白蟻
布張りのソファにカズサは血まみれの体を預けた。
汚れてしまうと知っていたが、罪悪感はなかった。
正面の1人掛けには富田が膝を抱えて座る。波止野は窓のそばに立っていた。カーテンの隙間から夜景でも見ているのだろうか。こちらに背を向けているのでわからない。
床の上では更子が脚をひろげてストレッチをしていた。潜水の準備をするかのように深く呼吸しながら、上体を捻っている。目を半ば閉じ、瞑想状態にある。具足は着けたままにしてあった。まだ戦う気なのだ。金谷修理大夫のいっていたことが本当ならば、敵の援軍はすぐそこまで迫っている。
カズサもまた戦い続けるつもりでいた。単純に、人を斬りたかった。
「死なない期間」などと考えていたのがいけなかったのだろう。そんな風にうまくはいかないものだ。運命はきっちり帳尻を合わせてくる。自分が死なない代わりに霧哉が死んだ。自分が殺したも同じだ。
3人掛けのソファに横たわる霧哉と腰かけるカズサとを隔てるものは何もなかった。ふたりは同じものを賭けて戦った――カズサはそう信じていた。
霧哉の刀創は貫通していた。2階と3階の間で倒れていた彼をここまで背負ってきたカズサの背中に血がついた。霧哉の創と同じ場所だとカズサは思った。
バンダナで彼の顔を拭ってやる。ソファに寝かされた霧哉は隙だらけだった。
カズサは彼のコノイドをソードベルトからはずした。彼の体に沿う形でソファの上に置く。
彼のスニーカーが底を見せていた。その溝は血や砂やその他、今夜彼らが壊したものの破片で埋まっていた。
カズサはポケットからゴンクールの無印を取り出し、1本抜き取った。ライターの火が大型テレビの画面にぼんやり赤く浮かぶ。深く吸って吐くと、煙が山を包む霧のように脚を伝って流れた。
煙草を吸いはじめた頃のことをカズサは思い出す。富田の家や区民センターの裏手、カルラ坂の下――隠れて吸うこと、仲間とともに人の目から離れていること自体が目的であったような気がする。
更子が床から跳ね起きた。手で煙を払い、別室へ歩いていく。セーフティに手をかけ、スカバードの石突を体にまとわせる。
富田がカズサの顔を見つめる。
「それ、まずかったんじゃね? あの人、煙草嫌いだっていってたから」
カズサはそれに答えず、携帯灰皿に煙草をねじこんだ。
更子は500mℓのペットボトルを両手に提げてもどってきた。
「冷蔵庫漁ってきた。飲んどけ飲んどけ」
そういって配ってまわる。紅茶を押しつけられたカズサは、それをソファの上に放った。ペットボトルがじんわり汗をかいた。
更子がミネラルウォーターの蓋を引きちぎり、喉を鳴らして一息に飲み干した。掌の間でペットボトルを押し潰し、ショートパンツのポケットに入れる。
「飲みなさい」
紅茶に手をつけようとしないカズサを見て彼女はいった。
「いまはいい」
カズサは唇を掻いた。更子が歩み寄り、ペットボトルを彼の腿に載せる。
「気が立ってて感じないだけ。本当は水分が必要なはず。1口でいいから飲んでおきなさい」
ペットボトルの結露がデニムを濡らす。更子は玄関の方へ歩き出した。
「ちょっとお手洗い」
彼女が廊下に姿を消してからカズサはペットボトルを開け、中身を口に含んだ。甘さにため息が出る。続けて飲んで、富田の視線に気づく。カズサはボトルに蓋をして彼をにらみつけた。相手は目を伏せる。
「なあ波止野――」
カズサはボトルをパーカーのポケットに入れた。「霧哉を刺した奴をもう一回見たら、見分けつくよな」
波止野は窓を見ている。
「わかる。たぶんな」
「そしたらすぐ俺にいえよ」
「ああ。いうよ」
波止野は振り返り、真っ赤な目をしてカズサを見つめた。「絶対にいう」
更子がのしのし歩いてもどってきた。部屋の真ん中で手を打ち鳴らす。
「はい、休憩終わり。外が騒がしくなってきた。行くよ」
