奪われた刀
木々のざわめきが街を覆った。
初夏の陽気は日のある内のみで、宵の風は冷たい。
当真整刀流道場に向かう青年部の門下生たちが肌を粟立たせていたのは、夜気に当たったせいではなかった。むしろ彼らは荷物の重さに汗ばんでさえいた。
道場に入る前に、しきたりどおり那羅延の木に対して一礼する。その所作はいつもよりぎこちなかった。深々とお辞儀をしたのち、彼らは神妙な面持ちで樹齢千年を超えると伝えられる聖樹を見あげた。
その木には天狗が棲むと整刀流の口伝にはあった。当流は東下った王に天狗が授けた剣術だというのだ。
現在この道場に通う者たちがそうした伝説をそのまま信じるということはない。だが大人の体でも七抱え八抱えはあろうかという那羅延樹の幹の太さに人知を超えた力を感じることは、彼らの合理的な感性と矛盾するものではなかった。
国の法で帯刀が許されているとはいえ、それを抜き放ち、振るうことは、やはり穏やかな心で行えることではない。ましてや今日の稽古では抜身を手にした者同士が向き合うのだ。
忌井更子は他の者よりも長く神木に頭を垂れていた。
稽古に臨んで神経質になるのは、みずからの剣技に絶対の自信を持つ更子とて例外でない。
本来ならば高校生になるまで参加できない青年部の稽古に特例として一年早く加えられているのは、彼女の並外れた実力が認められてのことであり、彼女はそれを誇りに思っていた。内心驕ってもいたのだったが、真剣を振り合うことを容易に思うほど軽々しくもなかった。
対手の生殺与奪の権を握る――それは他人や世間に対して日頃示している良識や道徳をみずから剥ぎ取り、裸になることだった。彼女は裸の人間同士が対峙する剣の場に怯え、また魅入られていた。
剣帯から垂らした愛刀の鍔を左手で優しく撫でながら、彼女は剣の天狗に我が武運の久しからんことを祈った。
●
更子が道場の女子更衣室に入ると、そこにはすでに勧学院高等部2年の河合聡子と同1年の江守由香がいた。中等部3年の更子にとってふたりは、道場でも学校でも親しい先輩だった。
彼女たちに軽く頭をさげると、更子はスマホを取り出した。道場に無事着いたことを母に報せたあとで、ロッカーに鞄を放りこみ、ためらいもなくセーラー服と下着を脱ぎ捨てる。
彼女は腹に手を当てて我が身をじっくりと眺めた。
大会が終わってやや緩んできたものの、なかなかのグッドシェイプだ。胸だけはすこし大きすぎるが、こればかりはどうしようもない。大会直前の、減量がもっとも苦しくなる時期に入っても一向に萎む気配を見せないのがこの乳房だった。むしろ他の部分が引き締まってその盛りあがりが際立って見える。
通常体重が60kg強の彼女にとって、55kg級に合わせた毎回の減量は一苦労だった。そうまでして階級を維持しているのは、中学生の62kg級では選手層が薄く、彼女の闘志を掻き立てる対手がいなかったからだ。高等部にあがったらすぐに階級をあげるつもりでいる。辛い減量も夏の大会が最後だ。
更子はいつもの癖でへその穴をダブルクリックしてからスパッツを穿いた。スポーツブラとラッシュガードを身に着けて、次に、いつもならば道衣に袖を通すところを、この日は先にグローブを嵌め、手首のベルクロをきつく締める。
甲側に黒のメッシュ素材、掌側には真紅の子牛革を使ったそのグローブを、由香が目ざとくも見つけた。
「あっ、新しいの買ったの?」
「へへ~、いいでしょ」
更子は目の前で何度も拳を握っては開いてみせた。
「MEKATAの新作だよね。雑誌に載ってたやつだ。いいなあ」
「ちょっと派手すぎんじゃないの?」
かくいう聡子はファビオ・バイアーノと彼の道場ブラックスター・ケンジュツ・アカデミーの大きなパッチがついたMEKATA社製の派手な道衣を着ていた。MEKATAはブラジルの剣術用具ブランドで、バイアーノをはじめ、多くの人気プロ剣術家をサポートしている。
由香が更子の手を取り、掌の底を親指で押した。
「パッドがかなり厚いんだね」
「私のローミラーにはこれくらいがいいんですよ」
「あれ、柄が細いもんね」
由香は更子のロッカーに立てかけられた刀に目をやった。
