痛み
人間、土壇場になると本性が顕れる。
富田はビビった。味方がめった斬りにされるのを目の当たりにして完全にビビった。刀を捨ててその場にうずくまってしまった。
バカだ。こっちが刀を捨てても対手は捨ててくれないのに。
波止野はよく戦った。「蟻」の幹部についていって敵中に血路を開いた。返り血にまみれてもどってきた彼は富田の刀を拾いあげた。
「タク、どうした。しっかり持ってろ」
すぐそばで斬り合いが続いているというのに、彼は自分の刀を納め、富田に刀を持たせてやった。グリップに置く指の1本1本まで導いてやっている。
何て余裕だ。
「よし、もう落とすんじゃねえぞ。もうすこしで終わるからよ、それまでがんばれ。な?」
顔をのぞきこまれて富田はうなずく。波止野は抜刀し、ふたたび戦いの中に帰っていく。
彼は胆が据わっている。一人前の剣士だ。
それにくらべて自分はどうだ。
霧哉は右肩のうしろを刺されて、ガラス戸に寄りかかっていた。
俺はバカだ。世界一のバカだ。油断してた。理屈の上では斬られるはずがないからって、完全に油断してた。俺以上のバカ――宇宙一の大バカ野郎が対手方にいる可能性を頭に置いていなかった。
レジ前のお菓子やおもちゃが並ぶ棚の隙間から刀で突いてきたバカ野郎。そいつのせいで傷を負わされた。どうしようもないバカだ。この紫のバンダナが目に入らないとは。斬り合いの最中に対手を見定めることは一番重要なことだというのに。
せっかくここに来る前に写真を送っておいたのに、どうしてちゃんと見分けられないのか。「紫のバンダナをしている4人は斬るな」というメッセージがうまく伝わらなかったのか。
組織とはこういうものなのか、と霧哉は思う。リーダーがどんなに立派でも、末端にはバカが交じってしまう。
「蟻」のリーダー・佐々木判官はたいした奴だ。
この混戦の中で刀を抜かずに立ちまわっている。仲間の中を縫うように歩いて、崩れた戦線を何とか立て直した。背はそれほど高くないが、とにかく声がでかい。「蟻」たちを叱咤激励し、剣を振る手を休ませなかった。頼もしい奴だ。彼は忌井更子の呼びかけに応える形で一方向に攻撃を集中させ、逆に対手を挟撃した。
「ピンプ」の連中は浮き足立った。
襲撃の時間・場所・人数まで教えてやったというのに。情けない奴らだ。いや、逆にそうした情報が彼らの戦いを消極的なものにしてしまったのかもしれない。
俺のせいなのか――霧哉は床に転がる死骸を跨いで歩く。
勝負の行方は決した。
「ピンプ」は虫の息だ。「蟻」も多くを討たせたが、主力は多く残っている。
俺がやったのか。
霧哉が「蟻」の攻撃計画を「ピンプ」に漏らした時点で、総力戦になることは決まっていた。「ピンプ」が勝つ方に彼は賭けていた。「蟻」も忌井更子も滅んで、彼と3人の仲間だけが生き残るはずだった。
それがどうだ。
死体というのはどれも同じだな、と霧哉は思う。いつ見ても、どこに転がってても、いくつあっても、そう変わりはない。
テーブルに突っ伏して事切れている3人の男は三つ子の兄弟といわれても信じてしまいそうなほど似ている。床に撒き散らされた血も、落ちている指も、折れた刀も、みんな無個性だ。
俺もきっとこんな感じで死ぬ。次はない。靴底が血で粘る。カーペットが一足踏むごとに赤く潤む。踏みつぶされたとうもろこしとブロッコリーが床の上に凄惨な星座を描き出している。
勝ち負けでいうと死人たちは負けだ。俺はどうかというと、生きてはいるが勝ってはいない。
そこのところが分岐する地点まで届いていなかった。戦いにのめりこんでいなかった。
まだ引き返せる。殺るか殺られるかじゃない、ふつうに生きることのできる世界にもどる途が、俺にはある。