波止野が一度壁を拳で殴りつけ、歩き出した。
富田は長くため息を吐いて立ちあがった。
カズサはベルトのホルスターを背中側に移した。
「霧哉、行ってくる。おまえの刀を借りるぞ」
コノイドのジョイントをソードベルトの鳩目に通した。一度セーフティを切り、反動を確かめてから納刀する。
玄関に向かうカズサを更子の背中が阻んだ。先陣争いのようだった。
波止野と富田がついてくるのを顧みて彼女は歩き出した。腰のスカーフで手を拭う。
「もうちょっとゆっくりしていきたかったね。シャワー浴びたりさ。お風呂きれいなのよ、意外と」
カズサはバスルームを横目に見た。
更子が天に向かって指を1本立てる。
「いまシャワーと聞いてエッチなこと考えた人、手を挙げて」
カズサが振り返ると、最後尾の波止野がおずおずと挙手した。とたんに手が伸びてきて、彼の襟首をつかみ、ひっぱる。
「よし、罰として波止野が先頭」
更子は彼の頭を叩き、にっと笑った。
「またおまえか」
富田が憤慨したような口ぶりでいう。
「いや、おかしいって。絶対俺だけじゃねえって。カズサとか絶対――」
波止野は更子に背中を突き飛ばされ、つんのめった。「こういうのユードージンモンっていうんだろ? 汚ったねえッスよ」
ぶつくさ文句をいう波止野を見ていると笑いがこみあげてきた。カズサはバンダナを引きあげ、緩んだ表情を押し隠した。
●
地表から12階まで届いてくるのは剣戟の音だった。街灯に照らし出された窓の外の光景はカズサに朱雀通りの夜間工事を思い起こさせた。
地上で振り合い、打ちつけ合う剣の輝きを彼らは見おろしていた。
「もうはじまってんじゃねえかよ」
カズサは窓ガラスを拳で叩いた。
「私たちの援軍とタイミングかぶっちゃったみたいね」
そういって更子は手首を屈伸させた。
斥候を務めていた波止野が角を曲がりかけて振り返った。
「エレベーターが動いてます」
「いま何階?」
更子は右手を握っては開く。
「4階から5……どんどんあがってきます」
「いい度胸じゃねえか、正面から来るとはよォ」
カズサはコノイドのグリップに手をかけた。更子がそこに手を重ねる。
「波止野、階段を見張って。エレベーターは囮かも。トミタク、あなたはうしろ。反対側の階段から誰か来たら知らせて」
彼女はカズサを指で招き、歩きはじめた。「トミタク、返事は?」
「はいッ。了解ッス」
富田は怯えた声を廊下に響かせた。
ビクビクしやがってビクビクデブめ、とカズサは苦々しく思う。ビクビクするのかブクブク太るのかどっちかにしろ。
それを口にすればよかった。それを口にすれば霧哉みたいだった。ピンチでもビビってないで、仲間をひっぱれる。カズサはそれを頭の中に思い浮かべるだけで、ことばにできない。
表示盤の赤い数字は9から10へと変わった。カズサと更子はエレベーターの正面に陣取る。
グリップを握りこんでセーフティを解除しようとしたカズサに更子が体をぶつけてきた。左側に立たれていたせいで刀が挟まれる。彼女はカズサの首に腕をまわし、顔を近づけてきた。
「あの子たちは戦えない。技も心も足りてない」
そう囁いて彼女は波止野と富田に目をやった。仲間を悪くいわれてカズサはむっとする。巻きつく腕をひっぺがそうとするが、対手の腕力が強く、叶わない。汗ばんだ肌が張りつく。
彼女はカズサの目を奥までのぞきこむ。カズサにも彼女の瞳が見透せる。戦う目をしていると思った。
「だから私たちが戦う。ふたりで力を合わせて。あなたのことはちょっとだけ頼りにしている」
彼女は腕を解き、カズサの左肩を叩く。
カズサはふうっと息を吐く。
「わかった。ありがとう」
顔を覆うバンダナから血の臭いが立ちのぼる。彼女の肌に触れていた箇所がすうっと冷える。
わかってたことなのに――
自分はずっとこの人を頼りに戦っていたのだ。