スミヨシ・ローミラー2006年型は、グリップの剛性にこだわってきたスミヨシ社がはじめて発表したスリムグリップモデルだった。鞘もグリップと同じマットブラックでまとめられており、ヒヨシのリリースするカジュアルラインのような外見をしている。だが一度抜いてみれば、その中にスミヨシ伝統のきつく反った刃が隠されていることがわかる。
このモデルは商業的にヒヨシのスリム系にもツモリのスムーススカバードシリーズにも太刀打ちできず、スミヨシの失敗作という烙印を捺されてしまったのだが、更子はポリマー素材のグリップを握った瞬間にわかる重心の近さと切先の軽さを気に入っていつも身に帯びていた。
更衣室の引き戸が開き、他の女子門下生たちが入ってきた。更子はおしゃべりをやめて道衣を着た。鏡を見ながら髪をひっつめ、低い位置で結う。
背負ってきた大きな鞄から整刀流青少年部指定のクマノ社製防刃総具足を取り出す。
彼女はこれが好きになれない。
全員揃いのグレーというのは派手好みの彼女に合わないし、何より気に食わないのが左胸に白でペイントされた一本の横線――初段の印だ。
我が剣は二段以上の者にも遅れを取ろうはずがない、と彼女は考えていた。春の全国トーナメントでは全試合ノックアウトと一本で優勝したし、中1の夏季大会以来、公式戦で一度も敗れていない。その自分がろくに真剣で切り結んだこともない他の初段と同じに見られるのは耐えがたかった。
しかしいくら道場で一目置かれていても、剣術段位は国の制度だ。法で定められた年齢に達していなければ昇段試験も受けられない。
「国民は刀剣を所有し、携帯する権利を持つ」と日本国憲法には明記されている。それはすばらしいことだと更子は思う。「苗字帯刀」が許されなかった時代よりはるかにいい。平等の精神は重んじられるべきだ。
だが自分の力は認めてもらいたい――努力して身につけたこの力は。
彼女は装着した胴を平手でひとつ叩き、股当に挟まった道衣をひっぱり出した。ローミラーをひっつかみ、栗形をソードベルトの鳩目に差しこんでさげる。
鏡をのぞくと、戦う顔、人を斬る顔が映っていた。
ポリカーボネートの面を手に提げ、叩きつけるようにロッカーの戸を閉じると、彼女は大袈裟に肩を揺らして道場へ向かった。
●
システムアーマーを装備した門下生たちがウォーミングアップをはじめると、狭い道場内は裸足の床にこすれる音で満たされた。その面積は競技剣術の試合場ひとつ分よりも小さいほどだった。形稽古を行うなら3組がせいぜいだ。そこに20人ほどの門下生が詰めこまれている。
稽古中は剣を振るより他人の太刀筋を観察するのが長くなる。そこから多くを学ばなければならない。剣術は人に人を伝えるものだというのが当真整刀流の伝統的な考えだった。
そんな中で更子は道場の中央に陣取り、悠然と柔軟体操を行っていた。先輩たちが避けて通るのにもお構いなしだ。むしろ彼女の方が周囲の騒音と床の振動を迷惑がっていた。
武蔵坂上の自宅から道場のある坂下まで駆け足で来たので、体は充分に温まっていた。走るはめになったのは家での昼寝が長すぎたせいなのだが、彼女はそれに対して反省などしない。
「強い獣ほどよく眠る」というのが野生動物専門チャンネル「ワイルドプラネット」を毎日欠かさず視聴して会得した彼女なりの真理だった。
「強い獣ほど毛深い」という真理にも開眼し、試みに無駄毛の処理をあえて怠ってもみたが、こちらは冬の終わりとともに何となくやめてしまっていた。
彼女は滑らかな我が肌を愛していた。自由に曲がる関節としなやかで強い筋肉を愛していた。大きすぎる胸とやや派手すぎる顔――どのパーツが悪いということもなかったが、父のいう「更子は世界一かわいい女の子」ということばは信じなくなっていた――はともかくとして、全体として充分満ち足りた体だと思っていた。
股割りに邪魔なローミラーはベルトからはずして床に置いてあった。グリップに軽く手を添えて備えの心は示している。
刀は危険な道具で、それを持つ者は重い責任を負うことになるが、だからといって必要以上に怖がり、使わずにいるのは愚かだ。