多々良浜冥沙。
そこにいてくれる人。
勝たなくても、リーダーじゃなくても、刀がなくても、仲間がいなくても、いっしょに生きててくれる人。
帰ろう。あの人のところに帰ろう。あの人さえいればいい。生きてる内にそのことに気づいた。このままじゃ死ぬってときに悟れた。俺はラッキーだ。
海田谷通りに面した一隅で、火を散らして斬り合う者たちがいる。
金谷修理大夫に忌井更子、そしてカズサ。
霧哉は2日前、金谷修理大夫と顔を合わせていた。直接会って計画のことを伝えた――「蟻」を売る。忌井更子を差し出す。
金谷修理大夫は「佐々木判官に殺された弟の仇を取りたい」といっていた。
よくきいてみれば彼の弟というのが「蟻」のメンバーで、取引のカネをちょろまかして斬られたのだという。
自業自得だと霧哉は思った――クソの中にテメーで蠅みたいに飛びこんでおいて臭せえ臭せえと文句を垂れるなんて虫がよすぎるぜ。
「見ろよ、あれ。スゲーな」
波止野が刀から血を垂らしながら近づいてきた。霧哉は汗を吸って重くなったバンダナを顔からひっぺがした。
「ああ、あいつはスゲーよ」
カズサは金谷修理大夫に正面切って立ち向かい、互角に渡り合っていた。手数ではカズサの方が上だ。
だが対手もさるもの、充分に防ぎながら、致命的な打ちこみを返してくる。それを更子が代わって受ける。
カズサと更子のコンビネーションはすばらしかった。
剣を持って2人でかかるとなると、互いの間合いが重なり、かえってやりにくくなるものだが、あの2人はきちんと2人分の仕事をしている。1+1がちょうど2になっている。
生き残った「蟻」の連中も、仲間を介抱している「ピンプ」の奴らも、3人の立ちまわりに目を奪われている。パーテーションをぶち破り、テーブルを叩き割り、椅子を切り裂いて、彼らは攻め戦った。
更子が跳び退き、
「ちょっと休憩」
といってその場を離れた。カズサは対手との間合いをひろげて構えを軽くした。
更子はドリンクバーに行って水の入ったポットを取った。戦いの場にもどりながら口をゆすぐ。注ぎ口から水がどっと出て顔にかかる。手でこすって返り血を洗い流す。次に口をつけてぐっと飲む。刀の切先を床に突き、スニーカーの底で押してブレードの歪みを直す。
「カズサ、あなたも飲みなよ」
呼ばれたカズサは対手とつけ合っていた剣をふと離し、ポットを受け取った。水を口に含み、霧のように吹いて木のグリップを湿らせる。間合いなので対手は当然打ちこんでくる。そこを更子が斬り塞ぐ。
「オレンジジュースがよかった」
「贅沢いわないの」
カズサは対手に背を向けて水を飲み、バンダナで口を拭う。
あいつらイカレてる。死ぬのが怖くないのか。イッちまってる。霧哉は椅子に腰をおろし、テーブルに肘を突く。
「霧哉、肩だいじょうぶか?」
波止野にきかれて霧哉はおざなりにうなずく。あの戦いを目の前にして、このかすり傷のことをいい立てるのが恥ずかしかった。
「佐々木判官、来いやァ」
金谷修理大夫は更子の小手打ちを抜いておいて呼ばわった。「下っ端にやらせてねえでよォ、テメーで来いやァ」
店の奥から佐々木判官が出てきた。左足を引きずっている。白いスニーカーの甲が割れて赤い肉が見えていた。
「ご指名なら仕方ねえなあオイ」
彼はチェスカを抜いた。ブレードバックが凸凹にカットされている。コムバック加工だ。富田の部屋の原寸大ポスターより長く見える。中子にエクステンションを噛ませてあるのかもしれない。
佐々木判官の姿を見てカズサと更子は退いた。
彼は小刻みなステップを踏んで体を揺らしながら対手に接近していった。汗と血に濡れた長い髪が首筋に張りついている。