表示盤の数字はいまだ11階から動かないが、エレベーター本体はゆっくりと上昇してきて、カズサたちの足元を照らした。
カズサは抜刀しかけて思い留まった。エレベーターの中に緊張感なく立っている者がいる。
「うわ、変なの来たよ……」
更子が顔をしかめた。
その男は上半身を剥き出しにしたまま12階に運ばれてきた。白い布で顔をすっぽり覆い、頭の上でリボンのように結っている。布の隙間から臆病そうな目がのぞいていた。
チャイムが鳴り、扉が開いた。
中に男は3人いた。立っている1人に、倒れている2人。血が溜まり、ねっとりとひろがり、エレベーターとフロアの隙間に流れこんだ。
「あっ……と、『蟻』の人ですよね?」
白い覆面の男がカズサたちを見ていった。「女の人がいるって話だったんで」
カズサはスカバード側のセーフティを切った。
「おまえ何だ。こいつら何者だ」
男は両手を開き、掲げた。色の褪せたデニムが血に染まっている。
「俺らァ『蟻』です。助けに来ました。『ピンプ』に囲まれてるって聞いたんで」
更子も刀にかけた手を離さなかった。
「下はどうなってるの」
「仲間がやってます。敵はだいたい殺しました」
「こいつらもそうか?」
カズサが2つの死体を顎で指した。
「『ピンプ』……だと思いますよ。確認はしてないですけど」
男は腰の刀に手をかけた。KNOLLINKのワシリー。カスタムされたスカバード。
「おまえ、ファミレスにいたか?」
「いや、俺らいつも自由行動なんですよ。他人に合わせるのとか苦手で、佐々木判官くんにもキレられちゃって」
男は覆面の下で笑い声を立てた。
「仲間は何人いるの」
更子は足の構えを解かない。
「5人です。俺を入れて」
男は手を伸ばし、閉まりかけた扉を押さえた。カズサは小さく手招きして波止野と富田を呼び寄せた。ふたりともエレベーターの中を見て顔をしかめる。カズサも彼らと同じ気持ちだった。このエレベーターには乗りたくない。死体は場所を塞ぐ。
だが更子は乗りこんでいった。カズサは仲間たちを入らせてから、背後に目をやり、血溜まりに足を踏み入れる。扉が閉まった。
降下するエレベーターはやけに騒がしかった。操作パネルを見るに、かなり年季の入ったもののようだ。
「みなさんのチーム名は何ですか」
覆面男はそういってカズサの顔をのぞきこむ。彼の覆面は白いTシャツで、襟の穴をのぞき穴にしていた。
「チーム名なんかねえよ」
カズサは壁に寄りかかり、ポケットをさぐった。ゴンクールのパッケージは空だった。
「俺ら、『白蟻』っていいます。佐々木判官くんがつけてくれたんですよ。戦いのあとでいっつも食い散らかすからって」
「ああ、ぴったりの名前だな」
波止野が靴の底についた血を見て頭を振った。
「まあ、『ピンプ』の奴らとか無茶苦茶ですから。ホント街で見つけたらソッコーでぶっ殺さねえと――」
操作パネルのそばに立っていた更子がボタンを叩いた。エレベーターは急に速度を落とし、最寄りの階に停まった。
チャイムが鳴り、扉が開く。壁に寄りかかっていたカズサは何事かと身を起こした。
「白蟻」の男がカズサたちを見渡した。
「どうしたんですか」
更子はエレベーターの外を向いたまま振り返らない。
「最近『ピンプ』の5人組を斬らなかった? 場所はこの辺。ここと切岸陸橋の間」
彼女のことばに男は肩をすくめた。
「何なんですか急に」
「わからない? もっといおうか?」
彼女は振り返り、刀に手をかけた。「中3の女子。名前は松崎翠里。ここの煙草売りだった。それとその刀。KNOLLINK社のワシリー、レザースカバードモデル。何十周年記念だかの――」
「30周年」
富田がつぶやくようにいった。「ワシリーのレザーは創業30周年の記念モデル。世界限定30振。日本に入ってきたのは2振。その内の1振はKNOLLINK日本支社のショールームに飾られてる」
