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菊と力  作者: 石川博品
第3章 菊と力
13/22

菊 II

 つまらない話だと思った。


 きりは窓枠に頬杖突いて、空に煙を吹きつけた。


 校長の声が講堂から響いてきていた。毎朝全校集会を開いて「命を大切にしましょう」というようなことをしゃべっているらしい。


 霧哉にとってはいわれなくてもわかっていることだった。命が大切なのは当たり前だ。拷問されて殺されそうになったからよくわかる。わざわざ聞きに行くような話じゃない。


 あの夜、何とか生き延びて自宅にもどったところ、刑事が居間のソファに座っていた。こんな奴に顔をおぼえられるはめになるのなら犯罪なんて割に合わない、と思わせるほど冷たい、人を疑うことに特化した顔の男だった。


 霧哉はビビった。もう殺しの件が露見してしまったのかと思った。両親は彼以上にビビっているようだった。父が声を震わせながら「そこに座りなさい」といってソファを指した。


 刑事は西園さいおんについてききに来たのだった。彼と最後に会った人物として証言を求められた。霧哉は耳を疑った。西園寺は校内で斬殺されたのだという。何か変わったことはなかったかと尋ねられる。


 霧哉はすこし考えて、人払いを求めた。友人が死んだことにショック受けている風を装い、「刑事さんだけに話したい」と蚊の鳴くような声でいった。父と母は居間を出ていった。霧哉はありのままを話した。隠れて煙草を吸っていたこともあえて打ち明けた。西園寺にかかってきた電話のことも話した。刑事の顔に同情の色が浮かんでいるのを見て取り、霧哉は内心ほくそ笑んだ。


 余裕が出てきたので、すこしさぐりを入れてみる。なぜ西園寺は殺されたのか。


 刑事(いわ)く、彼を含め複数で中等部の3年生を襲った。そして返り討ちにった。


 霧哉は西園寺がいっていたことを思い出す――人生変わるようないいこと。


 本当に人生変わってしまった。自分のところに調べが来ているということは、奴のスマホの中身もチェックされているはずだ。話を聞く限りでは、斬られたといっても加害者みたいなものだし、それくらいはされているだろう。めいのあの写真も見られてしまっているのだろう。


 ああ、ホントしょうもない。


 命がけで剣を盗んで、さあ斬ってやろうという当のあいはすでに斬られていましたとさ。


 やれやれだ。


 全校生徒が講堂に集まっているのをいいことに、霧哉はくわえ煙草のまま便所を出る。ドアを開ける間際に鏡をちらりと見る。あのとき抜けた眉毛はまだ生え揃っていない。


 誰もいない廊下をぶらぶら歩く。


 がらんとした教室。2-A。


 白と黄の花。


 西園寺の机に菊が飾られている。その紙で作られたような花びらを見て、ああ本当に死んだのだなあと思う。


 どうして彼が3年生を襲ったのか、その3年生にどのように斬られたのか、家に来た刑事は結局教えてくれなかった。新聞でもテレビでもこの事件は報道されなかった。最近の少年犯罪はいつもそうだ。


 だが校内のことゆえ、自然とうわさは広まる。講堂に移動する前、同級生から聞いた。わきも共犯だとか。あれから一度も学校に来ていない。同じ時期にたまたま休んでいた霧哉も共犯かと疑われていた。


 奴らが襲ったのは3年のいみこう。彼女のことは霧哉も知っている。剣術の全国王者で、エロい体をしている。2-Aの男子にもファンが多い。その先輩を西園寺たちは殺そうとした。


 イカレてる。自分が思ってた以上に西園寺はイカレていた。そのせいで、この手で殺すという予定が狂った。


 黒板の横の棚に置かれた花瓶には枯れた花が刺さっている。


 冥沙もずっと休んでいるのだという。


 霧哉は西園寺の机を見おろし、吸っていた煙草を花瓶の口に置いた。指でとんと叩くと、灰が細長い首の中を落ちていった。


 冥沙には花が好きだといったけれど、あれは嘘だ。花を持ってくる彼女が好きなだけだ。彼はそのまま煙草を茎の隙間に押しこんだ、


 廊下でロッカーの開く音がした。霧哉は虚空を見つめた。最後に吐いた煙が筋になって漂っている。廊下からもう一度、今度は閉じる音。遠ざかる足音。


 彼はそっとドアを開け、廊下を見渡した。はるか先の角を曲がって去る、その横顔――()はま冥沙。


 彼はあとを追った。


 冥沙は階段をおりて1階の渡り廊下へ向かった。そこは生徒で溢れていた。全校集会は終わったようだ。霧哉は彼らの流れに逆らって講堂の方へ歩いた。3年生ばかりいる中でさして背の高くない冥沙の位置がわかるのは、彼女の捧げ持つ花束のおかげだ。黄色い花。彼女の頭の横で幻みたいに揺れている。


