襲撃
坂下の「みどり公園」はふだんなら犬も刀も自動車も入れてはいけないことになっているのだが、夜になって入り口の柵が取りはずされ、5台の車が広場に並んだ。
刀をさげたギャングたちが街から湧いて出た。「ピンプ」の親玉・金谷修理大夫を殺しに行く「蟻」の精鋭集団だ。
カズサたちは彼らから離れて出撃のときを待っていた。
富田を中心に刀の点検を行う。スカバードの抜刀機構はきちんと作動するか、折りたたみにひっかかりはないか、ロッキングピンに緩みはないか。
遅れて霧哉が姿を現した。紫のバンダナを首に巻いている。
「ちゃんと持ってきただろうな」
彼にいわれてカズサたちは尻のポケットに入れていたバンダナを出した。
「それ着けて写真撮ろうか」
彼らは霧哉を中心に肩を組んだ。お揃いのバンダナで顔を覆い、霧哉の構えるスマホに向かって刀を掲げる。
「バンダナしてたら顔が写んねえな」
霧哉にいわれて、
「ホントだ。意味ねえじゃん」
笑いながらバンダナを引きさげる。
自分たちは仲間だ、とカズサは思う。「蟻」の誰よりも強い絆で結ばれている。
この間は「蟻」のアジトを襲って、今夜は「ピンプ」と戦う。誰が対手だろうと関係ない。この街ででかい顔している奴らはみんな殺す。
フラッシュが光った。撮った写真を確認して4人は顔を見合わせた。照れくさくて、うつむいて笑う。
煙草をくわえ、火を点ける。霧哉は何やらスマホをいじりはじめた。
「何だよ。もしや彼女か?」
のぞきこもうとする波止野を霧哉は押しのけた。
「ちっげえよバーカ」
「じゃあ誰よ」
「うるせえなあ。ほっとけ」
霧哉はスマホをしまいかけたが、着信があったので画面を見る。
「おいおい、今度は電話かよ。怪しいな」
「うるせえんだよ。あっち行ってろ」
霧哉は波止野に向かって手で追い払う仕草をしてから電話に出た。「もしもし? うん。ああ、いまから――」
遠ざかっていく彼の背中を見送りながら波止野は舌打ちをした。
「聞いてねえぞ彼女なんてよォ。カズサ、おまえ知ってた?」
「いや、知らねえ」
カズサは彼の浮かべる必死の形相に思わず笑ってしまった。
波止野が富田の肩を揺さぶる。
「おいタク、おまえ電話のそばで『チンコ』って叫んでこい」
「あァ? なんでだよ」
「いいから行けって」
富田が波止野の手を払いのけ、いつものつかみ合いがはじまった。
「あなたたち、相変わらず仲いいねえ」
女の声がした。波止野が富田を突きのけ、媚びを含んだ声をあげる。
「更子先輩、チワッス」
忌井更子はショートパンツ姿だった。肌に張りつくタイトなTシャツの上にオーバーオールを上半身だけにしたようなものを着ている。真剣勝負なのに肌を出しすぎだろうとカズサは思った。
だがそこは彼女も考えてあるらしく、肩にかけた鞄からレッグガードを出して着けた。さらにグローブを嵌め、その上にアームガードを装着する。
「スゲー、かっこいい。防刃ですか?」
富田が羨望の眼差しを具足に向けている。波止野は別の眼差しを別の部分に向けている。大きなおっぱいと剥き出しの太腿。
波止野はすっかり忌井更子の犬になって尻尾を振っている。
「先輩、霧哉の奴、学校に彼女いるみたいなんですけど――」
「ああ……あの子かな」
「知ってるんですか?」
「まあ、知ってるというか――」
「うわあ、マジでいるのか。ショックだなあ。あいつ俺らにも秘密にしてたんスよ。それってひどすぎですよね~」
カズサは煙を吐いて、彼らに背を向ける。
何が先輩だ。あんな奴、先輩でも何でもない。
