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菊と力  作者: 石川博品
第3章 菊と力
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岐路

 彼女の声が聞きたかった。


 ひとりのときにいつも思い浮かべていたのは、彼女の頬や唇、手や髪――触れると柔らかそうな箇所ばかりだったのに、いまは声だけが欲しい。


 名前を呼んでくれるだけでいい。


 きり()浜冥はまめいの携帯にかけた。ずっと前に教えてもらっていたのに、勇気がなくてかけられずにいた番号。


 歩きながら彼女が出るのを待つ。


 住宅街の暗い道。ふっと浮かびあがる暖色の光。防犯用のセンサーライトだ。うしろ暗い連中を家から遠ざけようとしている。


 自販機の冷たい光に浮かびあがる複数の人影。見ない顔だ。勧学院かんがくいん中の奴じゃない。こちらをにらんでいるように見えるのは自分の目が悪いのか、それとも奴らの頭が悪いためか。腰のものに手をやると、あいは慌てて目を逸らした。クズども。あんな奴ら、いつだって殺せる。


『もしもし?』


 冥沙の声。電話だと学校で聞くよりキーが高いように感じる。


「ああ、俺……住吉すみよしだけど――」


『あ、うん』


 彼女のまわりでぱたぱたと何かを叩くような音がした。『ごめんね。いま、お風呂からあがったとこで』


「あ、ごめん。あとでかけ直す」


『だいじょうぶ。ちょっと待って』


 彼女もスマホを手に歩いている。彼女を包む空気の移りゆくのがわかる。


『うん、もうだいじょうぶ。どうしたの』


「あ、あのさ――」


 霧哉はいいよどんだ。電話の向こうにこすれるような音を聞き取ったのだ。バスタオル、濡れた髪、覆うもののない体――つまりそういうことだ。


「俺、おまえの代わりにいみこうを斬る」


『えっ』


 音がやむ。『本当に?』


「ああ。いますこしずつ準備してる。仇を取りたいんだろ?」


『……うん』


 何かが床に落ちる音。


 霧哉も仇討ちがしたかった。西園さいおんなんかじゃなく、冥沙が流した涙と血の仇を。


 いままで自分を無視してきた奴らに力を見せつけてやる。自分は単なるガキどものリーダーなんかじゃない。力の持ち主だ。


「俺には無理だと思ってる?」


『ううん、そんな……』


「いいんだ。俺、弱そうに見えるだろ? でも実は人を斬ったことがある。もう何人も斬ってる。学校から一歩外に出たら、俺は一振ひとふりの刀だ。人を斬るために存在している」


 彼女が笑った。かっこつけすぎただろうか。


『ねえ、本当にどうしたの。いつもの住吉くんじゃないみたい』


「そうだよ。おまえの知ってる俺じゃない。いまの俺は全然ちがう」


 足音がやけに響く。自分の声もこれくらい響いているのだろうか。


「早く学校に来いよ。花がないと教室が寂しくてさ」


『うん。ごめんね、心配かけて』


 彼女の声だって響いている。いくら響いたって、ふたりの声を聞いて意味を理解することができるのは自分たちふたりだけだ。


「話はそれだけ。じゃあまた。学校で」


『うん』


「あの……風邪引くなよ」


『うん。じゃあね』


 電話を切ってから、地面を転げまわりたくなる。


 風邪引くなよ(・・・・・・)だなんて。


 相手が裸なのを意識しすぎだ。不自然すぎる。恥ずかしい。死にたい。


 犬がぎゃんぎゃん鳴いている。鉄の門の隙間から焦げ茶色の毛がのぞいている。


 殺すか、と霧哉は考える。


 「あり」の男がいっていたように、この犬を斬って腕試しするか。


 自分に斬れるのか? イメージは頭の中にできている。背中から斬りこみ、地面すれすれまで斬りさげる。あの声と息遣いがたちどころに消える。顔が苦痛に歪み、そして緩む。


 どれも自分の記憶だ。さっき見たものだ。


 霧哉の体の上であの男は死んでいった。カズサに刺されて奴は死んだ。奴が死んでいくのを自分は至近距離で見ていた。完全にビビっていた。


 いつか自分もああやって死んでいくんだろう。剣の道に踏み入ってしまった者の宿命だ。「人はいつか死ぬ」なんていうありふれた認識を超えて、死を実感する。この道の上、あの公園で、自分は斬られて死ぬかもしれない。そこら中に死の可能性が転がっている。