金谷修理大夫は中段に取り、軽く腰を割った。
攻めの気勢は見えない。後足を外側に開いている。落ち着きのある構えだ。もともと頑丈そうな体をしている上に、あの安定した立ち方――寄せ手が強く出たところで、退きも崩れもしないだろう。むしろこちらから攻めればやすやすと受けられて一刀のもとに斬り伏せられる公算が大きい。
片や佐々木判官は無構えよりも無防備に刀を垂らし、腋を空けて腕を自由にしている。重心を左右に移し、軽く跳びながら、機をうかがう。
不用意とも思える一足を佐々木判官の方が寄せた。すかさず金谷修理大夫は打ちこんだ。小さな振りかぶりから渾身の面打ち。
佐々木判官が身を屈める。
剣の軌道が交わった。
佐々木判官は対手の斬撃を斬り落とした。ブレードサイドで対手の剣を弾きとばし、そのまま手の内をとらえた。金谷修理大夫の刀が右に流れた。
彼の左手は赤く潰れていた。
「ちいっと浅かったかな」
佐々木判官は右手を左腋の下にあてがった。左腕を伝って血がはたはたと落ちる。
相打ち――だが佐々木判官は腕に傷を負いながらもその手に刀を保持している。金谷修理大夫の左手は利かない。彼は崩れかかる上体を膝に当てた前腕で何とか支えていた。
彼の背後でガラスが砕けた。椅子が窓に突き刺さっていた。
「こっちだ。逃げよう」
「ピンプ」たちは割れ残ったガラスを蹴破り、穴をひろげた。金谷修理大夫は身を翻し、遁走した。駐車場に停めてあった左ハンドルのセダンに乗りこむ。
佐々木判官は追わなかった。
「おい、そこの新入り」
彼は左腕を挙げてカズサを指差した。上腕部に深い傷がある。
「あいつ斬ってこい。そしたら坂上を半分やる」
それを聞いて霧哉は立ちあがった。
「いいですね。前から欲しかったんだ」
そういって佐々木判官の傍らを通り過ぎ、カズサと更子に歩み寄った。傷が痛んだ。
生きて帰るにはあいつの首が必要だ――金谷修理大夫。死に損ないのクソ野郎。
あいつは俺を知っている。「蟻」を売ったことをバラされちゃまずい。
口を塞ぐ。その力はある。
「あら、生きてたの」
更子は返り血で濡れた顔に笑みを浮かべた。
カズサは冷静な表情を変えなかった。
「霧哉、だいじょうぶか」
「ああ。ブー太郎に車出させよう」
霧哉は彼の背中を叩いた。
よく生きていてくれた――心からそう思った。
波止野が隣に立つ。
「行こうぜ。『ピンプ』の奴らァ皆殺しだ」
霧哉は振り返って富田を見た。彼は浮かない顔をしていた。
すっかり荒らされた店内を見渡す。奥のパーテーションの向こうに手足を縛られ目も口もテープで塞がれた店員と客が転がっていた。芋虫みたいにもぞもぞ動いている。
あ~あ、まるでちょっと前の俺を見てるみたいだ。霧哉は乾いた笑い声を立てた。傷がまた痛んだ。
●
更子はタクシー強盗のようだった。
「出~せ~。出せってホラァ」
彼女は車の窓に上体を突っこんで、運転席に座るブー太郎の胸倉をつかんでいた。ブー太郎はハンドルにかじりついて抵抗する。
「嫌だ。俺もう嫌だ。無茶苦茶だ。あんたら無茶苦茶だよ」
霧哉は振り返って背後を見た。店の窓ガラスに血が跳ねて黒くまだらになっていた。ブー太郎の奴、あの流血沙汰を特等席で観ちまったんだ。ビビるのも無理はない。
更子は舌打ちした。
「もういい。こいつは切ろう」
彼女はブー太郎の髪をつかみ、顔をハンドルに叩きつけた。クラクションが短く鳴った。内側からロックをはずし、ドアを引き開ける。
カズサがブレードバックに手を添え、ブー太郎の体に覆いかぶさった。ぶつりぶつりとシートベルトを断ち切って、ぐったりしているブー太郎の大きな体を引きずり出す。