公園の入り口に歩いていき、低い石垣に腰かけた。
忌井更子のことが気に食わなかった。
他人の間合いにずかずか踏みこんでくる。無神経な女だ。
競技剣術ではすごい選手らしいが、殺し合いならこっちの方が上だという自負がある。
霧哉は彼女の腕を買いかぶっている。戦争のひとつやふたつ、自分たちだけで充分やれるのに。
カズサの前を自転車に乗った女子たちが通りすぎる。自動車のよりずっと頼りないライトが滑るように行く。彼は携帯灰皿で煙草を揉み消し、新たな1本をくわえた。
「三上くん?」
名前を呼ばれて、ライターの蓋を閉じた。
浅海六郎悠理が自転車に跨ったままこちらを見ていた。
私服を着ているせいでいつもと雰囲気がちがった。なぜだか背が小さく見える。
「よう。何やってんの」
カズサは口の煙草を箱にもどした。
「私は塾行くとこだけど――」
彼女は公園の中に目をやった。「何これ。集会?」
「戦争だってさ」
彼はわざと他人事めかしていった。車のまわりにたむろしている連中の仲間だと思われたくなかった。
あいつらは仲間でも何でもない。仲間はあの3人だけだ。
「センソウ?」
「ああ。坂上に行ってギャングどもを斬ってくる」
急に彼女をからかってやりたくなった。そういえば彼女は帯刀免許を持っているのだった。
「いっしょに来たいとかいうなよ。この前みたいに足手まといになるから」
ムキになって食ってかかってくるだろうという予想に反し、悠理は悲しげな表情を浮かべた。彼女は指で前髪を掬いあげ、耳にかけた。
「本当に戦争なの?」
「本当だよ」
彼は60式のグリップを叩いた。「これ、木刀じゃねえから」
「ねえ、そんなのやめなよ」
悠理は小さく頭を振った。「そんな……斬られたらどうするの」
「斬られねえよ。斬られねえし死なねえ」
カズサは笑った。悠理は彼をにらみつけた。
「わからないでしょ、真剣勝負なら」
「わかるよ。俺は死なない」
彼は彼女をまっすぐ見つめ返した。
「絶対?」
「絶対。賭けてもいい」
彼は腰をあげて、悠理の前に立った。彼女は紺色のナップザックを背負っていた。チェックのシャツにデニム。忌井更子の着ているものとくらべてはるかに子供っぽい。
「俺が死なない方に全財産賭ける。20万くらいあるかな。もし俺が死んだら、それをおまえにやる」
盗んだ刀と煙草を売って作ったカネ。机の一番下の引き出し。
「じゃあもし生きて帰ったら――」
悠理は目を伏せ、すこし考えこんだ。「もし生きて帰ったら、学校サボらないで毎日来ること。いい?」
「ん? それ、おかしくねえか?」
カズサは首を捻った。「俺が死んだらおまえの勝ちだろ? 俺が生きてたら俺の勝ちだから……おまえが何か寄越さなきゃ駄目じゃん。賭けにならない」
「あ、そうか」
悠理は笑った。「じゃあ何かあげるよ」
「何かって何だよ」
「うーん……三上くんが帰ってきたら考える」
「まあ、それでいいや」
カズサはため息を吐き、公園にもどろうとした。
「ちょっと待って」
悠理は背負っていたナップザックを体の前にまわした。その中をさぐって1冊のノートを取り出す。ページを1枚破り取り、しゃがみこんで何かを書きつけた。
「これ、誓約書。サインして」
「何だそれ」
「いまの賭け、ちゃんと記録しとかないと。あとで『忘れた』とかいいそうだし」
シャープペンを押しつけられてカズサは仕方なく自分の名を紙に記す。ゴチャゴチャと書いてある文面は確認しなかった。
「ほら、これでいいか?」