成年部に所属する三人の助教士たちが道場にやってきた。
今日の対手が姿を現したことで、青年部の者たちの間に緊張が走った。更子は意にも介さず、風を起こさんばかりに強く息を吐いた。当真達雄が道場の戸を潜ったとき、更子は股を割ったまま胸と腹とを床のマットにつけていた。
当真達雄――剣術六段。当真整刀流第16代宗家。日本剣術協会理事。警視庁特別抜刀隊撃剣技術顧問。
世に知られる肩書きは仰々しいが、4歳から道場に通う更子にとっては、いまでもただの「若先生」だった。
彼女が入門した当時、先代がまだ元気に道場に出ていて、当真達雄は師範代として父の指導をサポートしていた。そして道場の隅にはいつも当真大介が行儀よく座り、門人たちの稽古を眺めていた。幼年部時代の更子に感銘を与えたのは、「喧嘩剣術」の異名をとる当流の荒々しい地稽古でなく、その稽古をまばたきもせず見つめる同い年の少年のひたむきな瞳だった。
門弟たちの汗と体熱で蒸れた空気に清い風が吹きこんだ。
具足姿の彼らにはばかるようにゆっくりと戸を開けて、当真大介が道場に入ってきた。母屋にも帰らず直接ここに来たらしく、制服を着たままで鞄もおろしていない。助教士と話していた宗家が気遣うような視線を息子に送った。
更子は上体を起こし、頬杖を突いた。
「おっそーい遅い遅い」
彼女の大きな声は道場内に余韻を残した。他の門下生たちは動きを止め、口をつぐんで、宗家とその一人息子の顔色をうかがっていた。
大介は金属製の杖を突き、空いた手を壁に当ててマットの上を歩く。右脚の自由は幼い頃の事故で失われていた。
彼は区の境を跨いで内藤区の私立中学に電車で通っている。最寄りの武蔵駅から朱雀通りを歩いて帰宅するのに40分はかかったろう。
更子はそうした事情を承知で彼をなじっていた。それは剣を振れぬ身でありながら稽古に欠かさず顔を出す大介への感謝の裏返しだった。彼に剣技を見せることが更子の稽古に対する動機ともなっていた。
「ごめんごめん」
大介は彼女に笑いかけ、肩にかけていた鞄を床に置いた。助教士の運んできた椅子に腰をおろし、杖を壁に立てかける。
更子は唇を尖らせて大介をにらみつけた。彼は笑顔を浮かべながら、もう勘弁してくれというように両の掌を彼女に向けた。
助教士から集合の号令がかかり、門弟たちは宗家と向き合って正座した。ボディアーマーと小手のみを着けた宗家は居並ぶ弟子たちの顔を眺め渡す。
「今日の夜稽古には真剣を用いる。形は表一の太刀及び二の太刀。みな、臆せず逸らずかかるように」
師弟ともに手を床に突き、礼を交わす。
青年部の者たちが壁際に移ると、総具足を装備した三人の助教士が間を隔てて立った。それぞれに抜刀し、周囲の門弟たちを見渡す。透明のフェイスガード越しに、試すような挑むような目を作る。
やがてそれぞれ一人ずつを指名した。呼ばれた者は、おうと喚いて進み出る。三対の白刃が鋭く光る。
打太刀を務める助教士が発声を契機に間合いを詰め、正面を打つ。対する仕太刀がそれを受け、刃を接したまま互いに攻め合う。形稽古とはいえ、対手に油断があればすかさず打ちこむべしと定められている。仕太刀・打太刀とも静かながら激しく競り合う。
周囲から声が飛ぶ。ここで気勢を見せつけねばいつまでたっても次の対手に指名されない。
「呼吸呼吸」
「さげるな。対手の眼につけろ」
「腕縮んでるよ」
床を踏み、手を叩き、同輩を叱咤する。
それに反発するかのごとく、仕太刀は対手の剣を払う。
打太刀は構わず小手を打ってくる。その太刀筋に合わせて仕太刀は迷わず斬り落とす。過たず正中を通過した刀がその鎬で対手のそれを弾き、小手をとらえる。
小さな動きだったが、速さと正確さの問われる攻防だった。勝たせてもらえるのがわかっているとはいえ、真剣で二度まで打ちかかられる仕太刀の心は穏やかでない。寸止めのまま、残心か、はたまた仕損ぜずに済んだという安堵ゆえか、剣をしばし留めていた。
宗家は斬り結ぶ三組の間を縫うように歩いてまわった。飛び交う刃に恐れ気もない。
彼自身は刀を佩かず、ベルトのホルスターに折りたたみ剣を差している。ツモリのチェスカSだ。
