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菊と力  作者: 石川博品
第3章 菊と力
14/22

「ピンプ」

 ひさびさの道場でこうは我が技の切れ具合に恐怖すらおぼえた。


 人を斬るということはやはり特別な体験なのだろうか。


 木刀稽古ではあったが、彼女はあいの剣の我が身をかすめることすら許さなかった。対手の打ちこみに先んじてその太刀たちすじを肌で予感する。だからやすやすと受けられる。見切みきることもできる。


 無論、学校であの2年生女子の突きを見切ったときのようにはいかない。対手はとう整刀せいとうりゅうの門人なのだ。


 それでもいままでの見切りとは明らかにちがう。受けと融合した見切りだ。対手の打ちこみの勢いが死ぬところを予測し、そこで受ける。


 最小限の力で対手の剣を止め、すぐさま反撃に転じることができる。


 攻撃面でも気の入り方が変わってきた。ひとつひとつの打ちこみをおろそかにしなくなった。


 打つ以上は仕留める。


 体力を削って試合時間内に倒す、というのではなく、一瞬一瞬に必殺の心をもって臨む。


 その好調さをより確かなものにするため居残り稽古にかかろうとしたところをそうの当真(たつ)に呼び留められ、更子は露骨に嫌な顔をした。


大先生おおせんせいがお呼びだ」


 宗家のことばに更子はうなずく。


「わかりました。すぐに行きます」


 先代のいうことなら仕方がない。更子はアームガードをはずした。


 もどったらすぐに着け直すつもりで、道場の壁際に放る。落ちたそばに大介だいすけが座っている。彼は更子の心の内を見透かすようにかすかな笑みを浮かべた。


 大介は肉親としての愛情を先代から受けることができなかった。脚が悪く剣を振れないちゃくそんに先代は失望を隠さない。彼の目の前で彼と同年代の門下生を猫かわいがりする。幼い大介は醒めた目でそれを眺めていた。


 更子は先代を慕っていた。刀の扱いを手ほどきしてくれた恩人だったし、彼の豪快な生き方が好きだった。


 彼はいまの宗家のような競技剣術のエリートではなく、野仕のじあいで鳴らした喧嘩師だった。体は傷だらけだったが、そのどれもが彼になじんでいた。彼を見ると更子はこけやフジツボに肌を覆わせた古い鯨を想起した。


 母屋に通じる道を更子はサンダル履きで渡った。がらりと引き戸を開けて家にあがりこむ。幼い頃から出入りしているので勝手は知り尽くしている。茶トラと三毛の2匹の猫が小走りにやってきたが、入ってきたのが更子とわかるとつまらなそうに去っていった。


 応接間のソファに浅く腰かける当真整刀流第15代宗家・剣術十段・当真(ひょう)ぞうにかつての剣豪の面影はなかった。ガウンを身にまとい、背を丸めて茶をすするその姿は、70歳という年齢よりもはるかに老けて見える。


 更子は彼と向かい合う席に腰をおろした。道衣が汗にまみれていることもお構いなしだった。テーブルに置かれた茶碗を取り、煎茶せんちゃを一気に飲み干す。胃に流れこむ熱い液体に押し出され、また全身に汗が吹き出る。彼女は茶碗を置き、ふうっと息を吐いた。


「調子がよさそうじゃないか」


 先代はそういってお茶()けのおかきをかじる。


「はい、絶好調です、先生」


 更子の答えに彼はほほえんだ。


「おまえには好調か絶好調かしかないのだね」


 そういう彼は、ひいき目に見ても調子がよさそうには見えなかった。肌が、日焼けとはちがう、沈んだ茶色をしている。喉の皮がたるんで、喰鳥くいどりのようだ。かつてはブラシのように密だった髪がすっかりまばらになっていた。


 彼は前立ぜんりつ腺癌せんがんを患い、放射線治療を受けている。それに体力を奪われて、剣で鍛えた体がこの1年あまりで見る影もなく痩せ衰えてしまった。彼と会うのが更子はすこし悲しかった。


 彼はたいそうにソファから立ち、右手を伸ばして更子の肩に置いた。


「よく勝った」


 西園寺たちとのことをいっているのだと更子は悟った。


 いずれこのことは先代に報告しなければならないと思っていた。だが人を斬ったことを何といえばいいのか。まずは剣技を授けてくれたことへの感謝、それから――彼女にはその先がわからない。