悠理は自分の書いた書類を見直して満足げにうなずいた。
「俺もう行くから」
カズサはポケットに手を突っこんで公園の方へと歩き出した。
「ちゃんと帰ってきてね」
背後で悠理がいう。カズサは振り返った。
「それだと俺の勝ちだけど、それでいいのか?」
「あ、そうか」
悠理は鞄を背負い直して笑った。「それじゃあ。気をつけてね」
「おまえもな」
カズサは石垣に飛び乗った。
どうして女というやつは自分たちのやることに危ないだの何だのとケチをつけたがるのだろう。本当にバカだ。
地面に飛びおりると、目の前に更子が立っていた。薄笑いを浮かべてカズサを見おろしている。彼女は彼より背が高かった。
「いまの子、彼女?」
「はァ? ちっげえよ」
カズサは慌てて煙草を取り出し、口にくわえた。「同じクラスの奴。たまたま会っただけ」
「へえ」
更子は鼻で笑った。
カズサはライターの火を点け損ねて舌打ちをした。ライターにまでからかわれている気がして腹が立つ。
「私たちの車がもうすぐ着くって」
更子のことばを聞き流し、カズサは煙草に火を点けた。
彼女は煙に顔を背けた。
「車の中で吸わないでよね。私、煙草大ッ嫌いだから」
返事の代わりにカズサは長々と煙を吐いた。
やがて車高の高いSUVが公園に入ってきた。運転席の窓が開いて、3年生の相撲取りが顔を出した。
「ようカズサ、調子どうよ」
カズサは軽く手を挙げて応えた。
「蟻」のメンバーに顔をつないでくれたのは彼だった。彼の推薦で今回の襲撃に加わることができた。その点で感謝はしていたが、白石駆流を斬ったカズサにへりくだるような態度を取ったかと思えば、ときに先輩風を吹かしたりするので、少々うっとうしくもあった。
「あれが俺らの車」
カズサがいうと更子は「ふうん」と気のない返事をした。
「更子さん、どうも」
相撲取りに呼びかけられて更子は眉間にしわを寄せた。
「え~と……どこかで会ったっけ?」
「大ちゃんから話は聞いてますよ。今日はちゃんと送り届けるよういわれてるんで」
相撲取りは車から降りて手を差し出した。「一条聖樹ッス、夜露死苦ゥ」
更子は腕を組み、握手に応じなかった。
「大ちゃんって……大介のこと?」
相撲取り改め一条はうなずいた。
「そッス。俺、大ちゃんと幼稚園がいっしょで――」
「そっか、大介の友達か……」
更子はにやりと笑って一条の肩に手を置いた。「てことは私の子分も同然じゃん。しっかりやれよ、ブー太郎」
「ブー太郎……」
相撲取りからブー太郎に出世した一条はあぜんとしていた。
カズサは思わず笑ってしまって煙でむせた。更子が彼と目を合わせてほほえんだ。
●
「ブー太郎、もっとスピード出せよ」
「ブー太郎、この車売って。5000円でどうよ」
「ブー太郎悪りィ、椅子にジュースこぼしちった」
後部座席の騒ぎを運転席の一条がバックミラー越しに見て苦い顔をした。
「更子さんがブー太郎とかいうから1年どもまで真似して……」
助手席に陣取った更子はダッシュボードをさぐりまわしていた。
「ねえブー太郎、音楽かけてよ」
一条はため息を吐き、前を行く車に従って大きくハンドルを切った。
「せっかくエンジンいじってノイズ消してるのに、音楽なんかかけたら台無しじゃないですか。この静けさが俺らのBGMなんで」
「俺らのBGMなんで」
気取った口調を波止野が真似して仲間たちを笑わせた。じゃんけんで負けてひとり荷室に座っていたカズサも笑った。
「『蟻』のトップは今日来てるの?」
更子が尋ねた。一条はカルラ坂をのぼっていく車列を顎で指し示した。