「な、何のことだか俺には……」
男が刀に手を伸ばした。
更子が地響き立てて踏み固め、ざっと抜き払った。エレベーターが揺れる。閉まりかけていたドアがレッグガードに当たってまた開いた。ローミラーの切先が男のかぶるシャツを引っかけた。
「俺には何? 続きを聞かせて」
「おい、何だっつーんだよ。あんたら仲間だろ? この人、止めてくれよ」
男は腕をひろげて叫んだ。腋の下を汗が伝う。
「いいや、ちがうね。仲間じゃねえ」
カズサは身を引き、エレベーターから出た。男と更子を残して仲間を外に誘い出す。
「こいつは俺らの仲間じゃねえ。おまえもちがう。だから気の済むまでやれよ。ここで見ててやるから」
男は舌打ちし、天を仰いだ。
「クソッ、何だよ。なァんで俺ばっか――」
「愚痴はいいから質問に答えな」
更子が詰め寄る。男は指で壁を叩いた。
「『ピンプ』は斬りました。5人だったかどうかはおぼえてないですけど。人数知りたかったら坂の下で死体さがしてくださいよ。ガードレールのとこから放ったんで」
更子は切先を軽く持ちあげ、話の続きを促した。男は頭を掻く。
「女はいました。刀はそんとき拾ったんです。プレミアついてるんスか? 俺、そういうの詳しくないですけど、欲しけりゃ安く売っても――」
「女の子の方は?」
「俺らのアジトに」
「そこで何してるの」
「何って、仕事ですよ」
男は背中を掻いた。「あの女の仕事」
刀が振りおろされた。ソードベルトを斬り落とし、返す刀で脛を強かに打つ。峰打ちだったが、無傷では済まない音がした。
「ぐぅあっ、痛ってェ……」
男は1歩退き、血溜まりの中にうずくまった。
「仕事ねえ。その仕事の内容を説明できるものならしてごらん」
更子が対手を蹴り起こし、隅に押しこんで逆手の剣を押し当てた。対手は喉元の切先を凝視し、身震いした。
「お、俺がいい出したんでも、俺だけがやったわけでもねえよ。俺以外にもみんな、坂下の奴らみんな来て――」
エレベーターが大きく揺れ、きしんだ。更子が刀を突き立てるたびにその音は大きくなった。閉まりかけたドアにカズサは手を差し伸べ、押し返した。
「人をさがしてんのか」
カズサがいうと、更子は振り返り、血に濡れた顔を拭った。
「ごめん、いままで黙ってて」
「助けに行くのか」
更子は長く息を吐きながらうなずく。カズサはドアに手を当てたまま振り返った。エレベーターからこぼれる光が波止野と富田の顔を白く見せていた。
「俺、ちょっといっしょに行ってくるわ。おまえら、すこししたら下おりてって、安全なようなら帰れ」
「ブー太郎には俺からいっとく」
波止野が足元を指差した。「車あんなんなったの、テメーのせいだって。ビビった罰だって」
カズサは笑い、うなずいた。
「更子さんがいるからって無茶すんなよ」
富田が刀のグリップエンドを拳で打った。「そんでちゃんともどってこい」
カズサは拳で自分の胸をひとつ叩き、エレベーターに乗りこんだ。扉のガラス越しに手を振り、仲間と別れる。カズサの視界から彼らが滑り去る。
更子は表情を緩め、ため息を吐いた。
「ありがとう。助かる」
「別に。あんたには助けてもらったから」
カズサは「白蟻」のワシリーを拾いあげ、すこし眺めてから更子に差し出した。「で、俺は何をすればいい? どいつを斬っていいんだ?」
更子は自分のソードベルトにワシリーのジョイントを取りつけた。
「こいつらのアジトがどこにあるか、きき出さなきゃならないから、とりあえず1人は生け捕りにする」
「じゃあそれ以外は斬る」
「『蟻』を敵にまわすことになるよ」
通過する階の明かりが更子の頬を撫でていく。カズサは顔を階上に向けた。
「関係ない。俺の仲間は最初からあいつらだけだ」
更子が掌を上向きに差し出す。カズサが掌を軽く打ち合わせると、強く握られた。
「本当にありがとう」
柔らかいとカズサは思った。