 だがいま、先代は彼女の機先を制した。


 彼女は長いため息を吐いた。そうだ、結局これをいってもらいたかったのだ。勝って帰ったことをめてもらいたかったのだ。戦いぶりを認めてもらいたかったのだ。


「ありがとうございます」


 彼女は師の手に我が手を重ねた。


 彼の右手人差し指は第2関節から先がない。真剣勝負で指を失うことはそう珍しいことではなかった。彼はよく冗談交じりに「戦時中ならテッポ撃てんから兵隊失格だった。剣の時代でよかった」という。自分たちは勝ってきた者同士だ、と更子は思う。これまで以上に師をちかく感じる。


 先代は参った(・・・)をするように更子の肩を2度叩き、ゆっくりと彼女の前から去った。


 応接間を出る間際に、彼は振り返りもせずにいった。


「更子、かな谷修やす理大りのだいにはこれ以上関わらねえがいい。あれァもうあっち側(・・・・)の人間だ。それに強い」


 更子は、わかりましたと従順の返事をしたが、内心怒りをたぎらせた。


 大介め、先生にしゃべったな。


 ゆう智弘ともひろあだちを考えていることが知れたら、当然止められるだろう。先生も若先生も更子がかわいくてかわいくて仕方ないのだから。


 道場にもどってひとつ文句をいってやろうと彼女は立ちあがった。応接間を出たところで、2階に続く階段に杖の立てかけられてあるのが目に飛びこんできた。


 大介は階段に腰かけて猫の背中を撫でていた。


「ちょっと、あんた――」


 更子は彼の前に立った。「私のこと先生に話したでしょ」


「話したよ」


 大介は茶トラの喉元を優しく掻いた。「切岸きりぎしりっきょうで絡まれたってことはね。結城さんの件については黙っといたけど」


 更子はその場に座りこみ、三毛のうなじをつかんで膝の上に乗せた。


「で、何かわかった?」


 大介は利く方の脚を折り曲げ、膝を抱えた。


「金谷修理大夫ってのはこいつだ」


 彼はスマホを差し出した。


 競技剣術の試合場に並ぶ3人の男の写真。それぞれ手にトロフィーを持っている。


「そこの右の奴」


 男たちはほぼ背の順に並んでいる。左から右に行くに従って背が高くなる。更子は一番右の丸刈り頭をじっと見つめる。


「う~ん、こいつかなあ……。髪型がちがうからなあ」


「それ、3年前な。金谷修理大夫(しょう)。都の剣術大会中学生の部・76kg級優勝」


「詳しい戦績わかる?」


 更子が尋ねると、大介は手を伸ばして写真をスライドした。猫がその腕に跳びついた。


 トーナメント表に記された記号。第2シード金谷修理大夫。2、3回戦はTKO勝ち。準々決勝は三角固め斬りで一本。あとの2試合は判定。更子の頭の中に対手の力量・戦い方がぼんやりと浮かびあがる。