 カズサがこの街に新たな死の可能性を撒き散らしている。


 彼のことが怖かった。リーダーの地位を奪われる恐怖よりも、いまは命の危険を感じている。彼は迷いなく、まっすぐに人を斬る。


 奴は剣だ。奴こそが一振の刀だ。本当の力だ。


 自分にあの力が使いこなせるだろうか。


 長く視界の一端を占めていた建物に切れ目が生じた。霧哉は谷間のようなその道へと入っていった。


 左右にエントランスがひとつずつ。2棟からなるマンション。オートロック。


 ふたたびスマホを取り出す。


 相手はすぐ電話に出た。


「住吉だけど」


『ああ――』


 わき圭一けいいちは気の抜けたような声で応じた。『どした?』


「いま、おまえんちのマンションの前にいる。ちょっと出てこれねえか」


『すぐ行く』


 電話を切った霧哉は大きなつみみたいな形のベンチに腰かけた。


 やがて自動ドアが開いて脇屋が姿を現した。スウェットパンツにTシャツ。目のまわりに黒いあざがある。


「どうした、その傷」


 彼は霧哉のこめかみと耳に貼られた絆創膏ばんそうこうを見て目を丸くした。霧哉は答えなかった。


「吸うか?」


 彼はカンタベリーネクストの口を切って脇屋に差し出した。


「ここじゃまずい」


「じゃあ歩こう」


 彼らは棟の間の通路を抜けて公道に出た。霧哉は火を貸してやった。脇屋は目をつぶり、ため息のように煙を漏らした。


「ひさしぶりだな」


 霧哉がいうと脇屋は、


「あ? ああ」


 とうつろな表情で返事をして、ふたたび煙草に口をつけた。前歯が1本なかった。


「学校、退学クビになっちまってよ」


「知ってる」


 霧哉はポケットに手を突っこんだ。「掲示板に張り出されてた」


「おかげでいま家ん中ギスギスしててよ、イタタマレねえんだ」


 同情する気持ちを示すために霧哉は口の端で笑ってみせた。


「おまえ、どうして忌井更子を襲った」


 尋ねる霧哉の目を脇屋は見据えた。


「上にいわれたから」


かなりのだいか?」


 脇屋は何もいわなかった。だが答えは顔に書いてある。


「どうして忌井更子なんだ」


 これにも答えない。それはまあいい。直接きこう。更子か金谷修理大夫のどちらかに。


「殺せといわれたのか?」


 脇屋は頭を振った。


「話を聞くだけのつもりだった。それなのに西園寺の奴がよ、ついでに先輩を無理矢理やっちゃおうぜっていって――」


「やったのか?」


 焦りの色を隠すため、霧哉は咳払いした。


 マジかよ。そんなのアリか。


 刀を使って女とやる。


 自分は西園寺に一生勝てぬ運命なのかもしれない。あいつにまた刀の使い方を教えられてしまった。


 自分のいまやろうとしていること――忌井更子を斬って冥沙といい感じになりたいということ――がまわりくどく思える。


 要するにやりたいのだ。


 力の使いみち


 そうだ、直接刃を向ければいいのだ。人を斬るよりよっぽどいい。ラブ&ピース。男をるより女とやろう。


「やってねえよ」


 脇屋は煙のしょうかいを吐いた。「あいつら、ソッコーで斬られちまった。マジ一瞬だった。たぶんチンコつ間もなかったな、ありゃ」


「よくおまえ生き延びられたな……」


 皮肉ではなく、霧哉は感心した。西園寺とちがって脇屋は剣を使えなかったはずだ。


「ホントそうだよな」


 脇屋は吸い殻を道に放った。「まあ、半殺しにはされたけど。でもおかげで更子先輩のおっぱいも見れたし」


「え……見たのか?」


 まただ。また焦りすぎだ。コノイドのグリップに触れて心をしずめる。


「ああ。スゲーぜ。ありゃマジでスゲー」


 脇屋は唇を舐めた。「『ピンプ』で使ってる女でもあんなじょうだまいねえよ」


 女の裸がつきまとう日だ。裸の女が話の裏に見え隠れしている。


 そっちに目をやるべきなんだ、死んでいく男の顔なんかよりも。


 他の連中もそうだ。カズサも波止野はしのとみも、刀なんか捨てて女の裸を見るべきだ。カズサなんてどんな顔をするだろう、おっぱいも尻も丸出しの忌井更子と向き合ったら。


 そうしないといけないのだ。そうでもしないと自分たちは確実に死んでしまう。遅かれ早かれ、刀の染みになってしまう。


 選ぶときが来たんだ。


 刀か裸か。


 死か生か。


 カズサか自分か。


 自分は裸を選ぶ。生を選ぶ。あいつの道連れはごめんだ。


 霧哉はコノイドのグリップをじわりと握りこむ。


「金谷修理大夫の連絡先を教えろ」


 脇屋はポケットをさぐる。


「あの人はいま使える奴をさがしてるところだ。おまえはきっと西園寺の代わりになれるよ」


 そういって霧哉のさしりょうに卑屈な視線を送る。


「おまえこれからどうすんの」


 肩を寄せて尋ねる。脇屋が顔をあげる。


どうする(・・・・)って?」


「学校とかさ」


 霧哉は相手の画面に表示された番号を入力してからスマホをポケットにしまった。脇屋は肩を落として笑う。


「学校は……そうだなあ、やっぱ公立かなあ。さし中にでも行くのかなあ」


「武蔵中なら俺の知り合いがいる。もし何かあったら俺んとこいいに来い」


 霧哉はポケットからカネをつかみ出し、金額も確認せず相手の手に押しつける。「取っといてくれ。悪かったな、急に呼び出して」


「いや、別にいいよ」


 脇屋は手の中の紙幣をただ見つめていた。


 霧哉は彼をおいて歩調を速める。しょぼくれたクズ。西園寺の腰巾こしぎんちゃく。生きていることをラッキーだと思え。


「おまえはどうすんだ」


 うしろから呼びかけられても霧哉は答えない。


 どうするもクソもない。俺はもうとっくにはじめちまってる――戦争を。

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