彼は仕太刀の脇に立ち、手取り足取り、動きに修正を加える。上位者の顔を立てる意味で打太刀に注文はつけない。だが助教士も宗家のことばにじっと耳を傾けていた。
十度二十度と打ち合う内に仕太刀は疲れ果てた。正面の攻めに力がなくなったと見るや、助教士は対手の体をアームガードでぐいと突き放し、退がるよう命じた。
目の前の者に交代が告げられるのを聞いて、更子は割れんばかりの声をあげた。助教士の目が彼女の上に留まった。
「忌井更子」
名前を呼ばれた歓びのあまり、ことばにならぬ叫びを散らしながら、彼女は壁際を離れて助教士に相対した。対手に礼をするのももどかしく、鯉口を切り抜刀するや、気合いとともに押して出る。
対手の正面打ちを受け止める。社会人の四段だけあって重い一撃だった。
彼女は太刀の表で押していたが、意を決して手の内を固めると、一足踏みこんだ。フェイスガードの向こうで対手が顔色を変えた。応じて押し返してくる。だがこのとき更子の鼻には次の太刀筋が甘く香っていた。
「攻めろ、更子」
宗家の声が飛んだ。
形を破れといっている。
更子は手首を返した。対手のブレードは彼女の刀の反りに滑って逸れた。すばやく切り返し、裂帛の気合いととも面打ちを放つ。
彼女の剣は対手のフェイスガードに影を落として止まった。ぐっといううめき声が聞こえた。
宗家の掌が脇から彼女のアームガードをそっと持ちあげる。
「いまの流れなら先に小手裏でもよかった。その方が早い。そこから面につなげる」
更子は宗家の導く太刀筋に見とれた。助教士はブレードをアームガードの泣き所に当てられながら強くうなずいた。
次の一本に移るに当たって更子は対手から目を逸らし、打ってこいとばかりに背中を見せて元の位置に帰った。隅に目をやると、椅子に座った大介が腕を組み、上目がちにこちらを見ていた。彼の満足しているときによく取る姿勢だった。
彼女はその後、まったくの形通りに動いた。
形破りはもともとあまり好きではない。むしろ競技剣術の試合ではなかなか味わえぬ、後の先を取る妙味を楽しんだ。
交代を命じられたときには口が開き、フェイスガードは汗に曇っていたが、気力はかえって充実していた。
他の仕太刀はすでにみな入れ替わっていた。刀を納め、礼をしてもどる段になっても彼女の気は抜けず、代わって入る者の尻を叩き、道場の壁を二度三度と拳で打った。それでも剣を振るう手の内の感触が去らない。
大介を見ると、手振りで落ち着けといってきていた。更子はフェイスガードの内でにんまりと笑った。
●
二の太刀に移ろうかという頃、道場の戸が静かに開き、宗家を呼ぶ声がした。道場事務員の姿がかいま見えた。
「当真先生――」
真剣稽古の最中なので彼女は道場に踏み入らない。宗家は門弟に納刀を命じておき、戸口へ向かった。
事務員の敷居越しに囁くことばで宗家の顔がわずかに歪んだ。彼は休憩を命じて道場から出ていった。
門下生たちは、抜刀中には脱ぐことの許されないフェイスガードをはずし、一息吐く。稽古開始から覆われたままだった彼らの髪は汗に濡れていた。
更子はアームガードとグローブもはずし、髪を結い直した。汗が拭っても拭っても目に流れこむ。胸が早鐘を打つのは稽古の疲れのためばかりではなかった。暗い戸外に忍ぶように出ていった宗家の背中にただならぬものを感じたのだ。
「先生どうしたんだろうな」
高三の赤松務が誰にともなくいう。彼は両手で刀をかばいながら壁に寄りかかっていた。
更子は壁から離れ、腰を割っていた。彼女の目は、面も取ろうとせず所在なげに立ち尽くす対手の六人から、大介の上へと移った。彼は床に突いた杖に両手を預け、父の去ったあとを見据えていた。
外からもどってきた宗家は集合をかけた。道場中央に立っていた弟子たちもフェイスガードを脱ぎ、師のもとに参じた。時計がないので正確にはわからないが、稽古がはじまってから一時間ほどしかたっていないはずだと更子は考えた。
正座した宗家は稽古開始のときと同じように門下生たちをひとわたり眺めた。いつはずしたのか、彼の腕には防具がなかった。
「いま警察から電話があった。青年部の結城智弘が何者かに斬られたそうだ」