更子が車に乗りこんでハンドルを握った。
「乗って。追うよ」
カズサは剣を折りたたみ、スライドドアを潜った。
「スゲー先輩、運転もできるんですか」
波止野がカズサに続いて乗りこみ、媚びた口調でいう。
「まあね」
更子はドアを勢いよく閉めた。「あなたたちは? いっしょに来るの? 来ないの?」
霧哉は富田と顔を見合わせた。
「タク、おまえどうするよ」
「霧哉が行くなら行くけど……」
霧哉はポケットをさぐり、煙草を取り出した。
「行くしかねえだろ、こうなったら」
そういって煙草に火を点けている間に、富田は駆けていき、仲間たちと並んで座った。必然的に霧哉は助手席送りとなった。
「本当に運転できるんですか?」
霧哉はドアを閉め、窓の外に灰を落とした。
更子は答えない。かすれたエンジン音とともに車内の空気が震える。ヘッドライトがアスファルトを照らす。
更子はアクセルを踏みこんだ。
急激な加速で、霧哉の体はシートに押しつけられた。煙草の火を消すよりもシートベルトが先だと本能で悟った。金具を噛ませ、煙草を窓の外に放る。風が痛いほどに強く吹きこむ。
「あいつらどっち行った?」
「左ッス」
海田谷通りに飛び出した車は交差点へと向かう。
「おい、ブレーキッ。速すぎるッ。曲がれねえッ」
霧哉は叫んだ。彼の乗る車はまわりの車を追い越して交差点へ突っこんでいく。
「曲がる。曲げるッ」
更子は体を傾け、ハンドルを切った。
横滑りした車はけたたましい音を立ててスピンし、対向車線に侵入する。霧哉の視界も横滑りして東西南北の四方を一瞬にして巡った。
「ウオーッ、先輩マジすげえ」
「まわったァ」
後列シートは大騒ぎしている。更子は口を大きく開けて笑った。
「見たか、『GTV5』実績全解除の腕前ッ」
「いいから車線もどせよッ」
霧哉は窓の上のアシストグリップをつかんで怒鳴った。
対向車をかわし、赤信号を無視し、横から来る車にクラクションを浴びせられながら、更子は分離帯の切れ目に突入し、左車線に移った。
「先輩、見えたッス。あそこッス」
「よっしゃ、飛ばすよ」
更子は頭をシートのヘッドレストに押しつけ、車をいっそう加速させる。雨と降るクラクションを撥ね飛ばして疾走する。
と、なぜかきょろきょろと目を左右に走らせはじめた。
「あっ、ゲームとちがって左車線なのね。これは慣れるのに時間がかかりそうだ」
吐き気がこみあげてきた。霧哉は窓の外に顔を出して、口を開いた。息が妙に鉄臭かった。あの斬り合いで口の中に何か入ったのだろうか。
唾を溜めてプッと吐く。風に吹きもどされてTシャツの襟に飛び散った。
「車酔い?」
更子がいう。
「そうなんスよ。こいつ、むかしからなんスよ」
波止野が鼻にかかった声を出す。
「あっ、80km/h超えた。出るか100km/h」
富田が背もたれの間から身を乗り出す。
「タク、悪りィ。着いたら起こして。俺、超眠みィ」
うしろでカズサが横になる。
車内の会話が霧哉には遠く聞こえた。早くここから離れないと本当にヤバイことになると思った。
●
切岸町の入り組んだ狭い道は霧哉にとってありがたかった。車の速度がこれ以上あがるのを制限してくれたからだ。
古い家が多かったのは更子にとって好都合だった。もろくなった塀を粉砕して進むことができたからだ。
金谷修理大夫の乗る車を追いかけて、更子は車を切岸団地に乗り入れた。団地内の私道で不意に追跡対象が消えたと思いきや自転車置き場の陰に隠れただけだったのだが、彼女はそれに気づかず突っこんでしまった。
何とかハンドルは切ったが、スリップが止まらない。
自転車が風に舞う木の葉のように吹き飛ばされていく。横滑りしながら車は自転車置き場の支柱に突っこみ、荷室を半ばまで斬り裂かせた。