 その花が宙を舞った。


 新聞紙に包まれた花束は壁に当たってがさりと鳴った。


 悲鳴があがる。人の流れが勢いを増した。


 それを掻き分けて進むと、開けたところに出た。


 冥沙がこちらに背を向けて立っていた。刀を中段に構えている。その切先きっさきの向こうには忌井更子。ふたりの間は無人だった。


「更子逃げてッ」


 金切り声をあげながら1人の女子が更子の袖をひっぱっている。それを更子は振り払った。


「ミユ、さがってな。私にまかせて」


 冥沙が突っかけた。大きく踏みこんで対手の喉を突く。更子は直立したまま――


 見えない膜に隔てられているようだった。冥沙の切先は更子の首から一寸足らずのところで止まっていた。


 霧哉は震えた。


 見切みきりやがった……。


 対手の刃が皮一枚届かない距離まで瞬時に身を引いたのだ――姿勢を崩すこともなく。もし見切った側の手に刀があれば、必殺の間合いから斬りこめるだろう。


 とっさの体捌たいさばきで更子の実力のほどは知れた。彼女は本物だ。西園寺レベルの奴が何人でかかろうと勝てっこない。まして冥沙などでは――


 刀を振りかぶり打ってかかろうとする冥沙を霧哉は背後から抱きかかえた。左手を腰にまわし、右手で手の内を押さえる。


「やめろ、多々良浜」


住吉すみよしくん?」


 彼女は振り返った。彼女の顔があまりに近すぎて、霧哉は胸が苦しくなる。ふたりの呼吸が混じり合う。


「私、ミツヒロのかたきを討つ。この女、殺してやる」


 彼女の目から涙の粒が落ちる。


 ミツヒロって誰だっけ、と霧哉は首をひねる。


 ミツヒロ……ああ、西園寺の下の名前か。ミツヒロって呼んでたのか、ふたりきりのときは。こっちは「住吉くん」なのに。「キリヤ」って呼ばれたい。そしたらこっちだって「メイサ」って呼ぶ。いつか本当にそんな日が来れば――


「こんなことしたって西園寺はもどってこない。剣をおろすんだ」


 霧哉は冥沙の手を取った。まるで剣術の指導をしているような格好だと思った。彼の掌の中で冥沙が手の内を緩めた。


「住吉くん、私――」


 手の中が軽くなって、はずみで霧哉は冥沙の手を強く握りしめてしまう。


「多々良浜……」


「盛りあがってるとこ、ごめんね」


 更子がふたりの手から刀を奪い取っていた。彼女はうしろまわし蹴りを放った。胸にもらって冥沙の体がうしろに傾く。押されて霧哉も尻餅をついた。倒れこんできた冥沙を受け止める。


 更子が切先を突きつけてふたりを見おろした。


「あなた何? 西園寺の関係者?」


 彼女には何ら構えたところがなかった。殺意が剥き出しで、それゆえに無防備だった。


 霧哉は床に座りこみ、ただ見あげていた。


 何てエロい体――セーラー服の裾からのぞく素肌。へそからブラジャーのきわまで。張りのある肌とすこしあまり気味のおなかの肉。神秘的なへその暗がり。腕の中にある冥沙のぬくもりと柔らかさもあいまって、霧哉は勃起した。


「人殺しッ。死ね、おまえなんか死ねッ」


 冥沙が叫ぶ。その顔を更子は打った。


 金槌かなづちで叩いたみたいな音がした。映画のワンシーンでよくある平手打ちではなく、拳が思い切り振りおろされた。冥沙の頭ががくんと揺れ、力なく霧哉の肩にもたれる。


「ミユ、あの花束取ってきて。ぬきじゃヤバイ」


 更子は背後に呼びかけてから霧哉を見おろした。


「あなた、この子の友達?」


 霧哉はうなずいた。立ちあがりたかったが、体が自由にならなかった。動けない。勃起しているせいで動けない。もうちょっとこの下からの眺めと冥沙のお尻の感触を楽しませろと下半身が主張している。