「佐々木判官くんなら先頭の方にいるんじゃないかな。あの人、こういうときには自分から突っこんでくタイプなんで」
佐々木判官という人のうわさはカズサも聞いていた。
10歳ではじめて人を殺した。チビだったが滅法強かった。彼とその仲間たちのえげつない集団戦法は「蟻が集るようだ」といわれた。
12歳のとき、当時坂下を仕切っていた組織の幹部を皆殺しにした。愛用の刀はツモリ・チェスカLの改造モデル。一説にはチェスカではなく警官を殺して奪ったPK22だともいう。
「佐々木判官と金谷修理大夫だったらどっちが強えェかな」
富田がいうと、一条が鼻を鳴らして笑った。
「そりゃオメー、佐々木判官くんだろ。あの人、プロ剣術家に喧嘩売られて逆にぶっ殺したことあるんだぞ」
「対手のサイズは?」
更子が話に割って入った。
「サイズ? それは知らないッスけど……」
「金谷修理大夫は去年88kg級で国体ベスト8になった。身長は187cm。たとえプロでも軽量級の対手では太刀打ちできない」
彼女のことばに車中は静まり返った。カズサは背もたれの上から身を乗り出し、富田の肩を叩いた。
「88kgっつったらタク、おまえと同じくらいか」
「バーカ、そんなにねえよ。俺いま76kg」
富田がカズサの頭を叩き返してきた。一条が振り返って得意げに笑った。
「俺は91kgだ」
「ブー太郎、オメーただのデブだろうがァ」
波止野が運転席の背もたれを強く蹴った。霧哉は一条の腹にパンチを入れた。
「ぶよぶよじゃねえかバカ野郎。緊張感持てよ」
「痛てェッ。やめろバカ」
一条はシートの上で身をよじった。「運転中だぞボケェ。ちょっと更子さんまで……痛てッ痛てェッス」
車が大きく蛇行した。荷室のカズサはつかまるものもなく、転がって壁に頭をぶつけた。
「ブー太郎、もっと気合い入れて運転しな」
そういって更子がもう一度、一条の脇腹を蹴った。
「あ~あ、もう帰りてえ俺」
一条はウインカーを出し、ため息混じりにハンドルを切った。
霧哉が額を窓ガラスにつける。
「見えてきた。あそこが戦場だ」
カズサも窓のそばに寄って外に目を向けた。
ファミリーレストラン「パスティリ」の看板が柱の上でゆっくり回転していた。スモーク処理されたガラス越しにも黄色く光るロゴマークが見て取れた。目的地の印が夜空にピカピカ光り、ご丁寧にくるくるまわっている。敵の居場所を教えてくれている。敵はあの下で、刺客が来るのも知らないで飯を食っている。
せいぜい食っておけ、首がつながっている内に。
カズサはグローブのベルクロを締め直し、手を打ち合わせた。
朱雀通りから海田谷通りに入ったところで先を行く車がブレーキランプを一斉に点灯させた。列をなす赤い光が次々に身を翻し、消えていく。カズサたちの乗る車も速度を落とし、右折した。
夕食時なので、店の駐車場はほぼ埋まっていた。わずかに空いたところに「蟻」の車は忍び入り、身を潜める。
車が完全に停止すると、カズサは前のシートに飛び移り、仲間とともにドアを潜った。
「あ~、靴でオメー……帰ったら親父に殺されるな俺……」
一条が恨みがましくつぶやく。
駐車場に降り立った更子が車のボンネットを平手で打った。
「ブー太郎、あなたは来ないの?」
一条はシートベルトを締めたまま、衝突実験の人形みたいに姿勢よくすわっていた。
「俺、退却に備えてこの車を死守するんで」
「死守するんで」
波止野がさっそく口真似をした。
「ブタなのにチキンかよ。わけわかんねえな」