更子はドアに体を打ちつけた。
「痛たたた……駄目だ、ブー太郎の車。オンボロだ」
「ハハッ、オンボロとかヒデー」
後部座席でひっくり返った富田が笑った。
「カズサが来るとき乗ってたとこじゃん、これ」
波止野が車体に食いこんだ支柱を掌で叩いた。
「ああ。ブー太郎が乗ってたら危なかったな俺」
カズサは目をこすりながら車から降りた。
霧哉はドアを蹴り開け、地面にうずくまると、胃の中のものをすべてもどした。地面に手を突くと傷が痛む。
運転席のドアが開かなかったのか、更子が彼の背中を跨いで出てきた。白刃が手の内から伸びている。すでに彼女は抜刀していた。
「カズサ、私と来な。あいつら、あっちの建物の方に行った。トミタクと波止野は残ってこの子を看てやって」
彼女の手招きにカズサがうなずき、歩き出す。
「待ってくださいよ。俺ァ行けますよ」
波止野が鍔音立てて駆け出す。「タク、オメーはそこにいろ」
「嫌だよ、俺ひとりで……」
富田は心底不安そうな顔をした。
霧哉はすっかりみんなの足手まといとなっている自分に気づいた。
おかしいじゃねえか。俺のはじめた戦いだ。俺の戦争だ。俺抜きで終わらせようとはどういうことだよ。
彼は起きあがり、首のバンダナで口を拭った。絶え間なく鼻先をくすぐり続けていた臭いがぐっと濃くなる。鉄と血。酸っぱい胃液よりはよっぽどいい。
「タク、ビビってんなら帰れや」
顔をバンダナで覆った彼は富田を押し退け、更子のあとを追った。波止野が口を閉ざしたまま並んで歩く。カズサが一度振り返る。彼は霧哉の目を見て顔色ひとつ変えず向き直った。
敵の逃げこんだ先は明らかだった。隣の棟の入り口前で1本の街灯柱が頭から突っこんだ車に倒されていた。土台がめくれて木の根のようだ。
「あっちの運転も私と同レベルだね」
更子が含み笑いをしてローミラーのブレードバックで肩を叩いた。
「応援を呼ぶ」
霧哉はスマホを取り出して佐々木判官の番号をさがした。
「応援を待つのか?」
カズサがいった。問いかける相手は霧哉でなく、隣を歩く更子だった。
「向こうも援軍を呼んでるでしょ。そいつら来る前にさっさと斬っちゃって帰ろう」
「そうだな」
前を行くふたりが霧哉抜きで勝手に作戦を決めている。電話の相手はなかなか出ない。霧哉は舌打ちする。
『どうした。追いついたか?』
佐々木判官の声。
霧哉はあたりを見まわしながら答える。
「はい。いま、切岸団地です」
『よし。予備の部隊を送る。切岸団地の何号棟だ』
窓には明かり。みんなふつうに夕食時を過ごしてる。街のクズどもが殺し合っているのには見て見ぬふりだ。バーカ、オメーらも戦争なんだよ。オメーらが当たり前だと思ってるものも全部戦争になっちまうんだよ。
「ちょっと何号棟かはわかんないです。結構奥の方です。街灯にクラッシュした車が目の前にある建物です」
『わかった。待機しろ』
カズサと更子は歩きながら刀を見せ合っている。彼女のアームガードについた傷を見てカズサが何かいって笑った。
霧哉は酸っぱいげっぷをした。
「いや、俺ら行きますよ」
『焦るなよ。特攻んで死んでもボーナスは出ねえぞ』
佐々木判官が穏やかにいった。
「やりますよ。全然やれます」
霧哉は電話を切った。波止野が目を向けてくる。
「何だって?」
「加勢が来るってよ」
「待つのか?」
「いや。おいしいところは俺らがいただく」
それを聞くと、波止野はにっと笑って拳を突き出した。霧哉はそれに自分の拳を正面から打ち合わせる。傷は痛むが関係ない。
「タク、オメーも」
彼がいうと富田がふたりの拳を上から叩いた。3つの拳は同時に別れた。
●