 更子は友人らしき女子から先ほどの花束を受け取った。


「この子、西園寺の何なの?」


 まさかチンコをしゃぶる仲ですともいえないので、霧哉は「友達」と答えた。


「じゃああなたも西園寺の友達ってわけ?」


 更子は新聞紙で花と刀をひとまとめにして包む。


 冥沙が霧哉の肩の上で頭を動かした。髪の毛が霧哉の頬をくすぐる。


 西園寺のアホ面が霧哉の脳裏に浮かんだ。まるで神託のように。


 そうだ……生きていたときのあいつは邪魔者でしかなかったが、いまは自分と冥沙をつないでくれている。ふたりは永久に失われたものを共有している。心の中のアホ面がまぶしいほどに輝いて見える。


 サンキュー西園寺。死んでくれてホントありがとう。


「僕と西園寺は友達でした。親友っていってもいいくらいの。いっつもいっしょにいましたから。あの日以外は……」


 冥沙の視線を感じる。彼女の体温とお尻の柔らかさも感じる。


 更子は花束を肩に担いだ。空いた手でへそを掻く。


「あなた、名前は?」


「住吉霧哉です」


 更子のへそ、乳、脚、冥沙の尻、うなじ。


「住吉くんさあ、かなりのだいっていう名前に心当たりない?」


 そう問われて霧哉はぎくりとした。


「い、いえ……」


 声の震えを隠せない。


 金谷修理大夫――拉致らちられた車内で宏政ひろまさたちから聞かされた名だ。会ったこともない奴なのに、こっちのピンチに限ってしゃしゃり出てくる名前。いったい何者なんだ。