「76kg級かあ……。まあ、それくらいなら」


 剣術部の部長と同じ階級だ。関東2位の実力だが、更子にすれば練習相手にちょうどいい。


「悪い知らせだが、現在は88kg級になってる。去年の国体の記録にも名前があった。ベスト8に入ってたよ」


「へえ。でもまあ、やれるでしょ」


「何をやるつもりなんだか」


 大介は「ねえ」といって猫に同意を求める。「俺、結城さんの家に行ってきた。お線香あげて、ついでに結城さんの部屋に入れてもらったよ」


「何か手がかりあった?」


 更子は顔をあげた。大介はノートパソコンを取りあげた。


「結城さんのスマホがあったから、こっそり中身をコピーさせてもらった。こういうのって本当は犯罪なんだけど」


 フォルダの中のファイルを開く。画像が大写しになる。


 女の子。下着姿。ピースしてる。暗い部屋。鏡に反射するフラッシュ。


「これをちょっといじって警視庁の行方不明者相談室にメールで送ってみた。『ポスターか何かでこの人を見た気がしたんですけど』って嘘をいって。その返事がこれ」


 彼はメーラーを起動させた。


「名前は松崎翠まつざきみどうえ区の中学3年生だ。2ヶ月前に家出して、捜索願が出されてる。ポスターは本当にあったみたいだ。それがこの写真」


 友人同士で撮った写真を切り取ったような画像。制服の女子が笑顔でピースしている。顔が小さくてかわいい子だと更子は思った。


「この写真、私のスマホに送っといて」


 大介はうなずいてタッチパッドに触れた。


わきっていう奴は、この人を『使っていた女』っていってたんだな?」


「うん」


 更子は猫の首の皮をつかんで震わせた。立てた膝に顎を乗せて大介が難しい顔をした。


「それってその……そういうことだよなあ」


そういうこと(・・・・・・)ってどういうことよ」


 更子が尋ねると、その視線から逃れるように大介はうつむいた。


坂上さかうえの一帯を仕切ってる組織に『ピンプ』ってのがいるんだ。ピンプ(・・・)ていうのは英語でポン引きのこと」


ポン引き(・・・・)って?」


 大介は額に手を当てる。


「それはつまり……女に売春をさせる男のことだよ」


「何それ。最低」


 更子は顔をしかめた。先ほどの松崎翠里の笑顔が脳裏に蘇る。あんなふつうの感じの子がそんなことに巻きこまれているのか。


 大介はノートパソコンを操作する。


「最近、坂上の切岸町に女子中高生の煙草売りが出るって話をよく聞く。その煙草売りっていうのは表向きで、3000円払うと煙草1個プラスその子がサービスしてくれる。さらに払えばホテルで――」


「もういい」


 更子はまとわりつくイメージを払いのけようと頭を振った。「もうやめて。そんな話聞きたくない」


「でもすぐそこで起きてることなんだよ」


 大介がいった。そのいいぐさがなぜか更子のかんさわった。


「あんた、ずいぶん詳しくない? 行ったことあるんじゃないの?」


「バカ。行くかよ、あんなとこ」


 大介は顔を赤らめた。「それくらい、俺の学校の奴だって知ってる。ネットでも書かれてる」


 声の端が震えている。怒らせてしまったことに勘づきながらも更子は、ふんと鼻を鳴らし、かえって相手の感情を逆撫でようとする。


 大介の親指を猫が舐めている。ざらざらの舌が見えた。


「坂上の『ピンプ』と張り合ってるのが坂下さかしたの『あり』って組織だ。この2つはマジで戦争寸前まで来てる。つい最近、あしちょうのアパートに押しこみ強盗が入って5人殺されたんだけど、その5人ってのが『蟻』のメンバーだったらしい。犯人は『ピンプ』の連中で、目的は刀を奪うことだってさ。結城さんの刀をさがすのならこの線が狙い目だと思う」


「あんた、ギャングにも詳しいわけ?」


 更子がいうと大介は皮肉っぽく笑った。


「俺だってこの街で育ったんだ。それくらい知ってる」


 それくらい(・・・・・)のことも知らない更子はむっとして猫を大介に押しつける。


 そんなこと知りたくもない。


 戦争だの売春だの、関わりのないことだと思っていた事象が我が身に迫ってきている。切岸町の崖の上からこちらを見つめている。


「まず松崎翠里の居場所を突き止めるべきだろう」


 大介は三毛の前足を取って虚空を踏ませる。「刀より人を見つける方が楽だ。勝手に出歩いてくれるからな」


「切岸町には私が行く」


 更子は膝に擦り寄る茶トラをねのけて立った。大介は腕の中で暴れる三毛をあやして笑っている。


「俺が行くよ。俺なら客のふりができるから。おまえが行ったらきっと変な目で見られる」


 彼の顔を更子はにらみつけた。


 変な目(・・・)


 変な目をしてるのは大介の方だ。松崎翠里の写真を見ていたときの大介の目。西園さいおんが更子を凝視した目。猫を撫でる手。撫でられて喉を鳴らす猫。


「私が行く。その脚じゃカルラ坂をのぼれないでしょ」


 大介が眉をひそめた。


「何だよ。何怒ってんだ」


 彼の顔には困惑の色が浮かんでいた。


 更子はみずからのことばを恥じた。顔が熱くなる。冷たい汗が流れる。


「別に何でもない」


 そういって彼女は外に出た。引き戸を閉じてひとりになった彼女は、道場の壁に額を打ちつけた。


 どうしてあんな口を利いてしまったんだろう。彼の一番気にしている脚のことをあんな風にいうなんて。


 道場の中から打ち合う音、踏みこむ音、交わされることばが聞こえる。更子はそこにもどることができず、冷たい壁にただ身を預けていた。空には剣の天狗の棲むという木が彼女たちをかばうかのように枝をひろげていた。

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