団地は静かな谷間だった。建物の入り口は洞穴だ。
エレベーターが12階に止まっている。脇にある暗い階段を更子がのぞきこんだ。
「階段はここだけ?」
60式のロックされる音が闇に突き立った。
「霧哉、ついてきてくれ」
カズサが奥の廊下へと霧哉を誘った。霧哉は抜刀した。
刀で水平に薙げば壁を打ってしまいそうなほど狭い廊下だった。窓から差す冴えない光がドアの上に四角く影を落としている。
カズサの影がそこを横切る。右手に刀を提げ、足の運びだけを構えている。
左手で突き当たりの防火扉を指す。
カズサが扉を押し開け、霧哉が闇に切先をつける。天井の蛍光灯が明滅する。手すりの陰に土嚢が無造作に積まれてある。死体が重なっているように見えて霧哉はぎょっとした。
「階段は2つか。どうする」
カズサが扉を踵で押さえる。霧哉は上階の方に一度目をやった。
「こっちはおまえとタクで行け。さっきの階段は俺、波止野、忌井更子だ。あの女を2人でマークする。あいつは仲間じゃねえから油断できねえ」
「わかった」
カズサは小さくうなずいた。
ふたりで廊下をもどった。背後からカズサが声をかけてきた。
「その肩の傷、マジでだいじょうぶか?」
「ああ。かすり傷だ」
霧哉は肩をまわしてみせる。
「剣は使えるのか?」
「心配すんな」
霧哉は振り向きもせず、拳を後方に差し出す。カズサのグローブがこつんと当たった。
●
前を行く者が斬られたら、あとの者が間を置かず打ち返す。そのために密着して歩けと更子はいった。
彼女のうしろに霧哉がつき、殿が波止野だった。
階段をのぼりはじめて霧哉は、これは本当に前の人間が斬られるまで剣を振れないフォーメーションなのだと悟った。
更子は彼の間合いの中にいた。剣を振れば彼女に当たってしまう。浴びた血の下に浮かぶ汗を嗅ぎ取れるほどに近かった。いかめしい具足とは対照的に滑らかな肌が改めてなまめかしく映る。でかくて丸い尻が目の前で弾む。
剣を振れなくなるから壁や手すりに寄るなという彼女の指示通りに、3人は1列になって階段の中央を通り、2階へあがった。エレベーターの表示盤はまだ12階を指していた。
廊下の方に顔を出す。きしむ音がして、突き当たりの扉が開いた。カズサが顔を出し、人差し指と親指で丸を作った。更子は両腕で大きな丸印を出す。霧哉は階段側を固めていた波止野の肩を叩き、構えを解かせた。
ふたたび更子を先頭に立たせて上の階へと向かう。
途中の踊り場で彼女は足を止め、振り返った。
「ねえ、敵は何階にいると思う?」
彼女の目はまっすぐに霧哉を射ていた。
「12階じゃねえの? それか、エレベーターはひっかけで別の階にいるとか……」
霧哉の答えを彼女はどこか遠くで聞いている風だった。
「ずっと私、考えてたんだけどさ、やっぱこれ以上あなたと組むの無理だわ」
彼女はショートパンツのポケットをさぐった。「仲間を売ろうが何しようがあなたの勝手だけどね、斬り合いの最中にうしろに立たれたくはない。敵の大将とやるときには特にね」
彼女はスマホを霧哉に突きつけた。
保護ガラスにひびが入っている。
画面には4人が映っていた――紫のバンダナを巻いて肩を組むカズサ、波止野、富田、そして霧哉。出撃前の興奮を隠し切れずに、抜身の剣を掲げている。
「ファミレスで『ピンプ』の連中が持ってたの。戦いを遠巻きにして、これを見てた」
波止野が手を伸ばしてスマホを取った。
「何だこれ……さっき公園で撮ったやつじゃねえかよ……」
霧哉は更子の刀に目を走らせた。切先が彼女の脚からわずかに離れる。
「ちょっと待て。話を聞いてくれ」
左手で我が身をかばいながら、刀を持つ手に力をこめる。
斬るか?
