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菊と力  作者: 石川博品
第3章 菊と力
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菊 I

 学校を休むのは生まれてはじめてだった。


 こうは幼い頃から病気らしい病気をしたことがない。けい中の怪我はしょっちゅうだったが、それを理由に欠席するのは痛みに負けたようで悔しかったから無理にでも登校した。


 そのため最初は何もかも新鮮だった。遅く起きてテレビを観ながら母と昼食をとり、昼寝をして、学校が終わった友達とLYNEをする。ピアノの教本をおさらいしてみる。お風呂の掃除をする。これはこれで悪くないと思った。


 だが3日もたてば飽きてしまった。


 要するに剣だ。


 剣を振りたい。


 もちろんあいを立ててだ。日々()いできた負けじ心がすこしずつなまっていくのを感じる。苦痛だ。


 日中体を動かさないせいで夜眠れない。そのくせ、お昼ご飯を食べると眠くなる。にじんで映る午後のを彼女はベッドの中で見ていた。


 ドアがノックされた。紫色の花を手に、彼女の母が入ってくる。


「あ、きれい」


 更子がいうと、


「お花屋さんで見かけてね。アゲラタムっていうの」


 母はサイドテーブルに花を活けた花瓶を置くと、行儀よく膝を閉じてベッドの端に腰かけ、娘の顔を見た。


「どう、調子は」


「よすぎて困るくらい」


 そういって更子は笑った。「ねえママ、明日から学校に行ってもいいでしょ?」


 母も笑ってはいたが、目のあたりに晴れぬものがあった。彼女は娘の体にそっと手を置く。


「あなたがいいならいいけど……やっぱりその前にお医者様に診ていただきましょう」


「やだ」


 更子は毛布の下で身をすくめた。「ママ、私いったでしょ、何もされてないって」


「でも……」


 母は毛布のしわをつまんで伸ばした。


 更子はあの事件のあと、武蔵(むさし)中央病院へ運ばれた。怪我はほとんどなかった。斬り合いの最中に切先きっさきでつけられた傷が腕にいくつもあったが、彼女自身気づかないほど小さなものだったので簡単に洗浄をされただけだった。


 ちょうどお尻から腿の半ばまでひろがる擦り傷を診てもらっているとき、母が診察室に駆けこんできた。彼女は娘の傷を一目見て気を失った。更子が大股開きの恥ずかしい格好でスライディングの様子を再現しながら説明しても、彼女の表情に明るさはもどらなかった。


 きっとあの作り話を信じているのだろう、と更子は思った。


 事情聴取に来た女性刑事は更子を剣士として扱った。更子は自分のしたことが正当防衛であることを疑わなかったが、それでも4人を斬って死に至らしめたことについては非難も罰も受けようと覚悟していた。だが取り調べは終始和やかなムードで進められた。剣術の話もした。女性刑事は剣術3段で、更子の試合を観たことがあるといった。


 しかしその後に来たカウンセラーは最悪だった。その女性は明らかに更子を慰めようとしていた。集団で乱暴された彼女を――はじめての性行為とはじめての殺人を同時に体験した哀れな少女を。


 慰めなど必要ない、と更子は思った。我が心はすこしも動かなかった。研がれた技術が心の鈍ることを許さなかった。「加害者」たちを憎んだわけではないし、「乱暴」された仕返しを試みたわけでもなかったし、殺したいと思うこともなかった。彼女は戦い、そして勝った。それ以外のことは何もしていないし、されてもいない。刀を2振用意してくれれば、どう斬り結び、どう斬ったか、その場で再現してやれたものを。だが相手はそれを求めなかった。カウンセラー自身は剣を振ったこともないといった。


 面接を終えたカウンセラーは心理学的裏づけたっぷりの「物語」を母に吹きこんだ。


「でもねえ更子ちゃん、ママはあなたの体が心配なの。女の子の体はデリケートだから。一度診ていただきましょうよ」


 母がいっているのは産婦人科のことだ。あの夜も更子は病院で検査を受けるよういわれたが、拒否して帰ってきた。彼女は産婦人科が嫌いだ。2人の妹が生まれるとき、いずれも彼女は病院に連れていかれる母に取りすがって泣いた。もう二度と会えない気がした。あれ以来何となく苦手意識がある。