 更子が刀の隠された花束を差し出してきた。


「これ、あなたが持ってて」


「いいんですか?」


 霧哉は恐る恐る手を伸ばす。


「うん。きっとこの子が家から持ち出したものだと思うから、こっそり持って帰って」


 更子は顔をあげた。「みんなもいまの内緒にしといてね。でないと、また全校集会だからさ。お願い」


 彼女のことばに周囲の者は笑った。


「やっぱ忌井は強いな」


「真剣を目の前にしてあの落ち着きはスゲーよ」


「あの剣を止めるやつ、どうやったんだ」


 彼女が去ったあとも賞賛の声は絶えなかった。


 霧哉と冥沙はざまに座りこんだままだった。


 冥沙がのけぞるような格好で霧哉の顔を見あげた。彼女は鼻血を出していた。


「住吉くん、お願い……あいつ殺して……」


 どうしたものかと霧哉は考えた。


 これ以上トラブルを抱えてだいじょうぶなのだろうか。身内のことですでに手いっぱいだというのに。


 霧哉の手の中で黄色い花がぐったりとこうべを垂れ、その中から頭ひとつ飛び出した刀が空気を読まずにぎらぎら輝く。


       ●


 スマホがぶしつけに震えた。


 霧哉はベッドに横たわる冥沙の顔をのぞきこんだ。彼女は眠っていた。鼻の穴の片方に脱脂綿が詰められている。通っている方の穴が笛のように鳴る。


 霧哉は椅子から立ちあがった。


 スマホをのぞく。とみの家の番号。カーテンを手で払う。養護教諭の視線を無視して歩き出す。


「もしもし」


『いま、だいじょうぶか?』


 富田の声。霧哉はドアを開けて保健室を出る。


「ああ。どうした」


『うちに波止野はしのが来てる。カズサもいっしょだけど……ヤベーんだよ』


ヤベー(・・・)って何が」


 霧哉は振り返る。陽の当たるこの場所から見ると、保健室の中は暗い。花壇の脇に作られた入り口。保健室登校専用の昇降口。


『俺らが殺ったってバレてる』


 富田の鼻息が通話口に当たってノイズになる。


「兄貴のことか?」


『そうだよ。カズサが斬ったって思ってるみたいだ。あの日、カズサが学校で木刀斬られただろ? そんでその夜にアレだろ? タイミングよすぎるってよ』


「なるほど」


『カズサが60式持ってるのもバレてる』


 霧哉は空を見あげる。青がまぶしい。目を開けていられないほどだ。


「そんで? おまえは何ていった?」


『何も。おまえにいわれたとおりに答えたよ。俺ら何も知らねえって。そんでおまえ呼んで証拠見せるって』


「よし――」


 霧哉の手が煙草を求めてポケットの上をさまよった。「すぐ行くから待ってろ。波止野には茶でも出しとけ」


 霧哉は電話を切った。


 だいじょうぶ、予定どおりだ。


 保健室にはもどらず、上履きのまま外をまわって昇降口に出た。靴を履き替える。自転車を盗んで急行しようかとも思ったが、空を見あげて考えを改めた。


 のんびり歩いていこう。煙草でも吸いながら。


 何しろ今日はいい天気で、何もかも予定どおりなのだ。


       ●


 玄関の扉を開けた富田の表情は硬かった。


 霧哉は彼のお株を奪って人差し指を唇に当てる。こめられた意味はいつもとちがう――余計なことはしゃべるな。


 富田の部屋では波止野が立ったまま煙草を吸っていた。床に座ったカズサは60式を分解していじっていた。


「霧哉ァ、見せてもらおうじゃねえか、証拠ってやつをよォ」


 波止野がにらみつけてくる。霧哉は顔をしかめてみせた。


証拠(・・)? 何の証拠だ」


「テメーらが兄貴を殺ってねえっつー証拠だよ」


 波止野はいまにも木刀で打ちかかってきそうだった。霧哉はカンタベリーネクストを一本取ってくわえる。


「声がデケーよ」


 富田に火を借り、深く吸って吐く。「証拠なんかねえ。テメーの兄貴は俺が殺った」


 波止野の顔色が変わった。ソードベルトの木刀に手をかける。霧哉の傍らにいた富田があとずさりする。


 カズサはいつの間にか60式を組みあげてブレードを露出させていた。霧哉はじっと彼の目を見た――手を出すな。俺にまかせろ。


「いい度胸だ。表出ろや」


 波止野が木刀をベルトからはずした。


「まあ待てよ」


 霧哉は富田に灰皿を持ってこさせた。「これには深い事情がある」


事情(・・)?」


 波止野は霧哉のこぼす灰に目を落とした。


「まず、なんでそんなことになったかっていうとだな、俺ら刀を盗みに行ったんだわ。そしたら俺がヘタ打って捕まっちまってな、それをカズサが助けてくれた。死ぬ覚悟で俺を助けに来てくれた。そんで俺らはあいつらを斬った。ああしなきゃ俺が殺られてた。拷問にかけられてな。あいつら、俺の手と足と鼻と耳と金玉を斬り落とすっていってた。わかるだろ? 俺らは殺したくて殺したんじゃねえ。殺されそうになって、仕方なく殺したんだ」


仕方なく(・・・・)だァ?」


 波止野が木刀を握り締める。「盗みに入ったのも仕方なくだっつーのか?」


「俺が命令した」


 霧哉は煙草を揉み消した。「全部俺が決めたことだ。おまえの兄貴を殺したのも俺だ。おまえの兄貴と宏政ひろまさくんは俺が殺した。俺は何も後悔してねえ。宏政くんは盗みの常習犯で、殺されて当然のカス野郎だったし、おまえの兄貴は弟を平気で殴るクズだったからな」


「だけど俺の兄貴だ」


 波止野は木刀を提げて霧哉に詰め寄った。「テメーにクズだの何だのいわれたくねえ」


「じゃあいい直す」


 霧哉は新しい煙草をくわえた。「おまえの兄貴はどうだったか知らねえが、おまえの兄貴のツレはことごとくクズだった。それはまちがいねえ。あの人はクズを仲間に選んだ。わかるな? 兄弟は選べねえが、仲間は選べる。で、あの人はクズを選んだんだ」


 霧哉は煙草に火を点ける。もう一押しだ。富田に目で合図する――刀を出せ。


 ひとつ煙を吐いて続ける。


「おまえも選べ。俺の本当の仲間になるのかどうか。もし仲間になるんなら刀をやる」


 富田が鞄から刀を取り出し、床に並べる。波止野はそれに目を奪われている。


 霧哉は宏政から奪ったコノイドを取ってスカバードを抜き払う。


「――だがもし俺を選ばないのなら、おまえを殺す。俺のために命を張ってくれた仲間をクズ以下だといったも同然だからな」


「霧哉は俺たちのこと助けてくれた」


 富田がうつむいてつぶやく。「マジで命を張ってくれたんだ。殺す(・・)なんていってるけど、本当はいままでどおり仲間でいてほしいだけなんだよ」


 波止野は富田をにらみつける。しかしその目の中に先ほどまでの荒々しいものはない。


 いいぞ、タク。実にいい演技だ。


 この段取りはカズサとも打ち合わせをしてあった。カズサと波止野は近すぎる。同じ団地で育った仲で、親友といっていい。そんなふたりの間に斬った斬られたなんてことがあれば泥沼になる。彼らの関係は維持しておきたい。


