坂の途中で
カルラ坂の最後のカーブまでのぼると、コンクリートで固められた絶壁が間近に迫った。
断崖から坂下の街を見おろす切岸町は、皮膚に空いた毛穴のような排水口から絶えず水を垂れ流す。水に融かされたコンクリートが帯状に変色している。苔とも錆ともつかぬ赤い縞が縦に走る。
更子はカーブの外縁に立った。
カルラ坂を転げおりてきた風が彼女をかわし、ガードレールを飛び越えて坂下の空へ身を躍らせる。那羅延樹の幹がそれを深々と斬り裂く。彼女は手にした花束を体でかばい、空いた手で制服のスカートを押さえた。
大介が杖を突きながら坂をのぼってきて、ガードレールに寄りかかった。
「いい景色だ」
彼はハンカチで額の汗を拭った。「苦労してのぼった甲斐があった」
「まだ先は長いけど」
更子がいうと、彼は苦笑した。
「せっかくの感動に水を差すなよ」
ふたりは結城智弘に花を手向けるため、切岸陸橋を目指していた。
松崎翠里は上野区の実家に帰った。彼女の証言によって更子は、結城智弘が「ピンプ」の追手5人を対手に最後までひるまず戦ったことを知った。戦いのあとで集ってきて彼らを皆殺しにした「白蟻」はさらに多勢だった。
ワシリーの限定モデルは結城の遺族に返却された。
花は供え物にいい。刀は人を殺すためにある。どちらも人間らしい使い途だ。我が身が刀を帯びているとき、花もまたつねにあるだろうと更子は思う――たとえその手にはなくとも。
視界の端をすばやい獣のような影が行きすぎた。坂をおりてきた3台の自転車が急ブレーキをかけて停まった。黒い学ラン。武蔵中。
「更子先パ~イ」
ひとりが手を振って彼女の名を呼ぶ。横の者もそれにならう。
更子は手を振り返した。
波止野が自転車を押して車道を横断してきた。
「どうしたんですか、花」
「結城先輩のところにね。ほら、あのワシリーの」
更子の答えに波止野はうなずき、振り返って仲間たちを見た。富田は彼に続いて来ていたが、カズサは元の位置で自転車に跨ったままガードレールに足を乗せていた。
「おーい、オメーも更子さんに挨拶しろよォ」
波止野が大きな手振りで彼を招いた。
「ひょっとして彼氏?」
富田の視線の先には大介がいた。大介は好奇の目で更子と公立中学校の生徒たちとの交流を眺めている。
「そんなんじゃないよ。何なの? トミタクのくせに色気づくお年頃なの?」
更子は富田の丸い頬を思いきりつねった。忌井家において妹たちのいたずらやわがままに対する最高刑として恐れられる必殺技である。
「痛てててて痛てェ」
富田はたちまち涙目になった。
彼の頬を放した更子はついでに波止野の頬もつねってみる。
「痛てててて痛てッ痛てェッ。何なんスか急に」
「いや、どうせまた隠れて悪さしてるんだろうなあって思って」
「してねえッスよ。悪さなんかしたことねえッスよマジで」
赤くなった頬を押さえながら波止野が口を尖らせた。
カズサが自転車を押してのっそりやってきたので、こいつも平等につねってやろうと更子は手を伸ばした。それをカズサは手で払う。
「あら、連帯責任を逃れる気? リーダーのくせに」
更子がいうと、
「リーダーじゃねえよ」
カズサはつぶやき、顔を背けた。
彼を指差して更子は波止野と富田に囁いた。
「この子、ちゃんと見張っといてね。暴走しやすいタイプだから」
「いや、そうなんですよ。この間も――」
「暴走しやすいのはあんただろ」
カズサが波止野のことばを遮った。「車1台ぶっ潰しといてよくいうよ」
彼のセリフに仲間たちは笑い声をあげた。その生意気なものいいにむっとした更子は、あの夜、彼が子供みたいに泣いたことをあげつらおうとした。
「あなた、この前――」
いいかけて、それがふたりの秘め事を暴露するようなものだと気づく。
彼女の胸でカズサは涙を流した。彼女の柔らかな部分に顔を押しつけ、涙の跡を残した。彼女は街に血と死を振り撒いたこの少年を手中に収めていた。彼を痛ましく傷つきやすい存在に変えてしまった。
剣を振るうのとはちがう、不思議な力だと思った。
「この前、何だよ」
カズサが煙草をくわえる。
「うるさい。何でもない」
更子は腹立ちまぎれに富田の頬を思いきりつねった。
「痛ッてェ痛ッてッ……もうっ」
「行こうぜ」
カズサが自転車に跨り、地面を蹴って坂をくだりはじめた。学ランの裾がはためいてソードベルトがのぞく。60式――暗殺者の剣。
「じゃあまた」
「ああ痛てェ」
波止野と富田も更子に背を向け、カズサを追う。
「スピード出しすぎるんじゃないよ」
いってから、これも自分に当て嵌ることだと気づいた。波止野たちの笑い声がかすかに聞こえた気がした。
大介のところにもどると、彼はペットボトルの水を飲んでいた。
「彼らが住吉霧哉の仲間?」
「うん」
更子は彼らの去っていった方を見た。坂下の街は坂の上から見ている分には静かで平和そうだった。
「更子が住吉を斬ったってこと、一人は知ってるんだろ? 仲間に話したりしないかな?」
「だいじょうぶ。共犯みたいなものだから」
更子は一足踏み出し、大介の歩みを促す。「それに、仇を取りに来たとしても、考えがある」
それは策ともいえないものだった。
それ以前に、仇討ちを――カズサとの勝負を望む気持ちだった。競技剣術で剣を交えて対手と心通わせた経験はある。だがカズサと彼女の間に流れる感情はまたちがったものだった。
いま刀を持って対峙すればどうなるのか、わからない。技術の話ではなく、勝負というものをどう捉えるかという内面の問題だった。
そうなったら自分は敗北を受け容れるのではないか。彼に斬られて満足するのではないか。そのために自分は剣技を磨いてきたのではないか。
不吉で、どこか甘い匂いのする予感だった。更子はセーラー服の裾から手を差し入れ、へその円さを指で確かめた。
大介がペットボトルを上着のポケットに入れ、大儀そうにガードレールから身を起こした。更子はそれを見て笑い声をあげた。
「自転車で来ればよかったかねえ。私なら、うしろにあんた乗せてこの坂のぼるくらい楽勝なんだけど」
「嫌だね。おまえの運転するものには何であれ乗りたくない」
これまで何度も痛い目に遭ってきている大介は自分の足と杖でぎこちなく進んでいった。更子は彼がバランスを崩さない程度に軽く、その背中を叩いた。
那羅延樹のざわめきが遠く聞こえた。
『菊と力』 了