 死んだ西園さいおんたちがどんな罪に問われるのかはわからない。検査を受けたらその軽重が変わるのだろうか。更子はどこも悪くない。彼女は無罪だ。心身ともに無事、万全だ。


「ママ――」


 更子は体を起こし、母の体を抱いた。「私はだいじょうぶよ。全然強かったもん。あいつらに指一本触らせなかった」


 強く強く抱きしめる。


 母は弱い。


 小さい頃、人前で母に抱きしめられるのが恥ずかしかった。まわりのお母さんたちは誰もそんなことをしていなかったからだ。更子の母だけがどこにあってもどんなときも彼女の髪を撫で、背中に手をまわし、体を包みこみ、愛しているといってくれた。


 母は優しい。


 自分も母のように優しくなりたい、と更子は思う。人を斬ったいまだからこそ。


「わかった。私、検査受ける。何でもないってことをはっきりさせる」


 更子はそういって母に口づける。ありがとうと母はいう。愛してると更子は答えた。


「ママー、お姉ちゃーん」


 部屋の外から幼い声がした。


「ノンちゃん、どうしたの」


 母が呼びかけると、妹ののりが小さな手でそっとドアを押し開けて顔をのぞかせた。


「ママ、何してるの」


「お姉ちゃんのお怪我が早くよくなりますようにって神様にお祈りしてたのよ」


 母の答えに末娘は駆け出し、姉のベッドに跳び乗って腹ばいになった。


「ノンちゃんもノンちゃんも」


 更子は脚にしがみつく妹の頭を撫でた。


「ありがとう。優しい子」


 矩子は5歳で、4人姉妹の末っ子だった。幼稚園に通っているが、持病の喘息ぜんそくのため休むことが多い。今朝も咳が止まらずに家で過ごしていた。この利発で感受性の強い妹がこうして家に閉じこもっていなければならないことを、更子は自分が同じような境遇になってみて改めて悲しく思う。そしてますます彼女が愛おしくなる。


 矩子は姉の体によじのぼり、母の腕の中に転げ落ちた。手を打ち鳴らすように合わせて固く目をつぶる。


「お姉ちゃんのお怪我が早くよくなりますように」


 更子は彼女のふっくら丸い頬にキスする。


「ありがとノンちゃん。お姉ちゃん何か元気になってきたよ」


 母が矩子のほんのり汗に濡れた前髪を指で撫でつけた。矩子はふんと甘えた風に鼻を鳴らして姉の胸に顔をこすりつける。


「お姉ちゃん、ご本読んで」


「いいよ。持っといで」


 更子がいうと矩子はその動作自体を楽しむ風にころりとベッドから転げ落ちて、


「わあい」


 と声をあげて廊下に駆けていった。


 子供って本当にわあい(・・・)って口にするんだな、と更子は感心し、笑った。


「あの子、今日はお姉ちゃんがいるからご機嫌みたい」


 母が立ちあがった。更子は照れくさくてかえって笑えなかった。愛されていることを素直に認めるのは難しい。


「病院、明日にでも行くから」


 更子がいうと母は、


「じゃあ予約しておくね」


 といって部屋を出ていった。


 ベッドから出てカーディガンを羽織り、ふたりで座る椅子を並べていると、矩子が息を切らしてもどってきた。カラフルな絵本を抱えてベッドに這いあがる。


「お椅子で読もうよ」


 更子がいうと矩子は、


「こっちがいいの」


 と強くいって毛布の下に潜りこんだ。そのよくわからないこだわりと強い口調に苦笑しながら更子はベッドにもどった。ヘッドボードに寄りかかって座り、毛布を脚にかける。矩子は姉の腿の上に尻を乗せて大人のようなため息を吐いた。