刀を持ちあげかけたそのとき、死角から腹を殴られた。
「ぐうっ……」
不意の痛みに体を折り、壁に寄りかかる。
波止野に髪をつかまれる。
「テメー、俺らを売りやがったな。だからあいつら待ち伏せしてたんだ」
「待て……そうじゃねえ」
霧哉は一瞬、波止野を斬ろうかと考えた。だが駄目だ。波止野を斬れば、すぐうしろにいる更子が打ちこんでくる――奴の作戦通りに。
「ああ、俺は確かに『蟻』どもを売ったよ。だけどそれは奴らが『ピンプ』と共倒れになるのを狙ったからだ。街のゴミを一気に片づけるつもりだったんだよ。俺らは助かる手筈になってた。写真を送って、斬らねえようにいっておいたんだ」
霧哉は一息に話した。声が震えた。まるであのときのようだ――冥沙とともに更子に刀を突きつけられたあのとき。
いまもまた更子の切先が霧哉に向けられている。
彼女は冷たい目で見おろす。
「それで、あなたのいうそのゴミの中に私も含まれるってわけだ」
「テメーどういうことだよ。更子先輩は俺らのこと助けてくれたじゃねえか。なんでだよ。なんで俺らにもいわねえで――」
波止野の手を霧哉は払いのけた。
「一度にしゃべんな。待てって。落ち着けって」
霧哉の鼻腔に血が香る。更子と波止野の浴びた返り血。俺の流す血。
「波止野、おまえアホかよ。更子さんは死なねえよ。俺にはわかってた。そんなヤワじゃねえ。『ピンプ』が何人でかかろうと、傷ひとつつけらんねえ」
更子は冷たい目で彼を見つめていた。彼女に隙はない。彼女を味方にするのは無理だ。その選択肢はない。選ぶなら波止野だ。こいつを何とか落とす。むかしから単細胞な奴だった。泣いてでも靴を舐めてでも何をしてでも落とす。
落としたこいつを盾に更子を斬る。
俺はそれを選ぶ。
「俺はカズサに死んでもらいたかったんだ。あいつはイカレてる。もうついていけねえ。おまえの兄貴を殺ったのも、本当はあいつだ。俺じゃねえ。宏政くんもおまえの兄貴も、みんなカズサが殺った。ためらいもしねえでよォ。おまえの兄貴なんかあいつの名前呼んだんだぜ、カズサァって。それなのに――」
痛みが霧哉を貫いた。彼の腹から引き抜かれた刀が黒く染まっていた。
「黙れよクソ野郎」
血に濡れた剣が波止野の右手にあった。もう一方の手は霧哉の肩を壁に押しつけていた。
霧哉はそこから逃れるように崩れ落ちた。波止野が足を引いて、霧哉が這いつくばるための場所を空けた。
「裏切り者のクソ野郎がァ。それ以上カズサのことをいうな。テメーは何もいうな」
どちらに身を寄せれば楽になるか、霧哉にはわかっていた。階下へ頭を向ける。むかし防災訓練でいってたっけ。階段の隅っこに空気が溜まってるって。煙に巻かれたらそれを吸えって。顔を近づけ、吸ってみるが、痛みは和らがない。おかしい。頭からずるずると滑り落ちていく。まるで断崖だ。止まらない。血で濡れている。そのせいか。
階段の角をつかむ。落下が止まる。これでいい。このまま這って逃げよう。おかしい。今度は体が進まない。左手1本だからか。刀が邪魔だ。
霧哉の置いた刀は弾かれたように飛んで、彼の行くべき先に転がった。
彼の刀を蹴飛ばした更子が背中を踏みつける。
彼は動けなかった。階段の尖ったところが顔に刺さる。
「やるよ。いい?」
更子の問いに、波止野は啜り泣きで応えた。
彼女は刀で霧哉の脊髄を突き砕いた。
彼の感じた最後の痛みだった。