柔らかくて厚くて強い。たぶんグローブの下はもっと。
●
1階に着いても更子は抜刀しなかった。ドアの向こうに立つ男が白覆面を向けてきた。
「あ、先に行った奴は――」
その手に抜身のあるのが見えた。ゆっくりと開くドアをこじ開けるようにして更子が出る。一足で対手との間合いを刈り取る。
あの位置を取った時点で勝負ありだ、とカズサは思った。
更子は対手の右手首をつかみ、肘を極めた。
背後にまわりながら、ハンドルを切るように対手の背中の上で前腕を外側に倒す。
生木の裂けるような音がして、刀が転がった。対手の肘から先が垂れさがる。更子の抜きつけに続く迷いのない介錯で悲鳴の代わりに血飛沫があがった。
「生け捕りにするって話は?」
カズサが尋ねると更子は、
「あれはあと。とりあえず景気づけにね」
といってもう一度同じ軌道で剣を振り、血を払った。
建物を出ると、死体がいくつも転がっていた。車のヘッドライトに照らし出されたそれらの体は血の海に浮かぶ島だった。その間を行き交う水鳥のような男たち――嘴の代わりに、刀で屍肉をついばむ。尻をスライスし、ポケットの財布を切先で釣りあげる。
「『ピンプ』の奴らはカネ持ってるよな。なあ?」
バンダナを巻くカズサに親近感を持ったのか、白覆面の男はなれなれしく声をかけてきた。カズサは答えずに寄り、コノイドに手をかける。抜き出しの勢いを利用してそのまま突いた。
手応えもなくブレードが対手の胸にハンドガード近くまで刺さった。深く入りすぎて引き抜けない。上から押さえて、もがく対手をいなしつけておき、足で押し剥がす。
倒れた男の向こうから新たな対手が現れた。中段に構えた切先が目くらましのようにくるくると動く。カズサは太刀の裏を対手のブレードに叩きつけ、正面を空けさせて打ちこむ。対手は応じて引くどころか、かえって踏みこんで抜胴を試みた。紙一重のところで互いの刃は対手をとらえ損ねた。
カズサは構え直し、よい対手だ、と思った。60式のリーチだったらやられていた。この刀によい対手だ。
正面打ちを挑んでくる対手に応じてカズサは受けにまわる。刀が震え、手が痺れる。対手の力はカズサよりも強い。ならばいっそ刀にまかせてみようと思う。これに命を預けてみよう。
剣をつけ合ったまま、切先を横一文字よりさらにさげる。それに沿って対手の剣が流れる。右手が窮屈になったので離してみる。グリップの左手とブレードバックに当てた右上腕で刀を支える。対手の力は切先へ切先へと逃げていく。
肘より先が手持ち無沙汰なので2振の刀の上を通してみる。指で目でも突いてやろうかと思う。左手も離せそうだ。
横合いから更子が暴れ牛のように突進してきて、対手をずんと宙に打ちあげた。血飛沫が街灯を染める。カズサの刀は地に転がった。
「何ボヤッとしてんの」
彼女に怒鳴りつけられてカズサは自分が命の際にいたことを思い出した。
「いや、もうちょっとだったんだ」
「何が」
「何か。わかんねえけど」
カズサは刀を拾いあげ、暗くなった街灯に照らして歪みがないか確認した。
白いスクーターの傍らに立つ男が抜刀する。更子はそちらに切先を向けて歩いていった。
「蛟剣・常保深淵中ッ」
ややこしい呪文のようなものを唱えて襲いかかる。もう無茶苦茶に、受けることも流すことも許さず、峰打ちを雨と降らせる。指が折れ、骨が砕ける。対手は刀を取り落とし、凍えた犬のように地面に這いつくばった。
「あなたたちのアジトはどこ?」
更子にのしかかられた対手は緩慢な動作で頭を抱えこんだ。
「へ、辺津町の『ユーラ長浜』っつーアパート。202号室……」
「カルラ坂おりてすぐのとこ。俺んちの近所だ」
対手に切先をつけながらカズサがいう。
「なあ、頼む。しゃべったんだから助け――」
「悪いな。文句は忌井更子にいってくれ」
カズサは「白蟻」にとどめを刺した。