そのことばに門下生たちは息を呑んだ。更子は流れ落ちる汗を逆に伝って悪寒が這いのぼるのを感じた。
助教士の一人が膝に置いていた手をはずして床に突いた。
「先生、彼の傷は?」
問われて宗家は首を横に振った。
「病院に運ばれたが、助からなかった」
彼は駄目を押すようにことばを接いだ。「手遅れだった」
前のめりになった助教士は呆けたように視線を床に漂わせた。
結城智弘は高校二年で剣術二段だ。剣の腕は当流の中で群を抜くわけではなかったが、稽古熱心なのは誰もが認めるところだった。彼は剣を愛していた。少年部時代に更子は彼と何度も地稽古で対手になった。立っても組み伏せられても粘り強い選手だった。
彼が斬られ、斃れたなど更子には信じられなかった。
「今日の稽古はここまでとする。みんな、念のため成年部の先生たちの車で家まで送ってもらいなさい。掃除は、今日はしなくてよろしい」
こころもち顎をあげて発する宗家のことばは、門弟たちの向こうの壁に当たって響いた。
息切れと啜り泣きの声が重なった。
河合聡子が手で顔を覆い、床に突っ伏していた。
「さあ、帰りの支度をしなさい」
そう声をかけられて礼をする者も立つ者もなかった。
「通り魔か何かでしょうか」
赤松が押し殺した声で尋ねた。
宗家は稽古で潰れた声をさらにかすれさせた。
「刀を盗られたようだ」
「刀を……?」
師に楯突くようなことばが更子の口を衝いて出た。「結城先輩が刀を盗られた?」
「ああ、そうだ」
宗家は深く息を吐いた。「それを狙われて、おそらく不意を突かれたのだろう」
更子はフェイスガードを手に、跳ねるように立った。
刀を構える結城智弘の姿がいまも目に焼きついていた。自慢の一振――KNOLLINK社のワシリー。限定モデル。革を張ったカスタムスカバード。
彼はあのとき刀に命を預けていた。
それを盗られたというのなら、彼は二度殺されたも同じことだ。
ことばの代わりにフェイスガードを床に叩きつけ、蹴飛ばした。フェイスガードは同輩たちの頭を越え、壁に当たって転がった。
ローミラーのセーフティに手をかけ、戸口へと駆け出す。背後の声には耳も貸さない。
道場の外に出ると、彼女は右手でグリップを反時計回りに約10度捻りこんだ。左手でスカバードを握り、親指でセーフティレバーを押して、ブレードを開放する。スカバード内部のイジェクティングスライドが抜刀をアシストする。ベルト側のオペレーティングジョイントが後退しながら回転する瞬間に、肘と手首をしならせて一息に抜きつける。
左手を柄頭近くに添えると、もう意中の構えだった。
武蔵区の明るい夜空に那羅延樹が大きな影となって浮かびあがっていた。まわりの木々がざわめくのに調子も合わせず、静かに立っている。
上段に振りかぶった更子は地に膝のつくまで斬りさげ、返す刀で逆袈裟に斬りあげた。
裸足のまま草を踏みしだき、闇を薙いだ。
結城智弘は殺され、自慢の刀は奪われた。彼の磨いた剣は働かず、敵の凶刃が彼を襲った。
どうしてなのか。
剣の天狗は答えなかった。
更子は刀を頭上に振りあげも切らず、体に巻いて斬りつけた。どこを狙うということもなく、ただ刃を放つ。
「更子――」
彼女の振る舞いを咎めるのは、いつもの、稽古でしわがれた声ではなかった。
「更子、刀を納めるんだ」
大介のみずみずしく張った声が更子の背後から近づいてきていた。杖に頼る弱い足の草に擦れるのが聞こえた。更子の振り乱す切先を大介は恐れなかった。彼女はそれを知っていた。
彼女は振り返り、見えない血を振って納刀した。大介は眼前に立っていた。
木々のざわめきに誘い出されたように憎しみが口から噴き出た。
「大介、私は斬るよ。犯人を斬って、先輩の刀を取りもどす。いまは貸してるだけ。大きな貸し。どんだけ大きいか、そいつにわからせてやる。そのときになって、盗まなきゃよかった斬らなきゃよかったっていい出しても、もう遅いからね。たとえ死ぬほど反省してようが、私は斬る」
大介の空いた手が更子の袖に触れた。
「斬れ、更子。この貸しは命でも払えない」
更子はうなずいた。
彼の手は軽かった。泣いている、と更子は思った。