 霧哉が波止野の兄を斬ったことにしたのはそういうわけだった。


 自分はリーダーになる。波止野は自分に畏敬の念を持つ。自分は1コ上で、一番最後に仲間に加わったざまだ。だからこそ上に立てる。


 霧哉は変わった。人を斬ったし、西園寺からも解放された。学校の中と外とのギャップに悩むこともない。いまの自分が本当の、力のある、自由な住吉霧哉なのだと思う。


 その自分が彼らを選んだ。彼らが真の仲間だ。


 だから波止野よ、おまえも選べ。


 力を選べ。


「霧哉はああいってるけどさ――」


 カズサが口を開いたので霧哉は驚いた。


 こいつ、何をいってる。なんで打ち合わせにないことをやってんだ、こいつは。


 カズサは折りたたんだ60式を床に突き、あぐらをかいたまま壁のポスターを見つめていた。


「やっぱおまえの兄貴はクズだった。早いとこ死んどくべきだった。俺はそう思う」


「あァ?」


 波止野がカズサの襟首をつかみ、引きずり倒した。


 霧哉は目を覆いたくなる。このバカは空気を読めないのか。


 カズサは波止野の怒りも霧哉の当惑も意に介さぬ様子で、床に押しつけられたまま、ほほえみさえ浮かべてことばを継いだ。


「おまえ、おぼえてるかなあ。小1か小2のとき、おまえが兄貴に歯ァ折られて泣きながら俺んち来て、そんとき俺が『いつかおまえの兄貴叩き斬ってあし川に沈めてやる』って約束したのを。俺さ、あいつが死んでせいせいしてんだ。これでもうおまえが殴られずに済むから。約束、ちゃんとは守れなかったけど、おまえもうだいじょうぶだから」


 波止野は頭を振った。


「そんなむかしのこと、おぼえてねえよ」


 彼の目から涙がこぼれる。「あいつにはしょっちゅう痛めつけられてたから、いちいちおぼえてねえよ」


 カズサは煙草をくわえ、ひとりごとのようにつぶやいた。


「ならいいんだ。あんなこと、忘れちまった方がいい。あんなの、もういいんだ」


 木刀を持つ手の袖で波止野は涙を拭った。


「俺、あいつが死んだって聞いて、うれしかったんだ。おかしいよな。兄貴死んでうれしいなんて。俺、頭おかしいのかな」


「おかしくねえよ」


 カズサはライターの蓋を開いては閉じた。「全然おかしくねえ。おまえはまともだ」


「ああ、おかしくねえよ。俺だってネーチャン死ねってしょっちゅう思ってる」


 富田がなぜか自慢げにいう。「いったら殺されるからいわねえけど」


 波止野は泣きながら口の端で笑った。白目を向いて目頭を押さえ、涙を搾り出す。


「バーカ。テメー、姉貴のパンツでオナっといて何いってんだよ」


 彼は富田の頭を叩いた。富田は仕返しに対手の腹を殴った。波止野はやり返さなかった。赤い目をして、ただ笑っていた。カズサは起き直り、ふたたび60式を分解しはじめた。


 置き去りにされた霧哉はカズサをにらみつけた。


 2度目だ。


 これで2度目。


 逃げろといったのに逃げないで、今度は黙ってろといったのに余計な口を開いた。手柄を全部持っていきやがった。


 結果オーライで済む話じゃない。奴はこちらの命令を無視する。リーダーだと認めてないんだ。自分がリーダーになるつもりなんだ。西園寺と同じだ。人のことを使い捨ての道具みたいに思ってやがるんだ。


 そうはいかない。もう誰の指図も受けない。これからは自分のやりたいようにやる。


 自分にはその力がある。


 彼はカズサの正面に腰をおろし、手近な灰皿に煙草をねじこんだ。カズサはブレードのロックをはずすのに夢中で、顔をあげることすらなかった。

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