更子が納刀して対手のソードベルトを剥ぎ取った。それにワシリーのジョイントを嵌め、肩に斜めがけする。
「じゃあひとっ走り行くか」
そういって更子はスクーターに跨った。アクセルの場所がわからないらしく色々といじりまわしている。
嫌な予感がするが、どうせ乗れといわれるだろう。カズサは納刀した。
「今度は安全運転で行くよ」
更子は背負った刀のグリップを避け、左側から振り向いた。
「当たり前だ」
カズサは彼女のうしろに座り、タンデムシートの脇にある銀色の手すりをつかんだ。「この単車でさっきみたいに事故ったら絶対死ぬ。そんときはあんたもいっしょだからな」
更子は肩越しにほほえんだ。
「そうだね。気をつける。しっかりつかまってな」
彼女に腕をひっぱられ、カズサの体は彼女の背中に張りついた。汗ばんだうなじが香る。
腕をまわすと腰は細かった。彼女の体に巻きついたスカーフが肌に冷たい。
彼女のことばどおり、スクーターはゆっくり静かに走り出した。自転車よりも静かなほどだった。切岸町の不規則に曲がりくねっては交わる道を、ふたりは進んだ。
「いいねえ。この乗り物気に入った」
そういって鼻歌など歌っている更子に対してカズサは、人間界にはじめて来た化け物みたいなセリフだな、と心中につぶやいた。
朱雀通りは無数の光と音のたぎる瀬だった。
「きれいだねえ」
更子は歓声をあげ、心もち加速してその流れに身を浸した。
カズサは恥ずかしかった。
周囲を走る車の中から見られている気がしてならない。腰にしがみついて、寄り添っていて、弁解の余地もなかった。きっとカップルか、仲のよい姉弟だと思われただろう。
カズサは額を更子のうなじにつけた。横を向くと車中の者と目が合いそうで嫌だった。それに、彼女の背に耳を当てるのが彼女の何かを盗み聞きしているようで心苦しい。
彼女の背筋を立ちのぼる石鹸か香水かの匂いを嗅ぐことに対しては、それに比べるとまだ罪悪感を抱かずに済んだ。息を吸うたびに腹が膨らみ、ポケットに入れておいたペットボトルが彼女の背中に当たる。カズサはそれをひっぱり出して投げ捨てた。
「わあ、最大の難所だよこれ」
カルラ坂の曲がりにさしかかって更子はシートの上で大袈裟に体を傾ける。腰に手をまわしているカズサもそれにつきあわなければならなかった。
「辺津町って、坂をおりたらどっち行けばいいの」
「まっすぐ。小川町交差点ってのがあるから、そこもまっすぐ」
坂をのぼってくる対向車が順繰りにふたりを照らし、去っていった。
更子が重そうに尻をあげ、座り直した。
「カズサ、あなたさあ、道場通ってちゃんと剣術やれば? ギャングの真似して腐らすには惜しい腕だよ」
「道場に行けば、あんたみたいに必殺技を使えるようになるかな」
「何よ、必殺技って」
「さっき何か叫んでたじゃん。俺が金谷修理大夫とやってるときにも」
「ああ、あれね……」
彼女は左右に頭を倒し、首筋を掻いた。「そうね。使えるようになるかも。あなたのやる気次第だよね」
彼女の掻いた跡がカズサの目の前で赤らんでいた。彼が額をつけていた箇所だった。そこにふたたび頭を預け、彼は目を閉じた。彼自身の痒みであるかのように熱く疼く。
木々のざわめきが街を覆っていた。生まれ育ち知り尽くした街でないかのようでカズサは不気味に思い、いっそう強く更子の腰を抱いた。
●
「ユーラ長浜」は隣接するコンビニの明かりに身をすくめて立っていた。そのコンビニの店長は年寄りだが話のわかる人で、未成年者にも煙草を売ってくれる。カズサたちにはなじみの店だった。
更子は建物の狭い隙間をのぞき、それからアパートの郵便受けを調べた。
「なあ、仕事って何だ」
カズサが尋ねると、更子はぽかんと口を開けて振り返った。
「仕事?」
「さっき『白蟻』の奴がいってた。何とかって人がここで仕事してるって」