 彼女の持ってきた本を更子は手に取って眺めた。日曜の朝早くにやっているアニメの絵本だった。


「『キュアセイント88』……お姉ちゃんこれ知ってるよ。お姉ちゃんが観てたときにはまだ2人でね――」


 かつて夢中だったキャラの話をしようとするが、矩子は強く背中を押しつけてきた。早く読めとせがんでいる。


 更子はその力強さにやや面食らいながらも表紙をめくった。


「『キュアフェニックス(きゅあふぇにっくす)に うばわれた キュアクロス(きゅあくろす)を おって、キュアブロンズ(きゅあぶろんず)たちは ふじさんに やってきました。でも それは てきの わなだったのです。――フフフ(ふふふ)、まっていたぞ、キュアブロンズ(きゅあぶろんず)。そこに あらわれたのは なんと ブラック(ぶらっく)キュアペガサス(きゅあぺがさす)ブラック(ぶらっく)キュアドラゴン(きゅあどらごん)ブラックキュア(ぶらっくきゅあ)――』……ノンちゃん、最近のはずいぶん難しいのね」


 ひらがなとかたかなの大群に目がチカチカする。


「え~、でもねえ、他にもいっぱいいるんだよ。そんでねえ、みんなねえ――」


 矩子が咳きこみだした。更子は彼女の背中をさすってやった。咳をするたび、肋骨が大きく震える。


 油断しているとすぐに矢のような催促だ。読み終わったベージを恐ろしい勢いでめくられる。読み飛ばした擬音や吹き出し内のセリフを指でとんとん叩かれる。


「あ、ここも読むのね。『ぜったいに まけないわ』」


 咳がやみ、かすれた呼吸音だけが聞こえる。物語に集中しているのが熱い背中越しに伝わってくる。


「『キュアペガサス(きゅあぺがさす)の ひっさつわざが さくれつ! ペガサス(ぺがさす)シューティングスター(しゅーてぃんぐすたー)! グワーッ(ぐわーっ)! やったね、ブラック(ぶらっく)キュアペガサス(きゅあぺがさす)を やっつけたよ』」


 こんなに抽象的な戦いだったかしらと更子は思う。自分の観ていた頃はもっとリアルな肉弾戦で――いや、やめよう。これもまたリアルな戦いなのだ。このブロンドとブルネットのキャラたちにとって。矩子にとって――すべての戦いがそうであるように。


「『フフフ(ふふふ)キュアペガサス(きゅあぺがさす)よ、これで おわったと おもうなよ。たたかいは まだ はじまった ばかりなのだ。これからが ほんとうの じごくだ』」


 ああ、何てことを……ああ……。


 更子は、最後のページをめくって裏表紙を見つめている妹をぎゅっと抱きしめる。


 4人を斬った。それだけでは終わらない。むしろそれによってはじめてしまったのだ。


 矩子は神様でもベッドの枕でもない。だから頼ったり八つ当たりしてはいけない。彼女はただの5歳の女の子で、かつて更子がそうであったように5歳児の担うべきもののみを担っていればいい。それなのに更子は、我が身をこの安らかな時間に留めるための重しとして、妹にすがってしまう。


 涙がこぼれて矩子の頭に落ちた。それは髪の隙間にすうっと消える。矩子は絵本の裏表紙に載った既刊の広告を見ている。きっと彼女はすべてを悟っている。斬った斬られたではなく、更子の何が守られ何が傷ついたのかを。


「ノンちゃん――」


 声が震える。涙が溢れる。


「お姉ちゃん今日ね、調子いいみたい。読みたいご本、全部持っておいで。お姉ちゃんが全部読んであげる」


「ホントに?」


 顔をあげようとする矩子を更子は胸にしっかりと抱く。


 それでも(・・・・)彼女には(・・・・)見せたくない(・・・・・・)ものがある(・・・・・)


 彼女の背中を送り出し、更子は掌で涙を拭う。紫色の花がその切断面を花瓶の中に隠し、黙って咲いている。

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