霧哉がそういってカズサに笑顔を向けた。カズサはそれを心強く思った。
だいじょうぶだ。霧哉はビビってない。だから自分もだいじょうぶだ。
ファミレスの店内から暖かそうな光が漏れていた。大きなガラスの窓越しに、食器の触れ合う音や客たちの交わす話し声が聞こえてきそうだった。
駐車場の「蟻」たちは平板にひろがる闇の上を音もなく進んだ。
殺しのための行進にはこれといった規則もなかった。男たちはつくかと思えば離れた。車は避け、白線は踏み越えた。
店の入り口から穏やかな匂いが漂ってくる。カズサのたぎらせる闘争心をあざわらうかのように鼻腔をくすぐる。彼は空腹を感じる。それを仲間に対する裏切りのようにうしろめたく思い、いっそう憎しみをたかぶらせる。首のバンダナを目の下まで引きあげ、外界を遮断する。
赤いスカーフを頭からかぶった更子が列から離れた。
「おい、どこへ行く」
霧哉が尖った声をあげる。
「裏手にまわる。大将首を獲ってくる」
更子は車の隙間に入りこむ。グリップを押さえてコントロールするので、刀が車を擦ることはなかった。野良猫の尻尾みたいだとカズサは思った。
「くそっ」
霧哉は舌打ちした。「カズサ、あいつについていけ」
カズサは更子の背中と霧哉を交互に見た。
「え、でも俺――」
「いいから行け」
霧哉は彼を追い払うような手振りをした。
カズサは納得がいかなかった。どうして自分勝手な奴の行動に合わせなければならないのか。自分は仲間のためならどんな対手でも――自分さえも殺すことができるのに。
「行け、カズサ。命令だ」
霧哉が見ている。バンダナで顔を隠した彼の表情をうかがい知ることはできない。
カズサはうなずき、更子を追って走り出した。恐怖で口の中がぴりぴり痺れた。
あれ以上口答えしていたら斬られていた。彼はいつもとちがう。本気の戦争モードだ。自分よりはるかに戦争してる。
「おかしな動きをしたら殺っちまえ」
追い打ちのことばが背後からかかる。カズサはホルスターから60式を抜く。
窓のない陰へと更子は消えていった。カズサはそれを追って建物とフェンスの隙間をすり抜けた。
店の裏手には小さな明かりが灯っていた。頑丈そうな鉄のドアが鈍く輝いている。そこに続く低い階段の下にはポリバケツや段ボール箱が並んでいた。
更子はカズサに気づくと、
「あら、来てくれたの?」
といって目を細めた。
「来てくれたの、じゃねーよ」
カズサはバンダナを剥いで、犬のように息をした。「勝手なことしてんじゃねえぞ」
更子の身のこなしはさすがだ。鍔音ひとつ立てずに、とんでもないスピードで走る。それでいて呼吸は乱していない。いったいどういう鍛え方をしているのか。
彼女は頭のスカーフを取って腰に巻きつけた。
「たぶん金谷修理大夫はあのドアから出てくる」
「はァ? どうしてわかるんだよ」
「何となく。ほら、映画とかでよくあるじゃない。追われてる悪役がキッチン通り抜けて逃げるのってさ」
彼女は自信満々といった様子だが、カズサはそのいい加減な理屈に呆れてしまった。彼は映画などほとんど観たことがないので、本当によくあるのかどうかもわからない。
だが仲間たちのところにもどるわけにもいかない。霧哉に命じられたことなのだ。
カズサは彼女のあとについて白っぽいセメントの階段をのぼり、ドアの脇に身を寄せた。
ノブの上にエレベーターの操作パネルに似た装置が取りつけられている。オートロックなのだろうが、木片が噛まされていて、自由に開閉できるようになっていた。