「ああ、そうね」
彼女は腰に手を当て、長々とため息を吐いた。「仕事っていうのは、つまり……煙草売り」
「ここで?」
カズサは暗い廊下を指差した。更子が近くのドアをざっと検分し、彼のもとにもどってきた。
「ややこしい話は抜きにしよう。女の子が悪い奴らに捕まってる。私たちはそれを助けに行く。単純明快。OK?」
肩に手を置かれ、カズサは曖昧にうなずいた。彼女は腰のスカーフを解いてカズサに手渡した。
「これかぶって『白蟻』に化けて」
「どこも白くねえけど、いいのか?」
カズサはコンビニから漏れる光に布をかざした。
「色は暗くてわからない。形だけ似せて」
いわれてカズサは布で頭全体を覆った。更子の汗と血の香で息が詰まり、めまいがした。
頭の上の結び目をそれらしく繕うと、ふたりは足音を殺して階段をのぼった。
202号室に表札はかかっていなかった。
ドアスコープに外から目を当て、更子はうなずいた。カズサはボタンを押してチャイムを鳴らした。
更子がドアの脇に取りつき、抜刀する。
履き物の床にこすれる音がした。スコープが暗く塞がれる。ドアが押し開かれ、眼鏡の男が顔を出した。
「おう、ずいぶん早――」
勢いよくドアノブをひっぱった更子が男の首に剣を突き立てた。体をかぶせ、玄関の脱ぎ散かされた靴の上に押し倒す。カズサはその横をすり抜け、抜刀しながらあがりこんだ。
低いテーブルの上に飲みかけのペットボトルが林立し、吸い殻の山を囲んでいる。団地で死んだ男たちの吐いた煙が天井近くにまだ漂っていた。
正面には開きかけの引き戸。その向こうは明るい。
左手の洗面所は暗い。鏡と洗面台。その横にドア。
水の流れる音がした。カズサは振り返った。玄関では更子が男の首を掻き斬ったところだった。カズサは彼女の顔を指差し、その指先を洗面所の方に移した。彼女はうなずいた。
カズサは部屋を縦断し、引き戸の前に立った。刀を脇に構え、戸の向こうをのぞく。
裸の女がベッドの上で仰向けになっていた。眠っているのか、顔をこちらに向けようともしない。腹の上で祈るように手を合わせている。マニキュアの剥げかけた爪が無惨に並んでカズサを見ていた。
彼は、はっと我に返り、頭を引っこめた。ひとつ息を吐いて中に飛びこむ。中段に構えて部屋の四隅をチェックし、窓に寄ってカーテンをめくる。隣の建物がすぐそばまで迫っていて、ベランダもない。誰もいないのを確かめると、膝を突いてベッドの下を見る。向こうの壁が見える――何もなし。
部屋のクリアリングは終わった。あとはあの女だけだ。カズサは恐る恐る顔をあげた。
女の肌は痣だらけだった。痣に痣が重なり、肩から腹にかけてひろがっていた。合わせた掌が離れないように、左右の指が結束バンドによって縛り合わされている。
彼女はカズサを見ていた。左目のまわりに黒い隈がある。古い傷だった。恐怖の表情がそれを歪めた。彼女はゆっくり身を起こし、あとずさりする。
カズサは手にした刀を彼女に示した。
「あの、俺、忌井更子って人と――」
彼女は天を仰いだ。目をつぶり、膝を立て、脚をひろげる。
「刀……ひまってくだはい……」
息が漏れる。彼女の前歯は上下とも抜かれていた。
「いや、俺、ちょっと……」
カズサは目を伏せた。「ちょっと、来てくれ、忌井更子。こっち、助けてマジで」
「どうしたァ」
引き戸を引き裂く勢いで更子が躍りこんできた。彼女はベッドの上の女を見ると納刀した。
「あなた、松崎翠里さん?」
うなずく女の顔を更子はのぞきこんだ。
「私、あなたを助けに来たの。結城先輩の代わりに」
彼女はベッドに乗って、女の頭を抱きかかえた。髪を撫で、背中に腕をまわし、体を包みこもうとする。
「もうだいじょうぶ。だいじょうぶだから」
カズサは抜身を提げているのが場ちがいに思えて、部屋をうろつき、テーブルの置かれた部屋に退散した。
