?」
「ありがとうございます」
浅海六郎はひとつ頭をさげると、カズサにほほえみかけた。「オアシスのア、ね」
「死ねよ」
カズサは木刀とベルトを鞄の中に押しこんだ。「オアシスのシ」
●
カズサの休んでいる間に席替えがあったらしく、彼の席は窓際の一番うしろに移されていた。
そこに座ると教室中を見渡すことができた。彼の知った顔もあったが、半数以上は辺津小以外の出身だった。仲のよい者同士が寄り集まってしゃべっている。決められた席など気にしていないようだった。
所在なく窓に寄りかかり穏やかな日差しを浴びている内に、眠気がぶり返してきた。いつもならまだ寝ている時間だ。彼は机の上で組んだ腕を枕に居眠りをはじめた。腕の中にある暗がりでは自分の呼吸音だけが大きく聞こえる。
担任の教師がやってきて朝の学活がはじまった。カズサは顔をあげた。自分のいなかった日々から引き継がれた事項が並べ立てられる。
それが終わると担任がカズサの名を呼んで廊下に出た。カズサは鞄から突き出た木刀に手を伸ばす。だが斜め前の席の悠理ににらまれ、仕方なく丸腰のまま席を立った。
担任は出席簿を壁に突いて寄りかかる。Yシャツにネクタイを締め、その上からクマノの赤いジャージを羽織っていた。変な格好だとカズサは思った。
「もう出てこれるようになったのか?」
叱られる前触れのような気がして、カズサはうなずきながら相手の動きに目を配った。
「まあ、最初から6時間全部出ようなんて考えなくてもいいから。ちょっともう無理だなと思ったら先生のところに来なさい」
カズサはうなずき、彼のまっすぐな視線から目を逸らした。手洗い場に並ぶ蛇口がそれぞれ思い思いの方角を向いていた。誰かが締め忘れたのか、その内の1本から水が細い筋になって落ちる。
「まだ入学して一ヶ月だから、みんなこれから仲よくなろうというところだ。三上もきっとすぐになじめる。A組はちょっと騒がしいが、明るくていいクラスだぞ」
壁の向こうでは、担任がいなくなったので生徒たちが自由におしゃべりをはじめていた。
「みんな席に着いて。もうすぐ1時間目はじまるよ」
悠理の声がする。
「あいつ、なんでいきなり来たの」
男子の誰かが大きな声を発する。
「何なのあいつ。病気?」
「見ろよ、この木刀……。わかってねえらしいな」
2、3人の男子が明らかにカズサのうわさをしている。同級生の話し声の中からそれだけが浮きあがって聞こえた。
カズサは入学式のあとの自己紹介の時間を思い出した――中津小の出身だといっていた3人。いまだ打ち解けないクラスの中にあって妙に馴れた様子で軽口を叩き合っていた連中。新入生の戸惑いなど微塵も感じさせなかった。同級生をどこか下に見ているような態度だった。
カズサは担任の顔を見た。彼の耳にカズサの聞いた声は入っていないようだった。彼は補習がどうの保健室授業がどうのと話していたが、カズサにはそれを理解する余裕がなかった。教室の中で何が起こっているのか――そのことだけが彼の頭を占めていた。
「人のもの勝手に触るの、やめなよ」
悠理がとげとげしい口調でいった。それに反応してか、小さな笑いが起こる。
「すげえ古いな、これ」
「うわ、重っ。芯にスチール使ってんな。いまのルールだと禁止されてるやつだ」
「俺にも貸せよ」
もどかしさと怒りでカズサの体から汗がにじみ出た。
担任が顔をしかめて振り返り、教室の戸を開いた。
「おーい、静かにしろ」
その脇をすり抜けて、カズサは教室に入った。
前の席の男がカズサの木刀でまわりの者を小突いていた。彼はカズサを見ると薄く笑った。
カズサは机の間を進んだ。木刀を持った男がそれを振りあげたので、彼は体を緊張させた。だがそれは上段から彼を打つためではなくて、木刀を彼から遠ざけるためにしたことだった。
彼は勢いをつけて机を足で蹴った。机に挟まれて対手がひるんだところに飛びかかり、床に押し倒す。
椅子がひっくり返る。女子の悲鳴があがる。
対手の手を離れた木刀を拾いあげて立つと、対手も起き直ったところだった。
ためらうことなく、カズサは面を打った。
柔らかな手応えだった。
対手は鼻を押さえ、咳きこむような声とともに顔を背けた。
カズサは腹を蹴りつけた。対手の体がくの字に折れ曲がる。
誰かに横合いから強く蹴飛ばされた。カズサは机と椅子の間に小膝を突いた。
中津小出身の別の男が彼に向かってきた。カズサは剣先をその男の目につけて牽制しておき、間合いを取った。
まわりの生徒たちは席に着いたままだった。中段では彼らが邪魔になると考えたカズサは、グリップを顔の横まで引きあげ、八相の構えを取った。
「何やってんだ。やめなさい」
騒ぐ生徒たちを掻き分けて担任がやってきた。
カズサは対手を見た。
刀を納めるべきか。
カズサに面を打たれた男を助け起こそうとしている奴がいる。カズサを蹴った対手はいまにも殴りかかってきそうな構えだ。目の前の席にいた者が逃げ出す。
この椅子を乗り越えて打ってかかるべきか。
呼吸を整えながら、いずれの選択肢に賭けるか考えていると、剣先に重みがかかった。
「寄越しなさい」
担任が木刀をつかんでいた。
「放せ」
振り払おうとするが、担任はもう一方の手でグリップ近くを握ってきた。
取られまいとしてカズサは、左手をグリップから一度離し、木刀の真ん中あたりを逆手に持ってひっぱった。
担任も肘を張って引きつけようとする。
カズサの足は地を離れた。身長差がかなりある。
彼は膝で対手の腿を蹴ろうとするが、届かない。彼の体は壁に押しつけられた。時間割などを書く小さな黒板の縁が腰に刺さった。
壁を蹴って押し返した。だが逆に振りまわされ、押しこまれる。
今度は背中に何も触れない。
嫌な予感がする。
カズサは脚を対手の胴に巻きつけ、体を密着させて衝撃に備えた。
戸板に体を打ちつけられる痛みは、壁のときより穏やかだった。だがそこから不意にはじまった自由落下に、カズサは息を呑んだ。
はずれた戸とともに彼の体は廊下に投げ出され、床に叩きつけられた。小窓のガラスが割れた。担任はやや心配そうにカズサの顔をのぞきこんだが、木刀を奪い取るまで彼の体の上から退く気はないようだった。
物音を聞きつけて他の教室から人が出てきた。生徒は遠巻きにして騒ぎののしるばかりで、それを乱暴に押し退けながら他の教師が担任の助太刀にやってきた。中に1人、剣術の心得のある者がいて、カズサの握りの中に指をこじ入れ、木刀をもぎ取っていった。
何人もの教師に取りひしがれながら、カズサは天井を仰ぎ見ていた。細かい凹凸から埃が蔓草のように垂れさがっている。
流れる水の、ステンレスの流しを打つ音がかすかながら続いていた。それに口をつけて啜ることを想像しながら、カズサは渇いた喉に唾を呑みこんだ。