蝶番の横に立つ更子は顔を隠す気がないようだった。カズサもバンダナをおろしたままにした。待ち伏せするのだからもうこれでいい。
「あなた、道場に通ったことあるの?」
更子にきかれて、カズサは頭を振った。
「ちょっと手を出してみて」
いわれるままにカズサは右手を差し出した。更子はグローブの上から彼の掌をつかんだ。
「へえ、意外といい手だ。かなり素振りしてるでしょ。えらいね」
彼女を見つめ返すことができず、カズサは手を引いた。
ガキ扱いされている気がして嫌だった。
かといって、彼女にどう扱ってほしいのか、うまくいえない。
「そこそこ使えるみたいね。足手まといにはならなそうだ」
更子は壁に寄りかかって笑った。
階段の下のゴミ溜めから雨あがりの足羽川みたいな臭いが漂ってきていた。その合間に、カズサの知る女子の誰よりも甘い肌の香りが嗅ぎ取れた。
彼は落ち着かず、60式のグリップを手の中でまわした。
更子が顔をあげ、鼻で大きく息をした。
「何か変だ。人の気配がない」
彼女は壁から身を起こし、ドアノブに手をかけた。「カズサ、入るよ」
「えっ、ちょっと……」
引き開けられたドアと目の前を通り抜けていく更子に気を取られ、カズサは何の構えもなく、60式のブレードも出さずに、室内へ踏みこんだ。
そこは従業員のロッカールームらしかった。
ひしゃげたロッカーの隙間から白い布地がのぞいている。洗濯ばさみつきのハンガーが壁にかけられ、雑巾が斜めに垂れさがっている。散らかった机の上に吸い殻だらけの灰皿が置かれている。店の表の、ガラスを多用した明るさとは対照的な、暗くて薄汚い部屋だった。
突き当たりのスイングドアを更子がそっと押し開けた。
「ありゃりゃ、これはちょっとまずいな」
彼女は目でカズサを招いた。彼は壁に張られた何かの名簿を横目に見ながら、彼女のもとへ向かった。
ドアの向こうはキッチンだった。
料理の熱がわずかに漂っていた。ステンレスの調理台に飛び散った油が虹のような輝きを帯びている。まな板の上に切りかけの葉物野菜が放置されてある。
「誰もいねえじゃん」
死体が転がっていたりするのかと思っていたカズサは、拍子抜けして60式で首筋を叩いた。
「いったいどういうことなの……」
更子は鼻を鳴らして視線を周囲に巡らせた。
「俺らが来たんで逃げたんじゃねえの?」
「逃げたってどこに? 裏口は私たちが固めてたんだよ? 店の中に逃げたってこと? ギャングが攻めてきた店の中にわざわざ行くと思う?」
更子は鍋やオーブンの蓋を手当たり次第に開けた。
「これは罠だ。抜きな、カズサ」
いうが早いか、彼女はわずかに胸を反らして抜刀した。光を集めてブレードが白く輝く。
「ここで……?」
カズサは慌ててイジェクトハンドルをつかみ、ブレードを伸ばしにかかったが、更子はそれを待たずに刀を脇に構えて駆けていく。
わけがわからなかった。
キッチンを通り抜けるのは悪役じゃなかったのか。話が無茶苦茶だ。
刀を構えたままなのに走るのが無茶苦茶速い。
カズサはハンドルを押しこみ、ブレードをロックすると、開けっぱなしのオーブンの蓋を跳び越して光の差す廊下へと走った。
角を曲がったカズサの目に飛びこんできたのは更子の強烈な打ちこみだった。
首筋に受けた男の体がカウンターに倒れかかり、そのはずみで積み重ねられていたコップの山が崩れる。床に散らばる音がまわりの者を振り向かせる。
みんな手に刀を持っている。席に着いている者はいない。
ここはギャング以外お断りの店なのか?