吐き気がした。
彼女の痛めつけられた部屋。痛めつけられた時間。
顔のスカーフをむしり取った。
トイレのドアが半開きになっている。更子の突きを腹に食らい、さらに面を真っ向から割られた男がパンツをずりさげたまま絶命していた。しょぼくれた陰茎を血が濡らす。
「カズサ、ちょっと来て」
更子の呼ぶ声に、カズサは振り返った。
「あの……入ってもいい?」
引き戸の前で尋ねると、
「いいよ。だいじょうぶ」
と返事があった。
松崎翠里は青い毛布をかぶっていた。
「私、人を呼ぶから、あなた、手のこれ切ってあげて」
そういって更子はスマホを取り出した。
カズサは翠里をベッドからおろし、床に座らせた。
「手ェこうやって……あ、膝引っこめてといて」
彼女に手を差し出させ、カズサはブレードを当てて結束バンドを切った。5本の指はすべて黒く鬱血していた。
「こすったらいいよ」
そういって手を伸ばしかけ、引っこめる。血で膨れたグローブ。まるで関節に何か挟まっているかのように指が働かない。
「あいがとう」
彼女にいわれてカズサは納刀する。拳を握ろうとするがうまく握れない。
「ハァ? あんたは来なくていいって。成年部の人ね。できれば女の人。うん、先生にはそういっといて」
更子が身振りつきで電話する脇を通ってカズサは前の部屋にもどった。
テーブルの上に置かれたカンタベリーのパックを取り、中をさぐる。震える手で1本つまみ出し、口にくわえる。ポケットからライターを出したところで、更子の煙草嫌いを思い出す。彼は玄関に向かう。
「カズサ――」
背後から呼ばれて、彼は足を止めた。
「帰るの?」
「ああ。俺、もういいだろ。助けも来るみたいだし」
彼は足元に臥す死体の見開かれた目を見つめる。更子の足音が近づいてくる。
「今日はありがとう。おかげで助かった」
「何も助けてねえよ。あの人、ヒデー目に遭って――」
煙草のフィルターを噛み締める。「霧哉も殺された。誰のことも助けられなかった」
「あなたは助けたよ。あの子も、仲間も、私も、みんなあなたが助けてくれた」
「助かってねえよ」
カズサは振り返った。「あんなの助かったっていえんのか? 滅茶苦茶にされて、歯ァ抜かれて、あんな――」
「助かったんだよ」
更子に抱きすくめられる。くわえていた煙草が彼女の胸に押されて折れる。
「あの子は生きてる。それ以外のことは、これからだよ」
「知ってりゃ助けてた。同じ街にいたんだ。知ってさえいれば。霧哉だって……俺がいっしょだったら……わかってたら……」
涙が溢れた。
カズサは拳で更子の背中をひとつ叩いた。彼女はびくともしなかった。ただ黙って彼の背中や頭をさすっていた。
彼女の強さ柔らかさを欲しいと思った。
カズサの心の中に何かがゆっくりと固まりはじめていた。彼は相手の腰に手をやり、きつくつかんで体を引き剥がした。
「もう行く」
「うん」
更子は手を彼のそれに重ね、うなずいた。
「もし霧哉を殺った奴を見かけたら、知らせてくれ」
「わかった」
彼女の目が、もうやめておけ、といっている。だがカズサの心はすでに決まっていた。
彼は手にしていたスカーフを彼女に返すと、部屋を出た。階段をおりながら、折れた煙草を指で直し、火を点ける。
「蟻」も「白蟻」も「ピンプ」の残党も皆殺しにするのだ。奴らにはでかい貸しができた。全員からむしり取っても足りない。
奴らは俺の掌の上にいる。この街にいる限り、いつだって殺せる。
俺はもう片方の手に持った刀で1匹1匹丁寧に潰していく。俺の手を斬っちまわないように。
霧哉に借りた2振の刀。俺はあいつのために使うだろう。あいつのように。
カズサは通りの向こうを見つめた。
道の上にコンビニの照明が滲んでいる。彼はその光のぼやけた輪郭に煙草を投げ捨てて歩き出した。木々のざわめきが耳を聾するほどに鳴り響いていた。