カズサはドリンクバーのカウンターに跳び乗って店内を見渡した。
レジのカウンターが倒されて、入り口が塞がれている。
いや、塞がれているのは退路だ。
男たちが剣も振らず、逃げもせず、斬り殺されるのをただ待っている。
一方的な殺戮。
布を巻いて顔を隠した男たちが剣の網にかかり、次々に斃れていく。曇りガラスの間仕切りに血の露が結んでいる。悲鳴をあげる暇さえない。獲物の群れを取り囲む男たちは優雅なテイクバックに続いて、剣を対手に打ちつける。
待ち伏せ――更子のいっていた罠。
カズサは紫のバンダナをさがす。
色とりどりのお菓子売り場の前に彼らはいた。刀とお互いの体を抱きかかえるようにして身を寄せ合っている。1人はこちらに背を向けている。
「霧哉、波止野、タク、いま行くぞッ。待ってろッ」
そう叫んで足元のトレーを蹴飛ばす。コーヒーカップが床にぶちまけられる。
カウンターから飛びおりると、虐殺の現場はパーテーションで半ば隠れ、振りあげる剣と人の頭だけが見えた。
後攻めと思しき男たちがカズサを見て刀を構えた。
切先を揃えて突っこんできた2人組をカズサは身を一重にしてやり過ごし、肩で当たる。転倒した対手の体の下でコーヒーカップが割れる。
カズサは彼らを打ち据える。太刀筋にも構いつけず、力まかせに叩きつける。肉の破片が乱れ飛ぶ。
正面から1人、八相に取って向かってくる。カズサはその足元に目をやる。散乱したカップやグラスを踏まぬよう、歩を慎重に選んでいる。
こんな奴、ちっとも怖くない。
カズサは倒れている2人の男を足で払いのけ、腰を割ってじっくりと構える。
小股でやってくる対手に飛びかかるような大振りの面打ちを見舞った。対手の頬が削れ、刀が折れた。それでも倒れないのを見て、カズサはグリップエンドを2度、対手の鼻ッ柱に叩きこみ、最後は真っ向から斬り伏せた。
「カズサ、あんたこっち来なッ」
3人を対手に斬り結びながら更子が叫ぶ。カズサは血振りをした。
「俺はあいつら助けに行く」
「駄目ッ。わざわざ囲まれに行ってどうすんのよ」
更子は抜胴で1人を斬り、その余勢で背後を取ってもう1人を袈裟がけで倒した。「私たちが唯一の援軍なんだよ。ここを守ってあの子ら助けるんだよ。わかった?」
カズサは首のバンダナを取って顔の血を拭った。
援軍。
確かに援軍という方が、1人で助けに行くよりいい気がする。
それに響きが気に入った。
カズサはプラスチックのコップを蹴飛ばして更子の方へ歩いていった。彼女は新たな寄せ手と剣を打ちつけ合っている。太刀の裏で強引に対手の剣を弾いて、胴を打つ。左腕ごとぶった斬る。
何て荒っぽい太刀筋。
ただ、その打ちこみの最後の最後――対手の肌をとらえる瞬間のブレードがきれいに立っている。だから骨も肉もやすやすと断てる。
「金谷修理大夫でも何でもいい。強い奴からかかってきなッ」
見得を切る彼女の前に小長刀を持った男がつっと出て、彼女の脛を打つ。前足のレッグガードで受けた彼女は前のめりに崩れた。だが踏み留まって逆袈裟に斬りあげる。長刀までまっぷたつにされた対手が血飛沫をあげてどうと倒れた。
切先を床に突いて一息つく彼女の背後に忍び寄る者があった。
カズサはそこに駆けつけてずんと突きあげた。対手の横ッ腹に刺さったが、倒れてくれない。逆に腕を手繰られ、振りまわされる。倒され、のしかかられて、切先を向けられる。
「蹴って剥がせ」
更子の声。
カズサは踵を対手の胸や顔に叩きこむ。対手は立ちあがり、突きおろそうとする。
目が合うと、対手は食い縛った歯を見せて笑った。切先が迫る。カズサは体を丸めた。
旋風とともに対手の首が飛んだ。腕を伸ばして斬りこんだ更子の体がカズサの上に落ちてきた。レッグガードが彼の顔を打つ。
彼女は彼の胸に丸い尻を乗せて起きあがった。
「まだ生きてる?」
「重くて死にそう」
彼女は立ち、彼の手を取って引き起こした。
「助けてもらったね」
「まだだよ。あいつら助けねえと」
彼女は血まみれの手で彼の尻を叩いた。
「さあ、声出していこう。もう一押し」
彼女は彼の背を守った。彼は彼女のうしろを防いだ。ふたりはふたりが必要だった。
彼は獣のように吠えた。彼女の背が触れ、震えが伝わった。
彼女もまた吠えていた。